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何かが違うことを知ってしまった【春】
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結局、あれから何度かレイドリックとエリーゼと顔を合わす機会はあった。
けれど、マリアンヌは馬車の一件を問いただすことはできなかった。
まだマリアンヌの中では、これまでの日々の方が強い主張をしていた。
きっと見間違いだったという言い訳を、自分自身にすることができた。
ただ相変わらず、レイドリックからは婚約者らしい手紙は届かない。花束も贈られてこなければ、マリアンヌが手紙を出さなければ、彼からの便りも無い。
誰かに恋をしたことがあったなら。いや、そうでなくても、仲の良い友人に恋人がいたなら、この状態がおかしいとマリアンヌは気付くことができていただろう。
社交界にデビューしている身だからある程度、交友はある。
けれど、マリアンヌが友と呼べるのはレイドリックとエリーゼしかいなかった。
だから怖かった。つまらないことを聞いて、3人の友情に亀裂が入ることを。
これまでも険悪な空気になったことも、口喧嘩まではいかなくても意見が分かれて、軽い言い争いをしたこともある。
でも、馬車の一件を問いただせば、間違いなく関係が壊れて、二度と修復できないような気がしてならないのだ。
そんな愚かなことを、マリアンヌは自らしたくなかった。
***
高台に聳え立つ王宮の下に、王都ルントンはある。
そしてここで手に入らないものは無い。
お城へと続く道には、国中の美しい芸術品や、挿絵が見事な本。地方の特産品や、王室御用達の高級菓子やお茶を取り扱うお店が、お行儀よく軒を連ねている。
少し離れた平民街では、市場が毎日、新鮮な野菜やお肉。水揚げされたばかりの魚介類を取り扱っている。
また国の財産となる学者を数多く産み出した学院や、治せない病など無いと思わせるほど、最高の技術者を集めた病院もあり、まさに国一番の都であった。
そんな巨大な街が、王都と呼ばれ続けている年数と同じだけ、ロゼット邸はそこにある。
長い歴史を持つ名門貴族。歴代の当主は国王を支える地位を約束され、家は繁栄を続けている。
現在、ロゼット家当主のウィレイムも、次期宰相閣下となるべく、宰相補佐という役職に就き、毎日業務に励んでいる。いずれ国王を支える片腕となるために。
……なのだが、その妹であるマリアンヌは、王都のことを良く知らない。
過保護な兄のせいで、あまり外に出してもらえないのだ。
稀に外出を許されることはあるけれど、そんな時は目的地まで馬車での移動を義務付けられ、街をゆっくり見て回れる機会は、ほとんどない。
けれど、今日のマリアンヌは侍女のジルを伴い、街を歩いている。
途切れることが無い人の波に溶け込むように、普段身に付けているドレスより、幾分か地味なそれを着て。
「ねえ、ジル。これ、あなたに似合いそう。中に入って見てみましょう」
店先に飾られている春の陽気を形にしたような、沢山のコサージュをあしらった帽子が目に入り、マリアンヌは足を止めて隣にいる侍女に声を掛けた。
けれど侍女のジルは、音がしそうなほど激しく首を横に振った。
「い、いえっ。とんでもないですっ」
「どうして?」
「どうしてって……こんな高価な品、わたくしには身分不相応ですっ」
おっかなびっくりのその様子に、マリアンヌは自分が世間知らずであったことを知る。
ガラス越しに見える帽子は、デザインは違えど、マリアンヌのクローゼットにあるものと品質は変わらないように見える。
そしてそれを自分は普段、高価なものと認識せず使用していた。
「ごめんなさい、ジル。困らすつもりはなかったの。ただ、今日のお礼がしたかっただけ」
しゅんと肩を落としながらそう謝罪をするマリアンヌに、ジルの顔は今度は青ざめてしまう。
