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何かが違うことを知ってしまった【春】
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「そろそろ……よろしいでしょうか?」
クリスの問いかけに、マリアンヌは「はい」と返事をしながら立ち上がった。
けれどクリスは慌てたように、マリアンヌの肩を掴んで再び座らせる。そして、とても言いにくそうに口を開いた。
「いえ、そうではなくて……」
最後は尻すぼみになってしまった彼は、マリアンヌの手元を見ていた。その視線を追えば、彼の質問の意図がわかった。
しまった。クリフの上着を掴んだままだった。
「ごめんなさい。わたくしったら……なんということを……」
そう言いながら、すぐに手を離す。
でも、自分が思っていたより強く握りしめていたのだろう。洗練された騎士服の上着は、見事に不格好な線が入ってしまっていた。
これはアイロンを当てなければ取れないだろう。動揺していたとはいえ、これはさすがに申し訳ない。
けれど、クリスはまったく不愉快な顔をしていなかった。
「お気になさらず。替えはありますし、皺があろうがなかろうか、そんなもの誰も気にしません」
「……っ」
神経質そうな彼の口から、そんなおおらかな言葉が出てくるとは予想していなかったので、マリアンヌは小さく息を呑む。
クリスがその表情をどう受け止めたのかはわからないが、彼はぎこちなくマリアンヌに向けて手を差し出した。
「立てそうですか?馬車までお送りします」
もちろん、立てるし、歩ける。
でも、マリアンヌはクリスの手を無視して、ジルの腕を掴みながら立ち上がった。
ベンチに座って時間を稼いだけれど、万が一、まだレイドリックとエリーゼが近くにいたらと心配で、マリアンヌの歩く速度は遅い。
でも、ジルもクリスも急かすことはしないで、歩調を合わせてくれている。
そしてかなりの時間を要して、マリアンヌ達は馬車に到着した。
「では、わたくしはこれをウィレイム様にお届けしますので、ここまでです。どうぞお帰りの道中、お気をつけて」
「はい。お付き合いいただき、ありがとうございました。兄によろしくお伝えください」
「もちろんです」
「……では、失礼します」
形式通りの挨拶を交わして、馬車に乗り込もうとした。けれど、なぜかここでクリスに止められてしまった。
「あの……どうされました?」
まさか、最後に気が変わって兄に密告するとでも言いうのだろうか。
マリアンヌは自分でも恥ずかしい程狼狽えてしまう。けれど、クリスが紡いだ言葉は全く別のものだった。
「これをどうぞ、マリアンヌさま。庶民の菓子ですが良かったら召し上がってください」
そう言って、クリスは懐から包みを取り出すと、マリアンヌの手に強引にねじ込んだ。
甘いものは大好きだ。それが庶民のものであろうと、王室御用達の高級菓子であろうとも。苦手な人から差し出されたものであっても。
「ありがとうございます。遠慮なくいただきます」
無理矢理握らされたそれが、これ以上潰れないように、マリアンヌは両手で優しく包む。
じっとこちらを見つめるクリスの表情は、照れているというより、何かの感情を押し殺したそれだった。
そして今度こそ馬車に乗り込んだマリアンヌに、クリスは慇懃に礼を取る。
「では、わたくしはこれで」
颯爽と上着を翻して、クリスはあっという間に人混みの中に消えてしまった。
帰りの馬車の中は、とても静かだった。
向かいの席に座るジルは、ずっと心配そうな顔で、マリアンヌの様子を伺っている。
対してマリアンヌは、窓を見つめている。
頭の中に浮かぶのは、花弁が舞う王都の景色ではなく、甘い香りに包まれたロワゾ―・ブリュの店内の光景でもない。
宝石店から出て来たレイドリックとエリーゼのことばかり。
まるで知らない人のようだった。
二人は特別な膜で守られているようで、声を掛けてはいけないような気がした。
