上 下
11 / 12
演じる日々と、知られざるあなたの真実

1

しおりを挟む
 この週末で杏沙の世界が一変しても、杏沙を取り巻く世界は何も変わらない。日曜日が過ぎれば、月曜日が来る。

 杏沙が働く職場も週が明ければ、いつも通り忙しい月曜日を迎える。



「長沢さぁーん、会議用のお茶は全員取りに来てくれた?」
「あ、企画課はまだです。あとは全部終わりました」
「っち、またあそこか。……ったく」
「あの……主任、今お見えになられましたので渡してきまぁーす」
「はいはーい、よろしくね!」

 月曜日の総務課は、各部署の会議の準備に追われるから週で一番忙しい。

 ノベクラ紙通商は福利厚生の一環で、会議の際にはペットボトルのお茶が配られる。

 ただ大量注文したお茶はまとめて総務課に届く。そのため課の人間が各部署ごとに小分けにしなければならない。

 就業開始時刻から始まる会議の為に、総務課は通常より30分早い出勤が義務付けられている。でも、終了時刻が早く終わるわけではない。いわゆるサービス早出というものだ。

 それは総務課に限ってのことでは無い。営業部も企画課も早出も残業も当たり前。経理課に至っては月末や決算時期になると、終電で帰ることもしばしば。

 むしろ月曜日だけ早出を求められる総務課は、会社で一番暇な部署である。

 しかしながら、実際他の部署を経験していない人間からすると、大変理不尽な扱いを受けていると感じてしまうらしい。

「ちょっと戸川さんに伊藤さんっ、何やってるの!?」 

 2つ上の長谷川先輩がまなじりを吊り上げて、新人2名に尖った声を出した。

 対して咎められた新人2名───紗里奈と留美はしまったという顔をして、誤魔化し笑いをする。

「すいませーん。ちょっと手を切ってしまって」
「あー……伊藤さん聞き手を切っちゃったから、私が代わりに絆創膏を貼ってましたー」

 空の段ボールを潰すよう命じられていた紗里奈と留美は、すかさず言い訳をする。

 しかし二人がネイルを見せ合っていたのを杏沙は知っている。

 でもわざわざ告げ口をする気はないし、月曜日からフロアが気まずい空気になるのも嫌だ。

 だから杏沙は「私、代わりまーす」と自ら手を挙げて、紗里奈と留美から段ボール箱を奪い手際よく箱を潰していく。

「ごめんねぇー」
「大丈夫?一人でできそう?」

 豪快に箱を潰す杏沙に紗里奈と留美は、両手を合わせながら後退する。塗りたてのネイルが剥がれなくてラッキーという表情を隠しもしないで。

 そんな二人を見て、杏沙は流石に苛立ちを覚えてしまう。けれど気付けば首を縦に動かしていた。

「うん、大丈夫。こっちは一人でできるから、役員会議の準備をしたほうが良いかも」

 毎週月曜日に行われる役員会議は、11時から15時過ぎまで7階の特別会議室を使用する。

 そこはいわゆる”お偉いさん”専用フロアでもあるため、会議前にお茶と仕出し弁当を所定の位置に用意しておかなければならない。

 もちろんこれも総務課の仕事であり、新人が率先してやるべきことでもある。

 けれども留美は露骨に嫌な顔をした。

「っていうか、それまでうちらの仕事なの?」

 その不満げな声はかなり大きくて、フロア全体に響いてしまった。 

 ふっくら体形の留美は、よく言えばサバサバした姉御肌。言葉を選ばなければ、あまり考えず物事を口にしてしまうし、少し地声が少し大きい。

 その為、ちょうど慌ただしさの間にあったフロアに無駄に響いてしまった。

「ちょっと伊藤さん、今、どんなつもりで言ったの?」

 新人の軽いボヤキを聞き流すことができなかったのは、先ほど紗里奈と留美に注意をした長谷川先輩だった。

 総務課は上司以外は皆、女性。普段は新人のミスもおおらかに受け止めてくれるけれど、週で一番忙しい最中のそれは、かなりの失言だった。

「……あー、えっと、長沢さんが早く行けって言うもんですから、つい……」

 誓って急かしてなんかいないのに、なぜか自分のせいになってしまった事態に杏沙はぎょっとする。

 けれども今ここで自分の無罪を主張するのは、場違いである。だからといって留美のでまかせをそのままにしたくもない。

 そんな葛藤をしていたけれど、幸いにも長谷川先輩は留美の発言を鵜呑みにすることはなかった。

「長沢さんが急かしたかどうかはわからないけれど、もう10時を過ぎてるの。だから手が空いているあなたが役員会議の準備に向かうのは当然じゃないの?」
「……まぁ、そうですけど……」

 長谷川先輩のごもっともな発言に、留美は口を尖らせながら頷いた。

 その態度はかなり大人げないと、中途半端に潰した段ボール箱を持ったまま杏沙は内心ハラハラしてしまう。

 そりゃあ週の初めから時代遅れのお偉いさん達の会議の準備なんて、誰だってやりたくない。なんで自分が?と思うのも無理はない。

 でも思っているからといって口に出して良いものじゃないし、先輩に対してそんな態度を取って良い理由にもならない。

 といってもここで自分がしゃしゃり出て、何になるというのだろう。それ以前に、この場を収める話術なんて自分には持ち合わせていない。

 ……などと、杏沙は頭の中で忙しく思考を巡らせていたけれど、ここで沢野主任が割って入った。

「長谷川さん、気持ちはわかるけど今は時間が惜しいからその辺にして。で、伊藤さん。あなたは軽率な発言をしたことを自覚して」

 キュッキュッと愛用のナースシューズを響かせて、沢野主任は苦笑しながら二人の肩を叩いた。

 お局様である彼女の発言は、鶴の一声でもある。

「わかりました。仕事に戻ります」

 先に身を引いたのは、勤務年数が長い長谷川先輩だった。しかし腹の虫が収まらないらしく、ひと睨みしてから自分の席に戻った。

 それに対して留美は性懲りも無く噛みつこうとするが、それよりも早く沢野主任は再び口を開く。

「じゃあ、伊藤さんそろそろ”なだ千”のお弁当が、1階の受付の届くから受け取りに行ってちょうだい」

 呆れと苛立ちが混ざった沢野主任の口調は、とても重みがあった。

 さすがに勝気な性格の留美でも反発する勇気はなかったようで不貞腐れた顔で「わかりました」と呟くと、そのまま廊下へと出て行った。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

私は心を捨てました 〜「お前なんかどうでもいい」と言ったあなた、どうして今更なのですか?〜

月橋りら
恋愛
私に婚約の打診をしてきたのは、ルイス・フォン・ラグリー侯爵子息。 だが、彼には幼い頃から大切に想う少女がいたーー。 「お前なんかどうでもいい」 そうあなたが言ったから。 私は心を捨てたのに。 あなたはいきなり許しを乞うてきた。 そして優しくしてくるようになった。 ーー私が想いを捨てた後で。 どうして今更なのですかーー。 *この小説はカクヨム様、エブリスタ様でも連載しております。

5年も苦しんだのだから、もうスッキリ幸せになってもいいですよね?

gacchi
恋愛
13歳の学園入学時から5年、第一王子と婚約しているミレーヌは王子妃教育に疲れていた。好きでもない王子のために苦労する意味ってあるんでしょうか。 そんなミレーヌに王子は新しい恋人を連れて 「婚約解消してくれる?優しいミレーヌなら許してくれるよね?」 もう私、こんな婚約者忘れてスッキリ幸せになってもいいですよね? 3/5 1章完結しました。おまけの後、2章になります。 4/4 完結しました。奨励賞受賞ありがとうございました。 1章が書籍になりました。

王子を身籠りました

青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。 王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。 再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

【完結】捨ててください

仲 奈華 (nakanaka)
恋愛
ずっと貴方の側にいた。 でも、あの人と再会してから貴方は私ではなく、あの人を見つめるようになった。 分かっている。 貴方は私の事を愛していない。 私は貴方の側にいるだけで良かったのに。 貴方が、あの人の側へ行きたいと悩んでいる事が私に伝わってくる。 もういいの。 ありがとう貴方。 もう私の事は、、、 捨ててください。 続編投稿しました。 初回完結6月25日 第2回目完結7月18日

お飾りの侯爵夫人

悠木矢彩
恋愛
今宵もあの方は帰ってきてくださらない… フリーアイコン あままつ様のを使用させて頂いています。

【完結】もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?

冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。 オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。 だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。 その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・ 「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」 「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」

夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました

氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。 ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。 小説家になろう様にも掲載中です

処理中です...