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第九章
犬神の怪 後編 2
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「え、選ぶって、何を……?」
恭は戸惑いがちに聞き返す。
「良いか、恭殿。心して聞くのじゃ」
老爺のセピア色の双眸に見据えられ、恭はごくりと喉を鳴らした。
「――恭殿は、人の体を持って現世に生まれた特別な稲荷狐――すなわち、『転狐』なのじゃ」
「て、てんこ?」
「そうじゃ。我々の一族はもともと異界に棲むあやかし。しかし、肉体を持たぬ我々は、直接現世の物質に干渉することができぬ。その制約は時として、神使のつとめの障害になることもあるのじゃ。そのため、我々の主である稲荷神様は、たびたび稲荷狐の魂を人の子に受胎させてきたのじゃよ。
ほれ、恭殿も狐が人に化けるという話は聞いたことがあるじゃろう? あれは過去の転狐の活躍がもとになった伝承なのじゃ。本物の狐が人間に変身するなんてことはあり得ないからの」
「え、いや、ちょっと待ってください。つまり、俺は体は人間だけれど、生まれつき中身は狐の魂だったということですか……?」
恭は思わず手を上げて老爺の言葉を遮った。天と地がひっくり返るような話である。簡単に受け入れられるはずがない。
「信じられないかの? でも、恭殿にも思い当たる節があるのではないか? たとえば、人間社会になじめなかったり、動物に親しみを感じたりすることはなかったかの?」
「い、言われてみれば……」
恭は口ごもった。確かに、俺が転狐だということが本当だとすると、これまでに感じていた違和感が全て説明できる気がする。
「ちなみに、今ここに集まっている稲荷狐は皆、恭殿がこちらに生まれていたら親族になっていたはずの者たちじゃ。妹の三尾は恭殿の補佐兼見守り役としてよく現世に出張しておったから恭殿もよく知っているじゃろうが、他の者に会うのははじめてじゃろう? 折角だから紹介しておこう」
老爺は後ろに控えている数人を手で指し示しながら言った。恭は目を丸くして三尾を振り返る。
「えっ? お前、『兄様』ってそういうことだったの?」
「うん。そうだよー。何だと思ってたの?」
「いや……もう……わけが分からねえ……」
当然のように返され、恭は小さく唸って額に手を当てた。何度か深呼吸を繰り返し、なんとか事態を飲み込もうとする。
そうか。だから俺は物心ついた時から、こいつを式神として使役できたのか……。もともと兄妹だったから、わざわざ縁を結ぶ必要もなかったんだろう。
そうして恭が必死に状況を把握しようとしている間にも、老爺はその場にいる稲荷狐を次々に紹介していく。
恭の両親に当たる二人に始まり、祖母、叔父、叔母、従弟が順番に名乗った。正面の老爺は恭の祖父ということだった。――しかし、すでに頭がパンク寸前の恭に、彼らの言葉は半分も届いていなかった。
異界にもう一つ自分の居場所があったなどと急に告げられても、他人事のようでまるで実感が湧かない。
「さて。では、ここからが本題じゃ」
全員の紹介が終わった後、祖父が再び恭に声をかけてきたので、恭は背筋を伸ばして「はい」と返事をした。
祖父は一瞬間をおいてから、ゆっくりと口を開く。
「――こちらの親族に会って分かったじゃろうが、恭殿は今、現世と異界の両方に属している特異な存在じゃ。転狐は人の子として生まれ、大人になるまでは人の子として生きる。しかし、そこから先、転狐が現世で暮らし続けるか、異界に帰るかは本人の自由意思に任されているのじゃ。
ただ……その選択の機会は、一度だけと定められておる。肉体を持った者が異界に入るのは簡単ではないからの。入った本人の魂は現世での存在が希薄になり、入られた異界のバランスも崩れてしまうのじゃ。何度も異界に来てもらうというわけにはいかぬ……。
つまり、恭殿にとって、今が稲荷狐に戻る唯一の機会なのじゃ。申し訳ないが、恭殿にはこの場で選んでもらわなくてはならぬ。これから現世に棲むか、異界に棲むかをな……」
「…………」
あまりのことに、恭は言葉を失ってしまった。
突然迫られた究極の二択……。頭が痺れるような感覚に陥る。
「……もし、異界に帰ると決めたら、俺の体はどうなってしまうんですか?」
「現世の人間の肉体は安らかな死を迎える……。なあに、恭殿の魂はここに留まり続けるのだから、怯えることはない。人の殻を脱ぎ捨てた瞬間に、恭殿は我々と同じ異界のあやかしに戻るのじゃ」
祖父は優しい笑みを浮かべて言った。
「人の世で生きるのは大変だったでしょう? 貴方はもう、こちらに帰ってきてくれていいのよ……? 家族みんなで平和に暮らしましょう?」
母親が四本の尾を揺らし、恭に柔らかく微笑みかけてくる。
「三尾の報告を聞く限り、恭が今後も転狐を続けていくのは難しそうだしな。無理しなくていいんだぞ? 恭が諦めても、他の転狐が代わりに選ばれるのだから」
父親もかすかに五本の尾を揺らしながら恭に声をかけた。
「これまでよく頑張ったわね。異界なら、人間たちの怨念に苦しめられる必要もないのよ?」
「生活するために人間の社会であくせく働く必要だってない」
叔母と叔父が口々に言う。
「やっと会えたのに、これっきりお別れなんて寂しいよ」
従弟は目にうっすらと涙を浮かべていた。
