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第九章
犬神の怪 後編 1
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……気を失ってから、恭の意識はふわふわと現実味のない世界を漂い続けていた――。
脈絡のない悪夢に交じって、時折、与一と美鵺子の声が聞こえたり、体の痛みを感じる気もしたが、それは実感を伴わず、断片的であった。
ああ……。このままあの世に逝ってしまうのかな……?
ぼんやりとそんなことを思いながら、何も感じない深淵へと少しずつ沈んでいく……。
――そんな彼の意識を覚醒させたのは柏手の音だった。
「ん……。ここは……?」
目を覚まして慌てて上体を起こす。しかし、彼はすぐに、その自分の行為が「肉体を伴っていない」ことに気が付いた。
ちょうど金縛りにあった時に幻覚を見るように、体は眠り続けているが脳が起きてしまっている状態なのだろう。彼は直感的に、今いる場所が現実世界ではなく、自分の体にも実体がないことを悟っていた。
でも、夢の中にしては、妙に感覚がリアルだな……。
試しに、一面白い霞に覆われた地面を指先でなぞってみる。さらさらと細い葉先に触れるのを感じた。
――ちゃんと触覚もある……。
ゆっくりと立ち上がって辺りを見回した。
幾本もの広葉樹が彼を取り囲むように立ち並び、美しい枝葉を広げている。足元はどうやら青田のようだった。それにしては、体が全く濡れていないのが不思議である。
……これがいわゆる臨死体験ってやつかな?
一人苦笑して大きく息を吸い、静謐な空気に浸った。
その時である。
「お兄様!」
突然後ろから何かに飛びつかれ、恭は派手にその場にひっくり返った。
「は!? いや、何!?」
じたばたともがき、しがみついてきた生き物を引きはがそうとする。なにやら、ふわふわとした感触のものに手が触れた。
「ちょ、ちょっと、離れて……」
何とか体勢を立て直して顔を上げる。彼の目に飛び込んできたのは、真っ白の髪で巫女服を着た娘の姿だった。歳は二十くらいだろうか。なんと、その頭の上には三角の狐の耳が生えている。
「えーっと……どちら様?」
恭は困惑の表情を浮かべて尋ねた。すると、娘は頬を膨らませ、ちょっと怒ったような口調で答える。
「分からないの? 三尾です!」
「え? 三尾……?」
恭が戸惑いを隠せない様子で聞き返すと、娘は自分の着物からのぞく三本の尻尾を指さして見せた。
「えーっと、ちょっと待って。どういうこと?」
恭は混乱して頭を抱えた。
もしこの娘が三尾なら、俺は妖怪が棲む世界に迷い込んでしまったということか? そんなことあり得るのか?
――と、恭が頭を整理し終える前に、今度は木立の向こうから、新たに数人の人影が姿を現した。
「これ。三尾。いきなりそんなことを言って、恭殿を困らせるんじゃない」
近づいてきた人影を見ると、彼らも全員狐の耳と尻尾が生えている。尻尾の本数は二本から六本とまちまちだ。言葉を発したのは、その中で一番年上らしき、髭を生やした老爺だった。
「すみません、お爺様。兄様がここに帰ってきてくれたことが嬉しくって、つい……」
三尾は耳を伏せて反省の色を見せる。
――ん? 待てよ。三尾は今、俺が「ここに帰ってきた」って言ったよな?
「あのー……。すみません、ここは……?」
恭は何が何だか分からないままに疑問を口にした。
「まあ、待て。順を追って説明してしんぜよう」
老爺は六本の尾を揺らし、恭の正面に「よっこらせ」と腰を下ろす。老爺が身にまとう紫の狩衣の裾がふわりと白い霞の上に浮かんだ。
俺がこの田んぼに沈まないのも、わずかに宙に浮かんでいるからなのか――と、恭は自分の足元に目を落とす。どうやら、この世界で物理法則は成り立たないらしい。
「ほっほっ。恭殿はもう気が付いているようじゃな。ここは異界――現世と常世の狭間じゃよ」
老爺の言葉に恭は「やはり」と頷いた。三尾が人の姿で現れた時点で察しはついていたが、問題は、どうして自分がこちら側に来てしまったのかである。
――と、老爺が恭の考えを呼んだかのように解説を続けた。
「恭殿も知っての通り、普通の人間が異界に入り込むことは稀じゃ。しかし、恭殿の場合はちょっとした特殊事情があっての。恭殿がいずれここに来ることは決まっておったのじゃ」
「特殊事情……ですか?」
恭は小首を傾げる。
「そうじゃ。本来は我々の方から恭殿を迎えに行く予定だったんじゃが、どうやって恭殿を稲荷山まで呼び出すかがなかなか決まらなくての。こちらで協議をしている間に、こうして恭殿がご友人に連れてこられてしまったというわけじゃ」
「兄様が家にいてばっかりだったのがいけなかったんだよー」
不意に横から三尾が口を挟み、恭の肩にもたれかかってくる。
「こら。静かにしてろ」
恭はちょっと迷惑そうに三尾の頭を小突いた。
――なるほど。だんだん状況がつかめてきたぞ。おそらく美鵺子が捨道にやられた俺を復活させるために、稲荷山に運んできてくれたのだろう。だが、一番の謎がまだ残っている。
「……でも、そもそも何のために俺はここに呼び出されることになっていたんですか?」
恭が問うと、老爺がすっと真剣な表情になった。事の核心に触れたことを悟り、恭は身構える。
「……それはの。恭殿に、選んでもらうためじゃ」
脈絡のない悪夢に交じって、時折、与一と美鵺子の声が聞こえたり、体の痛みを感じる気もしたが、それは実感を伴わず、断片的であった。
ああ……。このままあの世に逝ってしまうのかな……?
