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第四章
恭の脱ひきこもり作戦 祇園祭編 1
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七月。京都の街のあちこちでお囃子が鳴り響き、祇園祭ムード一色に染まる月である。
恭は陰陽師業でまとまった収入を得たお陰で、以前よりは少しマシな生活が送れるようになっていた。
しかし……
「あー、暑い……。しんどい……。もうヤダ……」
彼は今日も今日とて、行き倒れの如く、パンツ一丁で床の上にひっくり返っていた。
その傍に放置されているのは九条ネギと水菜がはみ出たバッグ、そして乱雑に脱ぎ捨てられた汗だくの服の塊。
久々に青空が見えたので、買い物に出かけてみたらこのざまである。
照りつける日差しと観光客の大軍に圧倒され、身も心もすっかり参ってしまった。
「うぐ、頑張れ。俺……」
這うようにして冷蔵庫までたどり着き、冷凍室からアイスキャンデーを引っ張り出して口に押し込む。
火照った体に冷たい甘さが心地よい。恭はやっと一息をついた。
「はあ……。こんな調子じゃ、まともな社会人としてはやっていけねーな……」
自嘲気味に呟きながら食べ終わったアイスの棒をゴミ箱に投げ込み、仰向けになって天井をぼんやりと眺める。
畜生……。それもこれも、若手随一と言われる霊能力と引き換えにこの身に課されてしまったお豆腐メンタルのせいだ。
「霊能のパラドックス」という新しい陰陽道の考え方では、これは俺の特異体質ということらしい。しかし、多数派の人を中心に回っている社会で生きていくためには、仕方ないとも言っていられない。
「くそっ。難儀な人生だな……」
いじけたように独り言ちると疲れがどっと押し寄せてきて、このまま眠ってしまいたい衝動に襲われた。だが、もしそんなことをすれば、冷房で腹が冷えて体調を崩すのは必至である。
呻きながら恭が身を起こそうとしたちょうどその時、玄関チャイムが高らかに鳴り響いた。
何だよ。こんな時に……。誰だか知らねーけど、答えてやんねーぞ……。
恭は眉を曇らせてドアに目を向ける。
物音を立てなければ、俺がいることには気づかれないはずだ。今はこんな格好だし、居留守を使ってやり過ごそう……。
そう恭が心に決めた瞬間、ドアの外から聞きなれた声が彼の耳に届いた。
「恭ー? 起きてるー?」
「み、美鵺子っ!? なんで!?」
恭がどたどたと慌ててドアの前に駆け寄ると、ドアの向こうから不機嫌そうな声が答えた。
「なんでって、今日は一緒に宵山行こうって言ってたやん」
「えっ? 嘘!? 今日……?」
恭は片手で頭を抱えながら壁に掛けたカレンダーを見返した。
ずっと家にいたせいで日にちが分からなくなっていたが、そういえば今日が宵山だったということに気が付く。
宵山とは、祇園祭山鉾巡行の前夜祭のこと。歩行者天国になった車道に山や鉾、屋台が立ち並んで大変にぎわうのだ。
祇園祭のハイライトと言えば巡行当日であるが、散策して楽しむのは宵山がメインである。
無論、恭はそんな人混みに繰り出したくはない。しかし、美鵺子に誘われると、なぜか断ることができないのはいつものことであった。
「日付忘れてたん? さては、ずっと家から出てへんかったんやろ」
ドアの外から美鵺子の声が問う。恭は唇を噛んだが、咄嗟に取り繕おうとすぐさま口を開いた。
「そんなことねーよ。さっきも買い物に行ってきたばかりだし……」
「へえっ! 何日ぶりに?」
「う……」
恭は言葉に詰まった。前に家から出たのがいつだったのか、すぐには思い出せない。
「ほら。やっぱりひきこもってたんやん。開けていい?」
「ちょ、ちょっと待って!」
恭は慌ててドアノブを手で押さえた。
「どうしたん?」
「準備するから、あと三十秒待って!」
パンツ姿を見られてはたまったものではない。恭は大急ぎで服を着てから脱ぎ捨てた服を部屋の隅に隠し、ドアを押し開けた。
「お、おまたせ……」
美鵺子の姿が目に入った途端、恭は思わずドキッとして目を見張った。
美鵺子は浴衣を着ていたのだ。涼しげな水色の。
「びっくりした? いいやろ?」
美鵺子は悪戯っぽく笑って、ひょいと両袖を持ち上げて見せた。
「あ、ああ……」
恭は美鵺子から視線を逸らし、平静を装う。
しかし、美鵺子の満足げな表情から察するに、恭の動揺は隠しきれていなかったようだ。
「それじゃあ、行こっか」
美鵺子は明るい笑顔を恭に向けてくる。
「はあ……。仕方ねえなあ」
恭は気が進まないような返事をしつつも、まんまと部屋の外に誘い出されてしまった。ただの幼馴染のくせに、この愛嬌は卑怯だと思う。美鵺子自身は無自覚なのだろうが……。
「大体、なんで俺なんかを宵山に誘うんだよ。他に女友達とかいねーのか」
鍵をかけながら恭が問うと、美鵺子は肩をすくめて苦笑した。
「彼氏と回る子は今日は空いてへんやろ?」
「ああ……。なるほど……」
言われてみればそうかと納得したが、なぜか心がチクリと痛む。
「ははーん。自分だけ置いてけぼりになったから、いない彼氏の代わりに俺を連れて行こうって魂胆だったんだな」
つい意地の悪い口ぶりになった。
「そ、そんなつもりちゃうよ!? いや、そういうことになるけど……」
