親友に裏切られた侯爵令嬢は、兄の護衛騎士から愛を押し付けられる

何かが違うことを知ってしまった【春】

4

　ポットの注ぎ口から立ちのぼる湯気が、俯いてしまったマリアンヌの頬を優しく撫でる。

　───ああ、いけない。お茶が冷めてしまう。
　マリアンヌは、ゆるゆると顔を上げ、再び歩き出す。

　ただ何歩か歩いた後、自分の足音と重なるように他の誰かの足音が近付いてきた。

「……あ」

　振り返った先には、クリスがいた。

　彼はマリアンヌと目が合うと歩調を早め、すぐ側で足を止めた。

「お茶の到着が遅いから、様子を見てこいと兄に言われましたか？」
「まぁ、そんなところです」

　苦手な相手とはいえ、彼は兄の護衛騎士だ。

　自分がもたもたしていたせいで使用人のような真似をさせてしまったことに、マリアンヌは心苦しく思う。

「そうですか。ご足労かけました。えっと……見ての通りです。すぐにお持ちしますので、先にお待たせして申し訳ないと兄にお伝えいただけますか？」

　社会的な立場としてはマリアンヌの方が上だが、クリスはウィレイムの幼馴染でもある。

　だから丁寧な言葉を選びつつ、この場から立ち去って欲しいこと遠回しに伝えてみた。

　けれど彼は頷くだけで、この場から動かない。しかもマリアンヌが持っていたお盆を素早く取り上げてしまった。

　──これは、もう部屋に戻っても良いということなのだろうか。

　そんなふうに都合の良い解釈をしたいけれど、クリスの目は「行くぞ」と訴えている。

　まるで嫌と言って背を向けたら、そのまま首根っこを捕まれそうな気配を感じて、マリアンヌは息を呑む。

　そうすれば、クリスは表情を変えることなく口を開く。

「これは、わたくしが運びます。ですが、ウィレイム様のお部屋にはマリアンヌ様もご一緒に来てください。わたくしがウィレイム様にお茶を出すと茶が不味くなると言い出し、不機嫌になりますので。どうか貴方の手で渡してあげてください」
「……まぁ」

　マリアンヌは目を瞬かせた。

　クリスが語るウィレイムは、自分の持っている兄のイメージとかけ離れ過ぎていて、驚きを隠せない。

　けれどクリスの表情は真剣だった。嘘や冗談を言っている様子は無い。
　ただ彼が、茶目っ気のある態度を取ったことなど一度も目にしたことはないので、判断しかねるが。

　と言っても、ここまでお願いされてしまえば、無下に断ることができない。それにクリスは、身体をウィレイムの私室の方に向け歩き出そうとしている。

　結局、マリアンヌは自分の私室ではなく、兄の私室に向け、足を動かし始めた。








　長身のクリスだけれど、並んで歩けば、そのすらりとした無駄のない体躯が余計にわかる。自分より、ゆうに二回りは大きい。

　マリアンヌは、窓に映る彼と、すぐ隣を歩く本物の彼をこっそり見比べた。

　違いなどあるわけない。でも、生身のクリスの方が冷たく感じるのはなぜだろう。それは、動きに無駄が無いせいなのか、それとも腰に差してある剣と、真っ黒な騎士服がそう思わせているからなのだろうか。

　なんにせよ、彼はとても美しい青年だった。
　ウィレイムも女性達から人気があることは知っている。兄と一緒に夜会に出れば、着飾った女性達に取り囲まれるのを何度も見たことがあるし、マリアンヌに直接「あなたのお兄様と、お近づきになりたい」と懇願する女性だっている。

　確かに妹の欲目を引いても、ウィレイムは中性的な容姿で、まるで絵本に出てくる王子様のようだ。太陽のような明るさと温かさがある。
　
　でも、正直言って顔の顔の造りからすると、クリスの方が上だ。
　意志の強そうな眉に、綺麗に通った鼻筋。剣を握る人間としては、すらりとしすぎのような気がするが、それでも、黒豹のようなしなやかさと鋭さを感じさせる。

　……でも、顔が良いからといって、好印象を持てるかどうかは別問題だ。

　ちらちらと横目でクリスの顔を盗み見ていたマリアンヌは、視線を前に戻して歩き続ける。

「そういえば、婚約されたとか」

　２回目の角を曲がった途端、唐突にそう言われ、マリアンヌは思わず彼を見る。

「あ、はい。本当に最近なんですが……」
「お相手は、幼馴染のレイドリック・リッツさまと伺いましたが、本当ですか？」
「そうです」

　マリアンヌが頷いた瞬間、クリスはピタリと足を止めた。

「では、おめでとうございます……と、言った方が良いですか？」
「……」

　随分と最後の方に余計な言葉があり、マリアンヌは返答にしばしの時間を要した。

「えっと……どちらでも構いませんわ」
「なら、わたくしはその言葉を言わないでおきます」
「……そうですか」

　なんて性格がひん曲がった奴なんだろう。

　マリアンヌははしたなくも、そんな悪態を付いた。もちろん心の中で。

　そして、むっとした顔を隠すことなく歩き続ける。
　もう二度と彼から話しかけられても、返事などしてやるもんかと心に堅く誓って。

　

　長い廊下に、二人の足音とカチャカチャと陶器の揺れる音だけが響く。

　マリアンヌは、子供のように不貞腐れた顔をしながら、歩くことだけに集中している。

　それをクリスは、歩きながら見下ろしている。口元には柔らかな弧を描きながら。そして、その形の良い唇が動く。

「───ただあの男に対しては、羨ましいという気持ちを持ってはいますけどね……貴方を妻にできるのですから」

　そう言ったクリスの声はあまりに小さくて、マリアンヌには聞き取れなかった。