黄昏のエルドラード

鹿音二号

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序章

とある過ぎ去りし事件録 act1

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「……鼻が曲がりそうだ」

 闇が、うごめいていた。
 漆黒がひしめいて、まるでヘドロが意志を持ったように、うぞうぞと動いている。
 切り断った崖の上で、崖の下いっぱいにひしめくそれを注意深く見ながら、男たちはそれぞれ持っている武器を確かめていた。
 濃く赤い空は、もうすぐ【夜の神】の加護領域に入ることを示している。
 軽鎧を身に着けた、ざっくばらんな黒髪を揺らす青年が思わずといったように鼻を手で押さえている。
 その左手には、豪奢な剣が握られていた。刀身はわずかな光でも白く光り、柄には金の装飾と白い宝石が嵌っている。
 赤い瞳はかすかな嫌悪を宿しているが、どことなく愛嬌がある。
 その青年の隣には、上背がある男が、大弓の弦を張りながら同じようにうごめく闇を見ていた。

「ああ、さすがに俺でも分からあ」

 青年と同じく嫌悪があるが、軽い口調だった。
 黒いローブの上に分厚い鎧、小手やすね当ては重量感がある武装だった。弓の他に腰には数本の剣や鞭、ベルトにはナイフが何本もくくりつけられている。短く刈られた黒髪に青い瞳。ややいかつい顔立ちで、左頬に古い傷があるのだが、表情は気の抜けた、口調と同じく軽薄そうだ。

「ええ?オレは感じないけど」

 二人のそばには、天使がいた。
 正確には、天使かと思えるような、美しい少年だった。
 白いローブに、銀の胸当て。武装はしているが、剣が二本とナイフが数本、そして腰には革製の物入れ。
 柔らかな顔立ちで均整が取れた細い体。肌が白い。夕闇の中でも光り輝くようなふわりとした金髪。まるい翠の瞳は、油断なく眼下の闇を見ながら、

「加護のおかげだね。臭いのはこのあとで十分。ってことは、まだドラクルは……」
「ああ、あと数十分ってとこだな」

 黒い男……ドラクルは、天使のような少年に答えた。弓を構えながら、

「だが、もう待っていられないだろ。エルド、いいか」
「……そうだな」

 黒髪の青年……エルドが、鼻を覆うのをやめて両手に剣を握る。
 闇が、崖へと上がる緩やかな坂を見つけた。少し戸惑ったようにうごうごと傾斜の前でうろついていたが、すぐにまるで潮が満ちるように上がり始めた。

「ハーヴィー、結界は?」
「大丈夫、祝福したんだ、あと一時間はもつ」

 エルドが尋ねて、ハーヴィーと呼ばれた少年が返した。
 ドラクルは大弓を片手で支えながら、もう片手で巻物のようなものを近づけ、何事かを呟く。巻物が光になって消えると同時、弓が、淡く輝く。

「じゃ、いくぜ……」

 ドラクルが、思いきり弦を引いた。
 その弓がしなった瞬間だ、つがえていないはずの矢が、光を纏って現れた。
 ひゅ、と音を立てて、矢が放たれる。
 暗がりかけた赤い空へ、一直線の光の矢。
 すぐにそれはたくさんの矢に分かれ、いくつもの軌跡を描きながら縦横無尽に闇へと降り注ぐ。
 ドドド、と、まるで投石でもしたような重い音とともに、いくつもの光が闇を押しのけて弾けた。
 耳障りな、金属を鈍い爪で引っ掻いたような音が、幾重にも響く。
 矢が降り注いだ直後、エルドが抜身を下げたまま、崖から飛び降りた。
 とんっ、と軽い足音を残して。

《蹴散らせ、光》

 宙に身を投げた彼の口から出た言葉は、誰にも聞き取れないものだった。
 音というものにならない、動植物はもちろん、高い知能を持つ人間や亜種族にもその価値を知られない言葉。
 自由落下する間、剣のきらびやかな柄を両手で握り刃を下に。
 闇に飲まれる直前、白い刀身からまばゆい閃光が迸る。
 かなりの高さだ。けれど、難なく着地したエルドは、剣を地面に突き立てた。膝を付き着地の衝撃をいなしながら。
 光が、地を走る。
 闇が吹き飛ぶ。
 光にさらされた闇は、無数の細かい形を見せる。
 黒い、ほんの数十センチの小さな子供。
 ヤギの出来損ないのような四つ足。
 または熊が痩せたような。
 トカゲがたらふく水を飲んで膨れたような。
 そんないびつな形を、それぞれしていた。
 黒いそれらが、集団に、無数に動き回る――それが、闇のかたちだった。
 青年の周りは、半径にして数メートルは闇は消えていた。何もない土がむき出しの地面が見えていた。



 エルドが飛び降りた瞬間、ハーヴィーは彼に背を向けて走り出した。
 崖が緩やかな坂になりつつ下がっていき、闇が伝い上がってくるそこに、真正面から突っ込んでいく。

『神よ、我を守り給え、傷を無く。誓いを、我は剣となりて汝の敵を屠らん』

 古語とされる言葉を流れるように早く、歌うように。
 【昼の神】と呼ばれる彼の神に授けられた加護を強める術だ。淡い光に包まれたハーヴィーは、美しいかんばせを歪めもせず、抜き払った双剣で闇を切り捨てる。
 小さな黒い闇は、天使のような白い少年の淀みのない剣戟に切り払われ、吹き飛び――消える。

『神よ』

 腕をしならせ、白い弧月のような残像をいくつも残しながら、ハーヴィーは唇を動かす。

『我にすべてを薙ぎ払う力を、我ハーヴィー・カタルの名において、聖なる光を。誓いを、堕し存在に鉄槌を!』

 声が止むと、間髪入れずハーヴィーの前に押し寄せていた闇へ、真上から光が降り注ぐ。じゅう、と焼けるような音と、耳障りなぎゃあぎゃあという悲鳴。それらが響いて、崖に上がろうとする闇がほとんど消えてしまった。

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