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始まり

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 ――それは王宮で開かれた仮面舞踏会から始まった。


「そ、れは……私に、魅力がないからで……その方には、嫌われていますし、何度もフラレてますもの」
「へぇ……ずいぶん馬鹿な男もいるんだな。なんて名前の奴だ?」

(あ、貴方のことよ……!!)

 月夜の庭園。
 外のベンチで見つめ合う二人の男女。
 周りは薄明かりで、仮面を付けた二人が誰かは特定できなかった。
 ただ、ミレールにはわかっていた。
 そこにいる男性が、ノア・オルノスだということに……



 ◇◆◇



 ミレールは三人兄妹の末っ子で、エボルガー侯爵家の長女だ。
 艶やかな栗色の髪はお尻の辺りでカールし、釣り上がった二重瞼の中に紫色の瞳が輝いている。
 悪役だがスタイル抜群で背も高く、美女と言い切れる美しい容姿だった。
 ミレール・エボルガー。
 それが彼女の名前だ。
 そう、ミレールには他の貴族子女と少し違ったところがある。
 それは今いるこの世界とは違う世界から来た、ということだ。
 そして今いる世界が、家事や育児の合間にスマホ片手で読んでいた大人向けWeb小説「愛と欲望に溺れて」の物語の中だということだった。
 しかもミレールは数いる悪役令嬢の中の一人。
 主人公を襲わせようと男を雇ったが失敗し、反対に怒った男に凌辱され精神崩壊する……という悲惨な末路を迎える悪役モブ令嬢だった。

 前の人生での名前は佐々木 あんず
 杏はごく普通の主婦だった。
 年齢は三十代半ばくらいだったと記憶していた。ただミレールの体に入ってからの、その辺りの記憶は曖昧になっていた。
 パート先から帰る途中、疲労と寝不足で意識が散漫になり、信号を無視した車に気付くのが遅れそのままはねられてしまった。
 そして目を覚まし気づくと、ミレールへと憑依ひょういしていたのだ。
 この時ミレールは大病をわずらっていたらしく、生死の境を彷徨さまよっていたが、結局ミレールとして目覚めたのはなぜか杏のほうだった。

 杏だった頃は、夫も子供もいた。
 とくに子供はまだ五歳と可愛い盛りだった。
 夫とは年々会話が少なくなり、子供を産む前からセックスレスになっていたし夫婦仲も冷え切っていたが、それでも家族のために働いてくれていて感謝はしていた。
 仕事が忙しく、休日もほとんど家にいなかった夫。
 たまの休みは自分の好きなことに時間を使い、家族での時間はどんどん減っていった。
 杏の実家も遠く、周りに自分を助けてくれる人は誰もいなかった。
 ワンオペに加え、家計を少しでも支えるために仕事も始めてから、杏の体力は限界を超えてしまった。
 まだまだ手のかかる可愛い子供の世話に眠れない日々、毎日の家事と育児、そして慣れない仕事でふらふらになり、職場でもたまに注意されていた。
 だからなのだろう。
 目の前に迫った車のヘッドライトを見るまで、自分の危機に気づくことができなかったのだ。

 目覚めたあと、この事実を知った杏は発狂した。
 それはミレールの家族でも手に負えないくらいひどいものだった。
 可愛がっていた我が子に会えない悲しさと寂しさ、元いた世界に戻れない苦しみ、自分の家族を名乗る見ず知らずの人たち……現実を受け止め切れないミレールの悲しみと発狂は数週間ほど続いた。

 杏は朝目覚めればまた元の世界現実に戻れるのではないかと考え、暴れたあとはなるべく眠りにつくよう部屋から一歩も出なかった。
 だが、何度も目覚めても何度確かめようとも、ミレールが杏として元いた世界へ戻れることはなかった――

 そんなことを繰り返して何度も絶望したのち、しばらく考えて杏はミレールとして生きることを受け入れるように考えを変えた。
 なぜなら、ミレールの両親や兄たちが悲しんでいる姿を陰ながら見てしまったからだ。
 自分にも家族がいたように、この体の持ち主にも同じく家族がいるのだと、ようやく気づくことができたのだ。

(私は、ここでミレールとして生きなければならない……。いつまでも過去を引きずって、泣いてるだけではダメなのね……)

 それからの杏は出来る限りミレールとして振る舞うべく、だが反面、ミレールを真っ当な人間として認識してもらえるように努力を重ねた。
 元々のミレールが散々当たり散らしていた使用人への暴言もすぐにやめ、我儘も言わず周りに気遣い、散財していたドレスや装飾品も滅多に買わなくなった。
 次第に悲しみに暮れていた両親や兄たちにも笑顔が戻ってくるようになる。
 杏としての過去は捨て切れないが、ここでミレールとして生きていくことを徐々に受け入れ始めていた。

 エボルガー侯爵家の家族や使用人は、ミレールが別人になったと噂しているのを人伝いに聞き、計画が上手くいっているのだと一人で安堵していた。
 こうして長い月日をかけ、杏はミレールへとして変貌をげていったのだった。

 そもそもこの物語の主人公レイリン・サバランは、三人の男性と恋愛を繰り広げる。
 レイリンは引っ込み思案なうえ、目立たない伯爵家の生まれで、大人になるまで体が弱かったこともあり深窓の令嬢でもあった。
 真っ直ぐな腰までの長い銀髪に、小動物を思わせるくりっとした大きな桃色の瞳、胸も大きく身体は華奢で、背もミレールより低かった。
 誰からも愛される美しく可憐な容姿。
 それは現実でも紛うことはなかった。

 大人向けだった小説では、レイリンが特定の男性を選ぶまで三人との際どいシーンが盛り沢山で、それが杏には堪らなく興奮するポイントでもあった。
 長い間セックスレスに苦しいでいた杏の唯一の楽しみであり、ハラハラドキドキ悶々しながらも、現実を変えられない悲しさと、自分もこんなふうに愛されたいという思いと葛藤しながら小説を読んでいたのだ。

 結果的にレイリンは正体を隠していた王太子を選ぶ。それが男主人公であるマクレイン・ハーメンだった。
 そして物語はこの仮面舞踏会から始まる。
 実はこのパーティは、身分を隠した王太子であるマクレインが密かにお妃候補と接触し、見定めるためのものだった。
 ここでレイリンは三人の男性とダンスを踊る。
 仮面舞踏会とはいっても、大体の子息や令嬢は互いの正体をわかり合って談笑している。
 最後には仮面を取り、お互いの顔を確認するのが仮面舞踏会の醍醐味だいごみだった。

 そしてミレールは主人公であるレイリンの友達の一人だった。
 正確にいえば友達というよりレイリンを利用し、自分を優位に立たせるための引き立て役にしていた、というほうが正しいだろう。
 ただ、ミレールに憑依し小説に抗うと決めた時点で、この辺りも修正を入れていた。
 今までのことを謝罪し、レイリンにできるだけ優しくするよう心掛けた。
 とうのレイリンはミレールの悪行に気づいていなかったのか、本当の意味で友と呼べるような仲へと変貌を遂げた。

 順調に物事を進めていたミレールだが、ただ一つだけ、どうしても修正不可能なことがあった。


 
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