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気付かないフリをしたままでいたい【夏】後編
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「マリ……アンヌ……さま?」
馬車を降りた途端、クリスは信じられないといった感じで目を瞠った。
マリアンヌも、どう声を掛けて良いかわからない。
馬車から降りて来た人物が、レイドリックとエリーゼではなくて、とても落胆しているから。
いや、落胆どころではない。
いっそこの場で泣き崩れたいほど、底知れぬ絶望と悲しみで心が悲鳴をあげていた。噂がより現実を帯びてしまったような気して。
でも、マリアンヌは泣いていない。きちんと両足で立っている。
それはクリスを目にして、自分でも名前がつけられない感情が湧き出たから。
ドクンドクンと脈打つ度に胸の中で生まれた感情が大きくなるのがわかる。
惨めで、無様なのに、なぜか救われたような気持ちになる。そして、これが彼に向けてしか生まれない感情だとも。
ただ、この感情の名を、マリアンヌはまだ知らない。
「......兄に命じられたんですか?」
かすれた声で、起立の姿勢で固まっている騎士に問えば、彼はすぐに表情を元に戻し、器用に片方の眉を上げた。
「まぁ、そんなところです。……と言いたいですが、今日は違います」
トクンとマリアンヌの心臓が跳ねた。
今日のクリスは、いつも通りの襟の詰まった真っ黒な騎士服だ。でも、お城の大舞踏会の時の異国の礼服を身にまとった姿を鮮明に思い出してしまう。
「では……なんでしょう?」
ついさっき強い落胆を覚えてしまったばかりだ。期待などしてはいけない。
いや、そもそも自分はこの人に対して何を期待しているというのか。相手はあのクリスだ。苦手な相手だ。
そんなことを思いながらマリアンヌは一歩後退する。
それをどう受け止めたのかわからないが、クリスは大股で一歩マリアンヌに近づきながら、口を開いた。
「こちらをマリアンヌ様にお届けにあがりました」
抱えていた籠の蓋を少し開けた途端、にゃーと不満げな声と共に、真っ白な塊が顔を出す。
「ノノ?!」
驚いて声をあげた拍子に、ノノはしなやかに籠から飛び出した。そして、綺麗な着地を決めると、マリアンヌの足首にすり寄る。
あまり触れさせてくれない愛猫が、自分から甘えてくれるのがとても珍しくて、嬉しい。
マリアンヌは、状況も忘れてその場にしゃがみ込む。そして膝に乗ってきたノノの背を優しく撫でた。
「ああ、やっぱり」
「何がですか?」
ほっとしたような、それでいて少し呆れたような声音が降ってきて、マリアンヌはノノを膝に置いたまま顔だけを上げる。
クリスはマリアンヌを見ていなかった。視線は、自分の膝にいる真っ白な猫に向かっていた。
「実は、ノノさんなんですけど、あなたが別荘に行ってから、食欲が落ちてしまったんです」
「嘘っ」
「嘘じゃないです。最初は暑気当たりかと思ったんですが、あなたのベッドから動かないので、これはもしかして、あなたを恋しがっているのかと思ってウィレイム様に許可を貰って連れてきたんです」
クリスの説明を聞くや否や、マリアンヌはノノの両前足に手を入れ、そのまま持ち上げると、ぎゅっと抱きしめた。
すぐさま愛猫から、心底不機嫌な声が聞こえてきたけれど、それすら可愛らしい。
そしてクリスが猫にさん付けしたのもなんだか可笑しくて、笑いがこみ上げてくる。
「そう......ありがとう」
マリアンヌは、ノノの柔らかい毛に顔をうずめながら、小さな声で言った。そうしないと、口の端が上がっているのをクリスに見られてしまうから。
そんな主人の隠れ蓑にされたノノは、更にブニャーっと不満げな鳴き声をあげる。
「元気なノノさんの声を聞けて安心しました。道中はずっと大人しかったのですが、やっといつもの調子を取り戻したようですね」
そう言って大事な任務を終えたように、クリスは一息ついた。
けれど、急に意地の悪い笑みを浮かべる。
「それにしても」
「……っ」
急に声が近くなって、ノノから顔を離せば、目の前にクリスがいた。彼もいつのまにか自分と同じように、膝をついていたのだ。
ぎょっとして身体を仰け反れば、すぐにクリスが腕を掴んだ。
おかげでひっくり返ることはなかったが、その隙にノノはマリアンヌの腕から逃げ出してしまった。
慌ててノノを呼び戻そうとするマリアンヌだけれど、それよりも先にクリスが問いかける。
「随分な格好をされていますが、別荘の生活は快適ではないのですか?」
そこでマリアンヌは、はたと気付く。自分のだらしない恰好を。
ベッドで寝転んでいたせいで、髪はぐちゃぐちゃ。ドレスも、しわくちゃだろう。
しかも昨晩から殆ど寝ていない。目の下にま間違いなく隈がある。足元はあろうことか部屋履きのままで。
「えっと……それは……その……」
マリアンヌはしどろもどろになりながら、ノノを探す。
これ以上、この酷い有様をクリスに見られたくないから、愛猫を目隠しに使おうと思って。
