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第15章
それは、水面に映る月影に似て 1
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はたして何が起きたのか、起きているのか、マテアには全くわからなかった。
女子どもの悲鳴、そしてけたたましい家畜の鳴き声がいたる所でしており、火の手が生じている。馬車が燃えているのだ。馬車に積んであった甕が割れて、こぼれた獣油を足掛かりに火が走り、新たな供物を得て活性化している。
剣と剣がぶつかりあい、擦れあい、折れる音が方々でしていた。男たちの怒声がそこらじゅうで上がり、同じくらい、苦悶のうめきが炎のあちらこちらでしている。何かが砕けるような巨大音とともに強い熱風が吹いた後、さらに絶望の悲鳴は強まって、たまらず両の耳をふさいだ。
なに? どうしてこんな……。
頭が真白になって、視界がくらくらする。熱をはらんだ煙にやられた目がずきずきして、涙がとまらない。飛んできた木片にやられて傷ついた右のふくらはぎに手をやり、マテアはついにその場へしゃがみこんだ。
地獄のはじまりは、1本の弓矢だった。
いつものように天幕をたたんで馬車に乗りこんだマテアは、さっそく服の型を練った。ユイナや同乗の他の女たちからの提案も参考にして、四枚はすぐに決まった。残る二枚は後回しにすることにして、馬車を降りる。三度目の休憩。揺れる馬車内ではうまく計れないだろうから今のうちに採寸をしようとユイナに伝えられ、馬車から離れて崖のきわの、木陰のある岩場の方へ下っていった。そしてそこでユイナに採寸してもらっていたら、突然悲鳴が上がって……矢に胸を貫かれた見張りの男がすぐそばに落下してきた。
「!」
落下した男は仰向けのまま、起き上がろうとはしなかった。赤い血が石を黒く染める。
彼の横をすり抜けて、ここまで降りてきたのだ。ついさっきまで生きていた男が今死んでいるということがすぐには飲み込めないでいるマテアの頭上高くを越えて、二射、三射と飛来した矢が次々と見張りの男たちに突き刺さる。そして、それを目撃した端女たちの金切り声が一斉に上がった。
『なんてこと……!』
蒼白したユイナが立ち上がる。強く噛みしめられた顎が、傍でいて見てとれるくらい震えている。そこに、最初の爆音と風がきた。
「あつっ……!」
火傷しそうな熱風に身をすくませ、その場へしゃがみこんだマテアを、ユイナが岩と岩の隙間へ突き飛ばして押しこむ。
『あなたはここに隠れていなさい。
いいわね? ここにいるの!』
恐怖から、子どものようにすがりつこうとしたマテアに向け、厳しい声で言いつける。ついてくるなと両手で押し戻す仕草をして、ユイナは一人、隊の方へかけ戻って行った。
それから、彼女の行方は知らない。
わあっと大勢の男たちが上げる喊声が聞こえたと思うや、剣を切り結びあう音があちこちではじまった。その間も少女たちの悲鳴は間断なく上がり続け、馬や家畜たちの狂ったようないななきが止まらない。鼻孔をツンと刺激する、焦げ臭いにおいに混じって、生臭い血のにおいが風に運ばれてきたとき。とうとう我慢できずにマテアは岩の隙間から飛び出していた。
崖を上がった先の岩を回りこみ、隊を見る。
このとき目に飛びこんできた光景を、マテアは生涯忘れることはないだろう。
オレンジの炎を吹き出し、ごうごうと燃え上がる馬車と、つながれたまま、生きながら焼かれる馬たち。敗北し、切り刻まれる男たちのそばで、髪を鷲掴みにされた少女が引きずられていく。どんなに泣き叫ぼうがおかまいなしだ。それどころか髪を引かれる激痛に暴れ、遮二無二動かした手が鷲掴みにした男の手をひっかいたとき、男はもう片方の手に持っていた剣で女の喉を掻き切り、忌々しげに死体を投げ捨て、唾を吐きかけた。そして空いた手で逃げ惑う新たな女の腰を抱き寄せ、有無を言わせず地面に引き倒した。
マテアの前でくり広げられているのは、まさにこの世界の縮図だった。
略奪と強姦と殺鐵。弱者は強者に虐げられ、ねじ伏せられ、傷つけられて服従を強いられる。
なんと醜怪な獣たちか。血飛沫に酔い、死体から光物を掻き集めては、嗤って腰の袋に放りこんでいる。
これがこの世界の人間の、本当の姿……?
