56 / 101
第二部 贅沢な10日間
2
しおりを挟む
ティアの部屋の扉を開けたのは、三十代半ばの男性───この屋敷を取り仕切る執事のルディオンだった。
ルディオンは、暑い季節にもかかわらず、パリッとした執事服を身につけている。汗一つかいていない綺麗な立ち姿と、癖のない濃紺の髪を後ろに撫でつけた髪型は、執事としての控えめながらも凛とした気品を感じさせられる。
ただ目元がとても優しげなので、近寄りがたい雰囲気ではなく、人の良さを感じさせる風貌だった。
そんな執事であるルディオンは、手には水差しとグラス。そして銅製のコップの入った盆を手にしながら、大股で一歩足を踏み入れた。
「おや、お目覚めですか。良かったです」
ルディオンは、屋敷の主人が独身女性に覆い被さっているのに、取り乱すことなくとても穏やかに安堵の息を吐いた。
と同時に、盆に載った銅製のコップから立ち上がる湯気がふわりと揺れる。
「ああ、ついさっき目を覚ましたところだ」
グレンシスも、やましさなど微塵も感じさせない声音で執事に応える。ただすぐに、身を起こした。
もちろんティアが、その期を逃すことはしない。病み上がりとは思えない素早い動きで、半身を起こす。
でも、まだ熱があるので、途端にティアはぐらりと眩暈を覚えた。
けれど、そんなものは些末なこと。今、離れなければ、どのみち心臓が暴れ過ぎて死んでしまうのだから。
そんな気持ちで、息も絶え絶えになりながらベッドの背もたれに寄りかかり、体制を整える。
やっと人心地が付けば、ルディオンと目が合った。すぐさま、にこりと笑顔を向けられる。
けれどティアは気まずかった。
実は、この男性の顔に見覚えはあるけれど、名前までは知らなかった。
いや、ルディオンは以前、礼儀正しくティアに自己紹介をした。
けれどティアは、もう会うことはないだろうという気持ちから、はなから覚える気がなかったというのが真相で。
なのにここに来て、まさかの再会。
名を覚えなかった申し訳なさから、ティアはそっとルディオンから視線を逸らす。
「ルディオンとお呼びください。ティアさま」
ティアの気持ちをすぐさま読んだ執事は、嫌な顔などすることもなく、くすりと笑って軽く礼を取る。
「……さま?……あ、いえ。あの……どうも」
自分の名前をさらりと様付けで呼ばれてしまい、妙に居心地が悪い。
でもティアは、蚊の無くような小声でルディオンに挨拶をすると、ペコリと頭を下げた。
客人とはいえ少し不作法ではあったけれど、ルディオンは既にティアが人見知りが激しいことを知っているので気にする様子もない。
ただ少し眉を下げ、ティアに労わりのある眼差しを向けた。
「2日間もずっと意識が戻らなくて心配しておりました。意識が戻られて、本当に良かったです。……お仕事とはいえ、一ヶ月という長旅は相当お疲れになったでしょう」
ルディオンの言葉で、ここでやっとティアは自分が帰路の途中で意識を失ったことを思いだした。
瞬間、ティアの顔から血の気が引いた。
なんていう失態だっ。自分は仕事を放棄したあげく、グレンシスに看病をさせてしまうなんてっ。
ぎちぎちと音がしそうな程の拙い動きで、ティアがすぐ横にいる人物に目を向ける。少しの猶予もなく、ばっちりとグレンシスと目が合ってしまった。
「申し訳ありませんっ。あのっ、何てお詫びを申し上げれば良いのか……。本当に、ご迷惑をお掛けしましたっ」
「いや」
言い訳ゼロ。ただただ土下座せんばかりにティアが謝罪をすれば、グレンシスは食い気味に首を横に降った。
そんな二人のやり取りを微笑ましく見ていたルディオンは、再び眉を下げ、困った様子で口を開いた。
「グレンシス様。実はまだティア様がお目覚めとは思わず、薬湯をお持ちしたのですが……粉薬に変えましょうか?」
「いや、せっかく用意したんだ。これを飲ます」
「かしこまりました」
そう言いながら、グレンシスはルディオンから薬湯の入った盆を受け取った。そして一旦、それをサイドテーブルに置くと、銅製のコップを手にする。
けれど、すぐにはティアには渡さない。
湯気の立ち方を見て温度を確認する。ティアが火傷をしないように。
もちろん、ロハン邸の使用人は優秀なので、そんなヘマはしたりしない。
ただ、グレンシスが過保護なだけということ。
「ティア、多分、大丈夫だと思うが……気を付けて飲め」
「え?……あ、は、はい」
差し出されたコップをティアが、おどおどしながら受け取る。
そのやり取りをにこやかに見守っていたルディオンは、うっかりこんなことを言ってしまった。
ちなみにこの執事は、グレンシスがプロポーズに失敗したことを知らない。
「やっとティアさまは、一人でこれを飲むことができますね。ご主人さま」
「おいっ」
慌てた様子でグレンシスがルディオンを諌めた。
対してルディオンは、何故に?と言いたげな不可解な表情を見せる。
ただここで、この執事を無能だと責めてはいけない。
なぜならルディオンは、つい先日、まだグレンシスが任務から帰還する前に、急ぎの手紙を受け取った。そしてその内容は、伴侶となる女性──ティアの私室を急ぎ、けれど完璧な状態で用意しておくこと、と。
そんな手紙を受け取ってしまったなら、ルディオンがうっかり失言してしまう気持ちがわからなくもない。
グレンシスはもう26歳。
そんなそこそこの大人が恋仲となったのなら、手を繋ぐなど当たり前。そしてキスの一つや二つしていても、可笑しくはないのだから。
さて、ここでちょっとした説明もさせていただく。
ティアは薬湯を飲んだ記憶は、ない。
けれども、この執事の口調は、何度も飲んでいるかのような口ぶりだ。……ただし、複数形で。
ティアは考えた。熱で回らない頭で必死に考えた。薬湯の入ったコップを食い入るように見つめながら。
そして、一つの可能性を口にした。
「……くちうつし」
ティアからすれば、何を馬鹿なことをと一蹴して欲しかったのだが……グレンシスは片手で顔を覆いながら……でも、しっかりと頷いてしまった。
その瞬間のティアの表情をどう表現していいのかわからない。とにかく言葉では言い表せない程、複雑怪奇なものだった。
さわさわと心地よい風が、これまでずっと少し開けている窓から入り込んでいた。
けれど、ここでピタリと止んだ。と、同時にカーテンも動きを止め、陽の光を遮断し部屋を薄暗くする。
まるで、様々な感情を抱えた3人の表情を隠すかのように。
どうやら夏の風は、大変、空気を読める存在のようだった───。
ルディオンは、暑い季節にもかかわらず、パリッとした執事服を身につけている。汗一つかいていない綺麗な立ち姿と、癖のない濃紺の髪を後ろに撫でつけた髪型は、執事としての控えめながらも凛とした気品を感じさせられる。
ただ目元がとても優しげなので、近寄りがたい雰囲気ではなく、人の良さを感じさせる風貌だった。
そんな執事であるルディオンは、手には水差しとグラス。そして銅製のコップの入った盆を手にしながら、大股で一歩足を踏み入れた。
「おや、お目覚めですか。良かったです」
ルディオンは、屋敷の主人が独身女性に覆い被さっているのに、取り乱すことなくとても穏やかに安堵の息を吐いた。
と同時に、盆に載った銅製のコップから立ち上がる湯気がふわりと揺れる。
「ああ、ついさっき目を覚ましたところだ」
グレンシスも、やましさなど微塵も感じさせない声音で執事に応える。ただすぐに、身を起こした。
もちろんティアが、その期を逃すことはしない。病み上がりとは思えない素早い動きで、半身を起こす。
でも、まだ熱があるので、途端にティアはぐらりと眩暈を覚えた。
けれど、そんなものは些末なこと。今、離れなければ、どのみち心臓が暴れ過ぎて死んでしまうのだから。
そんな気持ちで、息も絶え絶えになりながらベッドの背もたれに寄りかかり、体制を整える。
やっと人心地が付けば、ルディオンと目が合った。すぐさま、にこりと笑顔を向けられる。
けれどティアは気まずかった。
実は、この男性の顔に見覚えはあるけれど、名前までは知らなかった。
いや、ルディオンは以前、礼儀正しくティアに自己紹介をした。
けれどティアは、もう会うことはないだろうという気持ちから、はなから覚える気がなかったというのが真相で。
なのにここに来て、まさかの再会。
名を覚えなかった申し訳なさから、ティアはそっとルディオンから視線を逸らす。
「ルディオンとお呼びください。ティアさま」
ティアの気持ちをすぐさま読んだ執事は、嫌な顔などすることもなく、くすりと笑って軽く礼を取る。
「……さま?……あ、いえ。あの……どうも」
自分の名前をさらりと様付けで呼ばれてしまい、妙に居心地が悪い。
でもティアは、蚊の無くような小声でルディオンに挨拶をすると、ペコリと頭を下げた。
客人とはいえ少し不作法ではあったけれど、ルディオンは既にティアが人見知りが激しいことを知っているので気にする様子もない。
ただ少し眉を下げ、ティアに労わりのある眼差しを向けた。
「2日間もずっと意識が戻らなくて心配しておりました。意識が戻られて、本当に良かったです。……お仕事とはいえ、一ヶ月という長旅は相当お疲れになったでしょう」
ルディオンの言葉で、ここでやっとティアは自分が帰路の途中で意識を失ったことを思いだした。
瞬間、ティアの顔から血の気が引いた。
なんていう失態だっ。自分は仕事を放棄したあげく、グレンシスに看病をさせてしまうなんてっ。
ぎちぎちと音がしそうな程の拙い動きで、ティアがすぐ横にいる人物に目を向ける。少しの猶予もなく、ばっちりとグレンシスと目が合ってしまった。
「申し訳ありませんっ。あのっ、何てお詫びを申し上げれば良いのか……。本当に、ご迷惑をお掛けしましたっ」
「いや」
言い訳ゼロ。ただただ土下座せんばかりにティアが謝罪をすれば、グレンシスは食い気味に首を横に降った。
そんな二人のやり取りを微笑ましく見ていたルディオンは、再び眉を下げ、困った様子で口を開いた。
「グレンシス様。実はまだティア様がお目覚めとは思わず、薬湯をお持ちしたのですが……粉薬に変えましょうか?」
「いや、せっかく用意したんだ。これを飲ます」
「かしこまりました」
そう言いながら、グレンシスはルディオンから薬湯の入った盆を受け取った。そして一旦、それをサイドテーブルに置くと、銅製のコップを手にする。
けれど、すぐにはティアには渡さない。
湯気の立ち方を見て温度を確認する。ティアが火傷をしないように。
もちろん、ロハン邸の使用人は優秀なので、そんなヘマはしたりしない。
ただ、グレンシスが過保護なだけということ。
「ティア、多分、大丈夫だと思うが……気を付けて飲め」
「え?……あ、は、はい」
差し出されたコップをティアが、おどおどしながら受け取る。
そのやり取りをにこやかに見守っていたルディオンは、うっかりこんなことを言ってしまった。
ちなみにこの執事は、グレンシスがプロポーズに失敗したことを知らない。
「やっとティアさまは、一人でこれを飲むことができますね。ご主人さま」
「おいっ」
慌てた様子でグレンシスがルディオンを諌めた。
対してルディオンは、何故に?と言いたげな不可解な表情を見せる。
ただここで、この執事を無能だと責めてはいけない。
なぜならルディオンは、つい先日、まだグレンシスが任務から帰還する前に、急ぎの手紙を受け取った。そしてその内容は、伴侶となる女性──ティアの私室を急ぎ、けれど完璧な状態で用意しておくこと、と。
そんな手紙を受け取ってしまったなら、ルディオンがうっかり失言してしまう気持ちがわからなくもない。
グレンシスはもう26歳。
そんなそこそこの大人が恋仲となったのなら、手を繋ぐなど当たり前。そしてキスの一つや二つしていても、可笑しくはないのだから。
さて、ここでちょっとした説明もさせていただく。
ティアは薬湯を飲んだ記憶は、ない。
けれども、この執事の口調は、何度も飲んでいるかのような口ぶりだ。……ただし、複数形で。
ティアは考えた。熱で回らない頭で必死に考えた。薬湯の入ったコップを食い入るように見つめながら。
そして、一つの可能性を口にした。
「……くちうつし」
ティアからすれば、何を馬鹿なことをと一蹴して欲しかったのだが……グレンシスは片手で顔を覆いながら……でも、しっかりと頷いてしまった。
その瞬間のティアの表情をどう表現していいのかわからない。とにかく言葉では言い表せない程、複雑怪奇なものだった。
さわさわと心地よい風が、これまでずっと少し開けている窓から入り込んでいた。
けれど、ここでピタリと止んだ。と、同時にカーテンも動きを止め、陽の光を遮断し部屋を薄暗くする。
まるで、様々な感情を抱えた3人の表情を隠すかのように。
どうやら夏の風は、大変、空気を読める存在のようだった───。
1
お気に入りに追加
3,047
あなたにおすすめの小説
さようなら、お別れしましょう
椿蛍
恋愛
「紹介しよう。新しい妻だ」――夫が『新しい妻』を連れてきた。
妻に新しいも古いもありますか?
愛人を通り越して、突然、夫が連れてきたのは『妻』!?
私に興味のない夫は、邪魔な私を遠ざけた。
――つまり、別居。
夫と父に命を握られた【契約】で縛られた政略結婚。
――あなたにお礼を言いますわ。
【契約】を無効にする方法を探し出し、夫と父から自由になってみせる!
※他サイトにも掲載しております。
※表紙はお借りしたものです。

夫が妹を第二夫人に迎えたので、英雄の妻の座を捨てます。
Nao*
恋愛
夫が英雄の称号を授かり、私は英雄の妻となった。
そして英雄は、何でも一つ願いを叶える事が出来る。
そんな夫が願ったのは、私の妹を第二夫人に迎えると言う信じられないものだった。
これまで夫の為に祈りを捧げて来たと言うのに、私は彼に手酷く裏切られたのだ──。
(1万字以上と少し長いので、短編集とは別にしてあります。)
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。

【完結】赤ちゃんが生まれたら殺されるようです
白崎りか
恋愛
もうすぐ赤ちゃんが生まれる。
ドレスの上から、ふくらんだお腹をなでる。
「はやく出ておいで。私の赤ちゃん」
ある日、アリシアは見てしまう。
夫が、ベッドの上で、メイドと口づけをしているのを!
「どうして、メイドのお腹にも、赤ちゃんがいるの?!」
「赤ちゃんが生まれたら、私は殺されるの?」
夫とメイドは、アリシアの殺害を計画していた。
自分たちの子供を跡継ぎにして、辺境伯家を乗っ取ろうとしているのだ。
ドラゴンの力で、前世の記憶を取り戻したアリシアは、自由を手に入れるために裁判で戦う。
※1話と2話は短編版と内容は同じですが、設定を少し変えています。


異世界に行った、そのあとで。
神宮寺 あおい
恋愛
新海なつめ三十五歳。
ある日見ず知らずの女子高校生の異世界転移に巻き込まれ、気づけばトルス国へ。
当然彼らが求めているのは聖女である女子高校生だけ。
おまけのような状態で現れたなつめに対しての扱いは散々な中、宰相の協力によって職と居場所を手に入れる。
いたって普通に過ごしていたら、いつのまにか聖女である女子高校生だけでなく王太子や高位貴族の子息たちがこぞって悩み相談をしにくるように。
『私はカウンセラーでも保健室の先生でもありません!』
そう思いつつも生来のお人好しの性格からみんなの悩みごとの相談にのっているうちに、いつの間にか年下の美丈夫に好かれるようになる。
そして、気づけば異世界で求婚されるという本人大混乱の事態に!

【短編版】虐げられていた次期公爵の四歳児の契約母になります!~幼子を幸せにしたいのに、未来の旦那様である王太子が私を溺愛してきます~
八重
恋愛
伯爵令嬢フローラは、公爵令息ディーターの婚約者。
しかし、そんな日々の裏で心を痛めていることが一つあった。
それはディーターの異母弟、四歳のルイトが兄に虐げられていること。
幼い彼を救いたいと思った彼女は、「ある計画」の準備を進めることにする。
それは、ルイトを救い出すための唯一の方法──。
そんな時、フローラはディーターから突然婚約破棄される。
婚約破棄宣言を受けた彼女は「今しかない」と計画を実行した。
彼女の計画、それは自らが代理母となること。
だが、この代理母には国との間で結ばれた「ある契約」が存在して……。
こうして始まったフローラの代理母としての生活。
しかし、ルイトの無邪気な笑顔と可愛さが、フローラの苦労を温かい喜びに変えていく。
さらに、見目麗しいながら策士として有名な第一王子ヴィルが、フローラに興味を持ち始めて……。
ほのぼの心温まる、子育て溺愛ストーリーです。
※ヒロインが序盤くじけがちな部分ありますが、それをバネに強くなります
※「小説家になろう」が先行公開で、長編版は現在「小説家になろう」のみ公開予定です
【完結】見返りは、当然求めますわ
楽歩
恋愛
王太子クリストファーが突然告げた言葉に、緊張が走る王太子の私室。
伝統に従い、10歳の頃から正妃候補として選ばれたエルミーヌとシャルロットは、互いに成長を支え合いながらも、その座を争ってきた。しかし、正妃が正式に決定される半年を前に、二人の努力が無視されるかのようなその言葉に、驚きと戸惑いが広がる。
※誤字脱字、勉強不足、名前間違い、ご都合主義などなど、どうか温かい目で(o_ _)o))
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる