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第19章
月の乙女は魂をとり戻す。永遠に 3
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どこへ行くともなく、マテアは歩いた。
体が借り物のように感じられ、ふらついて、足がもつれそうになる。転ばないようにと、そればかりに気を配って歩いていると、一度掘り返された後、再び埋められて盛り土になったようなものがいくつもある、変な場所に出た。
(なにかしら、これ……)
もっと近寄ってよく見てみようと一歩踏み出して、土のにおいに混じって嗅ぎとった死臭に足が凍りつく。
整然と並んだそれらの一番前に、花が飾られていた。その陰に隠れるように、少量の食べ物と水の入った容器。
突如、レンジュの姿が重なる。
「ああーあ……」
マテアはじりじりと後ずさり、踵を返すや脱兎のごとく走り出した。
はらはらと涙がこぼれた。レンジュのところでもひとしきり泣いて、ぬぐわないでいたたため、頬がひりひりと痛む。一度息を吸いこみ、ぐっと腹に力を入れて止めるとおさまるかに見えたが、立ち止まった途端、またも熱いものがこみあげて、鼻の奥がツンとした。
西に傾いた月を見上げ、顔面を覆う。
声は出なかった。出ると思って開けた口からもれたのは、ちぎれるような息だった。
もしかすると、本当に泣きたいとき、声は失われるのかもしれない。
もう、何も考えることはできなかった。心臓も、臓腑も、何もかも、自分の内側がごっそりえぐり出されてしまったような、誕生して以来一度たりと感じたことのない、巨大な喪失感が、マテアを襲っていた……。
『やあ。ここにいたんだ』
岩場で、一人ぽつんと膝を抱いて月を見上げていたマテアは、声に反応して振り向く。そこにいたのはハリで、マテアが自分に気付いたのを確認した彼は岩場まで歩を進め、同じように膝を抱きこんでその場に座った。
ここにきたということは、自分に何か用があるのだろう。
痺れた頭の隅でぼんやりとそう思って、出方を待つ彼女に向け、ハリは愛想笑いを浮かべようとし、うまくいかなかったのをごまかすように頭をかいた。
『レンジュ。あいつさ、おれの親父が奉公してた先の貴族の息子なんだ。けっこう裕福な家で、召集令状だって金で解決っつーくらい。
食べ物の心配も、住むとこの心配もしたことないだろうって、小さい頃はよく陰でいじめられてた。かく言うおれも、その頃はいじめる側だったんだけど。
くだらないやっかみだよなあ、今思うと。
何かに恵まれてるやつは、その分何かで恵まれてないんだ、なんてこと知らなかったから、しょーがないって言ったらその通りなんだけどさ。
そんであいつの場合、家族に恵まれてなかったというわけだ。
表面上は、いい家族に見えたよ。いい親父にいい継母にいい義兄弟たち。血のつながりはなくても継母は本当の母親のようにレンジュに優しかったし、レンジュも本当の母や兄同然に慕ってた。
でも親父が死んで、全部崩れた。親父は家督を継ぐレンジュに遺産の大半を譲る遺言を残していて、継母たちにはレンジュと一緒に住む限り、月に一万上級金貨の信託預金が受けとれるようにしていたんだ』
ハリはそこでひとまず言葉を切り、白い息を宙に吐き出した。
『そして継母たちは、無一文で出て行くことを選んだ。
普通なら考えられないことだ。月に一万ももらえりゃ一生左団扇で暮らせる、兄たちだって召集されないですむっていうのに……。
でも彼女たちは、レンジュとは暮らせないと、面と向かって言いきったんだ。
彼女と親父とのつきあいは、実はレンジュの母親より古かったのさ。そこヘレンジュの母親が割りこんだ。
と言っても親父を愛してじゃない。間男を通わせはらませたみっともない娘を、親が権力に物言わせてレンジュの親父に押しつけたんだ。
結局その子は死産で、レンジュはその後二人の間に生まれた息子なんだけど。
継母は、許せなかったんだろうな。最初の子どもはわかる。押しつけられたんだから。でも二番目は違う。どんな言い訳も通じやしない。
それでも後妻に入った彼女がレンジュに優しくしたのは、親父を愛していたからだ。だから親父が亡くなった後は、一緒に暮らすのもいやだとの本音が出た』
