別れを告げたはずの婚約者と、二度目の恋が始まるその時は

当麻月菜

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序章

三年ぶりの再会④

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「人を呼びますよっ、ヒーストン卿」
「呼べは良いさ。私は結婚まで待ちきれなくて婚約者を抱いてしまった愚かな男になるだけだ。そうして既成事実を作って、君と私は即結婚する。─── これも悪くない」
「なっ」

 驚愕したクラーラの頬を愛おしそうにヴァルラムは撫でる。

 しかし次の瞬間、彼はクラーラの顎をつかむと強引に唇を合わせた。

「……んっ、は……や……んんっ」

 クラーラの怯える舌を、ヴァルラムは絡め取る。蹂躙されるようなキスに、クラーラの目から涙が溢れた。

「……ん、や、やだ。やめて……んっ、はぁ」

 息も絶え絶えになって懇願すれば、あろうことが組み敷かれた足の間にヴァルラムの膝が割って入って来た。

 そのままの姿勢で白衣を乱暴に脱ぎ捨てるのを、きちんと結んでいたタイを無造作に解く様を、クラーラはなす術も無く見つめることしかできない。

「こんな場所で君を抱くなんて思ってもみなかった。でも、ここまで私を煽ったのは君だから」 

 ─── 憎んでも良いよ。恨んでもいいさ。でも絶対に放さない。

 吐息と共に耳に注ぎ入れられた言葉は、熱く、到底嘘とは思えない本気のものだった。

 無様に震えることしかできないクラーラの後頭部を、ヴァルラムはそっと持ち上げる。結っていた髪を解くために。

 ふぁさりと、カプチーノ色の髪が床に広がる。

 息つく暇も無く、ヴァルラムが迷いを振り切るようにクラーラのワンピースの胸元に手をかけた。

 ───プチン。

 ヴァルラムの荒々しい手つきに、ワンピースのボタンの一つが弾け飛んだ。

 逃れられないことを悟ったクラーラは、はたはたと涙を流す。

「……泣くほど、嫌なんだね」

 ポツリと呟いたヴァルラムは、クラーラを宥めるように髪を手櫛で梳く。その姿は、これから力づくで抱こうとする野獣のようにはどうしても見えなかった。

 道に迷った子供のような、癇癪を起こし過ぎて疲れ果てた幼子のような、道端で拾った手紙をどうして良いのかわからないような───途方にくれた顔だった。

 まかり間違っても、性欲だけを処理したい男の顔ではなかった。

「ヴァルラム……さん」

 自分でもびっくりするほど、落ち着いた声が出た。

「なん……だい?」
「私、さっきの言葉撤回する。だから……こんなことしないで」
「……本当か?」
「うん」

 クラーラが頷いたと同時に、ヴァルラムは身体を起こした。

 すかさずクラーラも身を起こして、ずるずるとしゃがんだ姿勢のまま彼と距離を取りながら、絶対に譲れないことを口にする。

「婚約破棄は撤回する。でも、研究員のみんなには、婚約者同士ってことは黙ってて。内緒にして欲しいの。……お願い」

 3年という決して短くはない時間をかけて、クラーラは人見知りが激しく疑い深い研究員たちと何とか打ち解けることができた。行く当てのない自分にとって、ここは最後の居場所だ。
 
 このマノア植物研究所は、行き場を失った者たちが集う場所。婚約者が迎えに来たとわかったら、研究員達は自分を”いつか去る者”として見るだろう。裏切りと取られても仕方が無い。

 どれだけ時間をかけて関係を築いていたって、壊れるのは一瞬だということをクラーラは知っている。

 今、咄嗟に婚約破棄を撤回したのは、どうしても既成事実を作りたくなかったから。というのも、もちろんあるけれど、ヴァルラムらしくない顔をこれ以上見たくなかったから。

 ただ、口にした言葉は嘘だ。

 ヴァルラムの赴任期間が終わっても、自分は絶対にこの研究所を離れるつもりは無い。

「……秘密にして、か」

 少し離れた場所で、ヴァルラムは面白くなさそうに呟いた。

 たったそれだけのことで自分の意思とは無関係に、びくりと身体が震えてしまった。はだけた胸元を咄嗟に隠してしまう。

 そうすることでまた彼の怒りに触れてしまうかもしれないが、それでも淫らな恰好のままでいることに耐えられなかった。

「いいよ、わかった」

 てっきりどうしてだと詰め寄られることを覚悟していたけれど、ヴァルラムは拍子抜けするくらいあっさりと要求を呑んでくれた。

「……い、良いの?」
「ああ。君がそう望むなら」
 
 幻聴ではな無いのかと疑えば、ヴァルラムは諦めたような笑みを浮かべた。でもしっかりと頷き、床に投げ出されたままのタイと結び、白衣を袖に通し始める。

 床に座り込んだまま、ぼんやりとその姿を見つめていたクラーラの膝に、ポタリと水滴が落ちた。

 それはポタポタ落ち続け、7つめの水滴が膝に落ちる頃、ようやくこれが自分の涙であることにクラーラは気付いた。

 でもこの涙の理由が、悲しいのか、辛いのか、苦しいのか、その全部なのか自分でもわからない。

 まるで世界がひっくり返ってしまった状況に、気持ちも思考も追い付けないでいる。

「……泣かないで。泣かせてしまって……すまなかった」

 手の甲で涙を拭いていたら、不意に声が降って来た。見上げれば、すぐ近くにヴァルラムが立っていた。

 息を呑んだと同時に、彼は跪いてこちらに手を伸ばす。身を引く暇は無かった。

「目が腫れてしまったね。ごめん……。一度着替えに戻った方が良い。立てるかい?」

 親指の腹で涙を拭われ、肩を抱かれる。さっきまでの荒々しさは無く、かつて恋人だった時のような優しさで。

 それが、無性に嫌だった。

「触らないで。一人で立てるからっ」

 毒蛾を払うような仕草でヴァルラムの腕を叩き落とすと、クラーラは自力で立ち上がった。

 また、ポロリと涙が零れたけれど、彼に見せたくなくて手の甲で乱暴に拭う。

「約束、絶対に守って」
「わかっている。でもララ、聞いてくれ」
「ララとも、呼ばないでっ」

 悲鳴に近い声を上げたクラーラに、ヴァルラムが顔を歪めた。

「……わかった。なぁ、二人っきりの時でも駄目か?」
「駄目。どこにいても、たとえ私がいない場所でも、その名は呼ばないで」
「……わかった」

 手の平を返すように優しくなったヴァルラムは、こちらの主張を全て受け入れてくれる。

 けれどその声は抑揚が無く、彼の意思に反していることが痛い程伝わってくる。

「君を傷付けてしまったこと、本当にすまなかった。この2年間……私が室長として働く間、君を束縛したりしない。絶対に、約束する。だから……どうか普通に接して欲しい。頼む」

 ヴァルラムの懇願に、クラーラは答えることはしなかった。

 逃げるように室長部屋を飛び出した。






 着替える為に女子宿舎の自分の部屋に戻る間ずっと、無くなってしまったボタンの替えはあるかと、頭を悩ませてみた。

 でも、本当は別の事───これから上司となったヴァルラムの下で、どう働けば良いか頭がいっぱいだった。

 こんな再会なんて、望んでなんかいなかった。

 父の死から、早3年。もう心をこんな風に揺さぶられることは、無いと思っていた。人里離れたこの研究所で、ひっそりとでもせわしなく過ごしながら一生を終えると思っていた。

 だから4年前に芽生えた一時の恋心も、いい思い出だったなと振り返る程度で済むはずだった。

 なのに突然の再会で、蓋をしていた感情は剥き出しにされて見て見ぬふりをしてきた過去に強制的に向き合わされてしまった。しかもこれが日常になるなんて、

「……無理だよ。耐えられない」

 かつて愛した人をただの上司として接する覚悟など、今のクラーラには持ち合わせていなかった。
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