沈む町

宗真匠

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沈む町

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1

 俺はこの窓から見るこの景色が好きだ。
 季節の移ろいが見えるこの景色が好きだ。
 そこにあったはずの大地が海に飲み込まれたこの景色が好きだ。
 世界の終焉が刻一刻と近付いてくるこの景色が好きだ。

「おじさんおはよ!」
「ノックしろって言ってるだろ」
「いいじゃん。どうせこの町には私たちしか居ないんだから」
「俺が取り込み中だったらどうするんだ」
「取り込むようなことがあるの?」

 開け放たれた鉄製の扉とその前に立つ少女を交互に見て、俺はため息をつく。年齢差のせいか、育ってきた環境のせいか、俺のジョークはいつも彼女には通じない。どうにも噛み合わない会話を放棄して、俺は再び窓の外に目をやる。
 昨日までの雨から一転、今日は曇り空一つ無い快晴だ。太陽の光が水面で反射し、煌びやかに映る。

「だいぶ水位上がったね」
「ずっと雨が続いていたからな」
「ここまで到達するのも時間の問題かもね」

 いつの間にか窓の縁に顎を乗せていた彼女は、揺れる水面をどこか懐かしそうに見つめている。

 心地よい風に黒い髪を靡かせる彼女の横顔が好きだった。そっと手を伸ばして艶やかな髪を手櫛で梳くと、嬉しそう身をよじる。

「農園の様子を見に行くんじゃないのか?」
「あ、そうだった!」

 ばたばたと忙しない彼女の背中を見送り、俺は白い紙箱から取り出した煙草に火をつけた。


2

 もう十年も前になる。
 いや、もっと前のことだったかもしれない。

 暦が意味を成さなくなってから、正しい日付なんて分かりはしない。
 ただ、雨音の成長を見るに、それくらいの月日は経ったのだろうと思う。


 きっかけは何だったんだろう。

 地球温暖化? 排気ガス汚染?
 学のない俺には詳しい話はさっぱり分からなかったが、とにかく地球に異常が発生し始めたんだってことだけは理解出来た。

 連日番組表を埋め尽くすニュース。死者だとか行方不明者だとか、どこかの誰かが犠牲になっていく様子を画面越しに眺める日々。

 次の犠牲者は俺かもしれない。そんな想像をするのは容易かった。それでも怖いとは思わなかった。

 人間はいずれ死ぬ。その時がすぐそこに訪れただけ。

 そんな他人事な気分でタバコを手にニュースを見ていた。



 最初は確か、他所の国で起こった大規模な地震。その影響で広い海を超えて日本まで津波が押し寄せるくらいだ。映画やドラマで見たフィクションのような話が実際に起こった。

 そこからはもう、パニック映画さながらだったな。

 空は荒れ、大地は揺れ、寒波が訪れ、火山が噴火する。そんな異常災害のオンパレードだった。

 当然、その影響は俺が住んでいた村にも襲いかかった。小さな村だった。何も無い田舎だ。災害とは程遠い長閑な場所で対策などあるはずもなく、大きな地震で木造の家屋の殆どが倒壊。俺たちは一晩で住む場所を失った。


 そして、命からがら逃げてきたのがこの町だった。



3

 一日一本の煙草がこんな町に残った唯一の嗜好品だ。

 ストックもあまり多くはないが、きっと全てを吸い終える頃にはこの町も残ってはいないだろう。

 すっかり短くなった煙草を窓の外に放る。こんな崩壊した国に法なんて存在しない。だから、たかがポイ捨てを咎める人間なんて──。

「あー! また海に捨ててる! 海はゴミ箱じゃないんだよ!」

 いた。

 いつの間にか戻ってきていた雨音は、俺の背中をばしばしと叩く。

「捨てたところで誰も困らないだろ」
「私が困るの」
「何故」
「海が汚れるから」
「またそれか」

 いつも彼女が言っていることだ。

 彼女もどうやらこの窓から眺める景色が好きらしい。だが、その観点は俺とは少し異なるようだ。

「私はこの綺麗な景色が好きなんだ。キラキラ光っていて宝石みたいだから」

 本物の宝石は見たことないんだけどね、と雨音は笑う。
 彼女はあくまでここからの景色を壮麗で慈しむものだと捉えているらしい。どうもその気持ちは理解に苦しむ。

 この海は多くの人々を殺した。この海の底には、多くの人骨、動物の骨、死んだ植物の残骸が無数に沈んでいるはずだ。

 きっと彼女はそのことを知らない。
 だから、そんなにも輝かしい目で、純粋な気持ちでこの景色を見ていられるんだろう。

「そうか。悪かったな」

 心にもなく謝っても彼女は優しく微笑む。
 俺にはその笑顔の方が美しいものだと思えてしまう。
 その笑顔こそがこんな世界に残った、たった一つの宝石なのだと。


4

 見渡す限りの海。水平線の向こう側まで目を凝らしても大地なんて見えやしない。あるのはビル群の一部。辛うじて残った高い建物が二、三あるだけ。俺たちはそんな場所で、たった二人で暮らしている。

 地球上の大地の三割が海に沈むまでに一年。異常気象や災害は最初の一年を機になりを潜めたが、この海は年に二十センチは水位が上がっていると思う。ここが沈むのも時間の問題だ。

 災害に対抗すべく人類は、始めの方こそ日本でも高い山の上に建築物が建てられ、移住計画も立案された。だが、全国民の移住は不可能だとわかると、金持ち連中はこぞって海外に逃げ出した。
 日本は他の国に比べると海抜高度が低すぎたんだ。海に囲まれた島国に逃げ場なんて無かった。
 だから、日本に住み続けるよりは海外に移住する方が比較的安全だと判断したんだろう。

『自分の身は自分で守ろう』なんて投げやりなスローガンだけ掲げて、大半の国民は国に捨てられたんだ。

 その結果、今や日本の人口は僅か十万人。そのほとんどは富士山や北岳といった山岳部に住んでいる。
 未だにこんな海に囲まれた場所に住んでいるのは、金も身寄りも無い俺たちくらいだった。

 この海の上にぽつりと取り残された『沈む町』に。


5

「今回は被害が少ないな」
「少ないどころじゃないよ! 豊作だよ豊作!」

 屋上に設置した簡易的な菜園。

 この町で調達出来る食料と言えば、海で魚を釣り上げるか、潜って海藻でも漁って来るか。もしくは、この菜園で育てたほんの少しの野菜くらいだ。

 とは言え、こんな狭い空間で育てるとなれば種類も限られていて、現状収穫して食事として利用出来るのはミニトマト、リーフレタス、さやえんどう、ラディッシュの四種類だけ。
 腹の足しになるかと言われると微妙なところだ。無いよりマシって程度。

「おじさん! このミニトマト、そろそろ収穫出来そうじゃない?」
「まだ少し青いな。それに、ここのところ雨続きだったせいで実割れしかけてるものもある。豊作かと言われると微妙だな」