「そんな、お礼だなんて不要でございます。わたくしは、マリー様が楽しんでいただければ、それで充分でございます」
「……ジル」
労わりの眼差しを受けて、マリアンヌは言葉が見つからず唇を噛んだ。
今日、街へ足を向けたことは兄には内緒だ。
レイドリックとエリーゼのことを考えたくなくて、気分転換がしたかった。普段とは違うことをして気を紛らわせたかった。
そんなワガママを叶えてくれたのはジルだった。
理由を言わずに、街を歩きたいと言ったマリアンヌに、ジルはにこりと笑って付いてきてくれた。
きっと執事のヨーゼフや他の使用人達を、上手く説得してくれたのだろう。
もし、黙って街に出たことが兄に知られたら、罰を受けるのはジルだというのに。
だからせめて、ささやかなお礼がしたかった。なのに、ジルはそれすら要らないと言う。
マリアンヌは、自分の不甲斐なさに耐え切れず、ジルから目を逸らす。
ただ、目を逸らした先に真っ黒な騎士服に身を包んだとある人に良く似た男性を見つけてしまった。
げっと心の中で悲鳴を上げたマリアンヌの声は、相手に聞こえるはずはなかったのだが、その男はこちらへと顔を向けた。
ばっちりと目が合ってしまった。
人違いであればと願ったそれは、見事に打ち消されてしまった。
人混みの中に紛れていたのは、あろうことがクリスだった。しかも彼は、すいすいと流れるようにこちらへと向かってくる。
もはや逃げる時間は残されていない。
そして手を伸ばせば届く距離に来た彼は、恐る恐ると言った感じで口を開いた。
「……マリアンヌ様?」
語尾が疑問形になったのは、まさかこんなところにという気持ちの表れなのだろう。
マリアンヌだって同じ心境だ。
だが、この邂逅はどうしたって喜べない。控えめに言って、最悪だ。
でも、ここで”あら、人違いでは?”などど白を切る度胸は無いし、なぜあんなところを歩いていたんだと責め立てるのは、お門違いということもわかっている。
なにより、マリアンヌが今一番にやるべきことは、兄への密告だけは阻止しなければならないことだった。
けれど、マリアンヌは馬車の一件を問いただすことはできなかった。
まだマリアンヌの中では、これまでの日々の方が強い主張をしていた。
きっと見間違いだったという言い訳を、自分自身にすることができた。
ただ相変わらず、レイドリックからは婚約者らしい手紙は届かない。花束も贈られてこなければ、マリアンヌが手紙を出さなければ、彼からの便りも無い。
誰かに恋をしたことがあったなら。いや、そうでなくても、仲の良い友人に恋人がいたなら、この状態がおかしいとマリアンヌは気付くことができていただろう。
社交界にデビューしている身だからある程度、交友はある。
けれど、マリアンヌが友と呼べるのはレイドリックとエリーゼしかいなかった。
だから怖かった。つまらないことを聞いて、3人の友情に亀裂が入ることを。
これまでも険悪な空気になったことも、口喧嘩まではいかなくても意見が分かれて、軽い言い争いをしたこともある。
でも、馬車の一件を問いただせば、間違いなく関係が壊れて、二度と修復できないような気がしてならないのだ。
そんな愚かなことを、マリアンヌは自らしたくなかった。
***
高台に聳え立つ王宮の下に、王都ルントンはある。
そしてここで手に入らないものは無い。
お城へと続く道には、国中の美しい芸術品や、挿絵が見事な本。地方の特産品や、王室御用達の高級菓子やお茶を取り扱うお店が、お行儀よく軒を連ねている。
少し離れた平民街では、市場が毎日、新鮮な野菜やお肉。水揚げされたばかりの魚介類を取り扱っている。
また国の財産となる学者を数多く産み出した学院や、治せない病など無いと思わせるほど、最高の技術者を集めた病院もあり、まさに国一番の都であった。
そんな巨大な街が、王都と呼ばれ続けている年数と同じだけ、ロゼット邸はそこにある。
長い歴史を持つ名門貴族。歴代の当主は国王を支える地位を約束され、家は繁栄を続けている。
現在、ロゼット家当主のウィレイムも、次期宰相閣下となるべく、宰相補佐という役職に就き、毎日業務に励んでいる。いずれ国王を支える片腕となるために。
……なのだが、その妹であるマリアンヌは、王都のことを良く知らない。
過保護な兄のせいで、あまり外に出してもらえないのだ。
稀に外出を許されることはあるけれど、そんな時は目的地まで馬車での移動を義務付けられ、街をゆっくり見て回れる機会は、ほとんどない。
けれど、今日のマリアンヌは侍女のジルを伴い、街を歩いている。
途切れることが無い人の波に溶け込むように、普段身に付けているドレスより、幾分か地味なそれを着て。
「ねえ、ジル。これ、あなたに似合いそう。中に入って見てみましょう」
店先に飾られている春の陽気を形にしたような、沢山のコサージュをあしらった帽子が目に入り、マリアンヌは足を止めて隣にいる侍女に声を掛けた。
けれど侍女のジルは、音がしそうなほど激しく首を横に振った。
「い、いえっ。とんでもないですっ」
「どうして?」
「どうしてって……こんな高価な品、わたくしには身分不相応ですっ」
おっかなびっくりのその様子に、マリアンヌは自分が世間知らずであったことを知る。
ガラス越しに見える帽子は、デザインは違えど、マリアンヌのクローゼットにあるものと品質は変わらないように見える。
そしてそれを自分は普段、高価なものと認識せず使用していた。
「ごめんなさい、ジル。困らすつもりはなかったの。ただ、今日のお礼がしたかっただけ」
しゅんと肩を落としながらそう謝罪をするマリアンヌに、ジルの顔は今度は青ざめてしまう。
「そんな、お礼だなんて不要でございます。わたくしは、マリー様が楽しんでいただければ、それで充分でございます」
「……ジル」
労わりの眼差しを受けて、マリアンヌは言葉が見つからず唇を噛んだ。
今日、街へ足を向けたことは兄には内緒だ。
レイドリックとエリーゼのことを考えたくなくて、気分転換がしたかった。普段とは違うことをして気を紛らわせたかった。
そんなワガママを叶えてくれたのはジルだった。
理由を言わずに、街を歩きたいと言ったマリアンヌに、ジルはにこりと笑って付いてきてくれた。
きっと執事のヨーゼフや他の使用人達を、上手く説得してくれたのだろう。
もし、黙って街に出たことが兄に知られたら、罰を受けるのはジルだというのに。
だからせめて、ささやかなお礼がしたかった。なのに、ジルはそれすら要らないと言う。
マリアンヌは、自分の不甲斐なさに耐え切れず、ジルから目を逸らす。
ただ、目を逸らした先に真っ黒な騎士服に身を包んだとある人に良く似た男性を見つけてしまった。
げっと心の中で悲鳴を上げたマリアンヌの声は、相手に聞こえるはずはなかったのだが、その男はこちらへと顔を向けた。
ばっちりと目が合ってしまった。
人違いであればと願ったそれは、見事に打ち消されてしまった。
人混みの中に紛れていたのは、あろうことがクリスだった。しかも彼は、すいすいと流れるようにこちらへと向かってくる。
もはや逃げる時間は残されていない。
そして手を伸ばせば届く距離に来た彼は、恐る恐ると言った感じで口を開いた。
「……マリアンヌ様?」
語尾が疑問形になったのは、まさかこんなところにという気持ちの表れなのだろう。
マリアンヌだって同じ心境だ。
だが、この邂逅はどうしたって喜べない。控えめに言って、最悪だ。
でも、ここで”あら、人違いでは?”などど白を切る度胸は無いし、なぜあんなところを歩いていたんだと責め立てるのは、お門違いということもわかっている。
なにより、マリアンヌが今一番にやるべきことは、兄への密告だけは阻止しなければならないことだった。
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