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7.一夜の幻(後編)
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「お誕生日おめでとうございます、王妃陛下。今年もたくさんの幸いが陛下にございますように」
貴族たちが一家族ずつ王妃と国王に挨拶を述べていく。今宵の主役である王妃は誰よりも華やかな装いで、丁寧に挨拶を返していく。
だが、皆の視線を最も集めたのは王妃ではなかった。
海のように青く、花びらのように可憐にふくらんだドレスを纏った美しい人影――王女セレネだ。
幾重にも重ねられたベールで顔を隠してるが、噂の『病的な精神』の不気味さを、芸術品のような美しさが上回っている。少し動く度に靡く刺繍で縁取られたベールは柔らかく優しい。
弟王子ギュスターヴと並んでいることも注目される理由だ。姉弟が揃って公の場に出たのはこれが初めてのことだった。
しかし、当のセレネは真新しいドレスの中で強張っていた。
初等学校の時とは比べ物にならないほどの興味本位な視線を浴びているのだ。自分へ向けられた会釈を返すだけで精一杯だ。
ちらりと隣のギュスターヴを盗み見る。小さい頃から同じような場を経験してきたお陰か、既に王子に相応しい気品を身に着けているようだ。いつの間にこんなに立派になったのだろうか。現実逃避のように弟の成長に感動しながら、セレネはぐらつきそうな両脚を懸命に立たせていた。
「おお、やっとお出ましか」
王の嬉しそうな声に目を上げる。その時、胸がどきりとした。
宰相であるエイル公爵とその家族だ。宰相たちは挨拶を交わした後、彼らの息子をこちらへ押し出した。
「セレネ殿下。ギュスターヴ殿下。既にお聞き及びかもしれませんが、紹介させてください。私の息子のユーグです」
一目ではそうだとは分からなかった。軍の礼服に身を包み、金髪を緩やかに撫で付けた姿が、あまりにも麗しかったからだ。
「はじめまして、セレネ殿下、ギュスターヴ殿下。ツァイス子爵ユーグ・リクトリアです。お会いできて光栄です」
「……あ、ええ、はじめまして」
手袋をつけたままの手を差し出し、甲にユーグの口づけを受ける。躊躇いのない仕草や上目遣いの小さな笑みが、二人だけの合図のようだ。
ギュスターヴも同じように手に口づけを受けた。幼年のため引っ込める手は素早いが、ユーグを見る目は好奇心に溢れていた。
「ギュスターヴは最近、どこかの平和的な英雄のことが気になって仕方ないようでな」
「おや、誰のことでしょうか。私以外にその称号が似合う者がいたかな?」
一同は笑った。ギュスターヴがはにかみながら言う。
「今度、私にもエリニアでの経験を教えて下さい」
ユーグは小さな王子へ向き直った。
「もちろんです。いつでもお呼びください」
「きっとですよ、子爵。それと……」
口元に手を添えたので、ユーグは耳を近づける。すると、その耳だけを赤くした。
「はい」
自分に関係する話をされた気がする。セレネは二人から視線を引き剥がした。
「そろそろ始めよう」
王の一声により、楽隊がワルツを奏で始めた。
最初に両陛下がホールへ滑り出た。二十年間、互いを支え合ってきた夫婦のダンスは、ぴったりと息があっていて伸びやかだ。
両親に見入っていたセレネは、我に返って周囲を見た。二番手を期待する視線が集まっている。
「セレネ殿下」
聞き慣れた声が呼ぶ。ユーグが片膝を突いて手を差し伸べる。
「私と踊って頂けますか?」
返事をしようと唇を開いたが、声は喉に張り付いて出てこなかった。
だが、もういいだろう。口を動かしたかどうかなど、どうせ誰にも見えないのだから。
微笑みに誘われるがまま手を重ねる。軽く引っ張られると、不思議なほど軽やかに脚が動いた。
ホールへ出て互いに一礼し、ユーグの手が腰に回される。
「わたし……練習したのよ」
「大丈夫。ついて行くよ」
