それらすべてが愛になる

青砥アヲ

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想い想われ2

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「あぁ、疲れた…」

 洸は、2日ぶりに帰ったマンションに足を踏み入れると、ソファーにどさりと沈み込むように腰を下ろした。
 緩めたネクタイを無造作に放り投げる。
 ちょうど肘掛けに嫌われてスルリと床へ落ちるのを目の端に捉えながらも、体が重くて拾う気にもならない。
 普段ならその辺りに脱ぎ散らかしたりはしないが、清流が帰ってくるのは明日の土曜の夜だ。

 週の後半は珍しくスケジュールにもゆとりがあったはずが、連日トラブルに見舞われた。
 極めつけは経理の出してきた実績ベースのシミュレーションに重大なミスが見つかり、それをベースに経営企画で作った要因別のシミュレーションがすべて作り直しになったことだ。
 収益の累積予想推移があり得ない下降線を辿っているのを見たときは、久しぶりに血の気が引いた。

(人数が足りていないときに限って、見計らったように起きるんだよな…)

 清流がいる日常に慣れてきたのはメンバーも同じだったようで、舞原などは『清流ちゃんいつ戻ってくるんですか』なんて泣き言を言い出す有り様だった。

 洸は目頭を押さえてから、ゆっくりと目を開ける。
 腕時計の針は午前3時半を指していた。

 舞原たちは、始発が動くまで朝までやっている居酒屋で飲み明かすと言っていたから、今頃はああだこうだと愚痴を言い合っているのだろう。
 部長もどうですか?と誘われたが、それよりも今日は早く横になりたかった。
 一息つくとさすがに空腹を感じて、何か食べようかと冷蔵庫に目を向ける。

『冷凍だから日持ちするので、食べ切れなくても全然大丈夫ですから気にしないでくださいね』

 そう言って、研修へ行く前日にいくつか作り置きのおかずを作って冷凍してくれていたが、気づけばそれも食べ切ってしまっていた。
 他に何かあっただろうかと考えるも、何も思い浮かばない。心身の疲労は確かに蓄積している。

 いっそ緊急だといって呼び戻せばよかった。
 そんな上司としてあるまじき考えが浮かんで自嘲する。

(そういえばスマホ見てなかったな)

 スーツのポケットに手を突っ込んで取り出すと、1件の未読がある。
 約束通り、清流からは夜に1日の報告連絡のメールが届いていた。

 初めはその日の研修内容やその感想なども添えられていたが、だんだんとその内容も簡素になっていき、やはりグループの調整役として苦労している様子が垣間見えていた。

『ワークショップ、全体の2位でした。明日帰ります。おやすみなさい』

 そして、猫が笑ったスタンプが一つ。
 おめでとうとか頑張ったなとか何か打とうとするも、文字にすると味気ない気がして、打っては消してを繰り返す。トラブル対応中は気が張り詰めて頭が冴える反面、その反動で今は思考がまとまらない。

(…早く帰ってこい)

 そんな取り留めのないことを考えているうちに、うとうとと意識が遠ざかっていった。

 ◇◇◇◇

「あー、ソファーに寝ちゃダメですよって言ったのに」

(…仕方ないだろ、こっちも疲れてるんだ)

「あ、ネクタイ落ちてる。バッグもひっくり返って中身出てるし。ふふ、几帳面に見えてけっこう適当なところもあるんだなぁ」

(だからそれは仕方なくだ)

 元はといえばお前がいないから、と責任転嫁しそうになった頭が覚醒してはっと目を開けると、視界に入った華奢な後ろ姿が振り返った。

「あ、起きました?」

 いるはずのない顔が、こちらを覗き込んでいる。
 もしかしてあれから丸1日近く寝ていたのだろうか。そんなバカなと思って時間を見るも朝の10時前だ。

「帰るの、夜じゃなかったのか?」

 その予定だったんですけど、と清流はバツが悪そうに笑う。

「研修自体は昨日で終わりで、今日は1日自由行動だったんです。1週間一緒に研修をしたメンバーと親睦を深めるためにってことみたいで」

 それは知っている。
 自分の代も最終日はそうだった。

「割引チケットが配られたスカイツリーへ行った人もいますし、あとは浅草とか銀座とか…で、私は仕事の呼び出しがあったことにして、帰ってきちゃいました」

 未知夏さんから聞きましたよ、大変だったみたいですね?
 そう言う清流に手を伸ばして、そっと顔の輪郭をなぞる。

「へ、ちょ、加賀城さん…っ?!」

 途端に顔を赤くして慌てふためく。
 戸惑いと驚きと、でもそれだけではないような。いろいろなものを混ぜて溶かしたような、初めて見る顔だ。

(…こんな顔もするのか)