押しつぶされそうな激痛に胸をおさえ、その場に膝をつく。どっと冷たい汗が全身から吹き出して、心臓が裂けたと信じて疑わなかった。
嘔吐し、あふれた涙に咳こみながら、違う、違うとくり返す。
何が違うのか、マテア自身わかっていなかった。でも違う。絶対に違う、と頭を振った。
頭の中がしびれて、何も考えられないでいたマテアの目に、遠くの黒煙の中に、ぐったりしたアネサに肩を貸したユイナらしき者の姿が入る。
彼女に近付く不穏な影を目にした瞬間、衝動的にマテアはそちらに向かって走っていた。
被り布の端で口元を覆い、浅い呼気をくり返す。地に散乱した、割れた木片や碗の破片、焼けた鉄片などを踏んでしまわないよう、また熱を持った物に触れて火傷を負ったりしないよう、気にしながら少しずつ進んだ。
家畜用の飼料か薬草にでも火がついたのか、周囲でくすぶっている煙は青臭く、緑色に濁っている。おそらく、そのせいだろう。体への害を懸念してか、襲撃者たちは煙の中から姿を消している。煙の中でマテアが出会ったのは、動物たちの死骸と、切り刻まれた男たちの死体だった。死体の中にはあの巨漢やシュラン、マテアに優しく接してくれた世話女たちもいた。
マテアは胃がこむらがえる思いをどうにか我慢し、目をそむけることに成功する。
どこともしれない場所を、爆発でやられた右足を引きずりながら歩いた。
ユイナ、どこ? と声を出して呼びたかったけれど、他の者に気付かれるのがこわくてできなかった。今もあちこちで声が上がっている。男の喘ぎ声に混じって咄き声やすすり泣く声もしている。たまらず耳をふさいだ彼女の右の腕を、そのとき誰かが掴みとめた。
女子どもの悲鳴、そしてけたたましい家畜の鳴き声がいたる所でしており、火の手が生じている。馬車が燃えているのだ。馬車に積んであった甕が割れて、こぼれた獣油を足掛かりに火が走り、新たな供物を得て活性化している。
剣と剣がぶつかりあい、擦れあい、折れる音が方々でしていた。男たちの怒声がそこらじゅうで上がり、同じくらい、苦悶のうめきが炎のあちらこちらでしている。何かが砕けるような巨大音とともに強い熱風が吹いた後、さらに絶望の悲鳴は強まって、たまらず両の耳をふさいだ。
なに? どうしてこんな……。
頭が真白になって、視界がくらくらする。熱をはらんだ煙にやられた目がずきずきして、涙がとまらない。飛んできた木片にやられて傷ついた右のふくらはぎに手をやり、マテアはついにその場へしゃがみこんだ。
地獄のはじまりは、1本の弓矢だった。
いつものように天幕をたたんで馬車に乗りこんだマテアは、さっそく服の型を練った。ユイナや同乗の他の女たちからの提案も参考にして、四枚はすぐに決まった。残る二枚は後回しにすることにして、馬車を降りる。三度目の休憩。揺れる馬車内ではうまく計れないだろうから今のうちに採寸をしようとユイナに伝えられ、馬車から離れて崖のきわの、木陰のある岩場の方へ下っていった。そしてそこでユイナに採寸してもらっていたら、突然悲鳴が上がって……矢に胸を貫かれた見張りの男がすぐそばに落下してきた。
「!」
落下した男は仰向けのまま、起き上がろうとはしなかった。赤い血が石を黒く染める。
彼の横をすり抜けて、ここまで降りてきたのだ。ついさっきまで生きていた男が今死んでいるということがすぐには飲み込めないでいるマテアの頭上高くを越えて、二射、三射と飛来した矢が次々と見張りの男たちに突き刺さる。そして、それを目撃した端女たちの金切り声が一斉に上がった。
『なんてこと……!』
蒼白したユイナが立ち上がる。強く噛みしめられた顎が、傍でいて見てとれるくらい震えている。そこに、最初の爆音と風がきた。
