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第五章
箱の中のカブトムシ④
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針の筵のような短大生活での思い出は、ほとんどない。でも、一つだけ興味深い講義があったのだけは覚えている。
それは【箱の中のカブトムシ】という心理学。
あるグループ一人一人にカブトムシの入った箱が配られる。でも他人の箱の中を覗き見ることはできないというルールが決められている。
すなわちグループのメンバーは自分の箱の中身を「カブトムシ」だと思っているけれど、他人の箱の中身が確認できないため、同じものが入っているかどうかはわからない。
皆「カブトムシ」だと思い込んではいるが、各自の箱には全く違うものが入っているかもしれないし、仮に「カブトムシ」が入っていても、オスかメスかまで同一とは限らない。
とどのつまり、自分の思考や気持ちは、どんなに頑張っても相手に正しく伝えることはできないという内容だった。
稀眼のせいで噓つき扱いされ苦しんでいた美亜には、その講義がじんっと心に染みた。
そっか偉い人がちゃんと実験してくれて、モヤモヤを理論的に証明してくれたんだと思ったら気持ちが少し楽になった。
そして、この気持ちを忘れないでおこうと思った。
誰かが見えないもので苦しんでいたら、全部を理解しなくても、その人の言葉を信じてあげようと思った。
二十歳になる前に心に誓ったそれは、数年経った今も変わらずキラキラ女子を目指す美亜の大事な指針となっている。
とはいえ、そのことをこんな危機的状況で思い出すなんて、ぶっちゃけ想像もしなかった。
「弟が泣いてる?……嘘言わないでよ美亜さん」
ぎこちない笑みを浮かべた博は、一歩、美亜に近付いた。
「う……嘘なんか言ってないですよ。弟さんは、泣いてます」
「はっ。泣いてる?正弘は、あそこで笑ってるじゃん。見えないの?」
「博さんこそ、見えてないんですか?こ……ここにいますよ、あなたの弟さん」
「いないよ」
カーテン近くに居ると主張する博に、部屋の隅でギャン泣きしていると主張する美亜。
これが誰の目にもわかるものならいざ知らず、幽霊となれば判定不可だ。
でも美亜は嘘は付いていない。本当のことしか言ってない。と、いうより、ここで本当のことを伝えている自分に驚いてさえいる。
彼は自分に乱暴したいわけでもなく、金品を奪いたいわけでもない。本当に弟と引き合わせたいだけのようだ。
なら我が身の安全を考えて、博を刺激しないで、適当に話を合わせるのが懸命な判断だ。その後、隙を付いて逃げるなり、早々に話を切り上げて撤退すれば誰も傷付かない。
そう頭ではわかっているけれど、困ったことに美亜の箱の中のカブトムシが「助けて」と訴えているのだ。
「お願い、お願いっ。お兄ちゃんを救って!助けて!お願い!!」
美亜の目に映る正弘は、何とか人の形を保っているドロドロの泥人形みたいで、直視したくない。
でもその声は子供特有の甲高いもので、聞いているこちらの琴線を的確に刺激してくれる。
あーもー……やだなぁ。怖いなぁ。殴られたらどうしよう。
博の目は、血走っているし、焦点も合っていない。酔っ払いとて、ここまで不安定な状態にはならないだろう。
だけど、ここで自分を曲げるわけにはいかない。
なぜなら美亜の描くキラキラ女子は、誰が何と言っても自分が正しいと思ったら、ちゃんと正しいと言える人間なのだ。
そうなりたいと、そうでありたいと願う美亜は、ここで引くことはできなかった。
それは【箱の中のカブトムシ】という心理学。
あるグループ一人一人にカブトムシの入った箱が配られる。でも他人の箱の中を覗き見ることはできないというルールが決められている。
すなわちグループのメンバーは自分の箱の中身を「カブトムシ」だと思っているけれど、他人の箱の中身が確認できないため、同じものが入っているかどうかはわからない。
皆「カブトムシ」だと思い込んではいるが、各自の箱には全く違うものが入っているかもしれないし、仮に「カブトムシ」が入っていても、オスかメスかまで同一とは限らない。
とどのつまり、自分の思考や気持ちは、どんなに頑張っても相手に正しく伝えることはできないという内容だった。
稀眼のせいで噓つき扱いされ苦しんでいた美亜には、その講義がじんっと心に染みた。
そっか偉い人がちゃんと実験してくれて、モヤモヤを理論的に証明してくれたんだと思ったら気持ちが少し楽になった。
そして、この気持ちを忘れないでおこうと思った。
誰かが見えないもので苦しんでいたら、全部を理解しなくても、その人の言葉を信じてあげようと思った。
二十歳になる前に心に誓ったそれは、数年経った今も変わらずキラキラ女子を目指す美亜の大事な指針となっている。
とはいえ、そのことをこんな危機的状況で思い出すなんて、ぶっちゃけ想像もしなかった。
「弟が泣いてる?……嘘言わないでよ美亜さん」
ぎこちない笑みを浮かべた博は、一歩、美亜に近付いた。
「う……嘘なんか言ってないですよ。弟さんは、泣いてます」
「はっ。泣いてる?正弘は、あそこで笑ってるじゃん。見えないの?」
「博さんこそ、見えてないんですか?こ……ここにいますよ、あなたの弟さん」
「いないよ」
カーテン近くに居ると主張する博に、部屋の隅でギャン泣きしていると主張する美亜。
これが誰の目にもわかるものならいざ知らず、幽霊となれば判定不可だ。
でも美亜は嘘は付いていない。本当のことしか言ってない。と、いうより、ここで本当のことを伝えている自分に驚いてさえいる。
彼は自分に乱暴したいわけでもなく、金品を奪いたいわけでもない。本当に弟と引き合わせたいだけのようだ。
なら我が身の安全を考えて、博を刺激しないで、適当に話を合わせるのが懸命な判断だ。その後、隙を付いて逃げるなり、早々に話を切り上げて撤退すれば誰も傷付かない。
そう頭ではわかっているけれど、困ったことに美亜の箱の中のカブトムシが「助けて」と訴えているのだ。
「お願い、お願いっ。お兄ちゃんを救って!助けて!お願い!!」
美亜の目に映る正弘は、何とか人の形を保っているドロドロの泥人形みたいで、直視したくない。
でもその声は子供特有の甲高いもので、聞いているこちらの琴線を的確に刺激してくれる。
あーもー……やだなぁ。怖いなぁ。殴られたらどうしよう。
博の目は、血走っているし、焦点も合っていない。酔っ払いとて、ここまで不安定な状態にはならないだろう。
だけど、ここで自分を曲げるわけにはいかない。
なぜなら美亜の描くキラキラ女子は、誰が何と言っても自分が正しいと思ったら、ちゃんと正しいと言える人間なのだ。
そうなりたいと、そうでありたいと願う美亜は、ここで引くことはできなかった。
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