「…………」
恭は異界の家族の顔を見回す。胸の中に熱いものがこみ上げてくるのを感じた。
恭は戸惑いがちに聞き返す。
「良いか、恭殿。心して聞くのじゃ」
老爺のセピア色の双眸に見据えられ、恭はごくりと喉を鳴らした。
「――恭殿は、人の体を持って現世に生まれた特別な稲荷狐――すなわち、『転狐』なのじゃ」
「て、てんこ?」
「そうじゃ。我々の一族はもともと異界に棲むあやかし。しかし、肉体を持たぬ我々は、直接現世の物質に干渉することができぬ。その制約は時として、神使のつとめの障害になることもあるのじゃ。そのため、我々の主である稲荷神様は、たびたび稲荷狐の魂を人の子に受胎させてきたのじゃよ。
ほれ、恭殿も狐が人に化けるという話は聞いたことがあるじゃろう? あれは過去の転狐の活躍がもとになった伝承なのじゃ。本物の狐が人間に変身するなんてことはあり得ないからの」
「え、いや、ちょっと待ってください。つまり、俺は体は人間だけれど、生まれつき中身は狐の魂だったということですか……?」
恭は思わず手を上げて老爺の言葉を遮った。天と地がひっくり返るような話である。簡単に受け入れられるはずがない。
「信じられないかの? でも、恭殿にも思い当たる節があるのではないか? たとえば、人間社会になじめなかったり、動物に親しみを感じたりすることはなかったかの?」
「い、言われてみれば……」
恭は口ごもった。確かに、俺が転狐だということが本当だとすると、これまでに感じていた違和感が全て説明できる気がする。
「ちなみに、今ここに集まっている稲荷狐は皆、恭殿がこちらに生まれていたら親族になっていたはずの者たちじゃ。妹の三尾は恭殿の補佐兼見守り役としてよく現世に出張しておったから恭殿もよく知っているじゃろうが、他の者に会うのははじめてじゃろう? 折角だから紹介しておこう」
老爺は後ろに控えている数人を手で指し示しながら言った。恭は目を丸くして三尾を振り返る。
「えっ? お前、『兄様』ってそういうことだったの?」
「うん。そうだよー。何だと思ってたの?」
「いや……もう……わけが分からねえ……」
当然のように返され、恭は小さく唸って額に手を当てた。何度か深呼吸を繰り返し、なんとか事態を飲み込もうとする。
そうか。だから俺は物心ついた時から、こいつを式神として使役できたのか……。もともと兄妹だったから、わざわざ縁を結ぶ必要もなかったんだろう。
そうして恭が必死に状況を把握しようとしている間にも、老爺はその場にいる稲荷狐を次々に紹介していく。
恭の両親に当たる二人に始まり、祖母、叔父、叔母、従弟が順番に名乗った。正面の老爺は恭の祖父ということだった。――しかし、すでに頭がパンク寸前の恭に、彼らの言葉は半分も届いていなかった。
異界にもう一つ自分の居場所があったなどと急に告げられても、他人事のようでまるで実感が湧かない。
「さて。では、ここからが本題じゃ」
全員の紹介が終わった後、祖父が再び恭に声をかけてきたので、恭は背筋を伸ばして「はい」と返事をした。
祖父は一瞬間をおいてから、ゆっくりと口を開く。
「――こちらの親族に会って分かったじゃろうが、恭殿は今、現世と異界の両方に属している特異な存在じゃ。転狐は人の子として生まれ、大人になるまでは人の子として生きる。しかし、そこから先、転狐が現世で暮らし続けるか、異界に帰るかは本人の自由意思に任されているのじゃ。
ただ……その選択の機会は、一度だけと定められておる。肉体を持った者が異界に入るのは簡単ではないからの。入った本人の魂は現世での存在が希薄になり、入られた異界のバランスも崩れてしまうのじゃ。何度も異界に来てもらうというわけにはいかぬ……。
つまり、恭殿にとって、今が稲荷狐に戻る唯一の機会なのじゃ。申し訳ないが、恭殿にはこの場で選んでもらわなくてはならぬ。これから現世に棲むか、異界に棲むかをな……」
「…………」
あまりのことに、恭は言葉を失ってしまった。
突然迫られた究極の二択……。頭が痺れるような感覚に陥る。
「……もし、異界に帰ると決めたら、俺の体はどうなってしまうんですか?」
「現世の人間の肉体は安らかな死を迎える……。なあに、恭殿の魂はここに留まり続けるのだから、怯えることはない。人の殻を脱ぎ捨てた瞬間に、恭殿は我々と同じ異界のあやかしに戻るのじゃ」
祖父は優しい笑みを浮かべて言った。
「人の世で生きるのは大変だったでしょう? 貴方はもう、こちらに帰ってきてくれていいのよ……? 家族みんなで平和に暮らしましょう?」
母親が四本の尾を揺らし、恭に柔らかく微笑みかけてくる。
「三尾の報告を聞く限り、恭が今後も転狐を続けていくのは難しそうだしな。無理しなくていいんだぞ? 恭が諦めても、他の転狐が代わりに選ばれるのだから」
父親もかすかに五本の尾を揺らしながら恭に声をかけた。
「これまでよく頑張ったわね。異界なら、人間たちの怨念に苦しめられる必要もないのよ?」
「生活するために人間の社会であくせく働く必要だってない」
叔母と叔父が口々に言う。
「やっと会えたのに、これっきりお別れなんて寂しいよ」
従弟は目にうっすらと涙を浮かべていた。
「…………」
恭は異界の家族の顔を見回す。胸の中に熱いものがこみ上げてくるのを感じた。
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