 雨音は「えー」と声を上げ、少し落胆したようにミニトマトを見つめる。雨音はどうやらミニトマトがお気に入りらしい。

 昔、近所のスーパーに売っていた安いミニトマトと比べても間違いなく味は劣るが、それでも彼女にとっては初めての味覚だったんだろう。

「せっかく楽しみにしてたのに」と呟く雨音の頭をそっと撫でる。

「豊作じゃないとは言え、全部がダメになったわけじゃない。これとか、あと一週間も経てば美味しく食べられるんじゃないか」
「ほんとに!?」

 先程までの表情から一転。彼女は目を輝かせて俺が指さしたミニトマトをそっと撫でるように指で触れる。

「美味しく育つんだよー」
「あまり触ると質が落ちるぞ」
「えっ!」

 注意を促すと雨音は体をビクッと震わせて手を引っ込めた。

 そのままこちらを見て、へらへらと笑う。その笑顔を見て、俺もふっと笑みがこぼれる。


 まあ、腹の足しにはならないけど、雨音が大事に、楽しそうに育てる様子が見られるのは悪くないと思う。



6

 俺と雨音が出会ったのは十年くらい前。件の災害の時だった。
 頻発する地震。降り続く雨。避難勧告が発令され、俺が住んでいた村の住民は近くの町まで避難を余儀なくされた。

 その避難先で出会ったのが雨音だ。

 彼女は一人だった。人がごった返す体育館の中、一人でわんわんと泣いていた。
 それが偶然にも俺のすぐ側だったもので、冷ややかな目で見られた。うるさい。静かにさせろ。今すぐ出て行け。そんな視線が俺たちに集まった。

 俺と彼女の年齢差から、きっと親子に見えていたのだろう。迷惑な話だ。俺も一人で逃げてきて、隣で泣き続ける少女に迷惑していたというのに。

 でも、どうしてだろうな。俺は少女を放っておけなかった。多分、孤独と疎外感という共通点を見つけて、勝手に親近感を湧かせていたんだと思う。彼女にとっても、きっと迷惑な話だ。

「どこから来たんだ」
「親はどこだ」
「名前は何と言うんだ」

 どれほど質問しても泣き続けるばかりの少女。俺もだんだんと腹が立ってきて、一服がてら少女を連れて外に出たんだ。

 外は雨が降っていた。もう何ヶ月も太陽を見ていない。どこからか発生した雨雲のせいでずっとこの調子。そんな空は少女と同じでどこか泣いているようにも見えた。

 俺は雨が嫌いだった。うるさいから。俺は子供が嫌いだった。うるさいから。
 田舎に住んでいたのも都会の喧騒を避けたかったからだ。それなのに、今やこうして雨の音と少女の泣き声、それに避難してきた多くの人々のざわめきで埋め尽くされている。

 うんざりだ。俺は静かに暮らしたい。危険だろうと短い人生だろうと関係ない。例え一瞬の命だろうと、ただ穏やかに暮らしたい。

 煙草の火は屋根から落ちてきた水滴に打たれて消えた。

 一分一秒もこの場所に居たくない。例え助けが来たとしても、その先に平穏なんて訪れない。そんな確信があった。

「じゃあな」

 誰に言うでもなくそう残し、バッグパックを背負い直した。
 その瞬間、不意に袖を引っ張られた。
 少女がぐずぐずと鼻を鳴らしながらこちらを見上げている。思わずため息が漏れる。この子の親は何をしているんだと怒鳴り散らしたい気分だった。

 俺は渋々少女に向き直った。

「俺は今から旅に出る」

 少女はふるふると首を振った。

「お前の親は」

 少女は首を振る。

「名前は」

 少女は首を振り続ける。

 何も答えないなら何もわからないままだ。このままでは埒が明かない。
 たかが少女一人の力、振りほどいてしまえばいいだけだ。

 そうしなかった──いや出来なかったのは、やはり彼女にどこか自分の面影を重ねていたからだろうか。
 目は口ほどに物を言うとはよく言うが、少女の目もそうだった。
 寂しい。悲しい。苦しい。一人にしないで。
 そんな思いが痛いほど伝わって来る気がした。だから俺に迷いが生じたんだと思う。

 立ち尽くす俺を前に少女が口を開く。

「おじさんはどこに行くの」
「俺はおじさんじゃない。まだ二十五だ」
「おじさんはどこに行くの」
「俺がおじさんならお前は雨音だ。雨の音と書いて雨音だ」

 俺は雨が嫌いだった。俺は子供が嫌いだった。名前なんて記号でしかない。だから俺は、嫌いなものを結び付ける記号を付けた。雨音と、そう名付けた。

 それでも雨音はどこか嬉しそうに目を細める。

「私も行く」
「ふざけるな。どうして俺が子守りなんて」
「私も行く」
「……勝手にしろ」

 ぶっきらぼうにそう答えると、雨音は小さな両手で包み込むように俺の手を握って、ニコリと笑った。

 雨はいつの間にか止んでいた。
 雲の切れ間から一筋の光が覗いていた。



7

「雨、降ってきたね」

 晴天もつかの間、翌日には雨が降っていた。
 災害が始まってからというもの、雨が振る日が九割以上を占めている。晴れている日の方が珍しい。二日雨が続けば奇跡と言っても過言じゃない。

 俺は煙草を取り出し、部屋の中央に置いたロウソクで火を灯す。窓を締め切っているせいで煙が部屋に篭もる。雨音は壁を背もたれに、行き先を失った煙を目で追っている。

「煙草って美味しい?」
「まあな」
「私も吸いたい」
「ダメだ」

 法律を失ったこの国に未成年が喫煙をしてはいけない決まりなんてない。それでも若いうちから有害な物質を摂取するのは良い事だとは言えないだろう。

「おじさんばっかりずるい」
「大人だからな」
「大人はずるいの?」
「そうだ」

 大人は、と言うと語弊があるかもしれない。限りある煙草を雨音に与えることを拒む俺がずるいだけだ。そうでなくとも雨音に煙草を吸わせようとは思わなかっただろうけど。

「おじさんと一緒のことがしたいな」
「そんな目で訴えかけてもダメだ」

 雨音はムッと頬を膨らませる。

「もういい」

 それだけ言い残して雨音は部屋を出て行った。バタンと大きな音を立てて扉が閉まる。まったく、勝手なやつだ。
 雨音は怒るとこうして逃げるように俺の元から消える。彼女なりの反抗期なのかもしれない。それ相応の年齢なのだから仕方がない。

 静かになった部屋の中に煙を吐き出す吐息だけが響く。この時間はあまり好きではない。昔は好きだったはずなのに。
 いつの間にか雨音が傍に居る生活が当たり前になっていたのかもしれない。普段は騒々しくても居なくなると寂しいものだ。

 窓を開けて部屋に充満した煙を外へ逃がす。

 あれだけ小さかった雨音が反抗期になるほど大きくなった。俺もきっと変わってしまったのだろう。まさか、雨音が居ない静かな空間を寂しいと思ってしまうなんて。

 吸い終えた煙草を窓の外へ捨てようとして、やめた。


8

 雨音が戻らない。
 いつもなら怒って部屋を飛び出しても十分もすれば戻って来る。そして、俺が謝るまでずっと部屋の隅で俺を睨み続けている。それがいつものパターン。

 それなのに、今日は様子がおかしい。かれこれ三十分は経過している。
 不安と焦燥。今か今かと扉を凝視し続けるがどうにも落ち着かない。

「ああ、くそ」

 気分を落ち着かせようと取り出した煙草をその場に放り、部屋を飛び出した。



 雨音は屋上に居た。
 ずぶ濡れの小さな体を丸め、菜園の片隅で蹲っている。

「何してるんだ!」

 思わず声を荒らげた。その声に気づいた雨音が顔だけをこちらを向ける。
 その目は潤んでいた。

 俺は急いで雨音に駆け寄り、雨音の手を引く。

「戻るぞ」
「やだ」
「我儘を言うな」

 無理やり抱え上げようとすると、雨音がその手を払い除けた。思わず面食らってしまう。

「杭がどこかに行っちゃって、私が押さえてないと」

 菜園を覆うように広げた大きなブルーシート。雨と直射日光を避けるために用意していたものだ。雨音はその角を必死に押さえつけていた。

「菜園なんか放っておけよ! お前が病気にでもなったら元も子もないだろ!」

 怒鳴りつけるような声が出た。もしも俺が探しに来なかったら。もしも雨音に何かあったら。そう思うと感情的になってしまった。
 らしくないと思う。雨音がどうなろうと、雨音が決めたことに対する結果だ。俺が関わることじゃない。

 頭の中ではそう思っていても、体はその意思に反した。

「もういいから戻るぞ」
「嫌! おじさんと私の大切な菜園だもん! 今年もおじさんと一緒に収穫するの楽しみだったから!」

 毎年していることだ。この時期の晴れた日を見計らって野菜を収穫する。たったそれだけのこと。
 たったそれだけのことが、雨音にとっては大事なことなんだ。それこそ、自分の命よりも。

 馬鹿げた話だ。野菜なんて腹の足しにもならない。ただ少しだけ栄養が取れるってだけの話なのに。

 ふと、雨音が笑っている顔が浮かんだ。毎年そわそわしながら成長を眺める姿が。大した量も得られないのに「豊作だね」なんて笑う雨音の姿が。

「わかった。俺が押さえとくから、重石になるもの探して来い」

 濡れた雨音の髪をくしゃくしゃにして、ブルーシートの片隅を押さえる。
 雨音は潤んだ目を僅かに細める。

「うん!」

 雨音の姿が建物の中に消えていく。

 本当に馬鹿なやつだ。こんなことのために必死になって。育て方も正しいとは言えず、毎年雀の涙程しか収穫出来ないのに。こんな菜園、いつなくなってもおかしくないんだ。俺だって最初から期待なんてしてなかった。
 そんなものを楽しみだと言うのだから。

 だけど、雨音の言葉を嬉しく思ってしまう俺が一番馬鹿なのかもしれない。


9

「おじさん、ごめんね」

 古くなったタオルで頭を拭きながら、雨音の言葉に目を丸くする。
 雨音が謝るなんて珍しい。我儘なお姫様みたいな雨音が謝るなんて。

「急にどうしたんだ」
「おじさんに迷惑かけちゃったから」
「気にするな。そもそも俺が雨音を怒らせなければこうはならなかった」

 そう言ってみるが、雨音の表情は晴れない。
 こんな時にどう声をかけていいものかわからず、俺も黙ってしまう。長いこと雨音と一緒に居るのに、雨音の喜ぶ言葉も元気付ける言葉も見つかりやしない。

 場の悪い沈黙の中、雨音が口を開く。

「わかってるんだ。おじさんが私のために煙草を吸わせないようにしてること。私のことを思って連れ戻そうとしたことも」
「……」

 雨音のためだ、と図星を突かれ言葉に詰まる。
 自分の行動には責任を持つべきで、雨音が行動した結果雨音がどうなろうと、俺には関係ない。
 俺はずっとそう思い続けてきた。雨音がついてきた時からずっと。雨音にもそう言ってきた。『自分の命は自分で守れ』と。

 それでも俺は雨音のために動いた。雨音のことを放っておけなかった。それ程雨音の存在が俺にとって大きなものだと気付いた。

 しかし、そのことを口に出そうとするとどうにも歯痒い。気恥しいような、面と向かって言いたくないような、そんな気持ちになる。

「わかってるなら今後は気をつけろよ」

 だからそんなことしか言えない。お前が心配だと、お前が大切なんだと言えれば楽になれるはずなのに。
 菜園なんかより、煙草なんかより、雨音の方がずっと大切な存在なんだって。

 雨音はそんな俺の心を見透かしたように微笑む。

「ありがとう、おじさん」

 どうも居心地が悪く、雨音から目線を逸らしてガシガシと頭を搔く。

「そんなのいいから、風邪ひかないようにちゃんと体拭いて着替えろよ」

 押し入れから着替えを取り出して雨音に放って部屋を出た。


 渡り廊下でぼうっと景色を眺める。
 代わり映えしない雨模様。水面に叩きつける雨の音が耳に響く。
 だが、不思議と嫌な気持ちはしなかった。

 なんとなく煙草が吸いたくなって、随分濡れてしまった箱を懐から取り出した。

「あ、火がねえ」
「はい、どうぞ」

 透き通るような声に引き寄せられるように振り返ると、扉の隙間から顔を覗かせた雨音が居た。
 白い腕から伸びる手にロウソクが立った受け皿が握られている。

 ふっと笑みがこぼれる。

「ありがとな」

 そう告げると雨音もニカッとはにかんだ。


10

「今日も雨だね」
「そうだな」

 雨が降り始めて一週間。まだ止む気配はない。
 電気もろくに通っていないこの世界に天気予報なんてありはしない。それどころか、急に薄黒い雲が流れてきて土砂降りになるのだから、予想したところで仕方がない。

「早く晴れないかな」

 雨音は窓枠に頬杖をついてそんなことを呟く。
 風が強く、雨音の髪がバサバサと踊っている。部屋の中も突風が吹き荒れて散々なことになっている。それでも雨音はお構い無し。片付けるのは俺だというのに。

「見ていて楽しいか?」
「楽しくないよ。でも何もしないとずっと雨が降る気がするから、ここでお願いしてるの」
「お願い?」
「早く晴れますようにって」

 そんなことをしても変わらないだろう。そう思ったが、口には出さなかった。無闇に雨音の機嫌を損ねるのは避けたい。泣いている子供をあやすのは大変だから。

「シャワー浴びてくる」
「シャワーって、雨だよ」
「いいんだよ。水道なんて通ってないんだから」

 汗をかいても体が汚れても誰が気にするわけでもないが、昔の習性故か、たまに体を洗いたくなる。そんな時には雨がちょうど良かったりする。海水で水浴びするよりはマシだという程度だが。


 屋上に出ると、思っていたよりも雨が激しいことがわかった。
 菜園に被せている大きなブルーシートがバタバタとはためく。その角のひとつにリュックサックが置いてある。このビルからかき集めた骨董品を入れた重石だ。これが無ければ今頃ミニトマトは全て海の藻屑だっただろう。

 濡れない場所に服を脱ぎ捨て、全裸で外に出る。ずっとこんな生活を続けてきたせいか、羞恥心はとうに無かった。法が意味を成していた時代なら俺は公然わいせつで逮捕されていたに違いない。

 そんな取り戻せない昔話に口元を綻ばせながら髪を洗う。
 洗うと言っても雨で濡らすだけ。正直どっちが汚いかなんてわかりはしない。ただ、気分的に気持ちが良い。こうしていると雨も悪くない気がしてくる。

 真っ黒な雨雲。荒れる海。これが晴れる頃にはまた水位が上がっているだろう。
 雨は俺たちにとって死へと続くカウントダウンだ。この場所を見つけてはや十年が経とうとしている。十二もあったフロアはあと二つだけ。刻一刻とその終わりが近付いてくる。

 最後はこの建物と一緒に二人で海の底に沈む。その日、俺は一体何を思うのだろう。

 死にたくないと願うだろうか。山岳地に避難すべきだったと後悔するだろうか。いや、しないな。決まっていた死が訪れるだけ。むしろ、ここまでよく生きたと讃えるべきだ。

 だったら、雨音は?

