この恋だけは、想定外

青砥アヲ

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最後の1週間1

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 目を覚ますと、まだ外は暗かった。

 重い体を起こすと寝汗をかいていて、体がすっかり冷えていた。
 頬は汗か涙かよく分からないもので濡れていて、清流は手でそれを拭った後、部屋着へと着替える。
 
 どこか現実感のない中で、バッグに押し込まれたぐしゃぐしゃになった原稿が目に入って、昨夜のことが現実なのだと思い知る。

 清流は首を小さく振った。
 もともと、半年経ったら出るつもりだったのだ。
 それが少し早まっただけのこと。そう自分に言い聞かせる。

 洸と再会したとき、もしかしたら叔母から自分の過去をすべて聞いているのではないかと思ったけれど、洸の態度からそうではないことが分かった。

(加賀城さんに知られていないことに、あのとき私はほっとしていた…)

 そう、洸に知られたくなかった。
 離婚歴があることがではなく、叔母に言われるがまま『相手の家柄と地位が目的の政略結婚をした女』だということを。
 それは、洸が一番嫌っていることだと知ったから。

 もし、本当に洸から持ち掛けられた話を受けたくないのなら、自分の過去をすべて曝け出せばよかった。そうすれば、洸は早々に自分に幻滅して手を引いたはずだ。
 でもそうしなかったのは、自分が『そういう類の女』だと思われたくなかったから。

 あのとき、いやもっと前。
 イタリアで初めて会ったときから、きっと自分は洸に惹かれていたんだ。

 ―――なんて、卑怯なんだろう。

 だから今、自分が傷つくのは間違っている。
 これは、あの優しい人をずっとだまし続けていた罰だ。

(……本当に、ごめんなさい)

 でも、もしも許されるなら。
 あと少し、あと1週間だけ今のままで過ごさせてほしい。
 そして、ここを出ていくときにすべてを打ち明けよう。

 清流はバッグから原稿を取り出すと、皴を丁寧に伸ばして半分に折り畳み、デスクの引き出しにしまい込んだ。
 結局夜中に目を覚ましてからは、短い間に寝たり起きたりを繰り返して、明け方に洸が帰ってきた気配を感じてからは完全に覚醒してしまった。

 洸が部屋に戻り出てこないことを確認してから、しばらく時間が経つのを待ってからそっと部屋を出る。

 キッチンに移動して冷蔵庫を開けると、昨日買った食材が買い物袋ごと入れられていた。
 とりあえず冷蔵庫に入れなきゃという意識だけはあったんだな、と昨夜の自分の行動を振り返って少し滑稽に思える。それなりの重さのある買い物袋から、ナスや玉ねぎ、ズッキーニなどの野菜と、ベーコン、トマトの水煮缶を取り出す。

 今日の朝は一緒に朝ごはんを食べようと思って考えていた、ミネストローネを作ることにした。
 昨日買った野菜をすべて1cm角に切る。黙々と食材を切る作業は少しの間だけ無心になれた。
 鍋で中で具材を炒めて煮込む。洸は酸味が強いのが苦手なので、和らげるために玉ねぎを多めに、そして砂糖をひとつまみ入れる。

「おはよう、早いな」
「おはようございます、何だか今日は早く目が覚めちゃって」

 ちゃんと笑顔を作れているだろうか。
 不自然にならないよういつも通りを言い聞かせながら意味もなく鍋をかき混ぜていると、洸が鍋の中を覗いた。

「あ、スープにパスタ入ってる」

 かき混ぜた中からファルファッレというリボン型のショートパスタが見えて、洸はトーストは焼かずにスープ皿を取り出した。
 起きてきた洸が、冷蔵庫からミントウォーターを飲みながら鍋やフライパンの中を覗いて、棚からその日の朝食に合う食器を出して並べたり、時にはパンを焼いたりごはんをよそったりする。
 清流がおかずを盛っている間に、洸は二人分のカップを出してコーヒーマシンをセットする。
 お互いにこうしようと決めたわけではないけれど、気がついたらいつからかルーティンになっていた。

「いただきます」

 こうして向かい合ってごはんを食べるのも、あと何回だろう。
 ここを出たら、住むところはどうしようか。しばらくはウィークリーマンションのようなところを借りて、働く場所も探さなければならない。

