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prologue
小さな違和感と、大きな後悔①
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マリアンヌ・ロゼットは、自室でそわそわとしていた。
侯爵令嬢にふさわしい広々とした部屋には大きな窓が幾つもあり、春のうららかな陽の光が差し込んでいる。
薄桃色の壁紙は、光の当たり具合で鳥と葉柄が浮き出る異国から取り寄せた一級品。
そしてピカピカに磨き上げられたマホガニー調の鏡台とチェスト。座り心地のよさそうな猫足のソファ。巨大な天蓋付き寝台。それらを配置しても、マリアンヌが歩き回るには十分なほどのスペースがある。
「マリー様、少し落ち着かれてはいかがでしょうか?」
軽く二桁は扉と窓の間を意味もなく往復しているこの部屋の主に向けて、侍女のジルは苦笑を浮かべながらそう言った。
「……うん。わかっているわ。でも……」
物心ついた時から、淑女としての礼儀作法を叩きこまれているマリアンヌは、己の取っている行動がそれにふさわしくないことを自覚している。
でも、今日に限っては、そういう肩書を抜きにして、年頃の乙女らしい気持ちでいさせてほしいと思ってしまう。
なにせ今日は特別な日なのだから。
多分、人生においてこんなにもドキドキすることなんてないだろう。
一生に一回。しかも、それが自分の人生を大きく左右することなら、尚更に。
もちろん、幼少の頃からずっと傍で仕えているジルだってそれくらいは承知の上。だから、彼女はマリアンヌの為に気持ちが落ち着くお茶を淹れている。
あとノノと言う名の真っ白な毛並みのメス猫もこの部屋にいるけれど、彼女は一番日当たりの良い出窓の物置き部分で、うつらうつらしている。
主の一大イベントなど、どうでも良いらしい。
「さぁ、カモミールティーが入りました。ラベンダーのクッキーもございますよ、お嬢様」
─── だから一度、ソファにでも座って落ち着いてくださいな。
ジルは最後の言葉を口にすることはしないが、目でそう訴えながら、ソファの前のローテーブルにお茶と菓子の皿を置いた。
侍女にそこまで気遣われてしまったマリアンヌは、さすがに嫌とは言えず、素直にソファに着席した。
「いい香りね。ジルが淹れてくれるお茶は、世界で一番だわ」
「それは恐れ入ります」
猫舌のマリアンヌは、カップを両手で持って、ふぅふぅと息を吹きかけながら、茶葉の香りを楽しんでいる。
これもまた淑女としては無作法の部類にはいるのだが、侍女は窘めることはせず、ただニコニコと笑みを浮かべているだけ。
なぜならその仕草がとても可愛らしいものだから。
マリアンヌは、社交界では我が国セレーヌディアの真珠と呼ばれている。
まぁつまり、宝石に例えられるほどの可憐な容姿の持ち主ということで。
艶のあるブロンドの髪に、ミルクに一滴だけベリーの雫を落としたようなピンクパールのような肌。つぶらな瞳は、柔らかな新芽のような黄緑色で、憂いを帯びたようにいつも潤んでいる。
けれど、形の良い唇はいつも笑みを浮かべているので、全体的に優しく、ふんわりとした印象を与え、まさに真珠と言う名に相応しい侯爵令嬢だった。
そしてそんな肩書を貰ってしまった本人は、必要以上にその名に相応しい振る舞いをしなければと意識してしまっている。
とはいえ、気の置けない侍女と二人っきりでいれば、真珠姫の仮面を脱ぎ捨てて素の自分に戻ってしまう。
しかも今、階下の応接室で家督を継いだ兄ウィレイムと、幼馴染のレイドリックが大切な話をしているなら尚更に。
「ねえ、ジル。そろそろお兄様に呼ばれても良い頃だと思わない?」
やっと飲める温度になったカモミールティーを二口のんで、マリアンヌはそぉっとジルに問いかけた。
ジルはくすりと笑ってから答える。
「そうですね。マリー様のおっしゃる通りです。きっとヨーゼフさんは、大急ぎこの部屋に向かっている最中だと思います」
何の根拠もないけれど、ジルはマリアンヌの希望通りの言葉を返す。
でも、当てずっぽうで口にしたそれは、預言に変わった。
─── コン、コ、コン。
「来たわ!!」
特徴のある控えめなノックの音がしたと同時に、マリアンヌはカップを手にしたまま勢い良く立ち上がった。
「マリー様、お座りくださいませ」
このまま自分の手で扉を掛けかねないマリアンヌを諫めつつ、ジルは早足で扉へと向かう。
そして扉を開ければ、今まさに話題に上がったこのロゼット邸の執事ヨーゼフがいた。
彼は、慇懃に礼を取ると、部屋へと足を踏み入れる。
そしてソファに着席しながら不治の病の宣告を待つような表情を作るマリアンヌと視線を合わせると、再び礼を取ってから口を開いた。
初老の男性らしい深みのある落ち着いた声音で。
「お嬢様、ウィレイム様がお呼びでございます」
「は、はい」
ぴょんとウサギのように飛び跳ねながら起立したマリアンヌだけれど、その表情はとても不安げだった。
「ねえヨーゼフ、お兄様はなんと仰っていたかしら?お願い、先に教えて」
使用人に向けるには、あまりにへりくだった態度だったが、そうまでしても知りたいこと。
でもジルと同様、長年マリアンヌの傍にいる執事は、彼女の気持ちが良くわかる。だから、普段は意識して厳しいものにしている目元を特別に綻ばせて、こう言った。