 雨音はまだ若い。本当なら高校に通って、友達と過ごしたり、勉強を頑張ったり、部活動で青春を謳歌したり、或いは恋人が居て幸せな未来を見据えていたかもしれない。
 雨音は可愛らしい顔をしている。普通の生活を送っていたら、きっとモテたに違いない。同年代の優しい男の子に恋をして、将来を誓っていただろう。そうならなかったこの現実を見ていると、少しだけ胸が痛む。

 もしも俺に後悔があるとすれば、あの日、雨音を連れてきてしまったことだろうか。
 誰かに雨音のことを頼んでいたら。雨音のことを無視して、一人でこの場所に来ていたら。
 普通の高校生としてではなくとも、同じ場所に避難した男の子と心ばかりの恋愛くらい経験出来ただろうに。

 そんな小さな後悔を忘れるように、俺は土砂降りの雨を被った。


11

「おじさん」

 どれほどの時間そうしていただろうか。気がつくとすぐ後ろに雨音が居た。
 雨に掻き消されそうなほど小さな声が耳に届く。振り返ろうとする俺の顔を二つの手が挟み込む。

「何をしているんだ」
「私もシャワー浴びに来たの」
「お前はボトルの水使えって言っただろ」

 この建物には海水を濾過した水を保管している部屋がある。大小様々な大きさのボトルにかれこれ三十本は保管している。飲み水や洗濯、雨音のシャワーといった用途のために。

「たまには、ね」
「風邪ひくぞ」
「おじさんもね」

 ぴたり、と背中に触れる感触。ほんのりと温かい。雨音の体温が直に伝わって来る。そして、気づいた。

「雨音、服は?」
「シャワーなんだから着てないよ」
「お前な。全裸のおじさんに若い女の子が全裸で抱きつくのはどうかと思うぞ」

 今更雨音に欲情することはない。親子ほどの年齢差があるのだから当然だ。とはいえ、どうしても背徳感はある。

「今すぐ戻れ」
「嫌」
「お前が我儘なのは勝手だが、お前が風邪をひくと俺に迷惑だ」
「私が風邪ひいても私のせいだもん。おじさんが気にすることないよ」

 雨音の言う通りだ。雨音が風邪をひこうと放っておけばいい。なんなら、俺についてきたのも雨音が決めたことだ。俺が雨音を気にかける必要なんて最初から無かった。

 そうだ。雨音がどうなろうと俺には関係の無い話だ。放っておけばいい。自分の心配だけしていればそれでいい。

 俺は雨音の体を無理やり引き剥がした。

 そして、彼女をぎゅっと抱きしめた。

「おじさん?」

 自分でも予想外の行動に困惑する。俺は何をしているんだ。これじゃあただの変態だ。全裸で十代の少女を抱きしめる。警察が聞いたら黙ってはいないだろう。その肝心の警察はもう機能していないけど。

 細い体だ。華奢と呼ぶにも小さ過ぎる。
 雨音と一緒に生活を始めてからというもの、ろくに栄養のある食事をさせていない。
 肉なんて調達できないし、栄養価なんて考える余裕が無いのだから仕方ないとも言えるが、こうなってしまったのは俺のせいだと思わなくもない。

「おじさん、泣いてるの?」

 不思議と涙が出ていた。それどころか嗚咽を漏らして泣いている。大の大人が何をしているんだ。年端も行かない女の子に抱きついて、俺は一体何をしているんだ。

「ごめん、雨音」

 何に対して謝っているのだろう。雨音をこんな境遇にしてしまったことに対してか。俺が不甲斐ないことに対してか。よくわからない。とにかく悲しかった。苦しかった。先の一件で俺は自分が思っていたよりも雨音を大事にしていたのだと気付いてしまった。その事が酷く辛かった。

 そんな大切な人をこんな境遇に陥れてしまったことが辛くて仕方がなかった。

 突然泣き出した大人を前にドン引きするでもなく、困惑するでもなく、雨音は俺の背中に手を回した。

「大丈夫だよ、おじさん。私はどこにも行かないよ。ずっとおじさんと一緒に居るからね」


12

 俺は風邪をひいた。
 雨音に「風邪をひくぞ」なんて言っておきながら情けない話だ。
 何より、俺の半分にも満たない歳の女の子に慰められたという事実がどうしようもなく恥ずかしい。
 顔が熱いのはきっとそのせいだ。

「おじさん、大丈夫?」
「まあ、なんとか」

 雨音は濡らした布切れを固く絞り、俺の額に乗せる。ひんやりとしていて気持ちが良い。水が温くとも顔が熱いせいで相対的にそう感じるのだろう。

 今朝体温が上がってから、雨音がこうして付きっきりで看病をしてくれている。
 ありがたい反面、雨音にもうつしてしまうのではないかという不安もある。

 雨音にそう告げてみるが、彼女は「私がそうしたいだけだから」と俺の言葉を聞き入れてくれない。

「私にうつったら、今度はおじさんが看病してね」

 なんて笑うだけだ。
 風邪で弱っているせいか、その笑顔がとても輝いていて、愛おしく思える。
 少しずつ、それでも確実に雨音に絆されていることに気付き、ふっと口元が綻ぶ。

「どうしたの?」

 そんな俺の顔を不思議そうに覗き込む雨音。彼女もほんのりと笑っている。
 宝石のようにキラキラとした薄いブラウンの瞳。それを覆う長いまつ毛。鼻筋はすらりと伸びていて、薄い唇は三日月状につり上がっている。
 綺麗な顔だ。普通の生活を送っていたら彼女はきっとモテるだろうと想像していたが、俺もあと一回り、いや二回り若ければ雨音を好きになっていたに違いない。
 そんなありもしない現実を妄想し、すぐに揉み消した。

「いいや。なんでもない」

 変なの、と笑う雨音。本当に変だ。これはきっと熱に犯されたせいだ。らしくない。

「少し寝る」
「うん。おやすみなさい」

 雨音が優しい手つきで俺の髪を梳く。心地よくて、面映ゆい。
 やめろ、なんて言う気力もなく、俺はそのまま眠りに就いた。


13

 目を覚ますと部屋はすっかり暗くなっていた。
 ロウソクは雨音が消したのだろうか。窓から差し込む明かりだけが部屋を静かに照らしている。

 頭痛はすっかり消えていた。熱も引いたらしく体が軽い。
 しかし、起き上がろうとすると左手が動かないことに気が付いた。
 ずっしりと重量感のある方に目を向けると、すうすうと寝息を立てる可愛らしい顔がひとつ。

 雨音は俺の腕を枕にぐっすりと眠っていた。恐らく、俺の看病をしているうちに眠りこけてしまったのだろう。
 実年齢よりもおよそ若く見えるあどけない寝顔。揺り起こすのはなんだか悪い気がして、代わりに空いた手でその小さな頭を撫でた。
 んん、と僅かに声を漏らし、顔が綻ぶ。

 いつもの明るい雨音も好きだが、こうして大人しく腕に収まっている雨音も──。

「好きだ」

 ぶんぶんと頭を振る。好きというのは決してそういう意味じゃない。実の娘を可愛がる親の気持ちであって──なんて、誰に言い訳しているのだろう。

 多分、俺と雨音の関係は一般的には可笑しなものだろう。
 偶然出会って、なんとはなしに行動を共にしているだけだ。ましてや、血の繋がりなんてありはしない。
 それでも、十年も一緒に暮らせば、同じ血が通っていなくとも愛着が湧く。
 これもひとつの家族の形なのかもしれない。

 ん……と小さな声を漏らし、雨音が腕にしがみつく。その表情は、僅かに緩んだまま。何か良い夢でも見ているのだろうか。
 いつ死ぬかもわからない過酷な環境だ。夢でくらい良い思いをしたっていいだろう。

 俺は雨音を起こさないように、その頭を撫でる手を止めた。
 もう少しこのままにしておこう。

「やめちゃうの?」

 突然聞こえた声に体が跳ねる。
 腕の中でキラキラと輝く双眸がこちらを見ている。少しだけ眉を八の字に傾けて、どこか寂しそうにも見える。

「起きていたのか」
「触られたら起きちゃうよ」

 触られたら、か。

「じゃあ……」
「うん、聞いてた」

 雨音の顔が紅潮していく。きっと俺も同じだ。
 つい口から漏れた、たった三文字の言葉。その一言を聞かれてしまったことが酷く恥ずかしく、雨音の顔を凝視出来ない。

「あのな、さっきのは」
「私も」

 雨音は腕にしがみついたまま、ジリジリと擦り寄ってくる。小さな呼吸音が、早くなる心臓の音が、耳元で響き渡る。

 なんとか誤魔化したい。俺の心の内を悟られたくない。そんな一心で言葉を選ぶ。

「あ、あのな。俺はただ娘のように想っているだけで」
「うん。知ってるよ」

 腕に込められていた力が抜け、細い腕が首を介して背中へと伸びる。
 仄かに甘い香りが鼻腔をくすぐる。シャンプーや香水なんてありはしないのに、その匂いはどこか懐かしく艶かしい。

「私もおじさんが好き」

 一体どういう意図があってそんな言葉を口にしたのかはわからない。俺も言及はしなかった。出来なかった。
 だけど、寂しげに微笑む彼女の顔は一生忘れられないと、そう感じた。

 行き場を失った名前のない感情が沸き上がる。その行き先を探していると、雨音は「あっ!」と声を上げて起き上がる。

「おじさん、月だよ!」

 雨音が開けた窓から心地よい風が吹き込む。
 頭に浮かんだ期待と喜び。それらの雑念を払うように頭を搔いて、雨音の隣に立つ。

 雲の切れ間から伸びた月明かりが部屋に差し込む。
 水面に乱反射する光は昼間とは違う幻想的な空間を創り出している。

「綺麗だね」

 そう呟いた雨音にちらりと目を向ける。
 月明かりを反射しそうなほど白い肌。今にも光の中に消えてしまいそうなほど儚げなその姿が何よりも綺麗だった。
 そんな臭いセリフを口に出来るはずもなく、俺は再び水面に視線を落とす。

「ああ、綺麗だ」

 静かな空間に俺の声だけが虚しく響いた。


14

「おじさん、準備は出来た?」
「ばっちりだ」

 雨音の体には大きすぎる籠を抱え、彼女は落ち着かない様子で足踏みをしている。
 それもそのはず。今日は雨音が待ちに待った収穫の日だ。今日を逃せば次はいつ晴れるかわからない。

「毎回思うけど、その麦わら帽子は似合ってないよ」
「毎回言ってるだろ。日射病対策だ」

 村で自給自足の生活をしていた頃からの習慣だ。収穫の際は頭を太陽から守る。これだけで日射病や熱中症のリスクは大きく減る。
 それが雨音には不評らしかった。

「ほら、行こう!」

 俺の格好を笑って部屋を出て行く雨音に小さくため息を漏らしながら彼女の背中を追った。


 普通、野菜や果物にはそれぞれ適した収穫時期がある。それが今や四季という概念が少しばかり狂ってしまったせいか、ミニトマトとさやえんどうの収穫時期が被ってしまった。
 だけど、一度にまとめて収穫できるのは俺たちにとっては都合が良い。

「今回はどれもよく育っているな」
「豊作だね!」

 少し前まではまだ青かったミニトマトも今では真っ赤に彩りを放っている。あの日、必死にブルーシートで覆ったおかげか、実割れしているものも最小限だ。

「よーし、採って採って採りまくるぞー!」

 意気揚々と菜園の隅から収穫を始める雨音を少し離れた位置から眺める。雨音はこの時間が一番嬉しいのだろう。それが表情や行動にはっきりと出ている。

「おじさんも手伝ってよ」
「はいはい」

 若い雨音はまだいいかもしれないが、三十を超えると中腰での作業は体への負担が大きい。
 まあ、体を代償にしてでもこの時間を得られるのなら、悪くない交換条件なのかもしれない。


「おじさん、これは?」
「それは大丈夫」
「じゃあこっちは?」
「それはもう少し置いておこう」

 雨音はミニトマトに思い入れがあるらしく、ミニトマトを収穫する時には必ず俺に確認を入れる。どうしても美味しいミニトマトが食べたいらしい。

 それでも不服な面もあるようで。

「うーん、これもダメかぁ。全然違いがわかんない」

 そんな小言を漏らしている。
 俺は真っ赤に実ったミニトマトを濾過した水で洗い、ぶーっと尖らせた雨音の口に放った。

「んふふ、美味しい」
「それが収穫できるミニトマト。そして……」

 もうひとつ、まだ少し青いミニトマトをもぎる摘み取り、洗って雨音の口に入れた。

「うっ……」

 明らかに顔を歪める雨音。その表情が面白くて、思わずふっと声が漏れる。

「違うだろ?」
「全然違う。今の子はまだ努力が足りないね」
「なんだその評価」

 雨音の言い回しが可笑しくて、声を上げて笑った。
 顔を顰めていた雨音もつられて笑う。

 たったこれだけの時間でも菜園を作って良かったと思える。あの青いミニトマトにも意味はあったんだ。

「まだ青いミニトマトにはもう少し努力してもらおう。俺が様子を見て収穫する」
「うん、わかった」

 そうして俺たちは残りの収穫を無事に終えた。


15

「今日は豪華だね」
「豊作祝いだ」

 いつだったか雨音が言っていた通り、今年は豊作だった。
 これまでで一番の収穫量。それでもまだ少し収穫には早いミニトマトやさやえんどうが菜園に残っている。少しくらい贅沢をしてもバチは当たらない。

 小さなテーブルに焼き魚とその周りに添えられたミニトマト。菜園で採れた野菜をふんだんに使ったサラダに同じ野菜を使ったスープを添えている。

 スープは海水を蒸発させて得られた塩で味付けをしている。焼き魚は屋上で焚き火をしてこんがり焼いた。当然味付けは塩のみ。
 塩分過多な気もするが、調味料なんて得られない最果ての地でこれ程の料理を並べられるだけ充分だ。

「いい匂い。もうお腹すいてぐーぐー鳴ってるよ」
「そうだな。温かいうちに食べよう」

 一緒に「いただきます」と声を合わせ、食事を始める。
 これまでに多くの味を経験してきた俺の舌にはあまり満足出来る代物ではなかったが、雨音は「美味しい美味しい」と満面の笑みで食べている。
 料理した者にとってこれほど嬉しいことは無い。

「んー、幸せ」
「それはよかった。おかわりもあるぞ」
「おかわり……」

 先程まで笑顔を絶やさなかった雨音が急にしゅんと落ち込む。その表情の落差に俺も困惑してしまう。

「どうした?」
「うーん、せっかく収穫したのに、一日で沢山食べちゃっていいのかなって」
「なんだ。そんなことか」
「わ、私にとっては大事なことなの!」

 雨音はムッと眉根を寄せる。妙なことを気にするものだ。

「保存する方法もないし、どの道腐る前に食べきらなきゃならないんだ。どうせならお腹いっぱい食べればいいだろ」

 雨音の言う通り、栽培して収穫するまでにはどうしても長い時間がかかる。さやえんどうやミニトマトは年に一度しか収穫できない。俺たちにとっては贅沢品だ。
 だが、冷蔵庫どころか冷やす方法すらないこの場所では、野菜は一週間も経たずに腐り切ってしまう。それならば、雨音が満足するまで食べてくれる方が俺にとっても嬉しいことだ。

「何も気にせずに好きなだけ食べろよ」

 ボウルから追加でよそったサラダを雨音に差し出す。手を伸ばそうとしては引っ込め、うずうずと体をくねらせる雨音を見かね、再度「ほら」と促す。

「本当にいいの?」
「いいんだよ。雨音に食べてほしいんだから」

 腹の足しとしか考えていない俺とは違い、雨音はさぞかし美味しそうに食べてくれる。その方が俺としても育ってきた野菜たちにしても嬉しいことだろう。
 雨音はサラダが盛り付けられた皿に恐る恐る手を伸ばした。かと思えば、手元にやってきた追加の料理に目を輝かせる。

「ありがとう、おじさん」

 雨音はフォークでひと口ひと口丁寧に野菜を口へと運んでいく。俺はそんな様子を見ながら、小さな大切な時間を過ごしていた。


16

 暫くの雨を経て、再びやって来た快晴の日。
 俺たちはボロボロになった釣竿を海に垂らしながらぼーっと空を眺めていた。

 三つのビル群から成る俺たちの家──というよりは住処や拠点と言った方が正しいかもしれない。その中でも一番背が低いビルの屋上が釣りのスポットだ。

「ここが沈む日も近いのかな」

 二メートルほど下まで近付いた海面を見下ろして雨音が呟く。

「そうだな。もって三年ってところか」
「寂しくなっちゃうね」

 ここに来た頃には地面が見えていて、一軒家やビルが立ち並ぶ大きな住宅街だった。それが今やこの有様。少しずつ、それでも着実に俺たちの生活区域が狭まっている。
 それは、俺たちの最期が迫っていることを示していた。

「あと何年、こうしておじさんと過ごせるのかな」
「さあな」

 いつもの何気ない日常。何気ない会話。
 普段なら「素っ気ない」とか「つまんない」なんて言い返してくる雨音だが、今日はどうやら様子が違った。
 俺の言葉にしゅんと顔を曇らせる。今にも泣きそうな顔で静かに揺れる水面を見つめている。

 何か言葉を誤っただろうか。いつものようにぶっきらぼうに答えただけなのに。

「雨音?」
「あ、ううん。なんでもないよ」

 雨音はそう言って笑顔を見せる。
 でも、違う。いつもの笑顔じゃない。かれこれ十年も一緒に居るんだ。その程度の違いはすぐにわかる。

 俺の訝しげな目に気付いたのだろう。雨音は場が悪そうに目を逸らす。

「寂しいんだ。いつかおじさんと一緒に過ごせなくなる日が来るんじゃないかって。ここが沈む頃にはおじさんとさよならすることになるんじゃないかって」

 年々沈んでいくビル群。ここが俺たちの居住地であり、墓場だ。ここが沈む時、それは俺たちの終わりの時だ。
 ここに住み着いた時からわかっていたことだ。その終わりが目に見えて近付いていることがはっきりとしただけ。
 俺にとってはその程度のことでしかない。

 しかし雨音はそれを寂しく思ってくれている。まだ俺と過ごしたいと感じているのか。それとも、もっと長生きしたかったと後悔しているのか。はたまたその両方か。

 雨音の頭をくしゃくしゃと撫で回す。

「まあ、ここが沈む前に助けが来るかもしれないだろ。情報を得る手段がないからわからないけど、他所では既に新しい生活区域が確立されてるかもしれない。そうなれば、日本に残った生存者を助けに来てくれる人が居るかもしれないぞ」

 捲し立てるように、心にも無いことを口にする。
 ただの慰め。綺麗事だ。
 実際には助けなんて来ないだろう。多くの人々が避難した山岳地ならともかく、こんな海のど真ん中に助けなんて来るはずがない。

 そんな俺の心境を知ってか知らずか、雨音はにこりと微笑む。

「そうだね。その時は新しい場所でも一緒に暮らそうね」

 よかった。いつもの笑顔だ。

「ああ、そうだな。ずっと一緒だ」

 その笑顔の灯火を消してしまわないように、俺は再び思ってもいない言葉を吐いた。


17

 そんな話をして一週間後。
 いつものように部屋の窓から煙を飛ばしながら、小雨の空を見上げていた。
 真下には雨音の姿もある。彼女も同様に窓の縁から顔を覗かせ、水平線を見つめていた。

 そんな折。

「おじさん、あれ……」

 雨音が指をさした方向に目を向ける。
 水平線の切れ間から小さな何かが見える。それはだんだんとこちらに近付いてきているようだった。

「もしかして、ヘリか?」
「へり?」
「ヘリコプターだ。空を飛ぶ乗り物だよ。もしかしたら助けが来たのかもしれない」
「え、ほんと!」

 俺たちは急いで荷物をまとめ、外へ飛び出した。


 ビル群の中でも屋上が一番広いビルがある。
 万が一、救助が来た時のヘリポートとして余計な物は何も置かずに残していた場所だ。
 屋上に繋がる昇降口に用意していた大きな白旗を引っ張り出して、ヘリコプターに向かって振り回した。

「おーい! こっちだよー!」

 雨音も声を上げて大きく手を振っている。
 まさかこんな場所に救助が来るとは思っていなかった。もしかしたら、日本に残った他の生存者は既に助けられたのかもしれない。そうでなくとも、この辺境の地をヘリコプターが通っただけでも僥倖だ。

 このチャンスを逃すまいと俺も声を上げる。ヘリコプターの音に掻き消されて声は届かないかもしれない。でも、できる限りのことはしておきたかった。

 次第に大きくなるヘリコプターは、恐らく向こうからも俺たちを認識できるであろう距離まで迫った。進路は少し逸れている。それでも俺たちは必死に声を荒らげた。重たい白旗を振り続けた。

 その想いが通じたのだろう。ヘリコプターは進路を変更し、こちらへ迫って来た。

「おじさん!」
「ああ、気付いたみたいだな」

 よかった。本当によかった。
 そう思う反面、少し寂しい気持ちもあった。

 終わりは突然にやって来る。これで最後だ。

 ヘリコプターは頭上で停止し、ゆっくりと下降してくる。俺たちは邪魔にならないようにビルの端へと移動した。

 長年待ち続けていた救助が来た。
 それは、雨音との別れを示していた。


18

「救助に来ました」

 操縦席から出てきた男は淡々と言った。これまでも多くの救助活動を行ったせいだろうか。男は感情が欠如しているようにも思えた。

「生存者は二人だけですか?」
「そうです」
「わかりました。ではお名前を──」

 男が持っていたバインダーとペンを用意したその時、ヘリコプターの後ろの扉が開いた。
 中から降りてきたのは血相を変えた男女。先に救助された人だろうか。

 そんな想像はすぐに間違いだったと気付いた。

「愛……? 愛、よね?」

 そっくりだった。その女と雨音の顔が。二人の顔を見比べてすぐにわかった。この女は雨音の母親なのだと。
 であれば、隣の男は父親だろうか。愛というのは雨音の本名だろうか。

 雨音は何かに怯えるように俺の背中に身を隠す。他の人と接する機会は無かったが、雨音が人見知りをするような性格だとは思えない。意外な反応だった。

「あの、貴女方は?」

 声も出せない様子の雨音に代わり、俺が二人に問いかけた。

「僕は三谷修。彼女は妻の絵里。その子の両親だよ」

 四十代に見える男が答えた。軽く会釈をされ、俺もそれに倣う。
 穏やかな表情を浮かべる修とは裏腹に絵里という女は雨音を睨みつけるような鋭い視線を俺の背後に向けている。とても感動の再会とは言えなかった。

「愛、帰るわよ。貴女を探してたんだから」

 絵里は明らかに取り繕った笑顔でそう言った。
 雨音が俺の服をぎゅっと握る。少し震えているような気がした。

「あの、怯えてるように見えるんですけど」
「別れたのは十年も前のことだからね。きっと彼女も覚えていないんだろう」

 修は平然と答える。
 彼らと雨音が親子であることは疑う余地もない。しかし、どこか引っかかる。雨音の怯えよう。絵里の不快な形相。何より、大きな疑問が頭に浮かんだ。

「どうして娘さんと離れ離れに?」

 雨音と出会った時、彼女は一人だった。俺の記憶ではあの場に彼らは居なかったはずだ。雨音は一人であの避難所に居たのだ。

 何か言いかけた修を制し、絵里が俺に鋭い眼光を向ける。

「貴方は誰ですか? 愛の何なんですか?」
「俺は──」

 言葉に詰まった。俺は雨音の何なんだろう。親ではない。友人でもない。ましてや恋人では決してない。
 ただの同居人。腐れ縁。
 ──他人。そんな言葉がお似合いだった。

 ちらりと雨音に目を向ける。彼女は怯えた表情で何かを訴えかけるように俺に視線を送っている。

 どう答えていいのかわからない。
 俺は雨音にとって他人で、彼女らは雨音の血縁者、両親だ。彼らと一緒に過ごす方が雨音にとっても良いことは明白だ。

 俺はここから離れるつもりは無い。救助が来た時点で雨音とはお別れ。それが俺の想い描いていた未来だった。
 雨音は安全な場所で幸せに暮らす。俺のことは忘れて普通の生活を送る。家族や恋人と一緒に明るい未来を歩む。
 それが雨音にとっての幸せだと信じていた。

 そのはずだった。

「俺は彼女にとってかけがえのない存在です。俺にとっての彼女もそうだ。だから俺は、全てを話してくれるまで彼女を貴女方に差し出すつもりは無い」

 雨音の頭にそっと手を置く。
 修と絵里、それに先程まで無表情だったヘリコプターの操縦者までもが目を丸くしている。
 当然だ。俺の言っていることは間違っている。捉えようによっては、彼女らが俺を誘拐犯と認定してもおかしくはない。そんな得体の知れない男が突然そんなことを言うのだから、気が狂ったとしか思えない。

 雨音の頭に乗せていた手に感触がある。小さな両手でめいっぱいに握りしめ、そのまま雨音の頬に当てる。紅潮しているのか、とても温かい。
 それが雨音の気持ちだとわかる。

「何を言っているんだい?」

 修が一歩前に出る。

「僕たちは災害ではぐれたんだ。それから今までずっと愛を探してきた。そしてようやく見つけたんだ。そんな親子の再会を邪魔するのかい?」

 先程まで穏やかだった修の表情が歪んでいる。怒りと焦りの色が浮かぶ。
 修の言う通り、俺が間違っているんだと思う。
 これは俺の我儘だ。今になって雨音と離れたくない気持ちが強くなってしまった。ずっと望んでいたはずの未来を壊してでも、自分の我儘を通したいと思ってしまった。

 俺の要求に修は答えた。もう俺に出来ることは──。


19

「嘘」

 背後から小さく、はっきりと聞こえた声。全員の視線が一人の少女に集まる。
 小刻みに体を震わせながらも雨音は続ける。

「あの日、貴方たちは私を捨てた。私を置いて二人で逃げた。全部覚えてる。家に取り残された私は、一人で避難所に行った。お父さんとお母さんを探した。でも、二人は居なかった。とっくに海外に逃げてたんでしょ。うちは裕福だったもんね。二人で逃げるだけのお金は用意できたもんね」

 責めるように矢継ぎ早に言葉を連ねていく。
 恐怖に駆り立てられながらも必死に言葉を吐き出す。

「でもおじさんは違った。最初は嫌々だったんだと思う。それでもおじさんは私を見捨てなかった。私のために寝る場所を与えてくれた。時間をかけて、美味しい水も野菜も用意してくれた」

 雨音はぐいっと俺の腕を引いた。
 バランスを崩して倒れそうになる俺に雨音ががっしりと受け止める。
 頬に柔らかい感触が伝わってくる。ほんのりと甘い香り。優しい心地に包まれる。

「おじさんが私に居場所をくれた。私が今まで生きてこられたのは、全部全部おじさんのおかげだよ」

 俺から唇を離した雨音はそう言ってた穏やかに笑った。

 雨音が言っていたことは少し違う気がする。
 居場所を与えられていたのは俺の方だ。雨音のために生きることがいつしか俺の生きがいになっていた。こんな場所でも今まで生きられたのは雨音が隣に居てくれたからだ。雨音が居たから今も笑っていられる。

 俺はきっと、雨音と出会った時から彼女に助けられていたのだ。


 静寂に包まれる。小さな雨粒が地面に当たる音だけが静かに響く。
 雨音は縋るように俺の腕にしがみついたまま。

 目の前で起こった現実を頭の中で整理した様子の絵里が声を上げる。

「あ、貴女は騙されてるのよ! 私たちはずっと貴女を探してたの! 大切に思っていなかったらこんな場所まで探しに来ないでしょう!」

 ふっふっと息を切らし、俺と雨音を交互に見遣る。
 絵里と雨音、どちらが正しいかなんてわからない。もしかすると、絵里や修が言っていることの方が正しくて、雨音は何か勘違いをしているだけなのかもしれない。

 それでも俺は、雨音を信じたい。
 正しさなんて必要無いんだ。俺は雨音と一緒に居たい。雨音もそうしたいと思っている。それだけで充分じゃないか。

「あの」
「違うでしょ」

 口を挟んだのは操縦者の男だった。
 開いた口をそのままに、男に目を向ける。
 俺たちの視線を受けて場が悪そうに目を逸らしながらも男はぶっきらぼうに言う。

「あんたらは新しい居住地に移動するために娘を探しに来たんでしょ。設備の整った居住地は未成年を連れた家族しか入れないから。そのために娘が必要になったんだ。俺を雇った時にそう言ってたよな」

