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その願いは、あまりにぶっ飛んだもので

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 ──私がこの青年と、付き合う??

 突拍子もない由紀のお願いに、杏沙は呆然とする。

「……付き合う?」

 今しがた語られた言葉が信じられなくて、杏沙はオウム返しに由紀に問いかけた。ほとんど呟きに近いかすれ声だった。

「そう。私の代わりに和臣さんと付き合って。お願い……あんずなら安心できるから」

 由紀が両手で杏沙の手を握り、真剣な表情で懇願する。

 ついさっき何でもすると言ってしまった杏沙だが、早くも前言撤回したい気分だ。

「待って。ちょっと待って、由紀。……いや、さすがにそれは……ちょっと……」
「えー、何でもするって言ってくれたじゃん」

 頬を膨らませた由紀は、握っている手に力を込める。病人とは思えない力でかなり痛くて、彼女が冗談ではなく本気で言っていることを知る。

「でもさぁ……そういうのは」
「あ、待って。お母さん、悪いけどちょっと席外して」

 それでも言葉を選びながら辞退しようとする杏沙を遮るように、由紀は自分の母親に声をかける。

 娘にそう言われた母親はあっさりと「はいはい」と頷き、病室を出ていってしまった。

 置いていかないで!と思わず由紀の母親を引き留めたくなった杏沙だったが、それを阻止するように由紀は体をひねって杏沙を正面から見る。

「ま、急な話でびっくりしたよね。とりあえずコーヒー飲んで落ち着きなよ。言っとくけど、お母さんの淹れたコーヒーマジで美味しいから」
「……落ち着きなよって……由紀が言うな」
「あははっ」

 言いたいことは山ほどある。けれど、あっけらかんとした由紀の笑い声に杏沙は脱力して、パイプ椅子の背もたれに重心をかけた。

 顎を上にして仰け反るように座ったと同時に、視界の端に二人分のマグカップを持つ由紀の彼氏が映りこむ。

 端正な顔をしている彼は、杏沙の目には平然としているように見える。

 でも内心は自分と同じように混乱しているはず。そして由紀のお願いは、無茶ぶりだとわかってくれているはず。

「ねえ、由紀の彼氏さん。あなたは……私と付き合うなんて絶対に嫌ですよね?」

 狡いとわかりつつも、杏沙は青年に尋ねた。間違いなく「そうだ」と言ってくれる確信を持って。

 けれど予想に反して、青年は杏沙に近づきながら首を横に振った。

「いえ、もうこの件は由紀さんと話し合ってますので。俺としては問題無いです。……あとコーヒーどうぞ」

 杏沙にマグカップを差し出す青年の口調はよどみなく、視線も真っすぐだ。杏沙はだらしなく座っていた姿勢を元に戻してマグカップを受け取る。

 由紀の母親が淹れたコーヒーは、甘党の杏沙がブラックで飲んでも美味しかった。

「ねえ、由紀のお母さん、喫茶店で働いてるの?」
「ううん、カラオケ屋の受付やってる。コーヒー淹れるが上手いのは、単にうちのお母さんが凝り性なだけ」
「ふぅーん。そうなんだ……って、違う!そうじゃなくって、さっきの話だけど」
「あのちょっといいですか?」

 うっかり話が逸れそうになった杏沙が軌道修正しようとした途端、青年が鋭い声で割り込んできた。

「俺の名前、永井和臣ながい かずおみって言います。年もあんずさんと一緒なんで、ため口にしてください」
「……それって、わざわざこのタイミングで言うことなの?」

 人の話をぶった切って自己紹介を始めた由紀の彼氏こと永井和臣に、杏沙は苛立ちを隠しきれない。彼の名前を知っても、同年齢であろうと、今は関係ないしどうでもいい。

 このひとは、何とも思わないのだろうか。自分の恋人がこんなことを言って。もっと困った顔とか葛藤している素振りとか見せたっていいのに。

 不信感に近い苛立ちがじわじわと杏沙の心を支配する。それを空気で感じた由紀は、パンッと勢いよく両手を合わせた。

「ごめん、私が焦りすぎだった。和臣君がどんな人かもわからないのに、急に付き合えなんていわれたら困るよね。あー……えっと……いい人だよ、和臣君は。見た目もいいし、中身も、いいよ。でも、それは私基準で言ってるから、杏沙の基準に当てはまるかどうかわからないよね。だからさぁ、ちょっと今からお茶でもしてきなよ。返事はそれからでいいから。お願い!」

 両手をすりすりとこすり合わせて懇願する由紀に、杏沙は嫌々ながら「わかった」と頷く。

 ここに来たのは由紀の気分を害するためじゃない。どうせ断るつもりなんだから、由紀の提案をちょっとくらいは受け入れるべきだ。

 そんな杏沙の心中を知らない由紀は、飲みかけの杏沙のコーヒーを取り上げると、和臣に「これ下げといて」と押し付けた。

「じゃあ決まりってことで、今すぐ和臣君とお茶してきてよ。お腹すいているなら、お昼食べてもいいし。その後、また連絡ちょうだい。メールならいつでも大丈夫だから」
「う、うん……」

 歯切れの悪い返事をする杏沙を一瞥した由紀は、今度はミニキッチンに移動した和臣に声をかける。

「和臣君、うちのお母さんって廊下にいるかなぁ?」
「ちょっと見てくる。待ってて」

 さっきからずっと由紀に顎で使われているのに、和臣は嫌な顔一つしない。なんだかんだいって恋人を大切にするタイプなのだろうか。

 そんなことをぼんやり分析していたら、すぐに由紀の母親と一緒に和臣が病室に戻ってきた。

 それから由紀に背中を押されるようにして、杏沙は和臣と並んで病室を出た。滞在時間は30分足らずだった。





 一歩病室を出れば、そこは相変わらず休日の病院で、消毒の匂いが立ち込める中、微かな死の気配と賑やかさが入り混じっていた。

「───……あんずさん、病院内のカフェにします?それとも、別の場所にしますか?」
「え?」

 ずっと無言で歩いていた和臣は、出入り口の自動扉が見えた途端、そう言った。間髪入れずに杏沙は、間抜けな声を出す。

「お茶、由紀さんがしろって言ってたじゃないですか」
「……ああ、まぁ。そうですね」

 約束を破る気かと言いたげな和臣の強い視線を受けて、杏沙はさりげなく目を逸らす。

 できればこのまま帰りたかった。由紀が告げた病名のこととか、もう手術できないこととか、ゆっくり一人で考えたかった。

 けれども和臣は、由紀の提案を忠実に守りたいようで、病院のすぐ外にある古ぼけた喫茶店を指差した。

「あそこなら、客も少ないと思うからちょっとだけ寄りましょう」
「でも、さっき私、由紀のお母さんが淹れたコーヒー飲んだんで」
「それは俺も一緒です。コーヒーが嫌なら別の物で」
「……いや、そういう問題じゃなくて」
「なくてもあっても、一先ず話をしましょう」
「……はい」

 有無を言わさない和臣の態度に、杏沙は渋々ながら頷いた。
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