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☆閑話☆ 隠し事をするのは、お互い様
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『ありがとうございます』
『どういたしまして』
そんなありきたりなやり取りを交わしたあと、フェリシアはふいに身体が傾き、イクセルの胸に倒れ込んだ。
「どうし……!?」
尋ねる必要なんてなかった。
ぐったりとしたフェリシアの身体は熱く、苦しそうな息をしている。間違いなく熱がある。
一体いつから体調を崩していたのだろう。わからないが、砦で無理をさせすぎてしまったせいで、悪化したのは間違いない。
「少し揺れるが我慢してくれ」
意識が朦朧としているフェリシアに声をかけたイクセルは、制服の上着を脱ぐとフェリシアを包む。
そして両手で抱き上げると、夕立でぬかるんだ地面を大股で歩き出した。
遊歩道まで辿りついたと同時に、フェリシアの侍女であるニドラが血相変えて駆け寄ってきた。
彼女もフェリシアを探していたのだろう。熱でうなされている主を目にして、悲鳴に近い声を上げる。
だがそれを無視して、イクセルは別荘内のフェリシアの部屋まで運び、明確な殺意を向けるニドラの視線を全身に浴びながら、別荘を後にした。
馬を走らせたイクセルは、苛立つ気持ちを持て余しながら、砦の自室に戻る。
綺麗に片付いた部屋を目にした途端、今度は言葉にできない胸の疼きを与えてきたけれど、気づかないふりをして濡れた制服を新しいものに着替える。
雨に濡れた不快感は消えたけれど、心の中の不快感は消えるどころか増すばかりだ。
「くそっ……シアを泣かせたのは、誰なんだ」
イクセルがフェリシアに恋心を抱いたのは、今を去ること11年前の夏の終わり。定期的に集まる四大家門の茶会に、フェリシアが参加したのがきっかけだった。
壊れた父と、己の名を捨て公爵夫人となった強欲な継母。弟のエイリットは、まだ生まれる前で、イクセルは精神的に一番不安定な時だった。
当時イクセルは15歳。大人でも子供でもない中途半端な年齢の彼は、アベンス家の嫡男として参加を余儀なくされていた。
正直、つまらなかった。王都の外れのちいさな庭園に集まった大人たちは、表面上はにこやかに過ごしているが、互いの腹を探り合うような含みのある会話を交わしている。
イクセル以外の家門の嫡男もいたけれど、そりが合わなかった。
燦々と照りつける太陽と、気が狂ったかのように咲き乱れる花々。どれもこれもがイクセルの癇に障り、1分1秒でも早く終わればいいのにと一人離れた場所で不貞腐れていた。
そんな時、イクセルはフェリシアに出会った。
フェリシアも大人たちの会話はつまらなかったのだろう。コソコソと身を隠すようにテーブルから離れ、きょろきょろと辺りを窺っていた。
その姿が迷子の子猫のようで、イクセルは妙に惹きつけられ、じっと様子を窺っていた。
気づかれないように細心の注意を払っていたつもりだったが、フェリシアは何の前触れもなくこちらを見た。
目が合った途端、フェリシアはニコリと笑った。
それは花にたとえるなら向日葵。目に焼き付く鮮烈な色と、すさんだ心を癒す温かさは、イクセルの記憶に深く刻まれ、今なお色あせない。
そして恋に落ちたあの瞬間の、空の青さと、木々のざわめきも──。
回想を終えたイクセルは、一人掛けのソファにだらしなく座る。
「あの笑顔を独り占めした奴がいたってことか……いつ?どこで?私が知らないはずはない」
恋に落ちてから、イクセルはずっとフェリシアを見守っていた。
幼い頃はまだしも、日ごとに美しさが増すフェリシアに好意を寄せる貴族男子は少なくなかった。
それらをイクセルは、気づかれないよう迅速に排除しつつ、フェリシアが自ら自分を選んでくれるという完璧なシナリオを考えた。
イクセルに与えられた役は、絵にかいたような完璧な貴公子。剣術、頭脳、身分、容姿。全てが基準以上になるよう、イクセルは血の吐く努力を重ねた。
その甲斐あってフェリシアは、イクセルに恋心を抱いてくれた。
イクセルにとって恋は一生に一度だけのもの。だからお見合いで一度は断られたものの、本気で口説けば、また自分に好意を寄せてくれると思っていた。
けれど夕立の中、ずぶ濡れになりながら打ちひしがれるフェリシアの心は、自分以外の誰かに向けられていた。
『会いたいよぅ、シュン』
か細く震える声を耳にした瞬間、イクセルの息が止まった。
目の前の光景が信じられなくて、胸が苦しくて、馬鹿みたいに立ち尽くすことしかできなかった。
我に返った時には既にフェリシアは姿を消し、イクセルは慌てて森の中を捜索した。
やっと見つけることができたフェリシアを抱きしめながら、イクセルは”善人”を演じた。シュンという男が一体誰なのか、問い詰めたくなる衝動を必死に堪えながら。
「……こんなことなら、聖人君子を気取るのではなく、口づけをすれば良かった」
意中の女性を落とすなら、弱っている時に責めるのが一番手っ取り早い。しかし、リスクはゼロではない。
賭けに出ることに躊躇してしまったイクセルは、片手で顔を覆って溜息を吐く。これまでチェスを指す感覚でイクセルは難題を片づけてきた。
けれどフェリシアに関してだけは、どんな手を打っても有利に運ばない。
「もう一度、出会いからやり直したい……」
できもしない祈りを口にしてしまうほど、イクセルは追いつめられていた。
『どういたしまして』
そんなありきたりなやり取りを交わしたあと、フェリシアはふいに身体が傾き、イクセルの胸に倒れ込んだ。
「どうし……!?」
尋ねる必要なんてなかった。
ぐったりとしたフェリシアの身体は熱く、苦しそうな息をしている。間違いなく熱がある。
一体いつから体調を崩していたのだろう。わからないが、砦で無理をさせすぎてしまったせいで、悪化したのは間違いない。
「少し揺れるが我慢してくれ」
意識が朦朧としているフェリシアに声をかけたイクセルは、制服の上着を脱ぐとフェリシアを包む。
そして両手で抱き上げると、夕立でぬかるんだ地面を大股で歩き出した。
遊歩道まで辿りついたと同時に、フェリシアの侍女であるニドラが血相変えて駆け寄ってきた。
彼女もフェリシアを探していたのだろう。熱でうなされている主を目にして、悲鳴に近い声を上げる。
だがそれを無視して、イクセルは別荘内のフェリシアの部屋まで運び、明確な殺意を向けるニドラの視線を全身に浴びながら、別荘を後にした。
馬を走らせたイクセルは、苛立つ気持ちを持て余しながら、砦の自室に戻る。
綺麗に片付いた部屋を目にした途端、今度は言葉にできない胸の疼きを与えてきたけれど、気づかないふりをして濡れた制服を新しいものに着替える。
雨に濡れた不快感は消えたけれど、心の中の不快感は消えるどころか増すばかりだ。
「くそっ……シアを泣かせたのは、誰なんだ」
イクセルがフェリシアに恋心を抱いたのは、今を去ること11年前の夏の終わり。定期的に集まる四大家門の茶会に、フェリシアが参加したのがきっかけだった。
壊れた父と、己の名を捨て公爵夫人となった強欲な継母。弟のエイリットは、まだ生まれる前で、イクセルは精神的に一番不安定な時だった。
当時イクセルは15歳。大人でも子供でもない中途半端な年齢の彼は、アベンス家の嫡男として参加を余儀なくされていた。
正直、つまらなかった。王都の外れのちいさな庭園に集まった大人たちは、表面上はにこやかに過ごしているが、互いの腹を探り合うような含みのある会話を交わしている。
イクセル以外の家門の嫡男もいたけれど、そりが合わなかった。
燦々と照りつける太陽と、気が狂ったかのように咲き乱れる花々。どれもこれもがイクセルの癇に障り、1分1秒でも早く終わればいいのにと一人離れた場所で不貞腐れていた。
そんな時、イクセルはフェリシアに出会った。
フェリシアも大人たちの会話はつまらなかったのだろう。コソコソと身を隠すようにテーブルから離れ、きょろきょろと辺りを窺っていた。
その姿が迷子の子猫のようで、イクセルは妙に惹きつけられ、じっと様子を窺っていた。
気づかれないように細心の注意を払っていたつもりだったが、フェリシアは何の前触れもなくこちらを見た。
目が合った途端、フェリシアはニコリと笑った。
それは花にたとえるなら向日葵。目に焼き付く鮮烈な色と、すさんだ心を癒す温かさは、イクセルの記憶に深く刻まれ、今なお色あせない。
そして恋に落ちたあの瞬間の、空の青さと、木々のざわめきも──。
回想を終えたイクセルは、一人掛けのソファにだらしなく座る。
「あの笑顔を独り占めした奴がいたってことか……いつ?どこで?私が知らないはずはない」
恋に落ちてから、イクセルはずっとフェリシアを見守っていた。
幼い頃はまだしも、日ごとに美しさが増すフェリシアに好意を寄せる貴族男子は少なくなかった。
それらをイクセルは、気づかれないよう迅速に排除しつつ、フェリシアが自ら自分を選んでくれるという完璧なシナリオを考えた。
イクセルに与えられた役は、絵にかいたような完璧な貴公子。剣術、頭脳、身分、容姿。全てが基準以上になるよう、イクセルは血の吐く努力を重ねた。
その甲斐あってフェリシアは、イクセルに恋心を抱いてくれた。
イクセルにとって恋は一生に一度だけのもの。だからお見合いで一度は断られたものの、本気で口説けば、また自分に好意を寄せてくれると思っていた。
けれど夕立の中、ずぶ濡れになりながら打ちひしがれるフェリシアの心は、自分以外の誰かに向けられていた。
『会いたいよぅ、シュン』
か細く震える声を耳にした瞬間、イクセルの息が止まった。
目の前の光景が信じられなくて、胸が苦しくて、馬鹿みたいに立ち尽くすことしかできなかった。
我に返った時には既にフェリシアは姿を消し、イクセルは慌てて森の中を捜索した。
やっと見つけることができたフェリシアを抱きしめながら、イクセルは”善人”を演じた。シュンという男が一体誰なのか、問い詰めたくなる衝動を必死に堪えながら。
「……こんなことなら、聖人君子を気取るのではなく、口づけをすれば良かった」
意中の女性を落とすなら、弱っている時に責めるのが一番手っ取り早い。しかし、リスクはゼロではない。
賭けに出ることに躊躇してしまったイクセルは、片手で顔を覆って溜息を吐く。これまでチェスを指す感覚でイクセルは難題を片づけてきた。
けれどフェリシアに関してだけは、どんな手を打っても有利に運ばない。
「もう一度、出会いからやり直したい……」
できもしない祈りを口にしてしまうほど、イクセルは追いつめられていた。
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