4 / 8
4
しおりを挟む
井戸の水を汲んだおじいちゃんは、わたしにそれをぶっかけた。
「あなた!」
おばあちゃんが叫ぶ。鼻の中に水が入って痛い。
「なんてことをしたんだ」
全身ずぶ濡れで地面に座り込むわたしを、おじいちゃんが見下ろす。
「狸に同情するなんて。――おまえは自分が何をしたのか分かっているのか!」
死んだ子狸に手を合わせるわたしを見つけたおじいちゃんは、鬼のような形相で「馬鹿者!」と怒鳴った。一瞬で縮こまったわたしを、おじいちゃんは腕を引っ張って車に押し込んだ。「痛い」と叫んでも放してくれなかった。
わたしが出ていった後、おばあちゃんがすぐにいないことに気づいたらしい。心配したおじいちゃんが車を出して、わたしを探してくれたのだそうだ。おじいちゃんたちは優しいから。
「一花、聞いてるのか!」
……優しい、から。
「――分からないよっ!」
わたしは叫んでいた。気温が下がって風が冷たい。ずぶ濡れになったせいで寒い。
「何で? 何で狸にあんなひどいことができるの! わたしたちが殺したのに!」
おじいちゃんに負けないくらいの強さで睨みつけた。
そうだ。狸が可哀想なのもあるけど、わたしがイヤなのはこれだ。
わざとじゃなくても、わたしたちの車が狸を轢き殺した。
それを悪く思うどころか、「おまえが悪い」なんて言って、死体を蹴って、お墓も作らずに放っておくなんて。
――ひどい、と思った。
優しいおじいちゃんとおばあちゃんが『ひどいこと』をした。
それがイヤだったのだ。おじいちゃんたちは優しいのに。優しい人のはずなのに。
『ひどいことをするおじいちゃんたち』がイヤで、悲しくて、たまらなかった。
ふいに、おじいちゃんが寄せていた眉根をほどいた。
「死んだ動物に同情する……一花、おまえは優しい子だ。おじいちゃんは一花がいい子で嬉しいよ」
いつものおじいちゃんの柔らかな声。分かってくれた、と思った、けれど。
「でも、狸はだめだ。だめなんだよ、一花」
おじいちゃんが井戸の水を汲み上げる。
「狸に同情してはいけない、たとえ殺しても負い目を持っちゃいけない――ここではそれが『当たり前』なんだよ」
冷たい水が顔面に叩きつけられた。口に入って気管に落ちて、ひどく咽せる。
「一花。狸の穢れがおまえを蝕もうとしている。同情心はそのせいだ。でも水で浄めれば大丈夫だからな」
そう言っておじいちゃんは、井戸の水を何度も何度もわたしにかけた。
……しばらくして。
家にいる四葉ちゃんが泣いて、やっとおじいちゃんは手を止めた。
おばあちゃんがおじいちゃんを四葉ちゃんの方に行かせると、バスタオルをわたしの身体に巻いた。
夏なのに震えが止まらない。歯の根が噛み合わない。指先が痛い。
おばあちゃんが私の背中をさすりながら、
「こんなに冷えて……大丈夫?」
これが大丈夫なように見えるんだろうか。
「でもね、一花ちゃん。分かってちょうだい。――狸は本当に、危険な生き物なのよ」
わたしの手を引いて、お風呂に連れていくおばあちゃんが、だめ押しのように言ってきた。
「おじいちゃんのお兄さんがね、猟師をやっていたの。山で狸を狩って、その毛皮を売って生活していたわ。そのお兄さんが、山の中で死んだの」
お兄さんの死体は、獣に食い散らかされてひどい有様だったという。
「爪痕や、お兄さんの身体に残っていた毛から、狸によるものだって警察は言ってたわ……もう三十年も前のことよ」
わたしをお風呂に入れた後も、脱衣所でおばあちゃんは話し続ける。
「それよりもっと昔のこと。おばあちゃんのお友達の男の人が、夜道できれいな女の人に出会ったの。その人は女の人に誘惑されて、つい抱きついたら……それは本当は棘だらけの木だったの。狸に化かされて、棘の木を、女の人だと思わされたのね」
その人は全身に棘が刺さって、血みどろになったのだという。
「十年くらい前にも、お隣の……といっても十メートルくらい離れてるけど、そのご家族が誤って狸を車で轢いたことがあったわ。……その人たちも死んでしまったの。一花ちゃんと同じ年頃の娘さんも、狸に噛み殺された。祟り殺されたのよ。だから、ねえ、おじいちゃんがあんな風になるのも分かるでしょう?」
おばあちゃんは念押しして、静かに語り続けた。狸がいかに恐ろしくて残酷な生き物か、わたしに教えた。