マリアンヌは、気付けば目を瞑っていた。すぐにジルの気遣う声が聞こえてくる。
今はそっとしておいて欲しくて、マリアンヌは「大丈夫よ」と目を開けずに嘘を付いた。
でも、何一つ大丈夫なんかではない。イライラというか、モヤモヤというか、心がざわついて仕方がない。
ああ……
彼が休憩を取らず王宮で兄の護衛をしていれば。
彼が無断外出について、追及なんてしなければ。
彼が買い物に付き合うなんて言い出さなければ。
そうすれば、あんなもの見なくて済んだのに。
こんなにも、辛い気持ちを抱えなくて済んだのに。
───そう…、全部、全部クリスが悪いんだ。
八つ当たりとわかっていても、マリアンヌはそんなふうに心の中でクリスを責めた。
そうしないと、座っていることさえ辛くて。閉じた瞳から涙が溢れてしまいそうで。
馬車が微かに揺れて、膝の上にある貧相な包みがカサリと音を立てる。クリスから貰ったこの菓子を床に投げつけて踏みにじりたい衝動に駆られる。
……でも、できなかった。
自室に戻ったマリアンヌは、ジルにお茶を用意してもらった後、少し休むと言って一人にしてもらった。
それからお茶を飲み、一息ついたところで、クリスから貰った菓子の包みを開けた。
その中には、2つの菓子が入っていた。
一つはビスケットの間にマシュマロが挟んである、初めて見るお菓子。
もう一つは、どこにでもありそうなカヌレ。
マリアンヌは、少し悩んでビスケットを一口齧る。
さくっとした後に、ふわふわとする不思議な食感だった。でも、嫌いじゃない。むしろ、何でこんな美味しいものを知らなかったのだろうと後悔する味だった。
悔しいけれど、胸の痛みが僅かに和らぐ。
そしてもう一つの菓子にも手を伸ばしてみる。
カヌレもとても甘くて、美味しかった。
あの人はどんな顔をして、この菓子を買ったのだろうか。
自分の為に買ったのだろうか。それとも本当は誰かに贈るつもりだったのだろうか。
そんなことを考えながら、マリアンヌはクリスの横顔を思い出してみた。
馬車の中で、彼のことを責め立ててしまったことを、ひどく後悔しながら。
クリスの問いかけに、マリアンヌは「はい」と返事をしながら立ち上がった。
けれどクリスは慌てたように、マリアンヌの肩を掴んで再び座らせる。そして、とても言いにくそうに口を開いた。
「いえ、そうではなくて……」
最後は尻すぼみになってしまった彼は、マリアンヌの手元を見ていた。その視線を追えば、彼の質問の意図がわかった。
しまった。クリフの上着を掴んだままだった。
「ごめんなさい。わたくしったら……なんということを……」
そう言いながら、すぐに手を離す。
でも、自分が思っていたより強く握りしめていたのだろう。洗練された騎士服の上着は、見事に不格好な線が入ってしまっていた。
これはアイロンを当てなければ取れないだろう。動揺していたとはいえ、これはさすがに申し訳ない。
けれど、クリスはまったく不愉快な顔をしていなかった。
「お気になさらず。替えはありますし、皺があろうがなかろうか、そんなもの誰も気にしません」
「……っ」
神経質そうな彼の口から、そんなおおらかな言葉が出てくるとは予想していなかったので、マリアンヌは小さく息を呑む。
クリスがその表情をどう受け止めたのかはわからないが、彼はぎこちなくマリアンヌに向けて手を差し出した。
「立てそうですか?馬車までお送りします」
もちろん、立てるし、歩ける。
でも、マリアンヌはクリスの手を無視して、ジルの腕を掴みながら立ち上がった。
ベンチに座って時間を稼いだけれど、万が一、まだレイドリックとエリーゼが近くにいたらと心配で、マリアンヌの歩く速度は遅い。
でも、ジルもクリスも急かすことはしないで、歩調を合わせてくれている。
そしてかなりの時間を要して、マリアンヌ達は馬車に到着した。
「では、わたくしはこれをウィレイム様にお届けしますので、ここまでです。どうぞお帰りの道中、お気をつけて」
「はい。お付き合いいただき、ありがとうございました。兄によろしくお伝えください」
「もちろんです」
「……では、失礼します」
形式通りの挨拶を交わして、馬車に乗り込もうとした。けれど、なぜかここでクリスに止められてしまった。
「あの……どうされました?」
まさか、最後に気が変わって兄に密告するとでも言いうのだろうか。
マリアンヌは自分でも恥ずかしい程狼狽えてしまう。けれど、クリスが紡いだ言葉は全く別のものだった。
「これをどうぞ、マリアンヌさま。庶民の菓子ですが良かったら召し上がってください」
そう言って、クリスは懐から包みを取り出すと、マリアンヌの手に強引にねじ込んだ。
甘いものは大好きだ。それが庶民のものであろうと、王室御用達の高級菓子であろうとも。苦手な人から差し出されたものであっても。
「ありがとうございます。遠慮なくいただきます」
無理矢理握らされたそれが、これ以上潰れないように、マリアンヌは両手で優しく包む。
じっとこちらを見つめるクリスの表情は、照れているというより、何かの感情を押し殺したそれだった。
そして今度こそ馬車に乗り込んだマリアンヌに、クリスは慇懃に礼を取る。
「では、わたくしはこれで」
颯爽と上着を翻して、クリスはあっという間に人混みの中に消えてしまった。
帰りの馬車の中は、とても静かだった。
向かいの席に座るジルは、ずっと心配そうな顔で、マリアンヌの様子を伺っている。
対してマリアンヌは、窓を見つめている。
頭の中に浮かぶのは、花弁が舞う王都の景色ではなく、甘い香りに包まれたロワゾ―・ブリュの店内の光景でもない。
宝石店から出て来たレイドリックとエリーゼのことばかり。
まるで知らない人のようだった。
二人は特別な膜で守られているようで、声を掛けてはいけないような気がした。
マリアンヌは、気付けば目を瞑っていた。すぐにジルの気遣う声が聞こえてくる。
今はそっとしておいて欲しくて、マリアンヌは「大丈夫よ」と目を開けずに嘘を付いた。
でも、何一つ大丈夫なんかではない。イライラというか、モヤモヤというか、心がざわついて仕方がない。
ああ……
彼が休憩を取らず王宮で兄の護衛をしていれば。
彼が無断外出について、追及なんてしなければ。
彼が買い物に付き合うなんて言い出さなければ。
そうすれば、あんなもの見なくて済んだのに。
こんなにも、辛い気持ちを抱えなくて済んだのに。
───そう…、全部、全部クリスが悪いんだ。
八つ当たりとわかっていても、マリアンヌはそんなふうに心の中でクリスを責めた。
そうしないと、座っていることさえ辛くて。閉じた瞳から涙が溢れてしまいそうで。
馬車が微かに揺れて、膝の上にある貧相な包みがカサリと音を立てる。クリスから貰ったこの菓子を床に投げつけて踏みにじりたい衝動に駆られる。
……でも、できなかった。
自室に戻ったマリアンヌは、ジルにお茶を用意してもらった後、少し休むと言って一人にしてもらった。
それからお茶を飲み、一息ついたところで、クリスから貰った菓子の包みを開けた。
その中には、2つの菓子が入っていた。
一つはビスケットの間にマシュマロが挟んである、初めて見るお菓子。
もう一つは、どこにでもありそうなカヌレ。
マリアンヌは、少し悩んでビスケットを一口齧る。
さくっとした後に、ふわふわとする不思議な食感だった。でも、嫌いじゃない。むしろ、何でこんな美味しいものを知らなかったのだろうと後悔する味だった。
悔しいけれど、胸の痛みが僅かに和らぐ。
そしてもう一つの菓子にも手を伸ばしてみる。
カヌレもとても甘くて、美味しかった。
あの人はどんな顔をして、この菓子を買ったのだろうか。
自分の為に買ったのだろうか。それとも本当は誰かに贈るつもりだったのだろうか。
そんなことを考えながら、マリアンヌはクリスの横顔を思い出してみた。
馬車の中で、彼のことを責め立ててしまったことを、ひどく後悔しながら。
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