「あの、寝ぼけてます?」

 誰かさんのお陰で頭はすっかり覚醒しているが、清流の勘違いにもうしばらく乗っかることにした。
 腕を自分の方に引っ張る。
 あっ、という声とともに倒れ込んできた体を抱き枕にしてしまうと、その体勢のままソファーへと寝転がった。

「ああああのっ!こ、これはどういう、」
「…この前のお返し。一昨日は徹夜だし昨日も午前帰りで疲れてるんだよ、しばらく体貸せ」

 洸が喋るたびに近くで息がかかってくすぐったい。
 清流は背筋に痺れる感覚を覚えて、これはまずいと頭の中で『私は抱き枕抱き枕…』と無心で唱える。

「……さすがに腹減ったな」
「え、もしかして昨日食べてないんですか?」
「食べる気がしなかった。作り置きもなくなったし」
「え、あれ全部食べたんですか?加賀城さんが?」

 暗示の効果は呆気なく切れた。

(絶対に、余ると思ってたのに)

 そんなことならもっと作っていけばよかったなと思いながら、頬が自然と緩むのを抑えられない。

「だから、今日は何か作ってくれ」
「それは私の手料理が恋しいという解釈でよろしいでしょうか?」
「俺を揶揄おうなんて100年早い」

 冷静になれば死ぬほど恥ずかしい状況のはずなのに、たわいのない会話を重ねているとだんだんと感覚が麻痺してくるのか、軽口も言えるようになってくるから不思議だ。自分もだいぶ疲れているのかもしれないと思う。

「この時間だとお昼ごはんですね。
 うーん、シチューやグラタンは暑いですよね…あ、クリーム煮かクラムチャウダーならどっちがいいですか?あとはバゲットとサラダをつけて」
「クラムチャウダー。って、何かチョイスが偏ってねえ?そんなにカルシウム不足に見えてるのか?」

 抗議の視線を感じて、清流は急いで首を振る。

「違いますよ、よく眠れるようにです。牛乳って睡眠に効果があるんですよ、あとはサラダにレタスを使えばばっちりです」

 ほら、と洸の目の下を指さす。

「ここ、クマができちゃってますし。ごはん食べたらソファーじゃなくて、ベッドでゆっくり休んでくださいね」

 顔の彫りの深さと元の肌色のせいか、薄いクマでもやや目立っている。
 けれど、間近で見る肌はとても綺麗だ。
 たまに男の人で、しっかり手入れしているわけでもなさそうなのに素で綺麗な人がいるけれど、一体どうなっているのだろうかと清流はまじまじと見つめてしまう。何だか羨ましいというよりも恨めしい。

「なあ」
「はい?」
「清流の好きな料理って何?」
「え?急にどうしたんですか?」

 きょとんと見上げると、洸は口角を少し上げて笑った。

「いつも作ってもらってばっかだから、今度俺が清流の好きなもの作ろうかと思って」
「つ、作る?」

 最近の洸は、時間が合えば野菜の皮を剥いたりパスタを茹でたりと、一緒にキッチンに立ってくれている。が、前に聞かされた衝撃的なエピソードを思い出すと、喜ぶというより困惑してしまう申し出だった。

「えっと、ありがとうございます、でも気持ちだけで十分ですよ?」
「…明らかに俺にやらせたら大惨事になると思っているだろ」

 清流の配慮はあっさりと見抜かれて、軽く背中を小突かれる。
 どうやら本当に好きなものを言わないと、この押し問答は終わりそうにない。

「ほ、本当に言っていいんですか?」
「遠慮しないで言えって」
「…カニクリームコロッケです」

 そう言うと洸の体がピタリと固まってしまった。
 ほらやっぱり、と見上げると目が合う。

「分かった……でもしばらく猶予をくれ」
「あの、本当に気持ちだけで十分ですから」
「いや、今度絶対作ってやる」

 一度言い出したら引かない。洸も頑固な性格だ。清流は苦笑しつつ、ありがとうございますとお礼を言う。
 いつ実現するのかは分からないけれど、楽しみに待っておこう。
 あまりにキッチンで悪戦苦闘してたら、そのときは自分も手伝えばいい。

 それよりも、まずは今日のお昼ごはんだ。
 料理の話をしていたせいか、清流自身も少しお腹が空いてきた。

「……あの、そろそろ放してもらわないと買い物に行けないんですが」
「まだもう少しいいだろ」

 初めから用意していたような答え。
 少し身じろぎをすると、さらに力を込められて動けなくなってしまった。

「私もお腹空いてきたんですけど」
「俺は逆に眠くなってきた」
「もう……」

 どうやら折れる気配がないことを悟ってそっと息を吐く。
 清流はもう一度そっと顔を見上げて、作り物のような綺麗な寝顔に目を奪われた。

(人の気も知らないで、ほんとずるい…)

 バクバクと打ちつける心臓の音に気づかれないことを祈りながら、清流もまた温もりの中へと微睡んでいった。

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