「狸はね、化かすのよ。そうして人を苦しめる、わるい生き物なの」
けれどわたしは、素直に聞き入れないでいた。
昔話じゃあるまいし、狸が人を化かすなんてありえない。
そんなものより、わたしは、おじいちゃんやおばあちゃんの見たことのない一面の方が、
(よっぽど……)
まだおばあちゃんの話は続いていたけれど、わたしは湯船の中にもぐった。
「あなた!」
おばあちゃんが叫ぶ。鼻の中に水が入って痛い。
「なんてことをしたんだ」
全身ずぶ濡れで地面に座り込むわたしを、おじいちゃんが見下ろす。
「狸に同情するなんて。――おまえは自分が何をしたのか分かっているのか!」
死んだ子狸に手を合わせるわたしを見つけたおじいちゃんは、鬼のような形相で「馬鹿者!」と怒鳴った。一瞬で縮こまったわたしを、おじいちゃんは腕を引っ張って車に押し込んだ。「痛い」と叫んでも放してくれなかった。
わたしが出ていった後、おばあちゃんがすぐにいないことに気づいたらしい。心配したおじいちゃんが車を出して、わたしを探してくれたのだそうだ。おじいちゃんたちは優しいから。
「一花、聞いてるのか!」
……優しい、から。
「――分からないよっ!」
わたしは叫んでいた。気温が下がって風が冷たい。ずぶ濡れになったせいで寒い。
「何で? 何で狸にあんなひどいことができるの! わたしたちが殺したのに!」
おじいちゃんに負けないくらいの強さで睨みつけた。
そうだ。狸が可哀想なのもあるけど、わたしがイヤなのはこれだ。
わざとじゃなくても、わたしたちの車が狸を轢き殺した。
それを悪く思うどころか、「おまえが悪い」なんて言って、死体を蹴って、お墓も作らずに放っておくなんて。
――ひどい、と思った。
優しいおじいちゃんとおばあちゃんが『ひどいこと』をした。
それがイヤだったのだ。おじいちゃんたちは優しいのに。優しい人のはずなのに。
『ひどいことをするおじいちゃんたち』がイヤで、悲しくて、たまらなかった。
ふいに、おじいちゃんが寄せていた眉根をほどいた。
「死んだ動物に同情する……一花、おまえは優しい子だ。おじいちゃんは一花がいい子で嬉しいよ」
いつものおじいちゃんの柔らかな声。分かってくれた、と思った、けれど。
「でも、狸はだめだ。だめなんだよ、一花」
おじいちゃんが井戸の水を汲み上げる。
「狸に同情してはいけない、たとえ殺しても負い目を持っちゃいけない――ここではそれが『当たり前』なんだよ」
冷たい水が顔面に叩きつけられた。口に入って気管に落ちて、ひどく咽せる。
「一花。狸の穢れがおまえを蝕もうとしている。同情心はそのせいだ。でも水で浄めれば大丈夫だからな」
そう言っておじいちゃんは、井戸の水を何度も何度もわたしにかけた。
……しばらくして。
家にいる四葉ちゃんが泣いて、やっとおじいちゃんは手を止めた。
おばあちゃんがおじいちゃんを四葉ちゃんの方に行かせると、バスタオルをわたしの身体に巻いた。
夏なのに震えが止まらない。歯の根が噛み合わない。指先が痛い。
おばあちゃんが私の背中をさすりながら、
「こんなに冷えて……大丈夫?」
これが大丈夫なように見えるんだろうか。
「でもね、一花ちゃん。分かってちょうだい。――狸は本当に、危険な生き物なのよ」
わたしの手を引いて、お風呂に連れていくおばあちゃんが、だめ押しのように言ってきた。
「おじいちゃんのお兄さんがね、猟師をやっていたの。山で狸を狩って、その毛皮を売って生活していたわ。そのお兄さんが、山の中で死んだの」
お兄さんの死体は、獣に食い散らかされてひどい有様だったという。
「爪痕や、お兄さんの身体に残っていた毛から、狸によるものだって警察は言ってたわ……もう三十年も前のことよ」
わたしをお風呂に入れた後も、脱衣所でおばあちゃんは話し続ける。
「それよりもっと昔のこと。おばあちゃんのお友達の男の人が、夜道できれいな女の人に出会ったの。その人は女の人に誘惑されて、つい抱きついたら……それは本当は棘だらけの木だったの。狸に化かされて、棘の木を、女の人だと思わされたのね」
その人は全身に棘が刺さって、血みどろになったのだという。
「十年くらい前にも、お隣の……といっても十メートルくらい離れてるけど、そのご家族が誤って狸を車で轢いたことがあったわ。……その人たちも死んでしまったの。一花ちゃんと同じ年頃の娘さんも、狸に噛み殺された。祟り殺されたのよ。だから、ねえ、おじいちゃんがあんな風になるのも分かるでしょう?」