「ご安心ください。マリー様のお望み通りになりました」
パッと笑顔になったマリアンヌは、気付いたらもう廊下に飛び出していた。
侯爵令嬢にふさわしい広々とした部屋には大きな窓が幾つもあり、春のうららかな陽の光が差し込んでいる。
薄桃色の壁紙は、光の当たり具合で鳥と葉柄が浮き出る異国から取り寄せた一級品。
そしてピカピカに磨き上げられたマホガニー調の鏡台とチェスト。座り心地のよさそうな猫足のソファ。巨大な天蓋付き寝台。それらを配置しても、マリアンヌが歩き回るには十分なほどのスペースがある。
「マリー様、少し落ち着かれてはいかがでしょうか?」
軽く二桁は扉と窓の間を意味もなく往復しているこの部屋の主に向けて、侍女のジルは苦笑を浮かべながらそう言った。
「……うん。わかっているわ。でも……」
物心ついた時から、淑女としての礼儀作法を叩きこまれているマリアンヌは、己の取っている行動がそれにふさわしくないことを自覚している。
でも、今日に限っては、そういう肩書を抜きにして、年頃の乙女らしい気持ちでいさせてほしいと思ってしまう。
なにせ今日は特別な日なのだから。
多分、人生においてこんなにもドキドキすることなんてないだろう。
一生に一回。しかも、それが自分の人生を大きく左右することなら、尚更に。
もちろん、幼少の頃からずっと傍で仕えているジルだってそれくらいは承知の上。だから、彼女はマリアンヌの為に気持ちが落ち着くお茶を淹れている。
あとノノと言う名の真っ白な毛並みのメス猫もこの部屋にいるけれど、彼女は一番日当たりの良い出窓の物置き部分で、うつらうつらしている。
主の一大イベントなど、どうでも良いらしい。
「さぁ、カモミールティーが入りました。ラベンダーのクッキーもございますよ、お嬢様」
─── だから一度、ソファにでも座って落ち着いてくださいな。
ジルは最後の言葉を口にすることはしないが、目でそう訴えながら、ソファの前のローテーブルにお茶と菓子の皿を置いた。
侍女にそこまで気遣われてしまったマリアンヌは、さすがに嫌とは言えず、素直にソファに着席した。
「いい香りね。ジルが淹れてくれるお茶は、世界で一番だわ」
「それは恐れ入ります」
猫舌のマリアンヌは、カップを両手で持って、ふぅふぅと息を吹きかけながら、茶葉の香りを楽しんでいる。
これもまた淑女としては無作法の部類にはいるのだが、侍女は窘めることはせず、ただニコニコと笑みを浮かべているだけ。
なぜならその仕草がとても可愛らしいものだから。
マリアンヌは、社交界では我が国セレーヌディアの真珠と呼ばれている。
まぁつまり、宝石に例えられるほどの可憐な容姿の持ち主ということで。
艶のあるブロンドの髪に、ミルクに一滴だけベリーの雫を落としたようなピンクパールのような肌。つぶらな瞳は、柔らかな新芽のような黄緑色で、憂いを帯びたようにいつも潤んでいる。
けれど、形の良い唇はいつも笑みを浮かべているので、全体的に優しく、ふんわりとした印象を与え、まさに真珠と言う名に相応しい侯爵令嬢だった。
そしてそんな肩書を貰ってしまった本人は、必要以上にその名に相応しい振る舞いをしなければと意識してしまっている。
とはいえ、気の置けない侍女と二人っきりでいれば、真珠姫の仮面を脱ぎ捨てて素の自分に戻ってしまう。
しかも今、階下の応接室で家督を継いだ兄ウィレイムと、幼馴染のレイドリックが大切な話をしているなら尚更に。
「ねえ、ジル。そろそろお兄様に呼ばれても良い頃だと思わない?」
やっと飲める温度になったカモミールティーを二口のんで、マリアンヌはそぉっとジルに問いかけた。
ジルはくすりと笑ってから答える。
「そうですね。マリー様のおっしゃる通りです。きっとヨーゼフさんは、大急ぎこの部屋に向かっている最中だと思います」
何の根拠もないけれど、ジルはマリアンヌの希望通りの言葉を返す。
でも、当てずっぽうで口にしたそれは、預言に変わった。
─── コン、コ、コン。
「来たわ!!」
特徴のある控えめなノックの音がしたと同時に、マリアンヌはカップを手にしたまま勢い良く立ち上がった。
「マリー様、お座りくださいませ」
このまま自分の手で扉を掛けかねないマリアンヌを諫めつつ、ジルは早足で扉へと向かう。
そして扉を開ければ、今まさに話題に上がったこのロゼット邸の執事ヨーゼフがいた。
彼は、慇懃に礼を取ると、部屋へと足を踏み入れる。
そしてソファに着席しながら不治の病の宣告を待つような表情を作るマリアンヌと視線を合わせると、再び礼を取ってから口を開いた。
初老の男性らしい深みのある落ち着いた声音で。
「お嬢様、ウィレイム様がお呼びでございます」
「は、はい」
ぴょんとウサギのように飛び跳ねながら起立したマリアンヌだけれど、その表情はとても不安げだった。
「ねえヨーゼフ、お兄様はなんと仰っていたかしら?お願い、先に教えて」
使用人に向けるには、あまりにへりくだった態度だったが、そうまでしても知りたいこと。
でもジルと同様、長年マリアンヌの傍にいる執事は、彼女の気持ちが良くわかる。だから、普段は意識して厳しいものにしている目元を特別に綻ばせて、こう言った。
「ご安心ください。マリー様のお望み通りになりました」
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