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第五章
雷獣の怪 2
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与一は扇風機の側から立ち上がると、そそくさとトイレに避難しようとしている恭の腕を後ろから捕まえた。
「やめろ! 外に出たら暑すぎて溶ける!」
「溶けねーよ! そう言いたくなる気持ちは分かるけど!」
「あと五時間待てば日が暮れるだろ!? 怪異を見るなら夜の方が絶対にいいって!」
「今回は霊能力がなさそうな夫婦でも見えている妖怪だぜ? 恭なら昼間でも見えるんじゃないのか。それに、俺たちが早く依頼を正式に引き受けないと、他の陰陽師に先を越されてしまうかもしれないだろ?」
「結局それが本音か! この守銭奴め!」
「いーから。早く行くぞ。ほら!」
「だから、嫌だって言ってんだろ!」
「分かった分かった。今日の晩飯奢ってやるから!」
「ばん……めし……」
反射的に恭の動きが止まり、その顔にはっきりと迷いの色が浮かんだ。与一はニヤリと笑う。
「さあ、支度しろ。出発だ」
*
灼熱の太陽のもと、自転車を漕ぐこと約三十分。二人は哲学の道を越えてさらに山手に進み、坂の上の一軒家に辿り着いた。
「着いたぞ。この家だ」
与一が手書きの地図と建物を見比べ、表札を確認して後ろを振り返ると、恭は魂が抜けたように自転車のハンドルの上に突っ伏している。
「おーい、生きてるか?」
与一が問うと、くぐもった声がハンドルの下から漏れた。
「無理……死ぬ……」
「よし。生きてるな」
与一は構わずに呼び鈴を押す。恭は弾けるように顔を上げた。
「おい! ちょっと待て! まだ心の準備が……」
「しっ」
与一は人差し指を口に当て、恭を黙らせた。同時にインターホンから女性の『はい』と言う声が聞こえる。すぐさま与一は営業ボイスに切り替えて応答した。
「どうもこんにちは。先ほどお電話をさせて頂いた賀茂です。ご依頼の件につきまして、現場の確認に伺いました」
『ああ。さっきの。少々お待ちください』
間もなく玄関のドアが開き、中から和服姿で黒髪を結わえた女性が顔をのぞかせる。
「どうぞこちらへ」
女性が手招いてくれたので、二人は門をくぐって駐車場の横に自転車をとめ、古民家の中に入った。
「お邪魔します。いやあ、立派なお宅ですねえ」
与一は息をするようにおべっかを使い始める。しかし、その言葉がお世辞にならないほど、実に建物は立派であった。
何度かリフォームをしているのだろう。内装が綺麗で高級感が漂うと同時に、古い柱や梁からは長い歴史が感じられる。
増築したのか、大きさも申し分ない。きっと値の張る物件なのだろうと恭は思った。
「そうでしょう? この家は苦労して手に入れたんですよ。それにしても、えらい若い陰陽師さんやねえ……」
古民家に目を奪われていた恭は、そう言われてはじめて、女性が自分に注目していることに気がついた。
女性の口元には柔和な笑みが浮かんでいるが、目は笑っていない。今の言葉に『若くて頼りなさそうやけど大丈夫なんやろうね?』という含意があるのは明らかであった。
「あ、えっと……」
初対面の人間にいきなり不信感を露わにされ、恭は口ごもるばかりである。
と、すかさず与一が恭の肩を叩き、助け舟を出してくれた。
「いやー、こいつは期待の新星なんですよ。人と喋るのは得意ではないですけど、陰陽師としての実力は確かなのでご心配なく!」
「ふーん。まあ、ちゃんと祓ってくれるなら、誰でもええんやけどね。お寺さんを呼んでも、神社に頼んでも、みんな『祓えへん』って言わはるし……。こちらは藁にもすがる思いなんです」
女性はため息をつく。与一は愛想笑いをしながら身を低くして両手を揉んだ。
「ええ、ええ。大変お困りだという噂を耳にしたので、私どもがお力になれればとご連絡させて頂いたんですよ」
ぺらぺらと調子のよい言葉を連ねる。しかし、その高いトークスキルはかえって詐欺師のようで怪しいことこの上ない。恭が女性の表情を見ると、こちらが余計に信用を失ってしまっているのが分かった。
「……電話でお話しした通り、きちんと祓えたことが確認できるまでお金は払いませんからね」
案の定、女性は険しい口調で釘を刺してくる。ところが、与一は全然応えていない様子で堂々と胸を張った。
「それはもちろんですとも! 大船に乗った気持ちでお任せ下さい!」
おい。勝手に自信満々で請け負うのやめろ。
恭は慌てて与一の背中を指でつついて囁く。
「いいから早く妖怪のところに案内してもらってくれ」
「分かった分かった」
与一は囁き返して、女性に向き直った。
「それでは白川さん。早速ですが、例の雷が落ちたという木を見せてもらってもいいですか?」
「……分かりました。それでは見るだけ見てもらいましょうかね」
女性――白川夫人は品定めするように恭をジロッと見てから二人に背を向けた。
うっ!?
刹那、恭の背筋にぞわりと不快感が走る。
何だろう。この人は外見こそ上品だが、心の中に底知れない意地の悪さが垣間見えた気がする……。
「あの木は裏庭にあります。お陰であの化け物が近所に知れ渡ることなく済んでいるんですよ」
白川夫人は話しながら二人を率いて歩き始めた。板張りの廊下を進み、裏庭に面した窓に向かう。すると途中でいきなり奥の扉が開き、和装の男性が廊下に顔を出してきた。
「おい、お前、この絵はゴミでいいか? あのばあさん、趣味で描いてた日本画を押し入れにため込んでたみたいなんだが……」
「やめろ! 外に出たら暑すぎて溶ける!」
「溶けねーよ! そう言いたくなる気持ちは分かるけど!」
「あと五時間待てば日が暮れるだろ!? 怪異を見るなら夜の方が絶対にいいって!」
「今回は霊能力がなさそうな夫婦でも見えている妖怪だぜ? 恭なら昼間でも見えるんじゃないのか。それに、俺たちが早く依頼を正式に引き受けないと、他の陰陽師に先を越されてしまうかもしれないだろ?」
「結局それが本音か! この守銭奴め!」
「いーから。早く行くぞ。ほら!」
「だから、嫌だって言ってんだろ!」
「分かった分かった。今日の晩飯奢ってやるから!」
「ばん……めし……」
反射的に恭の動きが止まり、その顔にはっきりと迷いの色が浮かんだ。与一はニヤリと笑う。
「さあ、支度しろ。出発だ」
*
灼熱の太陽のもと、自転車を漕ぐこと約三十分。二人は哲学の道を越えてさらに山手に進み、坂の上の一軒家に辿り着いた。
「着いたぞ。この家だ」
与一が手書きの地図と建物を見比べ、表札を確認して後ろを振り返ると、恭は魂が抜けたように自転車のハンドルの上に突っ伏している。
「おーい、生きてるか?」
与一が問うと、くぐもった声がハンドルの下から漏れた。
「無理……死ぬ……」
「よし。生きてるな」
与一は構わずに呼び鈴を押す。恭は弾けるように顔を上げた。
「おい! ちょっと待て! まだ心の準備が……」
「しっ」
与一は人差し指を口に当て、恭を黙らせた。同時にインターホンから女性の『はい』と言う声が聞こえる。すぐさま与一は営業ボイスに切り替えて応答した。
「どうもこんにちは。先ほどお電話をさせて頂いた賀茂です。ご依頼の件につきまして、現場の確認に伺いました」
『ああ。さっきの。少々お待ちください』
間もなく玄関のドアが開き、中から和服姿で黒髪を結わえた女性が顔をのぞかせる。
「どうぞこちらへ」
女性が手招いてくれたので、二人は門をくぐって駐車場の横に自転車をとめ、古民家の中に入った。
「お邪魔します。いやあ、立派なお宅ですねえ」
与一は息をするようにおべっかを使い始める。しかし、その言葉がお世辞にならないほど、実に建物は立派であった。
何度かリフォームをしているのだろう。内装が綺麗で高級感が漂うと同時に、古い柱や梁からは長い歴史が感じられる。
増築したのか、大きさも申し分ない。きっと値の張る物件なのだろうと恭は思った。
「そうでしょう? この家は苦労して手に入れたんですよ。それにしても、えらい若い陰陽師さんやねえ……」
古民家に目を奪われていた恭は、そう言われてはじめて、女性が自分に注目していることに気がついた。
女性の口元には柔和な笑みが浮かんでいるが、目は笑っていない。今の言葉に『若くて頼りなさそうやけど大丈夫なんやろうね?』という含意があるのは明らかであった。
「あ、えっと……」
初対面の人間にいきなり不信感を露わにされ、恭は口ごもるばかりである。
と、すかさず与一が恭の肩を叩き、助け舟を出してくれた。
「いやー、こいつは期待の新星なんですよ。人と喋るのは得意ではないですけど、陰陽師としての実力は確かなのでご心配なく!」
「ふーん。まあ、ちゃんと祓ってくれるなら、誰でもええんやけどね。お寺さんを呼んでも、神社に頼んでも、みんな『祓えへん』って言わはるし……。こちらは藁にもすがる思いなんです」
女性はため息をつく。与一は愛想笑いをしながら身を低くして両手を揉んだ。
「ええ、ええ。大変お困りだという噂を耳にしたので、私どもがお力になれればとご連絡させて頂いたんですよ」
ぺらぺらと調子のよい言葉を連ねる。しかし、その高いトークスキルはかえって詐欺師のようで怪しいことこの上ない。恭が女性の表情を見ると、こちらが余計に信用を失ってしまっているのが分かった。
「……電話でお話しした通り、きちんと祓えたことが確認できるまでお金は払いませんからね」
案の定、女性は険しい口調で釘を刺してくる。ところが、与一は全然応えていない様子で堂々と胸を張った。
「それはもちろんですとも! 大船に乗った気持ちでお任せ下さい!」
おい。勝手に自信満々で請け負うのやめろ。
恭は慌てて与一の背中を指でつついて囁く。
「いいから早く妖怪のところに案内してもらってくれ」
「分かった分かった」
与一は囁き返して、女性に向き直った。
「それでは白川さん。早速ですが、例の雷が落ちたという木を見せてもらってもいいですか?」
「……分かりました。それでは見るだけ見てもらいましょうかね」
女性――白川夫人は品定めするように恭をジロッと見てから二人に背を向けた。
うっ!?
刹那、恭の背筋にぞわりと不快感が走る。
何だろう。この人は外見こそ上品だが、心の中に底知れない意地の悪さが垣間見えた気がする……。
「あの木は裏庭にあります。お陰であの化け物が近所に知れ渡ることなく済んでいるんですよ」
白川夫人は話しながら二人を率いて歩き始めた。板張りの廊下を進み、裏庭に面した窓に向かう。すると途中でいきなり奥の扉が開き、和装の男性が廊下に顔を出してきた。
「おい、お前、この絵はゴミでいいか? あのばあさん、趣味で描いてた日本画を押し入れにため込んでたみたいなんだが……」
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