口ごもる美鵺子を見て、恭は自分が美鵺子を責められる立場にないことを思い出す。
「――ごめん。別に気にしてないよ」
恭は陰陽師業でまとまった収入を得たお陰で、以前よりは少しマシな生活が送れるようになっていた。
しかし……
「あー、暑い……。しんどい……。もうヤダ……」
彼は今日も今日とて、行き倒れの如く、パンツ一丁で床の上にひっくり返っていた。
その傍に放置されているのは九条ネギと水菜がはみ出たバッグ、そして乱雑に脱ぎ捨てられた汗だくの服の塊。
久々に青空が見えたので、買い物に出かけてみたらこのざまである。
照りつける日差しと観光客の大軍に圧倒され、身も心もすっかり参ってしまった。
「うぐ、頑張れ。俺……」
這うようにして冷蔵庫までたどり着き、冷凍室からアイスキャンデーを引っ張り出して口に押し込む。
火照った体に冷たい甘さが心地よい。恭はやっと一息をついた。
「はあ……。こんな調子じゃ、まともな社会人としてはやっていけねーな……」
自嘲気味に呟きながら食べ終わったアイスの棒をゴミ箱に投げ込み、仰向けになって天井をぼんやりと眺める。
畜生……。それもこれも、若手随一と言われる霊能力と引き換えにこの身に課されてしまったお豆腐メンタルのせいだ。
「霊能のパラドックス」という新しい陰陽道の考え方では、これは俺の特異体質ということらしい。しかし、多数派の人を中心に回っている社会で生きていくためには、仕方ないとも言っていられない。
「くそっ。難儀な人生だな……」
いじけたように独り言ちると疲れがどっと押し寄せてきて、このまま眠ってしまいたい衝動に襲われた。だが、もしそんなことをすれば、冷房で腹が冷えて体調を崩すのは必至である。
呻きながら恭が身を起こそうとしたちょうどその時、玄関チャイムが高らかに鳴り響いた。
何だよ。こんな時に……。誰だか知らねーけど、答えてやんねーぞ……。
恭は眉を曇らせてドアに目を向ける。
物音を立てなければ、俺がいることには気づかれないはずだ。今はこんな格好だし、居留守を使ってやり過ごそう……。
そう恭が心に決めた瞬間、ドアの外から聞きなれた声が彼の耳に届いた。
「恭ー? 起きてるー?」
「み、美鵺子っ!? なんで!?」
恭がどたどたと慌ててドアの前に駆け寄ると、ドアの向こうから不機嫌そうな声が答えた。
「なんでって、今日は一緒に宵山行こうって言ってたやん」
「えっ? 嘘!? 今日……?」
恭は片手で頭を抱えながら壁に掛けたカレンダーを見返した。
ずっと家にいたせいで日にちが分からなくなっていたが、そういえば今日が宵山だったということに気が付く。
宵山とは、祇園祭山鉾巡行の前夜祭のこと。歩行者天国になった車道に山や鉾、屋台が立ち並んで大変にぎわうのだ。
祇園祭のハイライトと言えば巡行当日であるが、散策して楽しむのは宵山がメインである。
無論、恭はそんな人混みに繰り出したくはない。しかし、美鵺子に誘われると、なぜか断ることができないのはいつものことであった。
「日付忘れてたん? さては、ずっと家から出てへんかったんやろ」
ドアの外から美鵺子の声が問う。恭は唇を噛んだが、咄嗟に取り繕おうとすぐさま口を開いた。
「そんなことねーよ。さっきも買い物に行ってきたばかりだし……」
「へえっ! 何日ぶりに?」
「う……」
恭は言葉に詰まった。前に家から出たのがいつだったのか、すぐには思い出せない。
「ほら。やっぱりひきこもってたんやん。開けていい?」
「ちょ、ちょっと待って!」
恭は慌ててドアノブを手で押さえた。
「どうしたん?」
「準備するから、あと三十秒待って!」
パンツ姿を見られてはたまったものではない。恭は大急ぎで服を着てから脱ぎ捨てた服を部屋の隅に隠し、ドアを押し開けた。
「お、おまたせ……」
美鵺子の姿が目に入った途端、恭は思わずドキッとして目を見張った。
美鵺子は浴衣を着ていたのだ。涼しげな水色の。
「びっくりした? いいやろ?」
美鵺子は悪戯っぽく笑って、ひょいと両袖を持ち上げて見せた。
「あ、ああ……」
恭は美鵺子から視線を逸らし、平静を装う。
しかし、美鵺子の満足げな表情から察するに、恭の動揺は隠しきれていなかったようだ。
「それじゃあ、行こっか」
美鵺子は明るい笑顔を恭に向けてくる。
「はあ……。仕方ねえなあ」
恭は気が進まないような返事をしつつも、まんまと部屋の外に誘い出されてしまった。ただの幼馴染のくせに、この愛嬌は卑怯だと思う。美鵺子自身は無自覚なのだろうが……。
「大体、なんで俺なんかを宵山に誘うんだよ。他に女友達とかいねーのか」
鍵をかけながら恭が問うと、美鵺子は肩をすくめて苦笑した。
「彼氏と回る子は今日は空いてへんやろ?」
「ああ……。なるほど……」
言われてみればそうかと納得したが、なぜか心がチクリと痛む。
「ははーん。自分だけ置いてけぼりになったから、いない彼氏の代わりに俺を連れて行こうって魂胆だったんだな」
つい意地の悪い口ぶりになった。
「そ、そんなつもりちゃうよ!? いや、そういうことになるけど……」
口ごもる美鵺子を見て、恭は自分が美鵺子を責められる立場にないことを思い出す。
「――ごめん。別に気にしてないよ」
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