おばあちゃんは念押しして、静かに語り続けた。狸がいかに恐ろしくて残酷な生き物か、わたしに教えた。
「狸はね、化かすのよ。そうして人を苦しめる、わるい生き物なの」
けれどわたしは、素直に聞き入れないでいた。
昔話じゃあるまいし、狸が人を化かすなんてありえない。
そんなものより、わたしは、おじいちゃんやおばあちゃんの見たことのない一面の方が、
(よっぽど……)
まだおばあちゃんの話は続いていたけれど、わたしは湯船の中にもぐった。
0
お気に入りに追加
0
あなたにおすすめの小説
S県児童連続欠損事件と歪人形についての記録
幾霜六月母
ホラー
198×年、女子児童の全身がばらばらの肉塊になって亡くなるという傷ましい事故が発生。
その後、連続して児童の身体の一部が欠損するという事件が相次ぐ。
刑事五十嵐は、事件を追ううちに森の奥の祠で、組み立てられた歪な肉人形を目撃する。
「ーーあの子は、人形をばらばらにして遊ぶのが好きでした……」
師走男と正月女 ~ 地方に伝わる奇妙な風習 ~
出口もぐら
ホラー
師走男と正月女 ―― それは地方に今も伝わる風習。
心待にしていた冬休み、高校生の「彼女」
母方の実家は地方で小規模な宿泊施設を営んでおり、毎年その手伝いのため年末年始は帰省することになっている。「彼女」は手伝いをこなしつつではあるものの、少しだけ羽を伸ばしていた。
そんな折、若い男女が宿泊していることを知る。こんな田舎の宿に、それもわざわざ年末年始に宿泊するなんて、とどこか不思議に思いながらも正月を迎える。
―― すると、曾祖母が亡くなったとの一報を受け、賑やかな正月の雰囲気は一変。そこで目にする、不思議な風習。その時に起こる奇妙な出来事。
「彼女」は一体、何を視たのか ――。
連載中「禁色たちの怪異奇譚」スピンオフ
野辺帰り
だんぞう
ホラー
現代ではすっかり珍しいものとなった野辺送りという風習がある。その地域では野辺送りに加えて野辺帰りというものも合わせて一連の儀式とされている。その野辺の送りと帰りの儀式を執り行う『おくりもん』である「僕」は、儀式の最中に周囲を彷徨く影を気にしていた。
儀式が進む中で次第に明らかになる、その地域の闇とも言えるべき状況と過去、そして「僕」の覚悟。その結末が救いであるのかどうかは、読まれた方の判断に委ねます。
日高川という名の大蛇に抱かれて【怒りの炎で光宗センセを火あぶりの刑にしちゃうもん!】
spell breaker!
ホラー
幼いころから思い込みの烈しい庄司 由海(しょうじ ゆみ)。
初潮を迎えたころ、家系に伝わる蛇の紋章を受け継いでしまった。
聖痕をまとったからには、庄司の女は情深く、とかく男と色恋沙汰に落ちやすくなる。身を滅ぼしかねないのだという。
やがて17歳になった。夏休み明けのことだった。
県立日高学園に通う由海は、突然担任になった光宗 臣吾(みつむね しんご)に一目惚れしてしまう。
なんとか光宗先生と交際できないか近づく由海。
ところが光宗には二面性があり、女癖も悪かった。
決定的な場面を目撃してしまったとき、ついに由海は怒り、暴走してしまう……。
※本作は『小説家になろう』様でも公開しております。
ヴァルプルギスの夜~ライター月島楓の事件簿
加来 史吾兎
ホラー
K県華月町(かげつちょう)の外れで、白装束を着させられた女子高生の首吊り死体が発見された。
フリーライターの月島楓(つきしまかえで)は、ひょんなことからこの事件の取材を任され、華月町出身で大手出版社の編集者である小野瀬崇彦(おのせたかひこ)と共に、山奥にある華月町へ向かう。
華月町には魔女を信仰するという宗教団体《サバト》の本拠地があり、事件への関与が噂されていたが警察の捜査は難航していた。
そんな矢先、華月町にまつわる伝承を調べていた女子大生が行方不明になってしまう。
そして魔の手は楓の身にも迫っていた──。
果たして楓と小野瀬は小さな町で巻き起こる事件の真相に辿り着くことができるのだろうか。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる