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第二部 贅沢な10日間
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廊下に出た途端、バザロフはおもむろにティアに腕を差し出した。
どこぞのエリート騎士とは違い、バザロフは女性に対する接し方を弁えている。問答無用で抱き上げるような不埒な真似をするようなことはしない。
そしてティアも、バザロフに触れることには何の躊躇もない。
だからティアは失礼しますと断りを入れ、するりとバザロフの腕に自分の腕を突っ込んだ。
ロハン邸は貴族の邸宅である。だから、敷地も大きければ廊下も長い。
そして、ティアの部屋は、屋敷の婚約者様のお部屋という体で用意されたので、日当たりが良い建物の奥側にある。
なので玄関ホールに続く階段は、廊下のはるか向こう。
そこを目指して二人は、靴音をゆぅーくりと響かせながら歩いている。
──……カ……ツ。ぽ……て。カ……ツ。ぽ……て。
きっとこの辺りで、こらえ性のないグレンシスはティアを担ぎ上げるところ。だが、バザロフは苛つく様子もなく、ティアに労わりの言葉をかける。
「ティア、もう少しゆっくり歩いたほうが良いか?」
「いいえ、大丈夫です……バザロフさま、もう少し早くても大丈夫です」
「そうか」
ティアの言葉に頷くけれど、バザロフの歩く速度は変わらない。
ただただ、うっかりティアを引きずってしまわないように、慎重に右足と左足を交互に動かすことに専念する。
バザロフはティアに対してとても寛容だった。
めったに自己主張をしないティアが望むことは、絶対に否定をしないし、あれやこれやと押し付けることもしない。望み通りにさせてやる。
本当は『もっとゆっくり歩いて』とか、『もう少し腕を下げて』とか、甘える言葉を欲しいけれども。
そしてティアが気負わずにそう言える相手が見つかれば良いとも切実に思っている。
だから、今一番……とまではいかなくても、バザロフに他の男よりほんの少しだけマシだと思われているグレンシスは九死に一生を得たことになる。
なぜならバザロフがこの屋敷に来た理由は、お見舞いもあったけれど、本当の目的は別にあった。
大切な愛娘が怪我を負い、病床にまで付いてしまった責任を取ってもらう為、グレンシスに軽く鉄槌の一つでも下そうかと思って、ここに足を向けたのだ。
でもその人は、ティアが変われるきっかけになるかもしれなくて。だからバザロフは、鉄槌を下すのはまたの機会にすることに決めた。
そして行きの3倍の時間をかけて、やっとエントランスの階段を下りてホールまで到着する。
そこに、丁度別の方向から私服姿のグレンシスと、騎士3人が玄関扉に向かって歩いてきた。
その3人の騎士にティアは見覚えがあった。そして騎士達も同じく。
「あ、こんにちは。ティアさん」
最初にバザロフとティアに気付いたカイルは、グレンシスに一礼する。
そしてとパタパタとティアの元に駆け寄った。
「お久しぶりです。ああ、良かったぁー、お元気そうになられて。ロハン隊長から、もう大丈夫って聞いてはいたんですが、お目にかかれて嬉しいです」
そして屈託なく笑った途端、くせっけのカイルの前髪が今日も元気にぴょこんと跳ねる。
けれど、その持ち主の眉は、弱々しく下の方へ向く。
「あの時、ティアさんの体調不良に気付けなくって、申し訳なかったです」
「え、いえ……そんな」
まったく世話を焼かせてと、文句の一つでも言われると思っていたのに、労わりの言葉を向けられたティアは、全力でたじろいてしまう。
けれど、そんなティアを無視してトルシスとバルータも勢いよく頭を下げた。
「俺たち体力馬鹿だったから、その辺、気が回らなくって。すいません」
「と、とんでもないですっ」
「俺、女の子が乗った馬車を御したの初めてだったんで……すんませんっ。乗り心地、ぶっちゃけ悪かったすよね!?」
「そんなことありませんっ」
「──……おい、その辺にしておけ」
わいのわいのとティアに言葉を掛けていた3人を止めたのは、グレンシスではなくバザロフだった。
軽く窘めたつもりだったけれど、部下の騎士達は死刑宣告でも受けたかのように顔色を無くした。
言わなくても良いことかもしれないが、騎士達にとってバザロフは雲の上の人間である。ただ、そのカテゴリは天使ではなく鬼神という位置付けとなっているけれど。
バザロフは石像のように固まってしまった騎士達から視線を外して、ティアを見る。もちろん慈愛に満ちた眼差しで。
「じゃあ、儂は行く。ティア、しっかり養生しろ」
「はい」
そして、いつも通りバザロフは別れの挨拶として、大きな手でティアの頭をくしゃりと撫でた。
その途端、部下の3人は信じられないものを見たかのように、びくっと身体を強張らせた。
それは騎士の最上に位置する人間と親しい間柄にあるティアの謎めいた身分について……ではなく、肉食獣が小さな小動物を愛でる光景に得も言われぬ恐怖を覚えてしまったから。
優しくして油断させた途端、ガブリっといきそうで、何だか妙に恐怖を覚えてしまう。もちろんそんなことは口にはしないけれど。
「グレン、突然邪魔してすまなかったな」
「いえ」
形式上の礼儀としてバザロフは屋敷の主人に短く声をかけ、玄関扉へと向かう。
けれどバザロフは、グレンシスにすれ違う時は、パパロフの表情となり、意味深長な視線を投げつけた。
***
玄関の扉が閉まれば、ついさっきの喧騒が嘘のようにホールは静寂に包まれる。
途端にティアは、グレンシスがそこにいることに妙に意識をしてしまう。
グレンシスは今は休暇中だと言っていた。
最近毎日見ている私服姿は、慣れることなくティアに新鮮なときめきを与えてくれる。
ただ、やっぱりグレンシスと二人っきりになることも慣れなくて、必要以上にそわそわしてしまう。
落ち着きがない女と思われたくないティアは、すぐに部屋に戻ろうとタイミングを計っていた。
けれども、踵を返す前にグレンシスから声を掛けられる。
「ティア、ついでだ。少し庭を歩こう」
「……はい」
グレンシスからの思わぬ申し出に、ティアは目を丸くする。けれど、少しの間を置いて小さく頷いた。
そうすれば、グレンシスは自然な流れで自分の肘をティアに差し出す。
薄手の上着を羽織った逞しい腕を見つめ、ティアはしばしの間、固まった。
「ほら」
「……」
苛立つ様子はないけれど急かされてしまい、ティアはグレンシスの腕に、自信の腕をからめた。
バザロフの時とは打って変わって、とてもぎこちなく。
どこぞのエリート騎士とは違い、バザロフは女性に対する接し方を弁えている。問答無用で抱き上げるような不埒な真似をするようなことはしない。
そしてティアも、バザロフに触れることには何の躊躇もない。
だからティアは失礼しますと断りを入れ、するりとバザロフの腕に自分の腕を突っ込んだ。
ロハン邸は貴族の邸宅である。だから、敷地も大きければ廊下も長い。
そして、ティアの部屋は、屋敷の婚約者様のお部屋という体で用意されたので、日当たりが良い建物の奥側にある。
なので玄関ホールに続く階段は、廊下のはるか向こう。
そこを目指して二人は、靴音をゆぅーくりと響かせながら歩いている。
──……カ……ツ。ぽ……て。カ……ツ。ぽ……て。
きっとこの辺りで、こらえ性のないグレンシスはティアを担ぎ上げるところ。だが、バザロフは苛つく様子もなく、ティアに労わりの言葉をかける。
「ティア、もう少しゆっくり歩いたほうが良いか?」
「いいえ、大丈夫です……バザロフさま、もう少し早くても大丈夫です」
「そうか」
ティアの言葉に頷くけれど、バザロフの歩く速度は変わらない。
ただただ、うっかりティアを引きずってしまわないように、慎重に右足と左足を交互に動かすことに専念する。
バザロフはティアに対してとても寛容だった。
めったに自己主張をしないティアが望むことは、絶対に否定をしないし、あれやこれやと押し付けることもしない。望み通りにさせてやる。
本当は『もっとゆっくり歩いて』とか、『もう少し腕を下げて』とか、甘える言葉を欲しいけれども。
そしてティアが気負わずにそう言える相手が見つかれば良いとも切実に思っている。
だから、今一番……とまではいかなくても、バザロフに他の男よりほんの少しだけマシだと思われているグレンシスは九死に一生を得たことになる。
なぜならバザロフがこの屋敷に来た理由は、お見舞いもあったけれど、本当の目的は別にあった。
大切な愛娘が怪我を負い、病床にまで付いてしまった責任を取ってもらう為、グレンシスに軽く鉄槌の一つでも下そうかと思って、ここに足を向けたのだ。
でもその人は、ティアが変われるきっかけになるかもしれなくて。だからバザロフは、鉄槌を下すのはまたの機会にすることに決めた。
そして行きの3倍の時間をかけて、やっとエントランスの階段を下りてホールまで到着する。
そこに、丁度別の方向から私服姿のグレンシスと、騎士3人が玄関扉に向かって歩いてきた。
その3人の騎士にティアは見覚えがあった。そして騎士達も同じく。
「あ、こんにちは。ティアさん」
最初にバザロフとティアに気付いたカイルは、グレンシスに一礼する。
そしてとパタパタとティアの元に駆け寄った。
「お久しぶりです。ああ、良かったぁー、お元気そうになられて。ロハン隊長から、もう大丈夫って聞いてはいたんですが、お目にかかれて嬉しいです」
そして屈託なく笑った途端、くせっけのカイルの前髪が今日も元気にぴょこんと跳ねる。
けれど、その持ち主の眉は、弱々しく下の方へ向く。
「あの時、ティアさんの体調不良に気付けなくって、申し訳なかったです」
「え、いえ……そんな」
まったく世話を焼かせてと、文句の一つでも言われると思っていたのに、労わりの言葉を向けられたティアは、全力でたじろいてしまう。
けれど、そんなティアを無視してトルシスとバルータも勢いよく頭を下げた。
「俺たち体力馬鹿だったから、その辺、気が回らなくって。すいません」
「と、とんでもないですっ」
「俺、女の子が乗った馬車を御したの初めてだったんで……すんませんっ。乗り心地、ぶっちゃけ悪かったすよね!?」
「そんなことありませんっ」
「──……おい、その辺にしておけ」
わいのわいのとティアに言葉を掛けていた3人を止めたのは、グレンシスではなくバザロフだった。
軽く窘めたつもりだったけれど、部下の騎士達は死刑宣告でも受けたかのように顔色を無くした。
言わなくても良いことかもしれないが、騎士達にとってバザロフは雲の上の人間である。ただ、そのカテゴリは天使ではなく鬼神という位置付けとなっているけれど。
バザロフは石像のように固まってしまった騎士達から視線を外して、ティアを見る。もちろん慈愛に満ちた眼差しで。
「じゃあ、儂は行く。ティア、しっかり養生しろ」
「はい」
そして、いつも通りバザロフは別れの挨拶として、大きな手でティアの頭をくしゃりと撫でた。
その途端、部下の3人は信じられないものを見たかのように、びくっと身体を強張らせた。
それは騎士の最上に位置する人間と親しい間柄にあるティアの謎めいた身分について……ではなく、肉食獣が小さな小動物を愛でる光景に得も言われぬ恐怖を覚えてしまったから。
優しくして油断させた途端、ガブリっといきそうで、何だか妙に恐怖を覚えてしまう。もちろんそんなことは口にはしないけれど。
「グレン、突然邪魔してすまなかったな」
「いえ」
形式上の礼儀としてバザロフは屋敷の主人に短く声をかけ、玄関扉へと向かう。
けれどバザロフは、グレンシスにすれ違う時は、パパロフの表情となり、意味深長な視線を投げつけた。
***
玄関の扉が閉まれば、ついさっきの喧騒が嘘のようにホールは静寂に包まれる。
途端にティアは、グレンシスがそこにいることに妙に意識をしてしまう。
グレンシスは今は休暇中だと言っていた。
最近毎日見ている私服姿は、慣れることなくティアに新鮮なときめきを与えてくれる。
ただ、やっぱりグレンシスと二人っきりになることも慣れなくて、必要以上にそわそわしてしまう。
落ち着きがない女と思われたくないティアは、すぐに部屋に戻ろうとタイミングを計っていた。
けれども、踵を返す前にグレンシスから声を掛けられる。
「ティア、ついでだ。少し庭を歩こう」
「……はい」
グレンシスからの思わぬ申し出に、ティアは目を丸くする。けれど、少しの間を置いて小さく頷いた。
そうすれば、グレンシスは自然な流れで自分の肘をティアに差し出す。
薄手の上着を羽織った逞しい腕を見つめ、ティアはしばしの間、固まった。
「ほら」
「……」
苛立つ様子はないけれど急かされてしまい、ティアはグレンシスの腕に、自信の腕をからめた。
バザロフの時とは打って変わって、とてもぎこちなく。
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