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第14章
雨の夜に見える月のように 5
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急にマテアが目をきらきらさせてクツの実をぎゅっと握りこみ、強く頷いたのを見て、アネサは口先をへの字にする。
それまではこっちを下に見る目で冷たくにらんで無視しようとしていたくせに、一体どういう気の変わりようか。
本当に自分の言ったことを理解しているのか、はなはだあやしいと、アネサはうさんくさげにマテアを見つめたが、言葉が通じず、どういう育ちをしたかもわからない――北のお貴族さまの娘らしいから、きっと価値観からして下々である自分たちとは違っているに違いない――この娘の考えなどわかるわけもないと、アネサは深々とため息をついた。
『……あんたはどっかのお姫さんみたいだから、男の世話ってもんがどんなのか、わからないのも無理はない。けどね、こんな日くらい、あの子に優しくしてやったってばちは当たんないと思うよ、あたしゃ。
それに、ことはあんたにも関係してるんだ。もしもあの子が死んだりしたら、子のないあんたは明日から隊の男たち共有の端女になるんだからね。それがいやならあの子が万全の体調で戦いに出られるように、普段から世話を見とくべきなのに、あんたときたら、あんなにあの子をやつれさせちまって……。
ま、これは今さら言ってもしかたない。けど、無事帰ってきたら、今夜くらいは優しくしておやり。あの子はあんたのことが、本当に大切なようだから』
厄介な娘を好きになったもんだよ。なにもこんな、氷人形のような娘なんかに惚れなくたったって、あの子の専属になりたい、気立てのいい子はごまんといるってのに。
失望の一瞥を向けて去っていく、いつになく元気のないアネサをぼんやりと見送って、マテアはあらためて手のひらの上の粒を見た。
これを飲ませれば眠ると、あの女は言った。でもそれはマテアのためでなく、あの男のためだ。事情を知らないあの女が男を陥れる事に加担するはずがない。
これは、あの男を思いやる彼女の気持ちがこめられた物。
なのに、あのとき自分は何を考えた……?
「……っ!」
マテアは津波のように押しよせた自己嫌悪の波に飲まれてうずくまり、膝上の布に顔を突っ伏した。
いつからわたしは、そんな卑しい心の持ち王になったのか。
自分にとって都合がよければ人の好意までも利用し、陥れることも善しとするような、そんなさもしい者に。
<魂>のことだってそう。どうせ言葉が通じないんだからと、男を説得することを放棄して、ただ闇雲にとり戻そうとした。眠る場所を提供し、食物を与え、陽を避けるための布や衣服をくれたひとだというのに。わたしはそういったこと一切を考慮せず、悪人と決めつけた。
もしも彼の心に盗人としての疾しいところがあるのなら、追ってきたわたしなど、最初から身近に置くものか。遠ざけ、無視するだろう。こんなに思いやりをかけてくれるはずがない。
彼は、知らないのだ。
こちらの人間は<魂>を持たない。
月光界を知らず、その価値を知らない者が、悪意で奪うわけがない。
あれはおそらく無意識にしてしまったこと。自覚なく、故意でないのなら、彼に非はない。
非は、禁忌を犯してあの場にいたわたしにこそある。
彼は、わたしが追ってきたのだということも、きっと知らない。なぜあそこにいたわたしがここにいるのか、わからないながらも庇護してくれたのだ。
よく考えたならわかりそうなことなのに。
わたしは――たぶん、見下していたのだ。
地上界の者は野蛮で粗野な者ばかりと決めつけ、最初からあんなにも優しくしてくれたユイナでさえも、地上界人なのだからとひとくくりで考えて、一人の人間として見ようとしなかった。だから相手に理解を求めても、相手を理解しようと自分から動くことはしなかった。考えもしなかった。
自分にも非はあると口にしながら、胸の奥では罪は彼一人にあると、押しつけていたのだ。恥知らずにも。
わたしこそ、愚かで浅ましい。
ああ、彼に謝らなくては。
今までの非礼をわびて、そして今度こそ、わたしの望みを伝えてみよう。わかってもらえるよう、努力しよう。何時間、何日かかっても。
そう思うと、このまま何もせずに、じっと夜を待ってはいられなかった。
被り布をとりに入ることも忘れ、逸る心のまま、男の姿を求めて小走りに天幕の間を行く。
はじめてその美貌を人前にさらした彼女を目撃した者たちは、男女の区別なく、彼女に目を奪われた。それは馬車の中でも目深に被られていた布の下を、ちらちらと盗み見ることしかできなかった世話女たちも例外ではない。そのそばで遊んでいた幼い子どもたちまでが遊ぶ手を止め、走り抜けていく彼女の横顔を呆然と見送った。
彼女が並ならぬ美しさの持ち主であることは、隊中の者が知っていた。なにしろあのレンジュが三億八千という大金をはたいてまで買い求めたのだから、相当の美女であろうとの推察は立つ。しかし、耳で聞いて想像するのと自身の目で見るのとでは全く違う。
三億八千と軽々しく口にしてきた額の本当の意味を、彼等は今、実感していた。
一生涯目にすることはない、金の山。それと同じく、彼女は本当であるなら生涯目にできるはずのない、自分たちとは住む世界が全く違う存在なのだ。
注目を浴びているとは露とも知らず、マテアは息をきらせて立ち止まり、男の姿を捜してはまた走り出す。けれど、いくら見回しても、どこからも男の姿は見出せない。
(どうしよう。つい、衝動的に行動してしまったけれど、陽の女神が現れかけてる。あきらめて、もう天幕に戻った方がいいのかしら……)
ためらうマテアの頭上から、突然布が被せられた。
それまではこっちを下に見る目で冷たくにらんで無視しようとしていたくせに、一体どういう気の変わりようか。
本当に自分の言ったことを理解しているのか、はなはだあやしいと、アネサはうさんくさげにマテアを見つめたが、言葉が通じず、どういう育ちをしたかもわからない――北のお貴族さまの娘らしいから、きっと価値観からして下々である自分たちとは違っているに違いない――この娘の考えなどわかるわけもないと、アネサは深々とため息をついた。
『……あんたはどっかのお姫さんみたいだから、男の世話ってもんがどんなのか、わからないのも無理はない。けどね、こんな日くらい、あの子に優しくしてやったってばちは当たんないと思うよ、あたしゃ。
それに、ことはあんたにも関係してるんだ。もしもあの子が死んだりしたら、子のないあんたは明日から隊の男たち共有の端女になるんだからね。それがいやならあの子が万全の体調で戦いに出られるように、普段から世話を見とくべきなのに、あんたときたら、あんなにあの子をやつれさせちまって……。
ま、これは今さら言ってもしかたない。けど、無事帰ってきたら、今夜くらいは優しくしておやり。あの子はあんたのことが、本当に大切なようだから』
厄介な娘を好きになったもんだよ。なにもこんな、氷人形のような娘なんかに惚れなくたったって、あの子の専属になりたい、気立てのいい子はごまんといるってのに。
失望の一瞥を向けて去っていく、いつになく元気のないアネサをぼんやりと見送って、マテアはあらためて手のひらの上の粒を見た。
これを飲ませれば眠ると、あの女は言った。でもそれはマテアのためでなく、あの男のためだ。事情を知らないあの女が男を陥れる事に加担するはずがない。
これは、あの男を思いやる彼女の気持ちがこめられた物。
なのに、あのとき自分は何を考えた……?
「……っ!」
マテアは津波のように押しよせた自己嫌悪の波に飲まれてうずくまり、膝上の布に顔を突っ伏した。
いつからわたしは、そんな卑しい心の持ち王になったのか。
自分にとって都合がよければ人の好意までも利用し、陥れることも善しとするような、そんなさもしい者に。
<魂>のことだってそう。どうせ言葉が通じないんだからと、男を説得することを放棄して、ただ闇雲にとり戻そうとした。眠る場所を提供し、食物を与え、陽を避けるための布や衣服をくれたひとだというのに。わたしはそういったこと一切を考慮せず、悪人と決めつけた。
もしも彼の心に盗人としての疾しいところがあるのなら、追ってきたわたしなど、最初から身近に置くものか。遠ざけ、無視するだろう。こんなに思いやりをかけてくれるはずがない。
彼は、知らないのだ。
こちらの人間は<魂>を持たない。
月光界を知らず、その価値を知らない者が、悪意で奪うわけがない。
あれはおそらく無意識にしてしまったこと。自覚なく、故意でないのなら、彼に非はない。
非は、禁忌を犯してあの場にいたわたしにこそある。
彼は、わたしが追ってきたのだということも、きっと知らない。なぜあそこにいたわたしがここにいるのか、わからないながらも庇護してくれたのだ。
よく考えたならわかりそうなことなのに。
わたしは――たぶん、見下していたのだ。
地上界の者は野蛮で粗野な者ばかりと決めつけ、最初からあんなにも優しくしてくれたユイナでさえも、地上界人なのだからとひとくくりで考えて、一人の人間として見ようとしなかった。だから相手に理解を求めても、相手を理解しようと自分から動くことはしなかった。考えもしなかった。
自分にも非はあると口にしながら、胸の奥では罪は彼一人にあると、押しつけていたのだ。恥知らずにも。
わたしこそ、愚かで浅ましい。
ああ、彼に謝らなくては。
今までの非礼をわびて、そして今度こそ、わたしの望みを伝えてみよう。わかってもらえるよう、努力しよう。何時間、何日かかっても。
そう思うと、このまま何もせずに、じっと夜を待ってはいられなかった。
被り布をとりに入ることも忘れ、逸る心のまま、男の姿を求めて小走りに天幕の間を行く。
はじめてその美貌を人前にさらした彼女を目撃した者たちは、男女の区別なく、彼女に目を奪われた。それは馬車の中でも目深に被られていた布の下を、ちらちらと盗み見ることしかできなかった世話女たちも例外ではない。そのそばで遊んでいた幼い子どもたちまでが遊ぶ手を止め、走り抜けていく彼女の横顔を呆然と見送った。
彼女が並ならぬ美しさの持ち主であることは、隊中の者が知っていた。なにしろあのレンジュが三億八千という大金をはたいてまで買い求めたのだから、相当の美女であろうとの推察は立つ。しかし、耳で聞いて想像するのと自身の目で見るのとでは全く違う。
三億八千と軽々しく口にしてきた額の本当の意味を、彼等は今、実感していた。
一生涯目にすることはない、金の山。それと同じく、彼女は本当であるなら生涯目にできるはずのない、自分たちとは住む世界が全く違う存在なのだ。
注目を浴びているとは露とも知らず、マテアは息をきらせて立ち止まり、男の姿を捜してはまた走り出す。けれど、いくら見回しても、どこからも男の姿は見出せない。
(どうしよう。つい、衝動的に行動してしまったけれど、陽の女神が現れかけてる。あきらめて、もう天幕に戻った方がいいのかしら……)
ためらうマテアの頭上から、突然布が被せられた。
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