緊張を察し、ユーグが頷く。その若葉色の瞳が厚いベールで淡く青に染まっている。
もしも手袋もベールもなければ、今頃は。
セレネは最初の一歩を踏み出した。
踏んでしまうと思われたユーグの足はそこになかった。当たり前のことなのに不思議な感じがして、試すつもりでもう片方の足も踏み出す。やはりない。まるで子どもの遊びのようだ。
基本的なステップに夢中になっている間に、ユーグがさり気なく位置を変えてくれる。ユーグの背景がゆっくりと流れていく。皆が自分たちに魅入っている様子が見える。
夢のように、心も体も軽い。
ふと、ユーグが口の端を上げる。
「つかまって」
「え?」
「最後の一拍子目で跳ぶんだ。できる?」
返事をする余裕はなかった。腰を支えられたので、慌てて肩に手を掛ける。気づけば途中から入った曲はもう終盤に差し掛かっていた。最後を技で飾るつもりなのだ。
高揚感に押し出されるように、セレネは両足でジャンプした。
シャンデリアの輝きがユーグの瞳に宿る。世界が回る。海の深みから浮上するように、視界が透明になっていく。
それは実際には一瞬のことだったが、曲が終わっても心はまだ宙を浮いていた。ユーグが目を瞠ってこちらを覗き込んでいる。
「セレネ……」
「なに?」
「貴方が、見える」
意味を理解するのに数秒かかった。
弾かれたようにユーグの腕を離れ、冷静を装った足取りでバルコニーへ向かう。皆は王女のために道を開けたが、ユーグの前には次のダンスの相手を狙う淑女たちの厚い壁だけができた。
「失礼!」
人をかき分けてバルコニーに駆け込んだ時、セレネは背を向けていた。
「セレネ……!」
「見ないで」
か細い声を聞いたユーグの息が一瞬詰まる。
「どうして?」
「……恥ずかしいの!」
「何が!」
「だって、お化粧もしてないのよ!」
ユーグは膝からくずおれそうになったのを堪えた。
「どうせ見えないからってお手入れは適当だったし、隈ができても構わないからって夜更しをたくさんしてきたのよ。それに日光にも当たってないの。それを八年間続けたのよ! どうなってるか分からないわ!」
「セレネ」
顔のベールを押さえるセレネの前へ回り込み、その両手を取る。
「俺を見て。目を逸らさないで、閉じないで」
真剣な声に抗えず、セレネは上を向いた。
曇ったガラスのように景色が霞むベール、その厚い積み重なりが一枚ずつ取り払われていく。こちらからは見えるが、向こうからは見えないという安心感と引き換えに自分を覆っていた壁を、ユーグが取り去っていく。
「……黒いまつげが見える。眉も黒くて、凛々しい美人だ。白い肌が火照ってて可愛い。瞳は……菫色で、星みたいに輝いてる」
夜風は驚くほど冷たく爽やかだった。
一点の曇りもない空気が瞳に触れている。妨げるものは何もない。パーティホールのざわめきが意外と近くなり、遠くの木の葉擦れの音が耳に届く。
澄みきった感覚の中央に、ユーグの柔らかな笑みがある。その瞳いっぱいに自分が映っている。
「セレネが見えるよ」
手袋を外した熱い手が頬を覆う。
顔が近づいてきて、思わずぎゅっと目を閉じる。だが、降ってきたのは小さな笑いの吐息だった。
頬を撫でられて恐る恐る目を開く。
「強引なことはしないさ。……それとも、した方がよかった?」
「……っも、う」
俯きかけた時、ユーグが驚いたように顎を支える。
「消えかけてる」
「え……」
頬に手をやったが、それで分かるわけはない。代わりにユーグの表情が自分に起こっていることを表している。セレネは急いでベールをかき下ろした。
「悪かったよ。キスするから消えないでくれ」
「そ、そんなこと言われても。わたしの自由じゃなくてよ」
「あぁ……セレネ」
抱きしめられたセレネの体がその場で半回転させられ、ホールから見えないようユーグの陰に隠される。
「貴方が好きだ」
心の深みを言葉が優しく打つ。放り込まれた丸い石が小さな飛沫を上げた後、水底へ到達するように。
セレネは何度か唇を開いた後、とうとう声を振り絞った。
「わたしも、好きよ」
顔を上げると、誰よりも正確に自分を知る瞳が視線を合わせ、嬉しさと安堵で笑った。
貴族たちが一家族ずつ王妃と国王に挨拶を述べていく。今宵の主役である王妃は誰よりも華やかな装いで、丁寧に挨拶を返していく。
だが、皆の視線を最も集めたのは王妃ではなかった。
海のように青く、花びらのように可憐にふくらんだドレスを纏った美しい人影――王女セレネだ。
幾重にも重ねられたベールで顔を隠してるが、噂の『病的な精神』の不気味さを、芸術品のような美しさが上回っている。少し動く度に靡く刺繍で縁取られたベールは柔らかく優しい。
弟王子ギュスターヴと並んでいることも注目される理由だ。姉弟が揃って公の場に出たのはこれが初めてのことだった。
しかし、当のセレネは真新しいドレスの中で強張っていた。
初等学校の時とは比べ物にならないほどの興味本位な視線を浴びているのだ。自分へ向けられた会釈を返すだけで精一杯だ。
ちらりと隣のギュスターヴを盗み見る。小さい頃から同じような場を経験してきたお陰か、既に王子に相応しい気品を身に着けているようだ。いつの間にこんなに立派になったのだろうか。現実逃避のように弟の成長に感動しながら、セレネはぐらつきそうな両脚を懸命に立たせていた。
「おお、やっとお出ましか」
王の嬉しそうな声に目を上げる。その時、胸がどきりとした。
宰相であるエイル公爵とその家族だ。宰相たちは挨拶を交わした後、彼らの息子をこちらへ押し出した。
「セレネ殿下。ギュスターヴ殿下。既にお聞き及びかもしれませんが、紹介させてください。私の息子のユーグです」
一目ではそうだとは分からなかった。軍の礼服に身を包み、金髪を緩やかに撫で付けた姿が、あまりにも麗しかったからだ。
「はじめまして、セレネ殿下、ギュスターヴ殿下。ツァイス子爵ユーグ・リクトリアです。お会いできて光栄です」
「……あ、ええ、はじめまして」
手袋をつけたままの手を差し出し、甲にユーグの口づけを受ける。躊躇いのない仕草や上目遣いの小さな笑みが、二人だけの合図のようだ。
ギュスターヴも同じように手に口づけを受けた。幼年のため引っ込める手は素早いが、ユーグを見る目は好奇心に溢れていた。
「ギュスターヴは最近、どこかの平和的な英雄のことが気になって仕方ないようでな」
「おや、誰のことでしょうか。私以外にその称号が似合う者がいたかな?」
一同は笑った。ギュスターヴがはにかみながら言う。
「今度、私にもエリニアでの経験を教えて下さい」
ユーグは小さな王子へ向き直った。
「もちろんです。いつでもお呼びください」
「きっとですよ、子爵。それと……」
口元に手を添えたので、ユーグは耳を近づける。すると、その耳だけを赤くした。
「はい」
自分に関係する話をされた気がする。セレネは二人から視線を引き剥がした。
「そろそろ始めよう」
王の一声により、楽隊がワルツを奏で始めた。
最初に両陛下がホールへ滑り出た。二十年間、互いを支え合ってきた夫婦のダンスは、ぴったりと息があっていて伸びやかだ。
両親に見入っていたセレネは、我に返って周囲を見た。二番手を期待する視線が集まっている。
「セレネ殿下」
聞き慣れた声が呼ぶ。ユーグが片膝を突いて手を差し伸べる。
「私と踊って頂けますか?」
返事をしようと唇を開いたが、声は喉に張り付いて出てこなかった。
だが、もういいだろう。口を動かしたかどうかなど、どうせ誰にも見えないのだから。
微笑みに誘われるがまま手を重ねる。軽く引っ張られると、不思議なほど軽やかに脚が動いた。
ホールへ出て互いに一礼し、ユーグの手が腰に回される。
「わたし……練習したのよ」
「大丈夫。ついて行くよ」
緊張を察し、ユーグが頷く。その若葉色の瞳が厚いベールで淡く青に染まっている。
もしも手袋もベールもなければ、今頃は。
セレネは最初の一歩を踏み出した。
踏んでしまうと思われたユーグの足はそこになかった。当たり前のことなのに不思議な感じがして、試すつもりでもう片方の足も踏み出す。やはりない。まるで子どもの遊びのようだ。
基本的なステップに夢中になっている間に、ユーグがさり気なく位置を変えてくれる。ユーグの背景がゆっくりと流れていく。皆が自分たちに魅入っている様子が見える。
夢のように、心も体も軽い。
ふと、ユーグが口の端を上げる。
「つかまって」
「え?」
「最後の一拍子目で跳ぶんだ。できる?」
返事をする余裕はなかった。腰を支えられたので、慌てて肩に手を掛ける。気づけば途中から入った曲はもう終盤に差し掛かっていた。最後を技で飾るつもりなのだ。
高揚感に押し出されるように、セレネは両足でジャンプした。
シャンデリアの輝きがユーグの瞳に宿る。世界が回る。海の深みから浮上するように、視界が透明になっていく。
それは実際には一瞬のことだったが、曲が終わっても心はまだ宙を浮いていた。ユーグが目を瞠ってこちらを覗き込んでいる。
「セレネ……」
「なに?」
「貴方が、見える」
意味を理解するのに数秒かかった。
弾かれたようにユーグの腕を離れ、冷静を装った足取りでバルコニーへ向かう。皆は王女のために道を開けたが、ユーグの前には次のダンスの相手を狙う淑女たちの厚い壁だけができた。
「失礼!」
人をかき分けてバルコニーに駆け込んだ時、セレネは背を向けていた。
「セレネ……!」
「見ないで」
か細い声を聞いたユーグの息が一瞬詰まる。
「どうして?」
「……恥ずかしいの!」
「何が!」
「だって、お化粧もしてないのよ!」
ユーグは膝からくずおれそうになったのを堪えた。
「どうせ見えないからってお手入れは適当だったし、隈ができても構わないからって夜更しをたくさんしてきたのよ。それに日光にも当たってないの。それを八年間続けたのよ! どうなってるか分からないわ!」
「セレネ」
顔のベールを押さえるセレネの前へ回り込み、その両手を取る。
「俺を見て。目を逸らさないで、閉じないで」
真剣な声に抗えず、セレネは上を向いた。
曇ったガラスのように景色が霞むベール、その厚い積み重なりが一枚ずつ取り払われていく。こちらからは見えるが、向こうからは見えないという安心感と引き換えに自分を覆っていた壁を、ユーグが取り去っていく。
「……黒いまつげが見える。眉も黒くて、凛々しい美人だ。白い肌が火照ってて可愛い。瞳は……菫色で、星みたいに輝いてる」
夜風は驚くほど冷たく爽やかだった。
一点の曇りもない空気が瞳に触れている。妨げるものは何もない。パーティホールのざわめきが意外と近くなり、遠くの木の葉擦れの音が耳に届く。
澄みきった感覚の中央に、ユーグの柔らかな笑みがある。その瞳いっぱいに自分が映っている。
「セレネが見えるよ」
手袋を外した熱い手が頬を覆う。
顔が近づいてきて、思わずぎゅっと目を閉じる。だが、降ってきたのは小さな笑いの吐息だった。
頬を撫でられて恐る恐る目を開く。
「強引なことはしないさ。……それとも、した方がよかった?」
「……っも、う」
俯きかけた時、ユーグが驚いたように顎を支える。
「消えかけてる」
「え……」
頬に手をやったが、それで分かるわけはない。代わりにユーグの表情が自分に起こっていることを表している。セレネは急いでベールをかき下ろした。
「悪かったよ。キスするから消えないでくれ」
「そ、そんなこと言われても。わたしの自由じゃなくてよ」
「あぁ……セレネ」
抱きしめられたセレネの体がその場で半回転させられ、ホールから見えないようユーグの陰に隠される。
「貴方が好きだ」
心の深みを言葉が優しく打つ。放り込まれた丸い石が小さな飛沫を上げた後、水底へ到達するように。
セレネは何度か唇を開いた後、とうとう声を振り絞った。
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