淡々と続く話。ハリが何を言っているか、マテアはわからない。でも言葉の端々でレンジュの名が出ることから、彼がレンジュについて語っているのは明白で。何か――表情でも、語尾でもいい、彼が伝えようとしているものを察することはできないかと、マテアは食い入るように彼を見つめていた。
ハリは、いつも笑っている彼の顔を見慣れた者には少し不機嫌にも見える真顔で、マテアに正面を向ける。
『レンジュは家督を放棄した。自分は兵士になるからあの遺言は無効だと言って、継母たちに屋敷も財産も譲り、他の貴族のありあまった息子たちのように、生前分与と称する小金だけ持ってここへやってきた。
あいつの過去の大半は、幻の家族愛でできている。全部嘘っぱちの、捨ててしまった方がよっぽどいいと思える思い出だ。
でも、それでもレンジュには過去が必要だった。
いつか継母たちが自分を許してくれるかもしれないとの希望――幻が、再び現実になるのではないかという慰め以外、この世で自分の存在を許してくれるものがないと思い詰めてたから。
その過去の自分とのたった一つの接点だった金を、あいつはあんたのために捨てた。
それは、いいんだ。あんなもの、ただの鎖でしかないとおれも思ってたから。
ただ、レンジュには、家族が必要だ。あいつを決して裏切らない、あいつに誠実な、あいつだけを心から愛する者だ。
レンジュは決して裏切らないし、誠実さをもって心から愛するだろう。あいつは、こう言うのもなんだが、懲りない。でも、だからこそ、期待を裏切っちゃいけないんだ。
あいつが死なずにすんだのは、あんたの布のおかげだ。鎧や鎖帷子についた傷は、両断していておかしくないくらいの勢いを持ってた。あんたの不思議な力とやらがこもった布が、勢いを弱めてくれたんだろう。そのことには感謝してる。
でももし、やつの望みに添えないのなら、このまま消えてほしい。
ユイナから聞いた。あんたはこの世界の者じゃないって。元の世界へ戻ったと言えば、あいつも納得するだろう。だから、あいつに応えられないのなら、帰ってくれ』
そしてハリは告げた。
『レンジュが目を覚ました』
と。
体が借り物のように感じられ、ふらついて、足がもつれそうになる。転ばないようにと、そればかりに気を配って歩いていると、一度掘り返された後、再び埋められて盛り土になったようなものがいくつもある、変な場所に出た。
(なにかしら、これ……)
もっと近寄ってよく見てみようと一歩踏み出して、土のにおいに混じって嗅ぎとった死臭に足が凍りつく。
整然と並んだそれらの一番前に、花が飾られていた。その陰に隠れるように、少量の食べ物と水の入った容器。
突如、レンジュの姿が重なる。
「ああーあ……」
マテアはじりじりと後ずさり、踵を返すや脱兎のごとく走り出した。
はらはらと涙がこぼれた。レンジュのところでもひとしきり泣いて、ぬぐわないでいたたため、頬がひりひりと痛む。一度息を吸いこみ、ぐっと腹に力を入れて止めるとおさまるかに見えたが、立ち止まった途端、またも熱いものがこみあげて、鼻の奥がツンとした。
西に傾いた月を見上げ、顔面を覆う。
声は出なかった。出ると思って開けた口からもれたのは、ちぎれるような息だった。
もしかすると、本当に泣きたいとき、声は失われるのかもしれない。
もう、何も考えることはできなかった。心臓も、臓腑も、何もかも、自分の内側がごっそりえぐり出されてしまったような、誕生して以来一度たりと感じたことのない、巨大な喪失感が、マテアを襲っていた……。
『やあ。ここにいたんだ』
岩場で、一人ぽつんと膝を抱いて月を見上げていたマテアは、声に反応して振り向く。そこにいたのはハリで、マテアが自分に気付いたのを確認した彼は岩場まで歩を進め、同じように膝を抱きこんでその場に座った。
ここにきたということは、自分に何か用があるのだろう。
痺れた頭の隅でぼんやりとそう思って、出方を待つ彼女に向け、ハリは愛想笑いを浮かべようとし、うまくいかなかったのをごまかすように頭をかいた。
『レンジュ。あいつさ、おれの親父が奉公してた先の貴族の息子なんだ。けっこう裕福な家で、召集令状だって金で解決っつーくらい。