 叔母たちが暮らす実家に帰ろうかと思ったけれど、そうすればまたすぐにお見合い話を持ち込まれるような気がして帰りたくなかった。

 今までは父の会社を継ぎたい、守りたいと思っていたし、そのためならお見合いでも何でも耐えられると思っていた。けれど、まだほんの数ヶ月だが経営企画課で仕事をするようになって、自分の考えがいかに甘かったかが分かった。
 洸があれだけ社内で信頼されているのは創業者一族だからではなく、社内でそれだけの実績を積み上げてきたからだ。自分が会社を立ち上げた父の娘だからと後を継いだって、きっと誰も納得しないしついて来てくれたりしない。形だけ継いだって、何の価値もない。根本的に考え方が間違っていたことに気づかされた。

「清流、どうした?」
「えっ?あ、味大丈夫かなぁと思って。酸っぱくないですか?」
「全然、美味いよ」

 柔らかく微笑まれて、胸がぎゅっと締めつけられる。
 幸せな思い出が増えれば増えるほど、もうすぐ訪れる別れを想像して苦しくなる。
 あと何回、この笑顔を見られるのだろう。

「…そういえば、出張はどうでしたか?」

 清流は浮かんだ考えを振り払うように、無理やり話題を変えて笑顔を作った。

 ◇◇◇◇

「姐さん、ここの値が経理の出してきたのとズレてるんですけど、理由分かります?」
「どれ?…あぁこれ、価格情報が更新されてない…っていうか去年の値じゃない?たぶんコピペするときに直し忘れたのね」
「はぁー、ふざけんなよマジでーっ」

 予想していたように、週の後半からバタバタと忙しさが増した。
 舞原が不満を漏らしながら座席に戻ると、大きく溜息を吐きながらキーボードを叩く。

「もう時間がないしこっちでやり直すのが早いと思うわ。経理には後で共有しといたほうがいいけど」
「ですよねー…この前の大ミスといい、そろそろ奢ってもらわないと割に合わないっすよ」
「随分荒れてんな」

 ちょうど経営企画課のドアが開いて、洸が入ってきた。

「ほら、差し入れ」
「ありがとうございまーす!さすが部長、ちょうど小腹が空いてたんですよね」

 時間は15時過ぎ。
 洸がシンガポール出張のお土産に買ってきたクッキーを、舞原は嬉々としてパッケージを開けた。

「うわ、やっぱりマーライオンクッキーじゃないですか」

 舞原がおもむろに1枚つまむと、確かにそれはマーライオンがかたどられたクッキーだった。

「わぁー、案外ベタなのね加賀城くんって」
「しかも何味っすかこれ、ココナッツ?にしては独特な味が…」
「甘ったるい芳香剤のような味がしますね。それに生地がパサパサで水分が奪われます」

 それぞれ、洸のお土産に対して好き勝手に感想を言い合う。
 清流も1枚取って頬張る。甘さはあるけれど風味が独特で、食べたことない味が口いっぱいに広がった。

「……舞原、お前が買ってこいって連絡してきたくせに言いたい放題だな」
「いや、一番辛辣だったの唯崎さんですからね?」

 笑いが起こる様子を、清流は一人遠くから眺めている心持になった。
 経営企画部のメンバーとも別れなければならないこと、そして何も告げずに突然辞めなければならないことに、申し訳なさを感じる。

(直接感謝を言いたいけど、そうしたら辞める理由も聞かれるだろうし、何よりすぐに加賀城さんの耳に入ってしまう…)

 メンバーの皆には本当に良くしてもらった。
 突然やってきた何も分からない自分を受け入れてくれて、この明るい雰囲気に何度も救われた。
 だからせめて最後の日までは精いっぱい仕事をして、少しでも役に立とうと決めていた。

「舞原さん、私も修正手伝いますよ」
「ほんと?ありがと、助かる」

 清流は舞原から資料を転送してもらい、修正箇所を確認する。
 そしてもう1枚クッキーに手を伸ばして口に入れると、舞原は少しギョッとした顔をする。

「清流ちゃん、まだ食べれるの?…これぶっちゃけ不味くない?」
「いえ、美味しいですよ?」

(このメンバーとこの空間で食べるものは、何でも美味しい)

 その言葉は呑み込んで、清流は再びパソコンに向かった。

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