けれどノノは、かなり離れた場所で、長旅の疲れを癒すかのように自分の肉球を舐めるのに忙しく、主の悲痛な視線に気付かないフリをしていた。
馬車を降りた途端、クリスは信じられないといった感じで目を瞠った。
マリアンヌも、どう声を掛けて良いかわからない。
馬車から降りて来た人物が、レイドリックとエリーゼではなくて、とても落胆しているから。
いや、落胆どころではない。
いっそこの場で泣き崩れたいほど、底知れぬ絶望と悲しみで心が悲鳴をあげていた。噂がより現実を帯びてしまったような気して。
でも、マリアンヌは泣いていない。きちんと両足で立っている。
それはクリスを目にして、自分でも名前がつけられない感情が湧き出たから。
ドクンドクンと脈打つ度に胸の中で生まれた感情が大きくなるのがわかる。
惨めで、無様なのに、なぜか救われたような気持ちになる。そして、これが彼に向けてしか生まれない感情だとも。
ただ、この感情の名を、マリアンヌはまだ知らない。
「......兄に命じられたんですか?」
かすれた声で、起立の姿勢で固まっている騎士に問えば、彼はすぐに表情を元に戻し、器用に片方の眉を上げた。
「まぁ、そんなところです。……と言いたいですが、今日は違います」
トクンとマリアンヌの心臓が跳ねた。
今日のクリスは、いつも通りの襟の詰まった真っ黒な騎士服だ。でも、お城の大舞踏会の時の異国の礼服を身にまとった姿を鮮明に思い出してしまう。
「では……なんでしょう?」
ついさっき強い落胆を覚えてしまったばかりだ。期待などしてはいけない。
いや、そもそも自分はこの人に対して何を期待しているというのか。相手はあのクリスだ。苦手な相手だ。
そんなことを思いながらマリアンヌは一歩後退する。
それをどう受け止めたのかわからないが、クリスは大股で一歩マリアンヌに近づきながら、口を開いた。
「こちらをマリアンヌ様にお届けにあがりました」
抱えていた籠の蓋を少し開けた途端、にゃーと不満げな声と共に、真っ白な塊が顔を出す。
「ノノ?!」
驚いて声をあげた拍子に、ノノはしなやかに籠から飛び出した。そして、綺麗な着地を決めると、マリアンヌの足首にすり寄る。
あまり触れさせてくれない愛猫が、自分から甘えてくれるのがとても珍しくて、嬉しい。
マリアンヌは、状況も忘れてその場にしゃがみ込む。そして膝に乗ってきたノノの背を優しく撫でた。
「ああ、やっぱり」
「何がですか?」
ほっとしたような、それでいて少し呆れたような声音が降ってきて、マリアンヌはノノを膝に置いたまま顔だけを上げる。
クリスはマリアンヌを見ていなかった。視線は、自分の膝にいる真っ白な猫に向かっていた。
「実は、ノノさんなんですけど、あなたが別荘に行ってから、食欲が落ちてしまったんです」
「嘘っ」
「嘘じゃないです。最初は暑気当たりかと思ったんですが、あなたのベッドから動かないので、これはもしかして、あなたを恋しがっているのかと思ってウィレイム様に許可を貰って連れてきたんです」
クリスの説明を聞くや否や、マリアンヌはノノの両前足に手を入れ、そのまま持ち上げると、ぎゅっと抱きしめた。
すぐさま愛猫から、心底不機嫌な声が聞こえてきたけれど、それすら可愛らしい。
そしてクリスが猫にさん付けしたのもなんだか可笑しくて、笑いがこみ上げてくる。
「そう......ありがとう」
マリアンヌは、ノノの柔らかい毛に顔をうずめながら、小さな声で言った。そうしないと、口の端が上がっているのをクリスに見られてしまうから。
そんな主人の隠れ蓑にされたノノは、更にブニャーっと不満げな鳴き声をあげる。
「元気なノノさんの声を聞けて安心しました。道中はずっと大人しかったのですが、やっといつもの調子を取り戻したようですね」
そう言って大事な任務を終えたように、クリスは一息ついた。
けれど、急に意地の悪い笑みを浮かべる。
「それにしても」
「……っ」
急に声が近くなって、ノノから顔を離せば、目の前にクリスがいた。彼もいつのまにか自分と同じように、膝をついていたのだ。
ぎょっとして身体を仰け反れば、すぐにクリスが腕を掴んだ。
おかげでひっくり返ることはなかったが、その隙にノノはマリアンヌの腕から逃げ出してしまった。
慌ててノノを呼び戻そうとするマリアンヌだけれど、それよりも先にクリスが問いかける。
「随分な格好をされていますが、別荘の生活は快適ではないのですか?」
そこでマリアンヌは、はたと気付く。自分のだらしない恰好を。
ベッドで寝転んでいたせいで、髪はぐちゃぐちゃ。ドレスも、しわくちゃだろう。
しかも昨晩から殆ど寝ていない。目の下にま間違いなく隈がある。足元はあろうことか部屋履きのままで。
「えっと……それは……その……」
マリアンヌはしどろもどろになりながら、ノノを探す。
これ以上、この酷い有様をクリスに見られたくないから、愛猫を目隠しに使おうと思って。
けれどノノは、かなり離れた場所で、長旅の疲れを癒すかのように自分の肉球を舐めるのに忙しく、主の悲痛な視線に気付かないフリをしていた。
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