食べ物の心配も、住むとこの心配もしたことないだろうって、小さい頃はよく陰でいじめられてた。かく言うおれも、その頃はいじめる側だったんだけど。
くだらないやっかみだよなあ、今思うと。
何かに恵まれてるやつは、その分何かで恵まれてないんだ、なんてこと知らなかったから、しょーがないって言ったらその通りなんだけどさ。
そんであいつの場合、家族に恵まれてなかったというわけだ。
表面上は、いい家族に見えたよ。いい親父にいい継母にいい義兄弟たち。血のつながりはなくても継母は本当の母親のようにレンジュに優しかったし、レンジュも本当の母や兄同然に慕ってた。
でも親父が死んで、全部崩れた。親父は家督を継ぐレンジュに遺産の大半を譲る遺言を残していて、継母たちにはレンジュと一緒に住む限り、月に一万上級金貨の信託預金が受けとれるようにしていたんだ』
ハリはそこでひとまず言葉を切り、白い息を宙に吐き出した。
『そして継母たちは、無一文で出て行くことを選んだ。
普通なら考えられないことだ。月に一万ももらえりゃ一生左団扇で暮らせる、兄たちだって召集されないですむっていうのに……。
でも彼女たちは、レンジュとは暮らせないと、面と向かって言いきったんだ。
彼女と親父とのつきあいは、実はレンジュの母親より古かったのさ。そこヘレンジュの母親が割りこんだ。
と言っても親父を愛してじゃない。間男を通わせはらませたみっともない娘を、親が権力に物言わせてレンジュの親父に押しつけたんだ。
結局その子は死産で、レンジュはその後二人の間に生まれた息子なんだけど。
継母は、許せなかったんだろうな。最初の子どもはわかる。押しつけられたんだから。でも二番目は違う。どんな言い訳も通じやしない。
それでも後妻に入った彼女がレンジュに優しくしたのは、親父を愛していたからだ。だから親父が亡くなった後は、一緒に暮らすのもいやだとの本音が出た』
淡々と続く話。ハリが何を言っているか、マテアはわからない。でも言葉の端々でレンジュの名が出ることから、彼がレンジュについて語っているのは明白で。何か――表情でも、語尾でもいい、彼が伝えようとしているものを察することはできないかと、マテアは食い入るように彼を見つめていた。
ハリは、いつも笑っている彼の顔を見慣れた者には少し不機嫌にも見える真顔で、マテアに正面を向ける。
『レンジュは家督を放棄した。自分は兵士になるからあの遺言は無効だと言って、継母たちに屋敷も財産も譲り、他の貴族のありあまった息子たちのように、生前分与と称する小金だけ持ってここへやってきた。
あいつの過去の大半は、幻の家族愛でできている。全部嘘っぱちの、捨ててしまった方がよっぽどいいと思える思い出だ。
でも、それでもレンジュには過去が必要だった。
いつか継母たちが自分を許してくれるかもしれないとの希望――幻が、再び現実になるのではないかという慰め以外、この世で自分の存在を許してくれるものがないと思い詰めてたから。
その過去の自分とのたった一つの接点だった金を、あいつはあんたのために捨てた。
それは、いいんだ。あんなもの、ただの鎖でしかないとおれも思ってたから。
ただ、レンジュには、家族が必要だ。あいつを決して裏切らない、あいつに誠実な、あいつだけを心から愛する者だ。
レンジュは決して裏切らないし、誠実さをもって心から愛するだろう。あいつは、こう言うのもなんだが、懲りない。でも、だからこそ、期待を裏切っちゃいけないんだ。
あいつが死なずにすんだのは、あんたの布のおかげだ。鎧や鎖帷子についた傷は、両断していておかしくないくらいの勢いを持ってた。あんたの不思議な力とやらがこもった布が、勢いを弱めてくれたんだろう。そのことには感謝してる。
でももし、やつの望みに添えないのなら、このまま消えてほしい。
ユイナから聞いた。あんたはこの世界の者じゃないって。元の世界へ戻ったと言えば、あいつも納得するだろう。だから、あいつに応えられないのなら、帰ってくれ』
そしてハリは告げた。
『レンジュが目を覚ました』
と。
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