35 / 39
第九章
犬神の怪 後編 2
しおりを挟む
「え、選ぶって、何を……?」
恭は戸惑いがちに聞き返す。
「良いか、恭殿。心して聞くのじゃ」
老爺のセピア色の双眸に見据えられ、恭はごくりと喉を鳴らした。
「――恭殿は、人の体を持って現世に生まれた特別な稲荷狐――すなわち、『転狐』なのじゃ」
「て、てんこ?」
「そうじゃ。我々の一族はもともと異界に棲むあやかし。しかし、肉体を持たぬ我々は、直接現世の物質に干渉することができぬ。その制約は時として、神使のつとめの障害になることもあるのじゃ。そのため、我々の主である稲荷神様は、たびたび稲荷狐の魂を人の子に受胎させてきたのじゃよ。
ほれ、恭殿も狐が人に化けるという話は聞いたことがあるじゃろう? あれは過去の転狐の活躍がもとになった伝承なのじゃ。本物の狐が人間に変身するなんてことはあり得ないからの」
「え、いや、ちょっと待ってください。つまり、俺は体は人間だけれど、生まれつき中身は狐の魂だったということですか……?」
恭は思わず手を上げて老爺の言葉を遮った。天と地がひっくり返るような話である。簡単に受け入れられるはずがない。
「信じられないかの? でも、恭殿にも思い当たる節があるのではないか? たとえば、人間社会になじめなかったり、動物に親しみを感じたりすることはなかったかの?」
「い、言われてみれば……」
恭は口ごもった。確かに、俺が転狐だということが本当だとすると、これまでに感じていた違和感が全て説明できる気がする。
「ちなみに、今ここに集まっている稲荷狐は皆、恭殿がこちらに生まれていたら親族になっていたはずの者たちじゃ。妹の三尾は恭殿の補佐兼見守り役としてよく現世に出張しておったから恭殿もよく知っているじゃろうが、他の者に会うのははじめてじゃろう? 折角だから紹介しておこう」
老爺は後ろに控えている数人を手で指し示しながら言った。恭は目を丸くして三尾を振り返る。
「えっ? お前、『兄様』ってそういうことだったの?」
「うん。そうだよー。何だと思ってたの?」
「いや……もう……わけが分からねえ……」
当然のように返され、恭は小さく唸って額に手を当てた。何度か深呼吸を繰り返し、なんとか事態を飲み込もうとする。
そうか。だから俺は物心ついた時から、こいつを式神として使役できたのか……。もともと兄妹だったから、わざわざ縁を結ぶ必要もなかったんだろう。
そうして恭が必死に状況を把握しようとしている間にも、老爺はその場にいる稲荷狐を次々に紹介していく。
恭の両親に当たる二人に始まり、祖母、叔父、叔母、従弟が順番に名乗った。正面の老爺は恭の祖父ということだった。――しかし、すでに頭がパンク寸前の恭に、彼らの言葉は半分も届いていなかった。
異界にもう一つ自分の居場所があったなどと急に告げられても、他人事のようでまるで実感が湧かない。
「さて。では、ここからが本題じゃ」
全員の紹介が終わった後、祖父が再び恭に声をかけてきたので、恭は背筋を伸ばして「はい」と返事をした。
祖父は一瞬間をおいてから、ゆっくりと口を開く。
「――こちらの親族に会って分かったじゃろうが、恭殿は今、現世と異界の両方に属している特異な存在じゃ。転狐は人の子として生まれ、大人になるまでは人の子として生きる。しかし、そこから先、転狐が現世で暮らし続けるか、異界に帰るかは本人の自由意思に任されているのじゃ。
ただ……その選択の機会は、一度だけと定められておる。肉体を持った者が異界に入るのは簡単ではないからの。入った本人の魂は現世での存在が希薄になり、入られた異界のバランスも崩れてしまうのじゃ。何度も異界に来てもらうというわけにはいかぬ……。
