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1巻
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ジークフリートの言葉に「どうだか」と言った様子のブライアンだったが、すぐに主人の言う通りに、クラウディアに抱きついていたオースティンへ手を伸ばす。
しかしオースティンはぎゅっとクラウディアの服を掴んだまま、離れようとしない。
クラウディアはオースティンの頭を撫でた。
「オースティン、行ってきなさい。母様もあとで迎えにいきますよ」
オースティンに向かい、なるべく悟られないように笑顔で話すが、まだオースティンは不安そうだった。
昔から耳が良いだけでなく、わずかな感情の変化を機敏に悟る子ではあったが、ここに来てからそれが余計に強くなったように思う。
「ラスとはあとで会わせてやる。だが今はお前の母と話さなければならないからな、大人しく待っていろ」
痺れを切らしたジークフリートがオースティンを見下ろし、淡々と話す。
「――母様、気をつけて。あの人は危険です。母様を狙っています……!」
ジッとジークフリートを見上げて、オースティンはクラウディアに忠告する。
クラウディアはオースティンの言葉に肝を冷やした。
(――やはりこれから、ジークフリート様は私を殺そうとしているのね)
「ハッ、これは聞くまでもないな。この子供は紛れもない公爵家の血筋だ。しかも私の血が色濃く流れている」
ジークフリートにじっと見られ、クラウディアは体を震わせる。
「時間が惜しい。行くぞ、ラス」
「オースティン、あとで会いましょう。大人しくしているのですよ」
クラウディアはオースティンを離し、再び頭を撫でる。
笑顔でオースティンにそう言い聞かせ、最後にぎゅっと抱きしめた。
「……わかりました。母様、必ず僕のもとに帰ってきてくださいね」
「えぇ、約束です」
ニコリと笑い立ち上がると、クラウディアは少し進んだところで待っていたジークフリートのもとへと足を進めた。
◇◇
ジークフリートの背中を眺めながら、クラウディアは廊下を歩いている。
どこに案内されるのかわからないが、死刑台に続く道を歩かされているような気分だった。
ただ、オースティンは助けてもらえる。
オースティンの成長を見届けられないのは悲しいが、それだけでもう思い残すものなどない。
ジークフリートがこれから自分と話があるように言っていたが、今さら話し合いなどしても無駄なはず、とクラウディアは考えてしまう。
どうしても自分に物申さないと気が済まないのだろうか。
クラウディアは物思いに耽けりながら歩を進めていた――と、そこで目の前を歩いていたジークフリートの逞しい背中にぶつかってしまった。
「あ! も、申し訳ございません……」
しかしジークフリートはそれに一切返答しない。
いつの間にか歩みを止めていたジークフリートから恐怖のあまり離れようとするが、彼は突如振り返ったかと思うと、クラウディアの手首を引いて近くの部屋に入った。
バタンッと扉が閉じ、部屋の中へ入るやいなや、手首を強く引かれる。
「――えっ……?」
「ラス……ラス!」
直後に起きたことが理解できず、啞然としてしまう。
まるで愛しい者でも呼ぶように偽名を呼び、がっしりとした太い彼の腕がクラウディアを抱きしめる。
思わず大きく目を見開く。思考は止まり、頭が真っ白になってしまう。
(――これは……夢? もしかして私はすでに殺されていて……生きていた頃の願望が幻を見せているの?)
とにかく疑問しか浮かばず、まるで現実味がない。
だがその間も抱きしめる力は徐々に強くなっていく。
「ずっと、そなたを捜していた。ようやく、見つけた……もう決して、離しはしない!」
力強く抱く腕の力、安堵が含まれているのか、震える声音。
――そして狂おしいほど、自分を求める言葉。
クラウディアはさらに狼狽える。
思考はまったくまとまらないが、クラウディアはジークフリートが自身をずっと捜していたのだけは理解した。
果たして、殺したいほど憎い相手をこのように強く抱きしめるものか。
ジークフリートにされるがまま腕に抱かれ、動くこともできない。
(あぁ、さすがは公爵家だわ。置いてある家具一つ取っても洗練されてるわ)
考えることを拒絶したクラウディアは、横目で部屋の様子を観察しながら、関係のない家具などの内装に思いを馳せ現実逃避していた。
しょせん非凡なジークフリートのすることなど、凡人のクラウディアには見当もつかない。
オースティンの今後の問題も解決して、あとはどうとでもなればいいと投げやりになっていたし、長い長い逃亡生活に疲れていたというのもあった。
それゆえに、クラウディアはジークフリートからの抱擁をそのまま受け止めていたのだった。
しばらくジークフリートはクラウディアを抱きしめていたが、やがてふいに口を開いた。
しかしそれは先ほどの切実な言葉を囁いていたときよりも低く、恐怖すら覚える声音だった。
「……あの日私に薬を盛り、凌辱したのはそなただな?」
クラウディアの体がビクリと震える。
突然、決めつけたように吐かれた言葉で、現実に引き戻された。
