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第七章
犬神の怪 前編 2
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「……犬神っていうのは、犬という動物が人の意図や感情を読み取る能力に長けていることを悪用して作られた妖怪だ」
恭は眉間に皺を寄せ、足元の一点を見つめたまま説明を始めた。
「犬神を作るのに必要なものは二つ。生き地獄を経験し、心に深い傷を負った犬の霊と、犬神の主人になる人間の強い怨念だ。犬と人の精神は本来異質なものだから、簡単には混ざり合わない。しかし、心の闇を触媒にして融合させれば、犬の霊に人の怨念を無理やり取り込ませることができる。そうして作られるのが犬神というわけだ。そのため、犬神は動物妖怪でありながら、人の怨霊の特性を兼ね備えている。祓うためには犬の霊から人の怨念を切り離さなければならない」
「そんな……。不幸な犬の霊を利用するなんて……」
与一はショックを受けた様子で絶句した。恭は口元を歪めて小さくため息をつく。
「残念ながら、今の時代、器となる犬の霊には事欠かなかったんだろう。劣悪な飼育環境で飼育されている犬や、殺処分される犬は数えきれない。京都には野良犬だっている」
「ああ、そういえば見たことあるな。桂川の野良犬のニュース……」
「犬の霊を成仏させたければ、怨霊の調伏の手順が必要になる。しかし、俺にそんな力はない……。返り討ちにあうのがオチだ」
恭はうなだれた。
「そうか……。ただの動物妖怪じゃないっていうのが厄介だな。犬神って聞いて、恭の出番に違いないと思ったんだけど……」
「悪いが、今回は力になれそうにない。いや、それどころか、あの老人から自分の身を守ることすらままならないかもしれない」
ギリッと恭は爪を噛む。
「うーん……。犬神に弱点ってないのかな?」
与一は難しい顔をして唸った。
「特にこれといった弱点はなかったと思う。あいつらは犬と人の能力を併せ持っているから隙がないんだよ。犬神を倒すためには、純粋に強い妖力を叩きつけるしかない。そうだな……。何か呪具で妖力を強化すれば、あるいは……」
そこまで言ってから、恭は何かを思い出した様子で美鵺子を振り返った。
「そうだ。そういえば美鵺子は祇園祭の時に妖刀で犬神を祓ってたよな?」
「えっ!? ああ、あれね……」
美鵺子は狼狽えたように恭から目を逸らして口ごもった。
「ええっと、あの時はまだ犬神の力が不完全やったから何とかなったけど、今では難しいんちゃうかな……」
「そうか……。でも、美鵺子のその反応はどうも怪しいぞ? 何か隠してるのか?」
「かっ、隠してへんよ!?」
「……嘘下手くそか」
恭は吐息を漏らすと、問いかけるような視線で美鵺子を見上げた。美鵺子はぎゅっと唇を引き結んでから、観念した様子で口を開く。
「……あのね。あの刀……実は稲荷山で拾った神具で、私は正当な所有者じゃないねん」
「えっ!?」
思いがけない返答に、恭と与一は同時に驚きの声を上げた。
「えーっと、つまり、あの妖刀は美鵺子が稲荷山で気を失った時に拾ったってことか?」
恭が問うと、美鵺子はこくりと頷き、両手を前に差し出した。その手の上に、ぼんやりと妖刀の姿が浮かび上がる。
「そう。あの時私は、この刀の『記憶』に圧倒されて意識を失ってしまって、それからずっとこの刀を預かり続けてる……。でも、私は正当な所有者じゃないから、この刀の妖力はだんだん弱まってきてるねん。それなのに、この前は思わず、犬神を斬るのにこの刀を使っちゃった……」
確かに美鵺子の言う通り、明るいところで見ると、先が欠けた妖刀の刃はところどころ錆び、痛んでいるのがよく分かった。
「ちょっ、ちょっと待って。俺ついていけてないけど、美鵺子ちゃんは、その正当な所有者っていうのが誰かはすでに分かってるってこと?」
与一が慌てて手を振って割り込む。
「うん……」
頷いた美鵺子は顔を上げると、複雑な感情を宿した瞳を恭の方に向けた。
「えっ!? 俺!?」
恭は指で自分の顔を指さし、愕然とした表情を浮かべた。美鵺子はもう一度、静かに首を縦に振る。
「そう。この刀の正当な所有者は恭……。でも、わけあって、これを恭に渡すことはまだできへんねん」
「いや、嘘だろ? 俺はそんな刀知らないし、なんの縁もゆかりもないと思うぜ?」
恭は動揺を露わにした。しかし、美鵺子の真剣な口ぶりと表情から察するに、彼女が嘘を言っていないことは疑いの余地もなかった。
「ううん。これはほんまのこと。この刀の記憶を通じて知ったことやねん。……今まで黙っててごめん」
いきなり驚愕の事実を告げられ、恭は困惑した様子で耳の後ろをかく。
「いいや……いいよ。美鵺子が言わなかったのも、何か理由があるんだろうし……」
「恭に刀を渡せないわけっていうのは? それも美鵺子ちゃんの口からは言えないの?」
与一が尋ねると、美鵺子は申し訳なさそうに黙って頭を垂れた。恭は眉根に皺を寄せて下唇を噛む。
「そうか。言えないのなら仕方がない。神々が絡む事柄は軽率に口に出していいものじゃないからな……」
「神様案件は『取り扱い注意』ってことか」
「ごめんね……」
美鵺子は刀を虚空に仕舞ってから、両手を合わせて頭を下げる。
「いや、美鵺子が謝る必要はないよ」
恭は答えると、人差し指で自分の膝をトントンと叩きながら思案げにうつむいた。
「……だけど、もし、俺がその刀を手にすれば、あの犬神を祓える可能性が出てくるってことだよな……」
恭は眉間に皺を寄せ、足元の一点を見つめたまま説明を始めた。
「犬神を作るのに必要なものは二つ。生き地獄を経験し、心に深い傷を負った犬の霊と、犬神の主人になる人間の強い怨念だ。犬と人の精神は本来異質なものだから、簡単には混ざり合わない。しかし、心の闇を触媒にして融合させれば、犬の霊に人の怨念を無理やり取り込ませることができる。そうして作られるのが犬神というわけだ。そのため、犬神は動物妖怪でありながら、人の怨霊の特性を兼ね備えている。祓うためには犬の霊から人の怨念を切り離さなければならない」
「そんな……。不幸な犬の霊を利用するなんて……」
与一はショックを受けた様子で絶句した。恭は口元を歪めて小さくため息をつく。
「残念ながら、今の時代、器となる犬の霊には事欠かなかったんだろう。劣悪な飼育環境で飼育されている犬や、殺処分される犬は数えきれない。京都には野良犬だっている」
「ああ、そういえば見たことあるな。桂川の野良犬のニュース……」
「犬の霊を成仏させたければ、怨霊の調伏の手順が必要になる。しかし、俺にそんな力はない……。返り討ちにあうのがオチだ」
恭はうなだれた。
「そうか……。ただの動物妖怪じゃないっていうのが厄介だな。犬神って聞いて、恭の出番に違いないと思ったんだけど……」
「悪いが、今回は力になれそうにない。いや、それどころか、あの老人から自分の身を守ることすらままならないかもしれない」
ギリッと恭は爪を噛む。
「うーん……。犬神に弱点ってないのかな?」
与一は難しい顔をして唸った。
「特にこれといった弱点はなかったと思う。あいつらは犬と人の能力を併せ持っているから隙がないんだよ。犬神を倒すためには、純粋に強い妖力を叩きつけるしかない。そうだな……。何か呪具で妖力を強化すれば、あるいは……」
そこまで言ってから、恭は何かを思い出した様子で美鵺子を振り返った。
「そうだ。そういえば美鵺子は祇園祭の時に妖刀で犬神を祓ってたよな?」
「えっ!? ああ、あれね……」
美鵺子は狼狽えたように恭から目を逸らして口ごもった。
「ええっと、あの時はまだ犬神の力が不完全やったから何とかなったけど、今では難しいんちゃうかな……」
「そうか……。でも、美鵺子のその反応はどうも怪しいぞ? 何か隠してるのか?」
「かっ、隠してへんよ!?」
「……嘘下手くそか」
恭は吐息を漏らすと、問いかけるような視線で美鵺子を見上げた。美鵺子はぎゅっと唇を引き結んでから、観念した様子で口を開く。
「……あのね。あの刀……実は稲荷山で拾った神具で、私は正当な所有者じゃないねん」
「えっ!?」
思いがけない返答に、恭と与一は同時に驚きの声を上げた。
「えーっと、つまり、あの妖刀は美鵺子が稲荷山で気を失った時に拾ったってことか?」
恭が問うと、美鵺子はこくりと頷き、両手を前に差し出した。その手の上に、ぼんやりと妖刀の姿が浮かび上がる。
「そう。あの時私は、この刀の『記憶』に圧倒されて意識を失ってしまって、それからずっとこの刀を預かり続けてる……。でも、私は正当な所有者じゃないから、この刀の妖力はだんだん弱まってきてるねん。それなのに、この前は思わず、犬神を斬るのにこの刀を使っちゃった……」
確かに美鵺子の言う通り、明るいところで見ると、先が欠けた妖刀の刃はところどころ錆び、痛んでいるのがよく分かった。
「ちょっ、ちょっと待って。俺ついていけてないけど、美鵺子ちゃんは、その正当な所有者っていうのが誰かはすでに分かってるってこと?」
与一が慌てて手を振って割り込む。
「うん……」
頷いた美鵺子は顔を上げると、複雑な感情を宿した瞳を恭の方に向けた。
「えっ!? 俺!?」
恭は指で自分の顔を指さし、愕然とした表情を浮かべた。美鵺子はもう一度、静かに首を縦に振る。
「そう。この刀の正当な所有者は恭……。でも、わけあって、これを恭に渡すことはまだできへんねん」
「いや、嘘だろ? 俺はそんな刀知らないし、なんの縁もゆかりもないと思うぜ?」
恭は動揺を露わにした。しかし、美鵺子の真剣な口ぶりと表情から察するに、彼女が嘘を言っていないことは疑いの余地もなかった。
「ううん。これはほんまのこと。この刀の記憶を通じて知ったことやねん。……今まで黙っててごめん」
いきなり驚愕の事実を告げられ、恭は困惑した様子で耳の後ろをかく。
「いいや……いいよ。美鵺子が言わなかったのも、何か理由があるんだろうし……」
「恭に刀を渡せないわけっていうのは? それも美鵺子ちゃんの口からは言えないの?」
与一が尋ねると、美鵺子は申し訳なさそうに黙って頭を垂れた。恭は眉根に皺を寄せて下唇を噛む。
「そうか。言えないのなら仕方がない。神々が絡む事柄は軽率に口に出していいものじゃないからな……」
「神様案件は『取り扱い注意』ってことか」
「ごめんね……」
美鵺子は刀を虚空に仕舞ってから、両手を合わせて頭を下げる。
「いや、美鵺子が謝る必要はないよ」
恭は答えると、人差し指で自分の膝をトントンと叩きながら思案げにうつむいた。
「……だけど、もし、俺がその刀を手にすれば、あの犬神を祓える可能性が出てくるってことだよな……」
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