同期の姫は、あなどれない

青砥アヲ

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心の中まで

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 駅前からマンションへ続く道を、二人並んで歩く。

 前はここをどんな気持ちで歩いていたっけ、と心情の変化をなぞっていると、爽やかとはいいがたい生ぬるい夜風で髪がなびいた。
 街灯に飾られたお祭りの提灯が揺れている。季節はすっかり夏に移り変わっていた。

「最近風呂と寝ることしかしてないから、あんまり散らかってないとは思うけど」

 上がらせてもらった部屋は確かに綺麗で、キッチンにはグラス1つ、テーブルには本1冊置きっぱなしになっていない。前はこのキッチンでラーメンを作って食べたことを思い返して、私ははたと気がついた。

「そういえばお店を引き返しちゃったから、もしかして何も食べてない?」
「ん?あぁ、いいよ。打ち合わせのあとの昼、課長に奢りだからって死ぬほど食べさせられたから」

 姫は断りきれず、そのほとんどを食べ切ったらしい。ネクタイを解きながらげんなりした顔をする。

「打ち合わせ今日だったんだ。どうだった?」
「いろいろあったけど、最終的には納得して当初と変わらない方針で進めることになった。形式上先方の持ち帰りになったけど、たぶん大丈夫だと思う」
「じゃあうまくいったんだ?」

 よかった、と胸を撫で下ろした私を、姫は少しからかうようにして笑う。

「何、心配した?」
「そりゃしてたよ!会社でも席にいないし、知っている人もごく一部だから大っぴらに聞けないし。私も何かやれることがあるならしたかったけど、余計なことするなって言われるし、、」

 後半は少しだけむくれた物言いになった気がする。でも本当に心配だったのだ。仕事だけじゃなくて、ちゃんと帰れているのか体を壊してしまわないか。ただあの一言で踏み込んではいけない気がして、結局何もできなかった。

「早瀬のことだから、コンサルの宇多川あいつに連絡して協力してもらおうとか考えてたんだろ?」

 それは、その通りだった。言い当てられた私はぐぅの音も出ない。
 軽く俯いた私に、姫は少しだけ考えるようにしたあと、そっと頬に触れた。距離が近い、と思ったらむにっとつままれる。

「やっぱり釘刺しといて正解だった。四宮さん経由で伝えてもらえば早瀬も暴走しないと思ったし」

 暴走って…そんなに後先考えずに行動すると思われてたんだろうか。
 けれど私の考えることなんて全部お見通しだったのだから黙るしかない。

「何となく意趣返しされるのは想定してた。こんな手段だとは思わなかったけど、今日の打ち合わせでやんわり潰しておいたから気が晴れたし」

 そう言って少しだけ楽しそうに笑うと、姫はクローゼットへ移動して扉を開けた。

 やんわり潰すって何だろう。相容れない言葉の組み合わせが恐い。
 私は少しだけ宇多川さんに同情しつつ、詳しく聞くのはやめておくことにした。

 それからお風呂をどっちが先に入るかで軽く押し問答をした末に、先に使わせてもらった。

 パジャマ代わりに借りたTシャツは、もともとロングTシャツであることを差し引いてもかなり大きくて、こんなに違うのかと実感すると胸の奥がくすぐったくなった。

「…あ、まだ乾かしてた?」

 リビングでドライヤーを借りていたら、乾かし終わる前に交代でお風呂に入っていた姫が出てきた。

「うん、もう少し。ごめん遅くて」

 雫が滴り落ちるほどではないものの、まだ少し生乾きな部分が残っている。特別手入れに力を入れているわけではないけれど、少し気になった。

「後ろの方?貸して」

 私からドライヤーを受け取った姫の手が髪を撫でて、熱風が当たる。
 美容院でも毎回思うけれど、人にやってもらうのって何でこんなに気持ちいいんだろう。油断するとウトウトしてしまいそうになる。

「ありがとう、やってもらっちゃって」
「いや、これ安いやつだから風量弱いんだよな。今度もう少し良いやつ買うか」
「え?」
「これからちょくちょく使うだろ?」

 それってつまり、これからもここに来てもいいということだろうか。
 至極当然のことのように言われて、それだけで心が動く。胸が騒がしくなる。頬が熱いのはドライヤーの熱だけではない。

 しばらく沈黙が続いて、部屋の中はドライヤーの音だけ。普段はちょっと煩く感じるその音も、早鐘のような心臓の音をかき消してくれるようでちょうどよかった。

「これくらいでいい?」

 カチッとスイッチを止める音がして、髪に手を伸ばすとすっかり乾いている。

「綺麗に乾いてる、ありがとう」

 どういたしまして、と姫が言うと、今度は自分の髪をぐしゃぐしゃにして水分を飛ばしながら乾かし始めた。

「……けっこう、豪快なんだね」

 意外な一面を見た気がしてまじまじと見ていると、私の視線を目の端で捉えた姫が、これが一番早いんだよと少し気恥ずかしげにそっぽを向いた。
 それがおかしくて、私は気づかれないように小さく笑った。

 ドライヤーが終わって、二人分のグラスを持った姫に促されてソファーに座る。

「ありがとう」

 グラスを受け取って一口飲む。
 冷たい緑茶なのにすごく香りが立っていて美味しい。聞けば、夏に発売される予定の悟さんが監修した冷茶専用の茶葉なのだそうだ。

「すごい、そういう販売もしてるんだね」
「気に入ったならやるよ。販促用とかで送られてきたのが山ほどあるから」

 それから少しの間、たわいもない話を行ったり来たりして、ふと会話が途切れた。
 どうしたのかなと思って見ると、思いのほか真剣な顔をした姫と目が合う。

「一つ、聞きたいことがあるんだけど」
「聞きたいこと?」

 何だろう?私は少しだけ体勢を変えて、隣りに座る姫と向き合う。

「さっき店を出て、俺がいる場所が分かったのは何で?」

 お店を出たとき。
 何でそんなことを聞くんだろうと不思議に思いつつ、私はどう答えるか迷った。あのとき沸き上がった、閃きのような直感を言葉にするのは難しい。

「えっと……姫のいる方向にお庭の花の匂いがした気がしたから…?」

「花?…あぁ、夜香木《ナイトジャスミン》か」

 聞きなれない花の名前だったけれど、その名前のように華やかで甘い香りだった気がする。

「夜に白い花が咲いて独特の香りがする。夏が盛りだから香りが強かったのかもな」

 悟さんの言っていた通り、花のことは姫の方が詳しい。やっぱりお母さんの影響なのだろうか。そういうことをいつかもっと知れたらいいなと思う。
 姫はそうかと独りごちると、私の手の中のグラスを取り上げて、自分の分と一緒にテーブルに置いた。
 顔を上げると、驚くくらい近くに姫の顔が迫っていた。

「ありがとう、追いかけてきてくれて」

 耳元で囁かれて、そのまま柔らかく食まれた。
 かかった息が熱さと感触にぞわりと何かが走る。
 そのまま唇が首筋を辿っていきそうになって、考えるより先に体が後ずさった。

 姫の手を取ったときにもろもろの覚悟は決めたつもりだった。
 けれど、あまりに取り巻く空気が変わりすぎてついていけない。

「ちょ、ちょっと待って!?あの、私からも聞きたいことがあるんだけどっ!」

 私の渾身の叫びに、姫の動きが止まった。

 ―――チャンスがあったら樹に聞いてみて?あいつ素直じゃないからさ。

「何?聞きたいことって」

 正面から見据える目に僅かに不服の色を感じ取って、少しだけ怯みつつも私は口を開く。

「何で、私にミモザのお酒を勧めてくれたの?」


『樹にミモザを勧めた理由を聞いてみて。それが答えだから』


 姫を追いかける直前に悟さんに耳打ちされたのはこのことだった。
 私の疑問に意表を突かれたようで、姫は一瞬言葉を失った後地を這うような溜息をついた。

「……今、それ聞く?」
「えっと、、だめだった?」

 このタイミングで聞くことではないかもしれないけれど、今しかないような気もした。
 呆れられたかな?と様子を伺うと「ったくあの人は…」とぶつぶつ毒づいてから、観念したように無造作に髪を掻き上げた。

「ミモザの花が、ヨーロッパでは人に贈られる花って知ってる?」

 それは、聞いたことがある。
 確かミモザの日というのがあって、大切な人に贈って日ごろの感謝を伝える日があるって。

「そう、特に男性から女性に贈られることが多くて。まぁ、つまり…そういうこと」
「そ、そういうことって?」
「あとは自分で考えて」

 さらに言い連ねようとするのを、もうおしまいと制されて、姫の指先が、つ、と私の頬をなぞる。
 それがさっき一度触れたときとは違う意味が込められていることが伝わって、頬全体に一気に熱が集まった。

「……いい?」

 問われて、私は頷く代わりに目を伏せる。

 ミモザの花言葉の一つが『秘めた恋』であることを私が知るのは、もう少し後のことだ。

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