ぼんやりとそんなことを思いながら、何も感じない深淵へと少しずつ沈んでいく……。
――そんな彼の意識を覚醒させたのは柏手の音だった。
「ん……。ここは……?」
目を覚まして慌てて上体を起こす。しかし、彼はすぐに、その自分の行為が「肉体を伴っていない」ことに気が付いた。
ちょうど金縛りにあった時に幻覚を見るように、体は眠り続けているが脳が起きてしまっている状態なのだろう。彼は直感的に、今いる場所が現実世界ではなく、自分の体にも実体がないことを悟っていた。
でも、夢の中にしては、妙に感覚がリアルだな……。
試しに、一面白い霞に覆われた地面を指先でなぞってみる。さらさらと細い葉先に触れるのを感じた。
――ちゃんと触覚もある……。
ゆっくりと立ち上がって辺りを見回した。
幾本もの広葉樹が彼を取り囲むように立ち並び、美しい枝葉を広げている。足元はどうやら青田のようだった。それにしては、体が全く濡れていないのが不思議である。
……これがいわゆる臨死体験ってやつかな?
一人苦笑して大きく息を吸い、静謐な空気に浸った。
その時である。
「お兄様!」
突然後ろから何かに飛びつかれ、恭は派手にその場にひっくり返った。
「は!? いや、何!?」
じたばたともがき、しがみついてきた生き物を引きはがそうとする。なにやら、ふわふわとした感触のものに手が触れた。
「ちょ、ちょっと、離れて……」
何とか体勢を立て直して顔を上げる。彼の目に飛び込んできたのは、真っ白の髪で巫女服を着た娘の姿だった。歳は二十くらいだろうか。なんと、その頭の上には三角の狐の耳が生えている。
「えーっと……どちら様?」
恭は困惑の表情を浮かべて尋ねた。すると、娘は頬を膨らませ、ちょっと怒ったような口調で答える。
「分からないの? 三尾です!」
「え? 三尾……?」
恭が戸惑いを隠せない様子で聞き返すと、娘は自分の着物からのぞく三本の尻尾を指さして見せた。
「えーっと、ちょっと待って。どういうこと?」
恭は混乱して頭を抱えた。
もしこの娘が三尾なら、俺は妖怪が棲む世界に迷い込んでしまったということか? そんなことあり得るのか?
――と、恭が頭を整理し終える前に、今度は木立の向こうから、新たに数人の人影が姿を現した。
「これ。三尾。いきなりそんなことを言って、恭殿を困らせるんじゃない」
近づいてきた人影を見ると、彼らも全員狐の耳と尻尾が生えている。尻尾の本数は二本から六本とまちまちだ。言葉を発したのは、その中で一番年上らしき、髭を生やした老爺だった。
「すみません、お爺様。兄様がここに帰ってきてくれたことが嬉しくって、つい……」
三尾は耳を伏せて反省の色を見せる。
――ん? 待てよ。三尾は今、俺が「ここに帰ってきた」って言ったよな?
「あのー……。すみません、ここは……?」
恭は何が何だか分からないままに疑問を口にした。
「まあ、待て。順を追って説明してしんぜよう」
老爺は六本の尾を揺らし、恭の正面に「よっこらせ」と腰を下ろす。老爺が身にまとう紫の狩衣の裾がふわりと白い霞の上に浮かんだ。
俺がこの田んぼに沈まないのも、わずかに宙に浮かんでいるからなのか――と、恭は自分の足元に目を落とす。どうやら、この世界で物理法則は成り立たないらしい。
「ほっほっ。恭殿はもう気が付いているようじゃな。ここは異界――現世と常世の狭間じゃよ」
老爺の言葉に恭は「やはり」と頷いた。三尾が人の姿で現れた時点で察しはついていたが、問題は、どうして自分がこちら側に来てしまったのかである。
――と、老爺が恭の考えを呼んだかのように解説を続けた。
「恭殿も知っての通り、普通の人間が異界に入り込むことは稀じゃ。しかし、恭殿の場合はちょっとした特殊事情があっての。恭殿がいずれここに来ることは決まっておったのじゃ」
「特殊事情……ですか?」
恭は小首を傾げる。
「そうじゃ。本来は我々の方から恭殿を迎えに行く予定だったんじゃが、どうやって恭殿を稲荷山まで呼び出すかがなかなか決まらなくての。こちらで協議をしている間に、こうして恭殿がご友人に連れてこられてしまったというわけじゃ」
「兄様が家にいてばっかりだったのがいけなかったんだよー」
不意に横から三尾が口を挟み、恭の肩にもたれかかってくる。
「こら。静かにしてろ」
恭はちょっと迷惑そうに三尾の頭を小突いた。
――なるほど。だんだん状況がつかめてきたぞ。おそらく美鵺子が捨道にやられた俺を復活させるために、稲荷山に運んできてくれたのだろう。だが、一番の謎がまだ残っている。
「……でも、そもそも何のために俺はここに呼び出されることになっていたんですか?」
恭が問うと、老爺がすっと真剣な表情になった。事の核心に触れたことを悟り、恭は身構える。
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