嫌な汗が背中を伝い、流れていくのがわかる。
息がうまく吸えず、浅い呼吸を繰り返す。
ここはなんと返すべきだろうか。
おそらくジークフリートの中で答えはわかっているのだろう。
それをあえてクラウディアに聞いたのは、その罪を認めろ、と暗に言っているのだ。
「………はい」
ポソっと、聞き逃してしまうほどの小声でクラウディアが呟く。
ここまで来て否定することは得策ではない。たとえ否定しても、言い逃れなどできやしないのだ。
様々なことを調べ上げ、その調査結果をもとにクラウディアを捜し、連れてきたのだろう。
無駄なことを一切しないジークフリートに抵抗しようなどという浅はかなことは考えていない。
「ずっと疑問だった。そなたはあのような愚行を犯すほど、愚か者ではなかったはずだ。どうしてあんなことをしたのだ?」
辛辣な台詞に、返す言葉を失う。
ジークフリートがどう思っていたか不明だが、それでもクラウディアは実際にその愚行を犯したのだ。
クラウディアはジークフリートの胸を押し身体を離すと、静かに口を開いた。
「いえ……私は、愚か者でございます……」
離れた場所から改めてジークフリートを眺めた。
ジークフリートはクラウディアと三つほど離れていたので現在は二十八歳。
昔も今も変わらず精悍な顔立ちはそのままで、年相応の貫禄のようなものが加わったように思う。
遥か昔に恋焦がれた憧れの君は、月日が経とうとも色褪せず、消えかけていた恋心が久々の再会で蘇りそうなほど煌びやかな光を放っているようで。
自分ばかりが年を取り、女として生きることも忘れ、みすぼらしい身なりでジークフリートの前に立っていることを改めて認識して、心の底から自分自身への恥ずかしさと憐憫が湧いてくる。
王女とは名ばかりの王族。
今は身分も剥奪されてしまった。
「公子様、私はあのときにお願いいたしました。もし次にお会いすることがあれば……私を殺してください、と」
視線を合わせ、しっかりとジークフリートを見つめたままクラウディアは話す。
ジークフリートもクラウディアを見たまま、視線を外さずに立っている。
「貴方様が何を思い、なぜ私をここに連れて来られたのかわかりかねますが……約束は違えることなく守ります。自らの犯した過ちは自らの命をもって償わせていただきます」
唯一気掛かりだった我が子オースティンは、ジークフリートが面倒を見てくれる。
もう心残りなど何もない。
煌びやかでも派手でもないつまらない人生だったが、好いた者に殺されるならそんな最期もいいのかもしれない。
これでようやく、様々なことから解放される。
「ラスよ。そなただけは、いつも見えない」
「…………はい?」
ジークフリートの口から話の筋から逸れた言葉が返ってくる。
唐突に言われたクラウディアは、話の意図がまったくわからず、思わず首を傾げてしまう。
しかしジークフリートは戸惑うクラウディアを意に介さず、そのまま続けた。
「アサラト公爵家は代々、人の感情を読み解く能力がある。そなたの息子、オースティンもその能力が色濃く出ている。さらにアサラト公爵家の人間は五感のいずれかが異常なほど発達する傾向が強い」
淡々と話すジークフリートは嘘を言っているようには見えない。そもそもジークフリートは噓などという無駄は一切好まない。
「私も例に漏れず、幼い頃から聴覚が異常に発達し、さらに感情の起伏を色に映し機敏に読む能力があった。アサラトの血が強い証拠だが、ずっとそれに悩まされていた」
クラウディアにとって、初めて聞く話だった。
たしかにジークフリートは神経質で細かい部分があったし、物事の優劣や人の好みもかなりハッキリとしていた。
「人間など大体は媚びる者、打算を働く者、貶める者といったものばかりで、私が会った人間のほとんどが同じ色をまとっていた。初めはそれに耐えられなかったが、年と共にうまく使い分けられるようになれた。そして慣れ始めた頃、そなたと出会った」
ジークフリートに鋭い視線で見据えられ、心まで見透かされているようだった。居心地が悪く、思わず視線を逸らしてしまう。
「侍女として出会ったそなたを見て驚いたものだ。そなたからは何の色も感じなかったのだからな」
「私の、色……?」
「私には、大抵の人間の体からオーラのような色が出ているように見えるのだ。悲しみは青、怒りは赤、平穏なら緑という感情を表す色だ。だがそなたには何もなかった。そんなものは死んだ人間と同じだ」
ジークフリートの言葉にビクッと体が震える。
それはどういう意味だろう。ジークフリートはクラウディアが死人だとでも言いたい、ということなのだろうか。
そんなクラウディアの考えを読み取ったのか、ジークフリートは軽く頭を横に振った。
「誤解するな。そなたを愚弄している訳ではない。それほど珍しい事例だということだ。感情の読み取れないそなたが物珍しく、そこから目で追うようになった。その当時、作法も所作もまるでなっていない、ただの田舎娘だと思っていたしな」
ジークフリートに言われ、クラウディアも思い出した。
あれはもう十年以上も前の話だ。
クラウディアが王宮で侍女として働き始めた頃を思い出す。
そもそもなぜ王家の人間であるクラウディアが侍女として働き出したのか。
――それは食べるものがなかったから。
十歳を過ぎたある日、元々出入りの少なかった離宮の使用人が、ついに一日に一度しか来なくなった。
夕食以外は食事にありつけず、クラウディアは常に空腹だった。
あまりにお腹が空いたある日、意を決して離宮から抜け出した。
人の目を掻い潜り、どこにあるかもわからない調理場を探し迷い込んだ部屋に、使用人の服が置いてあった。
年の割に背の高かったクラウディアはそこで思いついた。
(誰も私のことなどわからない。だったら使用人に成りすまし離宮を抜け出せば、ご飯が食べられるかもしれない)
そしてなんの因果か、偶然にも別の部屋には瞳の色を隠せる特殊な黒縁の眼鏡まで無造作に置いてあった。
こうしてクラウディアはお仕着せと眼鏡を身にまとい、使用人として紛れこみ使用人のために用意された食事にありつけた。
それ以降、食事にありつくために、たびたび侍女として働くようになったのだ。
「そのようなことも、ございましたね」
今となっては懐かしい、当時のクラウディアにとって使用人として働いていた頃が一番楽しい時間だった。
初めこそジークフリートのことなど、なんとも思っていなかった。
むしろ宮廷作法を学ぶまでは、ジークフリートによく小馬鹿にされており、何が気に入らないのかと対立することもあった。宮廷作法を学びジークフリートに認められるまで相当時間がかかり、そして認められてからは彼への恋心に気づいてしまった。
クラウディアの異母姉である第二王女との婚約の話も早い段階で上がっていたジークフリートに対し、なぜ好意を抱いたのかと自分の愚かさを呪うほどだった。
「あの頃の私はまだ幼く、稚拙で世間知らずで……自分のことしか考えることのできない愚かな人間でした」
ぽつぽつと罪を自白するかのように、クラウディアは呟く。
王族とは名ばかりの貧相な生活。デビュタントすら忘れられた末席の王女。
侍女として働きながら気づいたのは、まだ使用人のほうが人間らしい暮らしをしている、という事実。
煌びやかな王宮に潜む、闇のような部分。所詮、自分は籠の中の鳥だった。
決められた食事、決められた場所、決められた結婚。
外の世界もわからず、好きでもない相手に嫁がされて死んでいく。まるで道具のような扱いに耐えられなかった。
腕を組み、クラウディアを見ているジークフリートの視線が痛い。
胸元を握り、耐えられない苦しさに顔を顰めた。
「……一つ聞こう。そなたはなぜ、わざわざ侍女に変装し王宮で働いていたんだ? そなたの瞳は紛れもなく王族の証だ。意味もなく王宮で働くなど考えられん。周りの情報を集めるためか?」
なんとも見当違いなことを言われ、クラウディアは思わず苦笑する。
なんの力もないクラウディアが周りの情報など集めて何の意味があるのか。
王女なのに冷遇されていたこと、いつも第八王女と肩書きで呼ばれ名前など誰も覚えていないこと、毎日空腹に苦しみ使用人に扮して食事にありついていたこと、そしてクラウディアがジークフリートに恋焦がれていたことなど、ジークフリートにわかるはずもない。
――そしてこれからも知る必要のないことだ。
「お好きなように推測されて構いません。貴方様がそうだと思えば、それが事実だと言うことです」
おそらく彼の好奇心から聞いたもので、実際クラウディアが何を考えていたかは重要ではないのだ。
「……ラス」
「公子様は無用なお喋りを好まないお方ではありませんでしたか? 昔話など……今さら、どうでも良いのです。処罰するのでしたら一思いに消してください。覚悟は疾うの昔よりできております」
お互いに牽制するかの如く、見つめ合う。
少しして、ジークフリートは満足げな表情を薄く浮かべた。
「……覚悟はできているか?」
「はい。如何様にも……」
「ほぅ、すべてを私に委ねると言うことか……いい覚悟だ」
彼がクラウディアの脇を通りすぎ、部屋の扉へと向かっていくのを、疑問に思いながら見る。
なぜだか話が合っていないような違和感がある。
ジークフリートは昔から気難しい人間ではあったが、まだ話は通じていた。
だが今のジークフリートは違う。しばらく会わない間にさらに難解になった。
客間と思われる部屋からジークフリートが扉を開けて出ると、近くにいた使用人を呼び、何やら話している。ただ、話している声は聞こえるが、内容まではわからなかった。
しばらくして、ジークフリートは部屋へ戻ってきた。
「では、そなたの覚悟とやらを見せてもらおう。外にいる使用人についていけ。私は部屋で待っている」
立ったまま様子を見ていたクラウディアに、ジークフリートは真顔で話しかける。
いよいよか、とクラウディアは服の胸元を握った。
「かしこまりました。仰せのままに……」
くたびれたスカートをわずかに広げ、ジークフリートに一礼をする。
ジークフリートが部屋の外へ出ると、クラウディアは言われた通りに外で待機していた使用人のあとをついていった。
連れて行かれた場所は湯浴み場だった。
基本的に庶民は風呂には毎日入らない。クラウディアも王宮にいたときすら毎日は浸からなかった。というのも、薪をくべるのに金と手間がかかり大変だからだ。
(ジークフリート様はなぜ、このタイミングで私に湯浴みを? ……死ぬ前に身なりを整えろということなのかしら……?)