 意外な人物から次々に語られる真実。
 絵里はわなわなと震え、修も驚きを隠しきれない様子であんぐりと口を開けている。

「あ、貴方、何をデタラメなこと」
「デタラメじゃないでしょ。俺はただ、事実を述べただけだ」

 男は俺たちに視線を送る。
 相変わらず無表情で何を考えているのかわからない顔をしているが、その声は諭すように穏やかで、優しかった。

「これが俺の知っている情報だ。あとは好きにしなよ」

 そして、ほんの少し笑ったような気がした。

 雨音が一歩前に出る。手の震えは止まっていた。しっかりと俺の手を握っている。

「お父さんとお母さんは、私と一緒に死ねる?」

 雨音は冷たい口調で問いかけた。

「これから先、何があっても私と心中する気はある? それだけの覚悟はある?」

 雨音がどんな表情をしているのか、ここからは見えない。しかし、その声はどこか責め立てるようで、長年連れ添ってきた俺でさえ恐怖を感じるようだった。

 絵里と修は何も答えられずに黙り込む。それが答えだと言っているようなものだ。

「おじさんは」

 雨音はゆっくりとこちらに振り向く。

「おじさんは、私と一緒に死ねる?」

 その表情は物憂げで、その声は懇願するようにも聞こえた。
 雨音は俺の答えを待っている。俺の手を力強く握りしめて。

 だが、俺の答えは最初から決まっている。

「当たり前だろ。死ぬ瞬間までずっと一緒だ」

 雨音はぴくりと体を震わせ、安堵したように笑みを浮かべた。

 めいっぱい俺の手を引く雨音。彼女に連れられて俺も駆け出す。
 背後から声が聞こえる。俺たちには何を言っているかなんてわからなかった。
 俺たちはビルの縁から思いっきり踏み切った。

 最後に見えたのは、恐怖と怒りが入り交じった恨みの目と、俺たちを救った男の背中だった。


20

「ぶはっ」

 水面から顔を上げる。着水の拍子に塩水が口に入って塩っぱい。
 しっかりと握っていた手を引っ張り、雨音を引き上げる。

「ぷはぁ」と大きく息を吸い込む雨音。

「あはは、死ぬかと思った」
「泳げないくせに無茶するなよ」

 呑気に笑っている雨音を背負い、隣のビルまでゆっくりと泳ぐ。雨音は落ちないように俺の背中にしっかりとしがみついている。

「おじさんが居るから平気かなって」
「まあ、そうだな」

 ここまでする必要は無かったと思うが、何だかスッキリする気持ちもあった。
 これは決別だ。過去との決別。一人を望んだ俺との決別。自分を捨てた両親との決別。

 体には服が張り付いて、口の中は塩分で満たされて散々だというのに、心は憑き物が落ちたように穏やかだった。

「俺でよかったのか?」

 背後の雨音に問う。

「両親についていけば、もっとマシな生活は送れる。歳の近い人と出会えるだろ。友達だって、彼氏だって出来たかも」
「ふふ、わかってるくせに意地悪なこと言うね」

 雨音が言っていることは、半分正しくて半分間違っていた。
 雨音がどう答えるのか、想像はできている。
 でも不安だった。本当にこれで良かったのか。
 一時の感情に身を任せて、俺たちは誤った道を選んだのではないか。
 雨音は後悔しているのではないか。

「おじさんがいいんだよ。おじさんと一緒に居たかったんだ」

 雨音は腕に力を込める。少し苦しい。でも悪い気はしない。

「まあ、私もおじさんが何て答えるのかわかっててあんなこと聞いたんだけどね」

 くすくすと笑う雨音。きっと彼女は最初から俺の本心を見抜いていたんだろう。敵わないな、まったく。


 ビルの外側に設置された非常階段にたどり着いた。
 先程まで居たビルの屋上に目を向けるが、既にヘリコプターも彼らの姿も無い。いつの間にか飛び立ってしまったらしい。

 階段によじ登ろうとした時、雨音がくいっと服を引っ張る。

「おじさん、あれ見て!」

 雨音が指した先。階段の向こう側に、海面に浮かぶ一輪の花が見えた。

「あれは……スイレンか」
「すいれん?」
「水面に咲く花の名前だ。海に咲くなんて話は聞いたことがないが」

 淡水と混じって塩分濃度が低くなったせいか。或いは俺の知らない新種のものなのか。いや、そんな細かいことはどうでもいいか。

「綺麗だね」

 そう言って雨音が嬉しそうに笑うのだから、それだけで充分だ。

「あ、そうか」
「ん?」

 時折、雨音から漂っていた甘い匂い。あれはスイレンの匂いだ。俺が住んでいた村に咲いていたからよく覚えている。
 どうして雨音からその匂いがしていたのかはわからないけれど。

「摘んで来ようか?」
「ううん。せっかく綺麗に咲いてるんだもん。そのままにしてあげて」
「わかったよ」

 俺たちはそのまま長い時間、水面に浮かぶたった一輪の花を二人並んで眺めていた。


21

「涼しいね」
「夏が終わったからかな」
「また寒い時期が来ちゃうのかぁ」
「冬は嫌いか?」
「ううん。寒いのは嫌だけど、雪が見られるのは楽しみかな」
「今年も降るといいな」
「降るよ。きっと」

 何気ない日常。何気ない会話。
 俺たちはいつものように窓を開けて星空を眺めていた。

「宝石みたい」
「そうだな」

 雨音は夜空が好きらしい。俺も好きだ。こうして目を輝かせる雨音の横顔が見られるから。

 ヘリコプターが来てから暫くの時が流れた。けれど俺たちは、あれから何事もなく普段通りに暮らしている。

「でも、雨も好きだよ」

 雨音がぽつりと呟く。「俺もだ」と同意する。

「愛も無いのに愛なんて、勝手な名前付けるよね」
「俺も勝手な名前を付けたけどな」
「ほんとだよ。雨の音が嫌いだからって」
「悪かったと思ってる」

 それでも今は、雨の音も悪くないと思っている。勿論、雨音のことも。

「おじさんの名前はなんて言うの?」
「……あまね。普通の普って字であまねって読むんだ」
「一緒だね」
「あまり好きじゃないんだけどな」

 嫌いなものを嫌うために、彼女に雨音と名付けた。それが今や自分の名前さえ愛おしく思えてしまう。

「普さん」
「やめろ恥ずかしい。今まで通りでいい。……愛」
「いつも通り呼んでほしい。おじさんが付けてくれた大切な名前だから」
「雨音」
「なあに、おじさん」

 俺たちは声を揃えて笑った。
 静かな星空の下に俺たちの声だけが響いている。

「おじさん、大好きだよ」
「ああ。俺も雨音が大好きだ」


 俺はこの窓から見るこの景色が好きだ。
 季節の移ろいが見えるこの景色が好きだ。
 そこにあったはずの大地が海に飲み込まれたこの景色が好きだ。
 世界の終焉が刻一刻と近付いてくるこの景色が好きだ。

 世界は突如災害に見舞われた。
 日本のほとんどは海に沈んだ。今も尚、年に二十センチは水位が上がっている。
 そんな中取り残されたこの沈む町で、あと何年生きられるのかなんてわかりはしない。

 それでも俺は、最後の最後、その時が来るまで雨音と二人の幸せな時間を大切に過ごしたい。

 今はただ、それだけを切に願っている。
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