つまり、恭殿にとって、今が稲荷狐に戻る唯一の機会なのじゃ。申し訳ないが、恭殿にはこの場で選んでもらわなくてはならぬ。これから現世に棲むか、異界に棲むかをな……」
「…………」
あまりのことに、恭は言葉を失ってしまった。
突然迫られた究極の二択……。頭が痺れるような感覚に陥る。
「……もし、異界に帰ると決めたら、俺の体はどうなってしまうんですか?」
「現世の人間の肉体は安らかな死を迎える……。なあに、恭殿の魂はここに留まり続けるのだから、怯えることはない。人の殻を脱ぎ捨てた瞬間に、恭殿は我々と同じ異界のあやかしに戻るのじゃ」
祖父は優しい笑みを浮かべて言った。
「人の世で生きるのは大変だったでしょう? 貴方はもう、こちらに帰ってきてくれていいのよ……? 家族みんなで平和に暮らしましょう?」
母親が四本の尾を揺らし、恭に柔らかく微笑みかけてくる。
「三尾の報告を聞く限り、恭が今後も転狐を続けていくのは難しそうだしな。無理しなくていいんだぞ? 恭が諦めても、他の転狐が代わりに選ばれるのだから」
父親もかすかに五本の尾を揺らしながら恭に声をかけた。
「これまでよく頑張ったわね。異界なら、人間たちの怨念に苦しめられる必要もないのよ?」
「生活するために人間の社会であくせく働く必要だってない」
叔母と叔父が口々に言う。
「やっと会えたのに、これっきりお別れなんて寂しいよ」
従弟は目にうっすらと涙を浮かべていた。
「…………」
恭は異界の家族の顔を見回す。胸の中に熱いものがこみ上げてくるのを感じた。
恭は戸惑いがちに聞き返す。
「良いか、恭殿。心して聞くのじゃ」
老爺のセピア色の双眸に見据えられ、恭はごくりと喉を鳴らした。
「――恭殿は、人の体を持って現世に生まれた特別な稲荷狐――すなわち、『転狐』なのじゃ」
「て、てんこ?」
「そうじゃ。我々の一族はもともと異界に棲むあやかし。しかし、肉体を持たぬ我々は、直接現世の物質に干渉することができぬ。その制約は時として、神使のつとめの障害になることもあるのじゃ。そのため、我々の主である稲荷神様は、たびたび稲荷狐の魂を人の子に受胎させてきたのじゃよ。
ほれ、恭殿も狐が人に化けるという話は聞いたことがあるじゃろう? あれは過去の転狐の活躍がもとになった伝承なのじゃ。本物の狐が人間に変身するなんてことはあり得ないからの」
「え、いや、ちょっと待ってください。つまり、俺は体は人間だけれど、生まれつき中身は狐の魂だったということですか……?」
恭は思わず手を上げて老爺の言葉を遮った。天と地がひっくり返るような話である。簡単に受け入れられるはずがない。
「信じられないかの? でも、恭殿にも思い当たる節があるのではないか? たとえば、人間社会になじめなかったり、動物に親しみを感じたりすることはなかったかの?」
「い、言われてみれば……」
恭は口ごもった。確かに、俺が転狐だということが本当だとすると、これまでに感じていた違和感が全て説明できる気がする。
「ちなみに、今ここに集まっている稲荷狐は皆、恭殿がこちらに生まれていたら親族になっていたはずの者たちじゃ。妹の三尾は恭殿の補佐兼見守り役としてよく現世に出張しておったから恭殿もよく知っているじゃろうが、他の者に会うのははじめてじゃろう? 折角だから紹介しておこう」
老爺は後ろに控えている数人を手で指し示しながら言った。恭は目を丸くして三尾を振り返る。
「えっ? お前、『兄様』ってそういうことだったの?」
「うん。そうだよー。何だと思ってたの?」
「いや……もう……わけが分からねえ……」
当然のように返され、恭は小さく唸って額に手を当てた。何度か深呼吸を繰り返し、なんとか事態を飲み込もうとする。
そうか。だから俺は物心ついた時から、こいつを式神として使役できたのか……。もともと兄妹だったから、わざわざ縁を結ぶ必要もなかったんだろう。
そうして恭が必死に状況を把握しようとしている間にも、老爺はその場にいる稲荷狐を次々に紹介していく。
恭の両親に当たる二人に始まり、祖母、叔父、叔母、従弟が順番に名乗った。正面の老爺は恭の祖父ということだった。――しかし、すでに頭がパンク寸前の恭に、彼らの言葉は半分も届いていなかった。
異界にもう一つ自分の居場所があったなどと急に告げられても、他人事のようでまるで実感が湧かない。
「さて。では、ここからが本題じゃ」
全員の紹介が終わった後、祖父が再び恭に声をかけてきたので、恭は背筋を伸ばして「はい」と返事をした。
祖父は一瞬間をおいてから、ゆっくりと口を開く。
「――こちらの親族に会って分かったじゃろうが、恭殿は今、現世と異界の両方に属している特異な存在じゃ。転狐は人の子として生まれ、大人になるまでは人の子として生きる。しかし、そこから先、転狐が現世で暮らし続けるか、異界に帰るかは本人の自由意思に任されているのじゃ。
ただ……その選択の機会は、一度だけと定められておる。肉体を持った者が異界に入るのは簡単ではないからの。入った本人の魂は現世での存在が希薄になり、入られた異界のバランスも崩れてしまうのじゃ。何度も異界に来てもらうというわけにはいかぬ……。
つまり、恭殿にとって、今が稲荷狐に戻る唯一の機会なのじゃ。申し訳ないが、恭殿にはこの場で選んでもらわなくてはならぬ。これから現世に棲むか、異界に棲むかをな……」
「…………」
あまりのことに、恭は言葉を失ってしまった。
突然迫られた究極の二択……。頭が痺れるような感覚に陥る。
「……もし、異界に帰ると決めたら、俺の体はどうなってしまうんですか?」
「現世の人間の肉体は安らかな死を迎える……。なあに、恭殿の魂はここに留まり続けるのだから、怯えることはない。人の殻を脱ぎ捨てた瞬間に、恭殿は我々と同じ異界のあやかしに戻るのじゃ」
祖父は優しい笑みを浮かべて言った。
「人の世で生きるのは大変だったでしょう? 貴方はもう、こちらに帰ってきてくれていいのよ……? 家族みんなで平和に暮らしましょう?」
母親が四本の尾を揺らし、恭に柔らかく微笑みかけてくる。
「三尾の報告を聞く限り、恭が今後も転狐を続けていくのは難しそうだしな。無理しなくていいんだぞ? 恭が諦めても、他の転狐が代わりに選ばれるのだから」
父親もかすかに五本の尾を揺らしながら恭に声をかけた。
「これまでよく頑張ったわね。異界なら、人間たちの怨念に苦しめられる必要もないのよ?」
「生活するために人間の社会であくせく働く必要だってない」
叔母と叔父が口々に言う。
「やっと会えたのに、これっきりお別れなんて寂しいよ」
従弟は目にうっすらと涙を浮かべていた。
「…………」
恭は異界の家族の顔を見回す。胸の中に熱いものがこみ上げてくるのを感じた。
0
お気に入りに追加
26
あなたにおすすめの小説
裏鞍馬妖魔大戦
紺坂紫乃
キャラ文芸
京都・鞍馬山の『裏』は妖や魔物の世界――誰よりも大切だった姉の家族を天狗の一派に殺された風の魔物・風魔族の末裔である最澄(さいちょう)と、最澄に仲間を殺された天狗の子・羅天による全国の天狗衆や妖族を巻き込んでの復讐合戦が幕を開ける。この復讐劇の裏で暗躍する存在とは――? 最澄の義兄の持ち物だった左回りの時計はどこに消えたのか?
拙作・妖ラブコメ「狐の迎賓館-三本鳥居の向こう側-」のスピンオフとなります。前作を読んでいなくても解るように書いていくつもりです。
5年も苦しんだのだから、もうスッキリ幸せになってもいいですよね?
gacchi
恋愛
13歳の学園入学時から5年、第一王子と婚約しているミレーヌは王子妃教育に疲れていた。好きでもない王子のために苦労する意味ってあるんでしょうか。
そんなミレーヌに王子は新しい恋人を連れて
「婚約解消してくれる?優しいミレーヌなら許してくれるよね?」
もう私、こんな婚約者忘れてスッキリ幸せになってもいいですよね?
3/5 1章完結しました。おまけの後、2章になります。
4/4 完結しました。奨励賞受賞ありがとうございました。
1章が書籍になりました。
いたずら妖狐の目付け役 ~京都もふもふあやかし譚
ススキ荻経
キャラ文芸
【京都×動物妖怪のお仕事小説!】
「目付け役」――。それは、平時から妖怪が悪さをしないように見張る役目を任された者たちのことである。
しかし、妖狐を専門とする目付け役「狐番」の京都担当は、なんとサボりの常習犯だった!?
京の平和を全力で守ろうとする新米陰陽師の賀茂紬は、ひねくれものの狐番の手を(半ば強引に)借り、今日も動物妖怪たちが引き起こすトラブルを解決するために奔走する!
これは京都に潜むもふもふなあやかしたちの物語。
エブリスタにも掲載しています。

【完結】仰る通り、貴方の子ではありません
ユユ
恋愛
辛い悪阻と難産を経て産まれたのは
私に似た待望の男児だった。
なのに認められず、
不貞の濡れ衣を着せられ、
追い出されてしまった。
実家からも勘当され
息子と2人で生きていくことにした。
* 作り話です
* 暇つぶしにどうぞ
* 4万文字未満
* 完結保証付き
* 少し大人表現あり
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。
お昼寝カフェ【BAKU】へようこそ!~夢喰いバクと社畜は美少女アイドルの悪夢を見る~
保月ミヒル
キャラ文芸
人生諦め気味のアラサー営業マン・遠原昭博は、ある日不思議なお昼寝カフェに迷い混む。
迎えてくれたのは、眼鏡をかけた独特の雰囲気の青年――カフェの店長・夢見獏だった。
ゆるふわおっとりなその青年の正体は、なんと悪夢を食べる妖怪のバクだった。
昭博はひょんなことから夢見とダッグを組むことになり、客として来店した人気アイドルの悪夢の中に入ることに……!?
夢という誰にも見せない空間の中で、人々は悩み、試練に立ち向かい、成長する。
ハートフルサイコダイブコメディです。

【完結】20年後の真実
ゴールデンフィッシュメダル
恋愛
公爵令息のマリウスがが婚約者タチアナに婚約破棄を言い渡した。
マリウスは子爵令嬢のゾフィーとの恋に溺れ、婚約者を蔑ろにしていた。
それから20年。
マリウスはゾフィーと結婚し、タチアナは伯爵夫人となっていた。
そして、娘の恋愛を機にマリウスは婚約破棄騒動の真実を知る。
おじさんが昔を思い出しながらもだもだするだけのお話です。
全4話書き上げ済み。

セレナの居場所 ~下賜された側妃~
緑谷めい
恋愛
後宮が廃され、国王エドガルドの側妃だったセレナは、ルーベン・アルファーロ侯爵に下賜された。自らの新たな居場所を作ろうと努力するセレナだったが、夫ルーベンの幼馴染だという伯爵家令嬢クラーラが頻繁に屋敷を訪れることに違和感を覚える。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる