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思い出
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親子で手を繋いで歩いている後ろ姿をジッとみつめながら、ミレールの目頭がじわりと熱くなり、鼻がツンと痛んで胸の奥が切なく締めつけられていく。
(――あの子は……、元気にしているのかしら……)
ディルよりもさらに幼かったあの子。
とても甘えん坊で、すぐに杏に抱っこをせがんでいた。
ニコニコと笑う顔がとても可愛くて、柔らかな小さい体を抱きしめると「ママ、だいすき」と返してくれた。
育児は大変だったが、それでも杏にとっての唯一の癒やしは、他でもない我が子だった。
突然事故に合い、理由もわからずこの世界でミレールとして目覚めた時に一番に思ったことは、もうあの子に会えないのだという悲しみが大半だった。
目醒めてしばらく半狂乱になっていたのは、夫のことでも、元の世界に戻れないことでもなく、それがすべての理由だ。
しかし、いつまでも悲しみに暮れていてもどうにもならないと踏ん切り、なるべく思い出さないようにずっと心の奥底にしまい込んでいた。
「ほら」
ノアはすかさず自分の着ていた上着を脱いで、ミレールに掛けてくれた。
「あ……、ノア」
「泣くな。……子どもができないのは、あんたのせいじゃない」
知らない内に涙が頬を伝っていた。
ノアがミレールの肩に手を当てたまま、心配そうに顔を覗き込んでいる。
「っ」
(そうね……ノアには話してませんもの)
ノアはミレールが子どもを見て泣いているのは、子宝に恵まれないことを悲しんでいるのだと勘違いしているようだった。
「俺は、今のあんたとの生活だけで十分幸せなんだ。だから、焦る必要なんてない」
理由は違ったが、ノアの気持ちが嬉しくてそのまま目の前の逞しい体に抱きついた。
そしてノアもミレールの体を抱き寄せて、しばらくノアの胸で泣いていた。
「ノア、申し訳ありません。……上着も、ありがとうございます」
胸元から顔を上げたミレールに、ノアが笑いかけてくれる。
「礼なんていらない。あんたのような素晴らしい妻を持てて、俺の方が感謝してる」
ミレールの手を取ると自分の口元まで持っていき、手の甲に唇を落としている。
「っ、……ノア」
唇を離して目を細めて微笑んでいるノアに、ミレールも笑顔を返した。
「若奥様。私如きが騒ぎ立ててしまい、大変申し訳ございませんでした」
ここで控えていたアーミッドが後ろから謝罪の言葉をかけてきた。
ミレールは涙を拭いて振り返り、頭を下げているアーミッドに向かって声をかける。
「とんでもございませんわ、ルイス卿。貴方に非はありませんもの。わたくしを守ることが貴方の役目……結果的に貴方を悪者にしてしまって、悪いことをしてしました」
「若奥様っ……! そのような慈悲のお言葉をおかけくださるとはっ……」
「ただ、職務を全うするあまり、道徳心を忘れてはいけません」
「はい! そのお言葉、しかと胸に刻ませていただきます!」
胸に拳を当て、恭しく跪いているアーミッドにミレールは苦笑してしまう。
「ですが、洋服が汚れてしまったので、そろそろ戻らなくてはいけませんね……」
「戻る必要なんてないだろ? 服くらい俺が買ってやる」
「ノアが、ですの?」
言われたことのない言葉に、ノアを見ながら思わず驚きの声がもれてしまった。
「そんなに意外か? 俺、これでもけっこう稼いでいるんだけどな。あんたの服くらい何着でも買えるぞ」
頭に片手を当てて、心外そうにノアは話していた。
ミレールは首を振って、そうではないと否定する。
「あ、いえ……、そういった訳ではなく……誰かに服を買って貰うということが……とても、久しぶりだったもので……」
たしかにノアはこのお祭りでの支払いをすべてしてくれている。だが、それとこうして身に着けるものを買ってもらうというのは話が違う。
自分で買い物をする時間とお金ができて喜んでいたが、夫となる者に何かを買ってもらうことなど、以前では付き合っていた頃以来だった。
さらに結婚してからは一度もなかった。誕生日すら、おめでとうの一言もなくなっていたからだ。
「そうなのか? いや、悪い……言われてみたら、あんたに贈り物とかもしたことがなかったな」
「いえ! 違います! そうではなく、ノアに不満があるとか、そんなことはありませんわ! ノアは毎日わたくしを愛してくれますし、とても満足してます……から…………」
ノアが気落ちしているのが目に見えてわかり、取り繕うように慌てて弁解したが、言っている内に恥ずかしくなり語尾がどんどん小さくなってしまう。
「本当か?」
「……えぇ、もちろん、ですわ」
言ってしまってから恥ずかしさと後悔が押し寄せていた。こんな場所で言うことではなかった。
後ろで控えているアルマがニコニコしながらこちらを見ていていたたまれない気分になってきた。
「そうか。悪かった……。今までこういった経験がなかったから、そこまで気が回らなかった」
「――ノアは、誰かとお付き合いされたことは、ありませんの?」
「まぁな。……おかしいか?」
「あっ……、おかしくないです! ノアはとてもモテますし、その……慣れてる感じがしていたので、意外だと思っただけですわ!」
今まで婚約者がいなかったにしても、てっきりノアのことだから相手に事欠かず、恋人くらいは何人もいたのだろうと勝手に思っていた。
紳士的で気遣いもできて優しくて、夜の生活も夢中になるくらい上手で……それなのにミレールがはじめてだなんて、とても信じられなかった。
「母さんに女性の扱いについては散々言われてきたし、あの両親を見てたら嫌でもこうなるさ。昔はあの人たちの仲の良さにうんざりすることもあったけど、今はなんであんなにベタベタしたいのか、わかった気がする」
「――っ」
また愛しそうに目を細めて見つめながら言われると、思わずドキッとしてしまう。
それはつまり、ノアもミレールに対しそうしたいと思っている、ということだった。
(やはり信じられませんわ……こんなにも、手慣れている感じがしますのに……)
疑っているわけではない。それだけノアのスキルの高さに感心していた。同時に胸の中に嬉しさが込み上げてきた。
(――あの子は……、元気にしているのかしら……)
ディルよりもさらに幼かったあの子。
とても甘えん坊で、すぐに杏に抱っこをせがんでいた。
ニコニコと笑う顔がとても可愛くて、柔らかな小さい体を抱きしめると「ママ、だいすき」と返してくれた。
育児は大変だったが、それでも杏にとっての唯一の癒やしは、他でもない我が子だった。
突然事故に合い、理由もわからずこの世界でミレールとして目覚めた時に一番に思ったことは、もうあの子に会えないのだという悲しみが大半だった。
目醒めてしばらく半狂乱になっていたのは、夫のことでも、元の世界に戻れないことでもなく、それがすべての理由だ。
しかし、いつまでも悲しみに暮れていてもどうにもならないと踏ん切り、なるべく思い出さないようにずっと心の奥底にしまい込んでいた。
「ほら」
ノアはすかさず自分の着ていた上着を脱いで、ミレールに掛けてくれた。
「あ……、ノア」
「泣くな。……子どもができないのは、あんたのせいじゃない」
知らない内に涙が頬を伝っていた。
ノアがミレールの肩に手を当てたまま、心配そうに顔を覗き込んでいる。
「っ」
(そうね……ノアには話してませんもの)
ノアはミレールが子どもを見て泣いているのは、子宝に恵まれないことを悲しんでいるのだと勘違いしているようだった。
「俺は、今のあんたとの生活だけで十分幸せなんだ。だから、焦る必要なんてない」
理由は違ったが、ノアの気持ちが嬉しくてそのまま目の前の逞しい体に抱きついた。
そしてノアもミレールの体を抱き寄せて、しばらくノアの胸で泣いていた。
「ノア、申し訳ありません。……上着も、ありがとうございます」
胸元から顔を上げたミレールに、ノアが笑いかけてくれる。
「礼なんていらない。あんたのような素晴らしい妻を持てて、俺の方が感謝してる」
ミレールの手を取ると自分の口元まで持っていき、手の甲に唇を落としている。
「っ、……ノア」
唇を離して目を細めて微笑んでいるノアに、ミレールも笑顔を返した。
「若奥様。私如きが騒ぎ立ててしまい、大変申し訳ございませんでした」
ここで控えていたアーミッドが後ろから謝罪の言葉をかけてきた。
ミレールは涙を拭いて振り返り、頭を下げているアーミッドに向かって声をかける。
「とんでもございませんわ、ルイス卿。貴方に非はありませんもの。わたくしを守ることが貴方の役目……結果的に貴方を悪者にしてしまって、悪いことをしてしました」
「若奥様っ……! そのような慈悲のお言葉をおかけくださるとはっ……」
「ただ、職務を全うするあまり、道徳心を忘れてはいけません」
「はい! そのお言葉、しかと胸に刻ませていただきます!」
胸に拳を当て、恭しく跪いているアーミッドにミレールは苦笑してしまう。
「ですが、洋服が汚れてしまったので、そろそろ戻らなくてはいけませんね……」
「戻る必要なんてないだろ? 服くらい俺が買ってやる」
「ノアが、ですの?」
言われたことのない言葉に、ノアを見ながら思わず驚きの声がもれてしまった。
「そんなに意外か? 俺、これでもけっこう稼いでいるんだけどな。あんたの服くらい何着でも買えるぞ」
頭に片手を当てて、心外そうにノアは話していた。
ミレールは首を振って、そうではないと否定する。
「あ、いえ……、そういった訳ではなく……誰かに服を買って貰うということが……とても、久しぶりだったもので……」
たしかにノアはこのお祭りでの支払いをすべてしてくれている。だが、それとこうして身に着けるものを買ってもらうというのは話が違う。
自分で買い物をする時間とお金ができて喜んでいたが、夫となる者に何かを買ってもらうことなど、以前では付き合っていた頃以来だった。
さらに結婚してからは一度もなかった。誕生日すら、おめでとうの一言もなくなっていたからだ。
「そうなのか? いや、悪い……言われてみたら、あんたに贈り物とかもしたことがなかったな」
「いえ! 違います! そうではなく、ノアに不満があるとか、そんなことはありませんわ! ノアは毎日わたくしを愛してくれますし、とても満足してます……から…………」
ノアが気落ちしているのが目に見えてわかり、取り繕うように慌てて弁解したが、言っている内に恥ずかしくなり語尾がどんどん小さくなってしまう。
「本当か?」
「……えぇ、もちろん、ですわ」
言ってしまってから恥ずかしさと後悔が押し寄せていた。こんな場所で言うことではなかった。
後ろで控えているアルマがニコニコしながらこちらを見ていていたたまれない気分になってきた。
「そうか。悪かった……。今までこういった経験がなかったから、そこまで気が回らなかった」
「――ノアは、誰かとお付き合いされたことは、ありませんの?」
「まぁな。……おかしいか?」
「あっ……、おかしくないです! ノアはとてもモテますし、その……慣れてる感じがしていたので、意外だと思っただけですわ!」
今まで婚約者がいなかったにしても、てっきりノアのことだから相手に事欠かず、恋人くらいは何人もいたのだろうと勝手に思っていた。
紳士的で気遣いもできて優しくて、夜の生活も夢中になるくらい上手で……それなのにミレールがはじめてだなんて、とても信じられなかった。
「母さんに女性の扱いについては散々言われてきたし、あの両親を見てたら嫌でもこうなるさ。昔はあの人たちの仲の良さにうんざりすることもあったけど、今はなんであんなにベタベタしたいのか、わかった気がする」
「――っ」
また愛しそうに目を細めて見つめながら言われると、思わずドキッとしてしまう。
それはつまり、ノアもミレールに対しそうしたいと思っている、ということだった。
(やはり信じられませんわ……こんなにも、手慣れている感じがしますのに……)
疑っているわけではない。それだけノアのスキルの高さに感心していた。同時に胸の中に嬉しさが込み上げてきた。
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