「あつっ……!」
火傷しそうな熱風に身をすくませ、その場へしゃがみこんだマテアを、ユイナが岩と岩の隙間へ突き飛ばして押しこむ。
『あなたはここに隠れていなさい。
いいわね? ここにいるの!』
恐怖から、子どものようにすがりつこうとしたマテアに向け、厳しい声で言いつける。ついてくるなと両手で押し戻す仕草をして、ユイナは一人、隊の方へかけ戻って行った。
それから、彼女の行方は知らない。
わあっと大勢の男たちが上げる喊声が聞こえたと思うや、剣を切り結びあう音があちこちではじまった。その間も少女たちの悲鳴は間断なく上がり続け、馬や家畜たちの狂ったようないななきが止まらない。鼻孔をツンと刺激する、焦げ臭いにおいに混じって、生臭い血のにおいが風に運ばれてきたとき。とうとう我慢できずにマテアは岩の隙間から飛び出していた。
崖を上がった先の岩を回りこみ、隊を見る。
このとき目に飛びこんできた光景を、マテアは生涯忘れることはないだろう。
オレンジの炎を吹き出し、ごうごうと燃え上がる馬車と、つながれたまま、生きながら焼かれる馬たち。敗北し、切り刻まれる男たちのそばで、髪を鷲掴みにされた少女が引きずられていく。どんなに泣き叫ぼうがおかまいなしだ。それどころか髪を引かれる激痛に暴れ、遮二無二動かした手が鷲掴みにした男の手をひっかいたとき、男はもう片方の手に持っていた剣で女の喉を掻き切り、忌々しげに死体を投げ捨て、唾を吐きかけた。そして空いた手で逃げ惑う新たな女の腰を抱き寄せ、有無を言わせず地面に引き倒した。
マテアの前でくり広げられているのは、まさにこの世界の縮図だった。
略奪と強姦と殺鐵。弱者は強者に虐げられ、ねじ伏せられ、傷つけられて服従を強いられる。
なんと醜怪な獣たちか。血飛沫に酔い、死体から光物を掻き集めては、嗤って腰の袋に放りこんでいる。
これがこの世界の人間の、本当の姿……?
押しつぶされそうな激痛に胸をおさえ、その場に膝をつく。どっと冷たい汗が全身から吹き出して、心臓が裂けたと信じて疑わなかった。
嘔吐し、あふれた涙に咳こみながら、違う、違うとくり返す。
何が違うのか、マテア自身わかっていなかった。でも違う。絶対に違う、と頭を振った。
頭の中がしびれて、何も考えられないでいたマテアの目に、遠くの黒煙の中に、ぐったりしたアネサに肩を貸したユイナらしき者の姿が入る。
彼女に近付く不穏な影を目にした瞬間、衝動的にマテアはそちらに向かって走っていた。
被り布の端で口元を覆い、浅い呼気をくり返す。地に散乱した、割れた木片や碗の破片、焼けた鉄片などを踏んでしまわないよう、また熱を持った物に触れて火傷を負ったりしないよう、気にしながら少しずつ進んだ。
家畜用の飼料か薬草にでも火がついたのか、周囲でくすぶっている煙は青臭く、緑色に濁っている。おそらく、そのせいだろう。体への害を懸念してか、襲撃者たちは煙の中から姿を消している。煙の中でマテアが出会ったのは、動物たちの死骸と、切り刻まれた男たちの死体だった。死体の中にはあの巨漢やシュラン、マテアに優しく接してくれた世話女たちもいた。
マテアは胃がこむらがえる思いをどうにか我慢し、目をそむけることに成功する。
どこともしれない場所を、爆発でやられた右足を引きずりながら歩いた。
ユイナ、どこ? と声を出して呼びたかったけれど、他の者に気付かれるのがこわくてできなかった。今もあちこちで声が上がっている。男の喘ぎ声に混じって咄き声やすすり泣く声もしている。たまらず耳をふさいだ彼女の右の腕を、そのとき誰かが掴みとめた。
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