使用人三人がかりで身体を磨き上げられ、髪も綺麗に洗ってもらう。人に洗われることに慣れていないクラウディアは、つい身を縮こまらせてしまう。
湯浴みも終わり、バスローブ姿で椅子に座りながら髪を乾かしてもらっている。思わず使用人に声をかけてしまう。
「あの……あとは自分で、できますので……」
「とんでもございませんわ、お館様の大切なお客様ですもの! わたくし共が念入りにお支度させていただきます!」
椅子に座ってされるがままになっていたクラウディアに、三人の使用人が意気揚々と話す。
(大切なお客様? お支度?? なんの話をしているのかしら?)
やはり何かがズレている。
クラウディアはこれからジークフリートの手によって葬られ、天へと還るはずなのだ。
いやもしかしたら、アサラト公爵家では極刑に値する人間をこんな風に扱うのかもしれない。
しっかりした貴族の教育を受けておらず、長い間田舎に隠れ住んでいた自分に常識がないだけで、これが世の普通なのかもしれない。
クラウディアはとにかく口を噤んだ。
どちらにせよ、ジークフリートがそうしろと言っているのだから、従うしかない。
ある程度支度が終わると別の部屋へ移動し、見たこともないような精緻なレースの下着を身に着け、その上から薄紅色の薄手のナイトドレスをまとった。
なんとも心許ない格好が恥ずかしく、クラウディアはナイトドレスの裾を握りしめた。
「あの……これではない服装は、他にございませんか? このような姿で公子様にお会いすれば、不快に思われてしまうかと……」
まだ膝下まで長さがあるからいいが、胸元は大きく開き、服の素材は心許なく透けそうなくらい薄い。さらに中の下着に至っては、みっともなくて誰にも見せられない。
これが最期に着る服なのか、とクラウディアは思わずジークフリートの品性を疑ってしまいそうになる。
だが使用人たちはクラウディアの姿を見て、なぜだか嬉しそうに手を合わせている。
「何をおっしゃいますか! お館様がそのように思われるはずはございません。殿方でしたらどなたでもお喜びになりますわ」
「お化粧もいたしましょう! 元々綺麗なお顔立ちでいらっしゃいますから、薄めの化粧で十分映えますわね!」
こちらの言い分が聞かれることはなく、案内された鏡台の前に座らされ、パタパタと化粧を施される。
姿見で自分の格好を見ながら、クラウディアは使用人の言葉の意味を考える。
果たしてジークフリートがこの姿を見て喜ぶのだろうか。
どう考えても、冷ややかに侮蔑する姿しか想像できなかった。その場面を思い浮かべると、ゾクリと寒気がしてしまう。
(そうまでして私を嘲笑いたいの? ……あんなことをした女なら、こうした格好がお似合いだとでも言いたいのかしら……)
こんな姿のまま息絶えることは、クラウディアにとって屈辱でしかない。
ジークフリートを凌辱した罪として、娼婦のような格好で死ねと言われているようで、キリキリと胃が痛み始めた。
(これも、甘んじて受けなくてはならないの? まだ潔くあの場で斬り捨ててもらえたほうがよかったのに……)
考えている間に化粧は完成し、そこから新たな装いに着替えることもなく、クラウディアは使用人に連れられて鏡台から離れる。
「さぁ、お館様がお待ちでございますよ!」
使用人たちはニコニコとして歩き、ジークフリートのもとへと送り出してくれるが、クラウディアにとっては地獄への道のりを歩いている気分だ。
わからないことが多すぎて気分が悪くなるが、最期の花道だと自分を奮い立たせ、どうにか足を進めた。
第三章 房事
使用人の案内で連れてこられた部屋はとにかく広く豪華な造りだが、どこか無機質な感じも見受けられた。
ジークフリートは部屋で待っている、と言っていたが、その部屋には誰もいなかった。
「ただいまお館様をお呼びいたします。そちらにおかけになり、お待ちください」
パタリと扉が閉まった途端、無性に心細くなる。
そちら、と言われた先に目をやると高級そうなソファが置かれているが、こんなソファに自分が座るなど恐れ多くて近寄れず、入口近くの隅で立っていた。
部屋の中央にある頑丈そうな広い机には、たくさんの書類が積み重なっている。机の側には棚が並び、難しそうな背表紙の厚い本がきっちりと詰め込まれていた。
部屋の隅には何人も寝られそうなほど広いベッドが置いてあった。
クラウディアは視線をカーテンの向こうへ移した。
カーテンは閉まっており漏れ出る光はなく外は夜。時計を見ると普段寝る時間が近づいていた。
(オースティンはどうしているかしら。ご飯は食べさせてもらえたかしら……虐められていないといいのだけれど……)
今、クラウディアの心を占めるものはオースティンのことのみ。
自分のことなど二の次だ。
しかしオースティンはぎゅっとクラウディアの服を掴んだまま、離れようとしない。
クラウディアはオースティンの頭を撫でた。
「オースティン、行ってきなさい。母様もあとで迎えにいきますよ」
オースティンに向かい、なるべく悟られないように笑顔で話すが、まだオースティンは不安そうだった。
昔から耳が良いだけでなく、わずかな感情の変化を機敏に悟る子ではあったが、ここに来てからそれが余計に強くなったように思う。
「ラスとはあとで会わせてやる。だが今はお前の母と話さなければならないからな、大人しく待っていろ」
痺れを切らしたジークフリートがオースティンを見下ろし、淡々と話す。
「――母様、気をつけて。あの人は危険です。母様を狙っています……!」
ジッとジークフリートを見上げて、オースティンはクラウディアに忠告する。
クラウディアはオースティンの言葉に肝を冷やした。
(――やはりこれから、ジークフリート様は私を殺そうとしているのね)
「ハッ、これは聞くまでもないな。この子供は紛れもない公爵家の血筋だ。しかも私の血が色濃く流れている」
ジークフリートにじっと見られ、クラウディアは体を震わせる。
「時間が惜しい。行くぞ、ラス」
「オースティン、あとで会いましょう。大人しくしているのですよ」
クラウディアはオースティンを離し、再び頭を撫でる。
笑顔でオースティンにそう言い聞かせ、最後にぎゅっと抱きしめた。
「……わかりました。母様、必ず僕のもとに帰ってきてくださいね」
「えぇ、約束です」
ニコリと笑い立ち上がると、クラウディアは少し進んだところで待っていたジークフリートのもとへと足を進めた。
◇◇
ジークフリートの背中を眺めながら、クラウディアは廊下を歩いている。
どこに案内されるのかわからないが、死刑台に続く道を歩かされているような気分だった。
ただ、オースティンは助けてもらえる。
オースティンの成長を見届けられないのは悲しいが、それだけでもう思い残すものなどない。
ジークフリートがこれから自分と話があるように言っていたが、今さら話し合いなどしても無駄なはず、とクラウディアは考えてしまう。
どうしても自分に物申さないと気が済まないのだろうか。
クラウディアは物思いに耽けりながら歩を進めていた――と、そこで目の前を歩いていたジークフリートの逞しい背中にぶつかってしまった。
「あ! も、申し訳ございません……」
しかしジークフリートはそれに一切返答しない。
いつの間にか歩みを止めていたジークフリートから恐怖のあまり離れようとするが、彼は突如振り返ったかと思うと、クラウディアの手首を引いて近くの部屋に入った。
バタンッと扉が閉じ、部屋の中へ入るやいなや、手首を強く引かれる。
「――えっ……?」
「ラス……ラス!」
直後に起きたことが理解できず、啞然としてしまう。
まるで愛しい者でも呼ぶように偽名を呼び、がっしりとした太い彼の腕がクラウディアを抱きしめる。
思わず大きく目を見開く。思考は止まり、頭が真っ白になってしまう。
(――これは……夢? もしかして私はすでに殺されていて……生きていた頃の願望が幻を見せているの?)
とにかく疑問しか浮かばず、まるで現実味がない。
だがその間も抱きしめる力は徐々に強くなっていく。
「ずっと、そなたを捜していた。ようやく、見つけた……もう決して、離しはしない!」
力強く抱く腕の力、安堵が含まれているのか、震える声音。
――そして狂おしいほど、自分を求める言葉。
クラウディアはさらに狼狽える。
思考はまったくまとまらないが、クラウディアはジークフリートが自身をずっと捜していたのだけは理解した。
果たして、殺したいほど憎い相手をこのように強く抱きしめるものか。
ジークフリートにされるがまま腕に抱かれ、動くこともできない。
(あぁ、さすがは公爵家だわ。置いてある家具一つ取っても洗練されてるわ)
考えることを拒絶したクラウディアは、横目で部屋の様子を観察しながら、関係のない家具などの内装に思いを馳せ現実逃避していた。
しょせん非凡なジークフリートのすることなど、凡人のクラウディアには見当もつかない。
オースティンの今後の問題も解決して、あとはどうとでもなればいいと投げやりになっていたし、長い長い逃亡生活に疲れていたというのもあった。
それゆえに、クラウディアはジークフリートからの抱擁をそのまま受け止めていたのだった。
しばらくジークフリートはクラウディアを抱きしめていたが、やがてふいに口を開いた。
しかしそれは先ほどの切実な言葉を囁いていたときよりも低く、恐怖すら覚える声音だった。
「……あの日私に薬を盛り、凌辱したのはそなただな?」
クラウディアの体がビクリと震える。
突然、決めつけたように吐かれた言葉で、現実に引き戻された。
嫌な汗が背中を伝い、流れていくのがわかる。
息がうまく吸えず、浅い呼吸を繰り返す。
ここはなんと返すべきだろうか。
おそらくジークフリートの中で答えはわかっているのだろう。
それをあえてクラウディアに聞いたのは、その罪を認めろ、と暗に言っているのだ。
「………はい」
ポソっと、聞き逃してしまうほどの小声でクラウディアが呟く。
ここまで来て否定することは得策ではない。たとえ否定しても、言い逃れなどできやしないのだ。
様々なことを調べ上げ、その調査結果をもとにクラウディアを捜し、連れてきたのだろう。
無駄なことを一切しないジークフリートに抵抗しようなどという浅はかなことは考えていない。
「ずっと疑問だった。そなたはあのような愚行を犯すほど、愚か者ではなかったはずだ。どうしてあんなことをしたのだ?」
辛辣な台詞に、返す言葉を失う。
ジークフリートがどう思っていたか不明だが、それでもクラウディアは実際にその愚行を犯したのだ。
クラウディアはジークフリートの胸を押し身体を離すと、静かに口を開いた。
「いえ……私は、愚か者でございます……」
離れた場所から改めてジークフリートを眺めた。
ジークフリートはクラウディアと三つほど離れていたので現在は二十八歳。
昔も今も変わらず精悍な顔立ちはそのままで、年相応の貫禄のようなものが加わったように思う。
遥か昔に恋焦がれた憧れの君は、月日が経とうとも色褪せず、消えかけていた恋心が久々の再会で蘇りそうなほど煌びやかな光を放っているようで。
自分ばかりが年を取り、女として生きることも忘れ、みすぼらしい身なりでジークフリートの前に立っていることを改めて認識して、心の底から自分自身への恥ずかしさと憐憫が湧いてくる。
王女とは名ばかりの王族。
今は身分も剥奪されてしまった。
「公子様、私はあのときにお願いいたしました。もし次にお会いすることがあれば……私を殺してください、と」
視線を合わせ、しっかりとジークフリートを見つめたままクラウディアは話す。
ジークフリートもクラウディアを見たまま、視線を外さずに立っている。
「貴方様が何を思い、なぜ私をここに連れて来られたのかわかりかねますが……約束は違えることなく守ります。自らの犯した過ちは自らの命をもって償わせていただきます」
唯一気掛かりだった我が子オースティンは、ジークフリートが面倒を見てくれる。
もう心残りなど何もない。
煌びやかでも派手でもないつまらない人生だったが、好いた者に殺されるならそんな最期もいいのかもしれない。
これでようやく、様々なことから解放される。
「ラスよ。そなただけは、いつも見えない」
「…………はい?」
ジークフリートの口から話の筋から逸れた言葉が返ってくる。
唐突に言われたクラウディアは、話の意図がまったくわからず、思わず首を傾げてしまう。
しかしジークフリートは戸惑うクラウディアを意に介さず、そのまま続けた。
「アサラト公爵家は代々、人の感情を読み解く能力がある。そなたの息子、オースティンもその能力が色濃く出ている。さらにアサラト公爵家の人間は五感のいずれかが異常なほど発達する傾向が強い」
淡々と話すジークフリートは嘘を言っているようには見えない。そもそもジークフリートは噓などという無駄は一切好まない。
「私も例に漏れず、幼い頃から聴覚が異常に発達し、さらに感情の起伏を色に映し機敏に読む能力があった。アサラトの血が強い証拠だが、ずっとそれに悩まされていた」
クラウディアにとって、初めて聞く話だった。
たしかにジークフリートは神経質で細かい部分があったし、物事の優劣や人の好みもかなりハッキリとしていた。
「人間など大体は媚びる者、打算を働く者、貶める者といったものばかりで、私が会った人間のほとんどが同じ色をまとっていた。初めはそれに耐えられなかったが、年と共にうまく使い分けられるようになれた。そして慣れ始めた頃、そなたと出会った」
ジークフリートに鋭い視線で見据えられ、心まで見透かされているようだった。居心地が悪く、思わず視線を逸らしてしまう。
「侍女として出会ったそなたを見て驚いたものだ。そなたからは何の色も感じなかったのだからな」
「私の、色……?」
「私には、大抵の人間の体からオーラのような色が出ているように見えるのだ。悲しみは青、怒りは赤、平穏なら緑という感情を表す色だ。だがそなたには何もなかった。そんなものは死んだ人間と同じだ」
ジークフリートの言葉にビクッと体が震える。
それはどういう意味だろう。ジークフリートはクラウディアが死人だとでも言いたい、ということなのだろうか。
そんなクラウディアの考えを読み取ったのか、ジークフリートは軽く頭を横に振った。
「誤解するな。そなたを愚弄している訳ではない。それほど珍しい事例だということだ。感情の読み取れないそなたが物珍しく、そこから目で追うようになった。その当時、作法も所作もまるでなっていない、ただの田舎娘だと思っていたしな」
ジークフリートに言われ、クラウディアも思い出した。
あれはもう十年以上も前の話だ。
クラウディアが王宮で侍女として働き始めた頃を思い出す。
そもそもなぜ王家の人間であるクラウディアが侍女として働き出したのか。
――それは食べるものがなかったから。
十歳を過ぎたある日、元々出入りの少なかった離宮の使用人が、ついに一日に一度しか来なくなった。
夕食以外は食事にありつけず、クラウディアは常に空腹だった。
あまりにお腹が空いたある日、意を決して離宮から抜け出した。
人の目を掻い潜り、どこにあるかもわからない調理場を探し迷い込んだ部屋に、使用人の服が置いてあった。
年の割に背の高かったクラウディアはそこで思いついた。
(誰も私のことなどわからない。だったら使用人に成りすまし離宮を抜け出せば、ご飯が食べられるかもしれない)
そしてなんの因果か、偶然にも別の部屋には瞳の色を隠せる特殊な黒縁の眼鏡まで無造作に置いてあった。
こうしてクラウディアはお仕着せと眼鏡を身にまとい、使用人として紛れこみ使用人のために用意された食事にありつけた。
それ以降、食事にありつくために、たびたび侍女として働くようになったのだ。
「そのようなことも、ございましたね」
今となっては懐かしい、当時のクラウディアにとって使用人として働いていた頃が一番楽しい時間だった。
初めこそジークフリートのことなど、なんとも思っていなかった。
むしろ宮廷作法を学ぶまでは、ジークフリートによく小馬鹿にされており、何が気に入らないのかと対立することもあった。宮廷作法を学びジークフリートに認められるまで相当時間がかかり、そして認められてからは彼への恋心に気づいてしまった。
クラウディアの異母姉である第二王女との婚約の話も早い段階で上がっていたジークフリートに対し、なぜ好意を抱いたのかと自分の愚かさを呪うほどだった。
「あの頃の私はまだ幼く、稚拙で世間知らずで……自分のことしか考えることのできない愚かな人間でした」
ぽつぽつと罪を自白するかのように、クラウディアは呟く。
王族とは名ばかりの貧相な生活。デビュタントすら忘れられた末席の王女。
侍女として働きながら気づいたのは、まだ使用人のほうが人間らしい暮らしをしている、という事実。
煌びやかな王宮に潜む、闇のような部分。所詮、自分は籠の中の鳥だった。
決められた食事、決められた場所、決められた結婚。
外の世界もわからず、好きでもない相手に嫁がされて死んでいく。まるで道具のような扱いに耐えられなかった。
腕を組み、クラウディアを見ているジークフリートの視線が痛い。
胸元を握り、耐えられない苦しさに顔を顰めた。
「……一つ聞こう。そなたはなぜ、わざわざ侍女に変装し王宮で働いていたんだ? そなたの瞳は紛れもなく王族の証だ。意味もなく王宮で働くなど考えられん。周りの情報を集めるためか?」
なんとも見当違いなことを言われ、クラウディアは思わず苦笑する。
なんの力もないクラウディアが周りの情報など集めて何の意味があるのか。
王女なのに冷遇されていたこと、いつも第八王女と肩書きで呼ばれ名前など誰も覚えていないこと、毎日空腹に苦しみ使用人に扮して食事にありついていたこと、そしてクラウディアがジークフリートに恋焦がれていたことなど、ジークフリートにわかるはずもない。
――そしてこれからも知る必要のないことだ。
「お好きなように推測されて構いません。貴方様がそうだと思えば、それが事実だと言うことです」
おそらく彼の好奇心から聞いたもので、実際クラウディアが何を考えていたかは重要ではないのだ。
「……ラス」
「公子様は無用なお喋りを好まないお方ではありませんでしたか? 昔話など……今さら、どうでも良いのです。処罰するのでしたら一思いに消してください。覚悟は疾うの昔よりできております」
お互いに牽制するかの如く、見つめ合う。
少しして、ジークフリートは満足げな表情を薄く浮かべた。
「……覚悟はできているか?」
「はい。如何様にも……」
「ほぅ、すべてを私に委ねると言うことか……いい覚悟だ」
彼がクラウディアの脇を通りすぎ、部屋の扉へと向かっていくのを、疑問に思いながら見る。
なぜだか話が合っていないような違和感がある。
ジークフリートは昔から気難しい人間ではあったが、まだ話は通じていた。
だが今のジークフリートは違う。しばらく会わない間にさらに難解になった。
客間と思われる部屋からジークフリートが扉を開けて出ると、近くにいた使用人を呼び、何やら話している。ただ、話している声は聞こえるが、内容まではわからなかった。
しばらくして、ジークフリートは部屋へ戻ってきた。
「では、そなたの覚悟とやらを見せてもらおう。外にいる使用人についていけ。私は部屋で待っている」
立ったまま様子を見ていたクラウディアに、ジークフリートは真顔で話しかける。
いよいよか、とクラウディアは服の胸元を握った。
「かしこまりました。仰せのままに……」
くたびれたスカートをわずかに広げ、ジークフリートに一礼をする。
ジークフリートが部屋の外へ出ると、クラウディアは言われた通りに外で待機していた使用人のあとをついていった。
連れて行かれた場所は湯浴み場だった。
基本的に庶民は風呂には毎日入らない。クラウディアも王宮にいたときすら毎日は浸からなかった。というのも、薪をくべるのに金と手間がかかり大変だからだ。
(ジークフリート様はなぜ、このタイミングで私に湯浴みを? ……死ぬ前に身なりを整えろということなのかしら……?)
使用人三人がかりで身体を磨き上げられ、髪も綺麗に洗ってもらう。人に洗われることに慣れていないクラウディアは、つい身を縮こまらせてしまう。
湯浴みも終わり、バスローブ姿で椅子に座りながら髪を乾かしてもらっている。思わず使用人に声をかけてしまう。
「あの……あとは自分で、できますので……」
「とんでもございませんわ、お館様の大切なお客様ですもの! わたくし共が念入りにお支度させていただきます!」
椅子に座ってされるがままになっていたクラウディアに、三人の使用人が意気揚々と話す。
(大切なお客様? お支度?? なんの話をしているのかしら?)
やはり何かがズレている。
クラウディアはこれからジークフリートの手によって葬られ、天へと還るはずなのだ。
いやもしかしたら、アサラト公爵家では極刑に値する人間をこんな風に扱うのかもしれない。
しっかりした貴族の教育を受けておらず、長い間田舎に隠れ住んでいた自分に常識がないだけで、これが世の普通なのかもしれない。
クラウディアはとにかく口を噤んだ。
どちらにせよ、ジークフリートがそうしろと言っているのだから、従うしかない。
ある程度支度が終わると別の部屋へ移動し、見たこともないような精緻なレースの下着を身に着け、その上から薄紅色の薄手のナイトドレスをまとった。
なんとも心許ない格好が恥ずかしく、クラウディアはナイトドレスの裾を握りしめた。
「あの……これではない服装は、他にございませんか? このような姿で公子様にお会いすれば、不快に思われてしまうかと……」
まだ膝下まで長さがあるからいいが、胸元は大きく開き、服の素材は心許なく透けそうなくらい薄い。さらに中の下着に至っては、みっともなくて誰にも見せられない。
これが最期に着る服なのか、とクラウディアは思わずジークフリートの品性を疑ってしまいそうになる。
だが使用人たちはクラウディアの姿を見て、なぜだか嬉しそうに手を合わせている。
「何をおっしゃいますか! お館様がそのように思われるはずはございません。殿方でしたらどなたでもお喜びになりますわ」
「お化粧もいたしましょう! 元々綺麗なお顔立ちでいらっしゃいますから、薄めの化粧で十分映えますわね!」
こちらの言い分が聞かれることはなく、案内された鏡台の前に座らされ、パタパタと化粧を施される。
姿見で自分の格好を見ながら、クラウディアは使用人の言葉の意味を考える。
果たしてジークフリートがこの姿を見て喜ぶのだろうか。
どう考えても、冷ややかに侮蔑する姿しか想像できなかった。その場面を思い浮かべると、ゾクリと寒気がしてしまう。
(そうまでして私を嘲笑いたいの? ……あんなことをした女なら、こうした格好がお似合いだとでも言いたいのかしら……)
こんな姿のまま息絶えることは、クラウディアにとって屈辱でしかない。
ジークフリートを凌辱した罪として、娼婦のような格好で死ねと言われているようで、キリキリと胃が痛み始めた。
(これも、甘んじて受けなくてはならないの? まだ潔くあの場で斬り捨ててもらえたほうがよかったのに……)
考えている間に化粧は完成し、そこから新たな装いに着替えることもなく、クラウディアは使用人に連れられて鏡台から離れる。
「さぁ、お館様がお待ちでございますよ!」
使用人たちはニコニコとして歩き、ジークフリートのもとへと送り出してくれるが、クラウディアにとっては地獄への道のりを歩いている気分だ。
わからないことが多すぎて気分が悪くなるが、最期の花道だと自分を奮い立たせ、どうにか足を進めた。
第三章 房事
使用人の案内で連れてこられた部屋はとにかく広く豪華な造りだが、どこか無機質な感じも見受けられた。
ジークフリートは部屋で待っている、と言っていたが、その部屋には誰もいなかった。
「ただいまお館様をお呼びいたします。そちらにおかけになり、お待ちください」
パタリと扉が閉まった途端、無性に心細くなる。
そちら、と言われた先に目をやると高級そうなソファが置かれているが、こんなソファに自分が座るなど恐れ多くて近寄れず、入口近くの隅で立っていた。
部屋の中央にある頑丈そうな広い机には、たくさんの書類が積み重なっている。机の側には棚が並び、難しそうな背表紙の厚い本がきっちりと詰め込まれていた。
部屋の隅には何人も寝られそうなほど広いベッドが置いてあった。
クラウディアは視線をカーテンの向こうへ移した。
カーテンは閉まっており漏れ出る光はなく外は夜。時計を見ると普段寝る時間が近づいていた。
(オースティンはどうしているかしら。ご飯は食べさせてもらえたかしら……虐められていないといいのだけれど……)
今、クラウディアの心を占めるものはオースティンのことのみ。
自分のことなど二の次だ。
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