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第一部 王女と、移し身の乙女の願い
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ティアが馬車ではなく、グレンシスと共に移動している理由はこうだった。
『王女は大層お疲れで、ロハンネ卿の屋敷まで一人ゆっくりと休みたいとのことだ。だからティア、お前は俺と一緒に来い』
と、言われてしまったから。
そして、そう言われてしまえば、ティアには拒否権も、ましてや発言権などない。
それにもし仮に嫌だと言えば、この森の中で捨てられてしまうだろう。
野犬に齧られたいのかと聞かれたら、それは願い下げだ。好き好んで、猛獣のおやつになりたい人間などいない。
だから、ティアは大人しくグレンシスに抱かれて馬で移動することしか選べなかった。
ただ、グレンシスはこの旅の責任者で、一番偉い人。
騎士社会のことは疎いけれど、こういう場合は、部下の馬に乗せてもらうのが普通なのでは?という疑問がティアの頭にふわんと浮かんだ。
でも、有無を言わせないグレンシスの圧力によってティアは口を閉ざし続けている。そして、一刻も早くロハンネ卿の屋敷に到着することを必死に祈っている。
けれど、その願いに反して、馬車はひどくのんびりと車輪を回す。護衛の騎士達の馬の速度も必然的にゆっくりとなってしまっている。
「───……一度でも傷を癒した人間から触れられると、お前は体調を崩したりするのか?」
ポックリ、ポックリ。
気を紛らわす為に、ティアが馬の蹄の音を意味もなく数えていたら、グレンシスから、そんな問いが降ってきた。
「は?」
それがあまりにトンチンカンなものだったので、ティアは思わず間の抜けた声を出してしまった。
気配でグレンシスがちょっとだけムッとしたのがわかった。
けれど、怒りはそれ以上膨らむことは無く、再び、より分かりやすくした内容の問いが降ってきた。
「過去にその……なんというか、お前の不思議な術で癒された人間は、お前に触れることが禁忌とされていたりとかするのか?」
「………」
今度の質問には、ちゃんと理解することができたけれど、ティアは無言のままでいた。
なぜなら、2度目に問うたグレンシスのそれは、色んな意味を持ったものであったから、迂闊に答えることができなかったのだ。
ティアが過去にグレンシスの傷を癒したこと。
ついさっき触れるなと言った言葉をうやむやにする気はないこと。
移し身の術を彼なりに理解しようとしていること。
問われた側としては唸りたくなるものだけれど、上手な質問の仕方だなぁと、ティアはある意味感心する。───けれど、問うた側としては、とてもじれったい思いを抱えていた。
「ティア、答えてくれ」
グレンシスの声は、苛立ちよりも、焦燥感の強いものだった。
しかも、答えろ。ではなく、答えてくれと言った。
───なんていう口の利き方をするのだろう。
グレンシスは、ティアにお願いする立場ではないのだ。それこそ、威圧的に返答をもとめて良いはずなのに。
ティアの脳内に、また一つ困惑が追加されてしまった。
けれど、グレンシスの醸し出す空気は、だんだん容疑者を問いただすような厳しいものに変わりつつある。
そんな状況の中、ティアは無視し続ける根性はなかった。
「そ、そんなことはないです」
「なら、なぜさっき、俺に触れるなと言った?」
「……」
間髪入れずに、グレンシスからそう問われ、再びティアは沈黙してしまう。
だって、好きだから。異常にドキドキしてしまうから。それを知られたくないから。
……そして、これ以上勘違いしたくないから。
なんていうことを、口が裂けても言えるわけがない。
そんなことを吐露しなければならないなら、今すぐここから飛び降りるであろう。
でも、グレンシスはティアをがっしり抱えている。どう頑張っても、逃亡は不可能だ。
だからティアは嘘ではないけれど、どんなふうにでも取れる狡い言葉で誤魔化した。
「ちょっと、びっくりしただけです」
「なら、俺はお前に触れても良いんだな?」
「えっ!?」
ティアが驚いて声を上げれば、グレンシスは、良いことにしようと勝手に結論付けた。
そして、グレンシスは片手でティアの髪に触れる。
ちなみに今、グレンシスは手袋をしていない。ティアの怪我の応急処置をしてから、ずっと外したままなのだ。
だから触れられる部分からグレンシスの手のぬくもりが伝わってきて、ティアの心臓はバックン、バックンと忙しい。
応急処置をしただけの怪我は、痛むはずなのに、ティアの戸惑いと胸から湧き上がる言葉にできない感情を消すことに役には立ってくれない。まったくもって、ごく潰しだ。
そんな自身の足に悪態を付きながら暴れる心臓をぎゅっと押さえて、ティアは身を縮こますことしかできない。
対してグレンシスはその姿を、どんなふうに受け止めているのかわからない。
けれど、その大きな手のひらは、ティアの髪を撫でたり、指に一房からませたり、手櫛で梳いたりと、好き勝手に弄んでいる。
しばらくの間、そうしてティアの髪の感触を楽しんだグレンシスは、一先ず満足したようで、動かす手を止めた。
次いで、ティアが今、一番触れて欲しくないことを口にした。
「……3年前、俺を救ってくれたのはお前だったんだな」
「はい」
今更、隠したところで、どうなる。
ただ、もう既に知っているはずなのに、わざわざ口に出さなくても良いのに。
ティアはそんな苦い気持ちで、更に強く胸元を握りしめる。
そしてグレンシスから言われたくない言葉を先回りして口にする。
「……騎士様は、娼館育ちの私なんかに助けられて、がっかりしましたか?」
「まさか」
ティアは息を呑む。
間髪入れずにそう言われたことのほうが、まさか、だったのだ。
目を丸くするティアに、グレンシスは何も言わない。
けれど、呆れるほど間抜け面をしている命の恩人に向かい低い笑い声をたてた。
───あまりにも、可愛すぎて。
『王女は大層お疲れで、ロハンネ卿の屋敷まで一人ゆっくりと休みたいとのことだ。だからティア、お前は俺と一緒に来い』
と、言われてしまったから。
そして、そう言われてしまえば、ティアには拒否権も、ましてや発言権などない。
それにもし仮に嫌だと言えば、この森の中で捨てられてしまうだろう。
野犬に齧られたいのかと聞かれたら、それは願い下げだ。好き好んで、猛獣のおやつになりたい人間などいない。
だから、ティアは大人しくグレンシスに抱かれて馬で移動することしか選べなかった。
ただ、グレンシスはこの旅の責任者で、一番偉い人。
騎士社会のことは疎いけれど、こういう場合は、部下の馬に乗せてもらうのが普通なのでは?という疑問がティアの頭にふわんと浮かんだ。
でも、有無を言わせないグレンシスの圧力によってティアは口を閉ざし続けている。そして、一刻も早くロハンネ卿の屋敷に到着することを必死に祈っている。
けれど、その願いに反して、馬車はひどくのんびりと車輪を回す。護衛の騎士達の馬の速度も必然的にゆっくりとなってしまっている。
「───……一度でも傷を癒した人間から触れられると、お前は体調を崩したりするのか?」
ポックリ、ポックリ。
気を紛らわす為に、ティアが馬の蹄の音を意味もなく数えていたら、グレンシスから、そんな問いが降ってきた。
「は?」
それがあまりにトンチンカンなものだったので、ティアは思わず間の抜けた声を出してしまった。
気配でグレンシスがちょっとだけムッとしたのがわかった。
けれど、怒りはそれ以上膨らむことは無く、再び、より分かりやすくした内容の問いが降ってきた。
「過去にその……なんというか、お前の不思議な術で癒された人間は、お前に触れることが禁忌とされていたりとかするのか?」
「………」
今度の質問には、ちゃんと理解することができたけれど、ティアは無言のままでいた。
なぜなら、2度目に問うたグレンシスのそれは、色んな意味を持ったものであったから、迂闊に答えることができなかったのだ。
ティアが過去にグレンシスの傷を癒したこと。
ついさっき触れるなと言った言葉をうやむやにする気はないこと。
移し身の術を彼なりに理解しようとしていること。
問われた側としては唸りたくなるものだけれど、上手な質問の仕方だなぁと、ティアはある意味感心する。───けれど、問うた側としては、とてもじれったい思いを抱えていた。
「ティア、答えてくれ」
グレンシスの声は、苛立ちよりも、焦燥感の強いものだった。
しかも、答えろ。ではなく、答えてくれと言った。
───なんていう口の利き方をするのだろう。
グレンシスは、ティアにお願いする立場ではないのだ。それこそ、威圧的に返答をもとめて良いはずなのに。
ティアの脳内に、また一つ困惑が追加されてしまった。
けれど、グレンシスの醸し出す空気は、だんだん容疑者を問いただすような厳しいものに変わりつつある。
そんな状況の中、ティアは無視し続ける根性はなかった。
「そ、そんなことはないです」
「なら、なぜさっき、俺に触れるなと言った?」
「……」
間髪入れずに、グレンシスからそう問われ、再びティアは沈黙してしまう。
だって、好きだから。異常にドキドキしてしまうから。それを知られたくないから。
……そして、これ以上勘違いしたくないから。
なんていうことを、口が裂けても言えるわけがない。
そんなことを吐露しなければならないなら、今すぐここから飛び降りるであろう。
でも、グレンシスはティアをがっしり抱えている。どう頑張っても、逃亡は不可能だ。
だからティアは嘘ではないけれど、どんなふうにでも取れる狡い言葉で誤魔化した。
「ちょっと、びっくりしただけです」
「なら、俺はお前に触れても良いんだな?」
「えっ!?」
ティアが驚いて声を上げれば、グレンシスは、良いことにしようと勝手に結論付けた。
そして、グレンシスは片手でティアの髪に触れる。
ちなみに今、グレンシスは手袋をしていない。ティアの怪我の応急処置をしてから、ずっと外したままなのだ。
だから触れられる部分からグレンシスの手のぬくもりが伝わってきて、ティアの心臓はバックン、バックンと忙しい。
応急処置をしただけの怪我は、痛むはずなのに、ティアの戸惑いと胸から湧き上がる言葉にできない感情を消すことに役には立ってくれない。まったくもって、ごく潰しだ。
そんな自身の足に悪態を付きながら暴れる心臓をぎゅっと押さえて、ティアは身を縮こますことしかできない。
対してグレンシスはその姿を、どんなふうに受け止めているのかわからない。
けれど、その大きな手のひらは、ティアの髪を撫でたり、指に一房からませたり、手櫛で梳いたりと、好き勝手に弄んでいる。
しばらくの間、そうしてティアの髪の感触を楽しんだグレンシスは、一先ず満足したようで、動かす手を止めた。
次いで、ティアが今、一番触れて欲しくないことを口にした。
「……3年前、俺を救ってくれたのはお前だったんだな」
「はい」
今更、隠したところで、どうなる。
ただ、もう既に知っているはずなのに、わざわざ口に出さなくても良いのに。
ティアはそんな苦い気持ちで、更に強く胸元を握りしめる。
そしてグレンシスから言われたくない言葉を先回りして口にする。
「……騎士様は、娼館育ちの私なんかに助けられて、がっかりしましたか?」
「まさか」
ティアは息を呑む。
間髪入れずにそう言われたことのほうが、まさか、だったのだ。
目を丸くするティアに、グレンシスは何も言わない。
けれど、呆れるほど間抜け面をしている命の恩人に向かい低い笑い声をたてた。
───あまりにも、可愛すぎて。
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