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第14章
雨の夜に見える月のように 4
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長い夜がようやく明けた。
男が天幕から姿を消して、やっと目を開けることのできたマテアは、額に浮いた汗をぬぐう。
横になっていただけなのに、重い疲労感にめまいがした。起きていることに気付かれたくないと、ずっと同じ体勢で身じろぎもしなかったため、下に敷きこんでいた腕が痺れて感覚がない。両肘に力をこめ、ぐっと上半身を起こしたが、そのまま横倒しになりかけて、あわてて支え手をついた。
なんと長い時間だったか。夜は、こんなにも長かったろうか。
男が帰ってきたのは夜中を回っていたはずだ。そして今は夜明け前。ほんの数時間の出来事というのに、1分1秒を数倍の長さに引き延ばされたかのように、とてつもなく長く感じられた。
月光界の時間にして三百年近くの歳月を生きてきたマテアだったが、こんなにも時間の流れを遅く感じたのははじめてだった。
時間の流れが日によって変化するなどといったことはあり得ないので、それが極度の緊張によるものであったというのは疑うべくもない。意識があることを気付かれたくないと、必死だった。でも、なぜあんなにも知られたくなかったのかについて考えると、よくわからなかった。
ふう、と息をつく。
考えてもしかたない。ともかく、昨夜は失敗したということだ。また今夜挑戦すればいいだけのこと。
膝でたわんだ上掛け兼被り布をぱたぱた振って宙になびかせ、おおまかなほこりを払ったところで四つ折りにする。朝起きたらまず何をしなくてはいけないか、それが済んだら次は何をするのか、手順はすっかり身についていた。
手頃な大きさにまとめ終えた布を脇へ置き、次に男のために用意してあった敷物をたたもうと、そちらを向く。そうしてはじめてマテアは自分の枕元に置かれていた数枚の織り布に気付き、軽く目を瞠った。
横になる前にはなかったから、男が置いたのだろうとの見当はつく。問題は、なんのために、ということだった。
膝上に引き寄せ、一枚一枚広げて持ち上げて見た。
格子・無地・柄物……全部で六枚。織り目の密度にばらつきがなく、染めもしっかりとしてムラがないことから、高価な品であろう。
「……わたしに?」
まさか、と思う。でも他に思いつかない。色目からして、男物ではない。それに、男の持ち物から察するに、こういう明るい色彩の柄物は好みではないだろう。
縫え、というのだろうか。それは、できる。以前、ユイナへの感謝をこめて彼女の服に月光界の植物をモチーフにした簡単な刺繍を施したら、それを見た他の女性たちにうけて注文を受けるようになったので、こちらの女物の服の形、縫い方も大体理解できている。
一度縫ってみたいと思ってはいたし、正直、替えの服もほしい。でも本当にそうなのか、思い違いでないのか。はっきり確かめておきたくて、マテアは布を抱いて外へ出た。
夜明けを間近に控えた薄暗い周囲に目をこらして男の姿を捜したが、目につくのは端女や下女たちばかりで、どこからも男の姿は見出せなかった。
どこへ行ったか見当もつかない。このまま手をつけずこの件は保留にして、夜を待つべきだろうか。
布に目を落として考え込んでいたマテアの俯いた視界に、靴先が現れた。見覚えのある幅広の靴。アネサの靴だ。
視線を上げると思ったとおり、白湯気を立てる桶を脇に抱えたアネサが立っていた。
『おや。起きてたのかい。外で待ってるなんて、寝ぼすけのあんたにしちゃ、めずらしく気がきいてるじゃないか』
ゆっさゆっさと腹をゆすりながら歩き、脇を抜けて天幕の入り口で振り返ってマテアを見ると、おもしろくなさそうにフンと鼻を鳴らす。
この女が自分を気に入っておらず、白分を見るたびこのような態度をとるのは承知していたので、マテアは無視して天幕の中へ戻ろうとしたのだが、袖口をつかまれ、そうすることはかなわなかった。
『今日はあんたの亭主も出るんだろ? ちゃんと世話して、その布の礼も言ったかい? 前借りしてまであんたのために譲ってもらったんだ、もし一枚でも無駄にしちまったら、このあたしが許さないからね!』
「……何を言ってるかわからないって、いつも言ってるでしょう」
他の女たちは地面に棒で絵を描いたり、身振り手振りをまじえて意思の疎通を図ろうと工夫してくれるのに、言っていることが理解できないのはマテアが悪いからだと、かたくなにこちらを責めてくるアネサの態度は腹立たしく、声を震わせて言う。
腕を強く引いて袖からアネサの指を外させ、キッとにらみ返す。優雅に、毅然とした姿で天幕へ入ろうとしたマテアだったが、仕切り布をめくり上げた手の袖を、またもやとられた。
『あんたのことだから、どうせ用意できないだろうから、今のうちに教えとくよ。
いいかい? レンジュがいつ帰ってきても汚れをおとせるように、熱い湯と布を常に用意しておくんだ。それから疲れを癒すためのアクネの根。あとでレテルに届けさせるから、つぶして茶にまぜて出すんだ。それから、ホラ、このクツの実。立った気を静めて、睡魔を誘うのさ。
いいかい? 眠気……寝る前に飲ますんだよ。寝る前に!』
と、アネサはめずらしく身振りをつけて教えてから、黒くて小さな粒を数個、マテアの掌の上にこぼす。
彼女がこれを飲ませれば眠るのだというのを伝えようとしているのだと知ったマテアは、軽く混乱した。
自分のことを嫌っているこの女が、なぜこんな物をくれるのかわからなかった。自分の目的に気付いているとは思えない。手助けなんて、考えられない。
だからきっとこれは、今夜あの男に必要な物なのだろう。
なぜかはわからない。
でも、これは役に立つ。
「これを飲ませれば眠るのね、わかったわ」
これを使って、今夜こそ<魂>をとり戻そう!
男が天幕から姿を消して、やっと目を開けることのできたマテアは、額に浮いた汗をぬぐう。
横になっていただけなのに、重い疲労感にめまいがした。起きていることに気付かれたくないと、ずっと同じ体勢で身じろぎもしなかったため、下に敷きこんでいた腕が痺れて感覚がない。両肘に力をこめ、ぐっと上半身を起こしたが、そのまま横倒しになりかけて、あわてて支え手をついた。
なんと長い時間だったか。夜は、こんなにも長かったろうか。
男が帰ってきたのは夜中を回っていたはずだ。そして今は夜明け前。ほんの数時間の出来事というのに、1分1秒を数倍の長さに引き延ばされたかのように、とてつもなく長く感じられた。
月光界の時間にして三百年近くの歳月を生きてきたマテアだったが、こんなにも時間の流れを遅く感じたのははじめてだった。
時間の流れが日によって変化するなどといったことはあり得ないので、それが極度の緊張によるものであったというのは疑うべくもない。意識があることを気付かれたくないと、必死だった。でも、なぜあんなにも知られたくなかったのかについて考えると、よくわからなかった。
ふう、と息をつく。
考えてもしかたない。ともかく、昨夜は失敗したということだ。また今夜挑戦すればいいだけのこと。
膝でたわんだ上掛け兼被り布をぱたぱた振って宙になびかせ、おおまかなほこりを払ったところで四つ折りにする。朝起きたらまず何をしなくてはいけないか、それが済んだら次は何をするのか、手順はすっかり身についていた。
手頃な大きさにまとめ終えた布を脇へ置き、次に男のために用意してあった敷物をたたもうと、そちらを向く。そうしてはじめてマテアは自分の枕元に置かれていた数枚の織り布に気付き、軽く目を瞠った。
横になる前にはなかったから、男が置いたのだろうとの見当はつく。問題は、なんのために、ということだった。
膝上に引き寄せ、一枚一枚広げて持ち上げて見た。
格子・無地・柄物……全部で六枚。織り目の密度にばらつきがなく、染めもしっかりとしてムラがないことから、高価な品であろう。
「……わたしに?」
まさか、と思う。でも他に思いつかない。色目からして、男物ではない。それに、男の持ち物から察するに、こういう明るい色彩の柄物は好みではないだろう。
縫え、というのだろうか。それは、できる。以前、ユイナへの感謝をこめて彼女の服に月光界の植物をモチーフにした簡単な刺繍を施したら、それを見た他の女性たちにうけて注文を受けるようになったので、こちらの女物の服の形、縫い方も大体理解できている。
一度縫ってみたいと思ってはいたし、正直、替えの服もほしい。でも本当にそうなのか、思い違いでないのか。はっきり確かめておきたくて、マテアは布を抱いて外へ出た。
夜明けを間近に控えた薄暗い周囲に目をこらして男の姿を捜したが、目につくのは端女や下女たちばかりで、どこからも男の姿は見出せなかった。
どこへ行ったか見当もつかない。このまま手をつけずこの件は保留にして、夜を待つべきだろうか。
布に目を落として考え込んでいたマテアの俯いた視界に、靴先が現れた。見覚えのある幅広の靴。アネサの靴だ。
視線を上げると思ったとおり、白湯気を立てる桶を脇に抱えたアネサが立っていた。
『おや。起きてたのかい。外で待ってるなんて、寝ぼすけのあんたにしちゃ、めずらしく気がきいてるじゃないか』
ゆっさゆっさと腹をゆすりながら歩き、脇を抜けて天幕の入り口で振り返ってマテアを見ると、おもしろくなさそうにフンと鼻を鳴らす。
この女が自分を気に入っておらず、白分を見るたびこのような態度をとるのは承知していたので、マテアは無視して天幕の中へ戻ろうとしたのだが、袖口をつかまれ、そうすることはかなわなかった。
『今日はあんたの亭主も出るんだろ? ちゃんと世話して、その布の礼も言ったかい? 前借りしてまであんたのために譲ってもらったんだ、もし一枚でも無駄にしちまったら、このあたしが許さないからね!』
「……何を言ってるかわからないって、いつも言ってるでしょう」
他の女たちは地面に棒で絵を描いたり、身振り手振りをまじえて意思の疎通を図ろうと工夫してくれるのに、言っていることが理解できないのはマテアが悪いからだと、かたくなにこちらを責めてくるアネサの態度は腹立たしく、声を震わせて言う。
腕を強く引いて袖からアネサの指を外させ、キッとにらみ返す。優雅に、毅然とした姿で天幕へ入ろうとしたマテアだったが、仕切り布をめくり上げた手の袖を、またもやとられた。
『あんたのことだから、どうせ用意できないだろうから、今のうちに教えとくよ。
いいかい? レンジュがいつ帰ってきても汚れをおとせるように、熱い湯と布を常に用意しておくんだ。それから疲れを癒すためのアクネの根。あとでレテルに届けさせるから、つぶして茶にまぜて出すんだ。それから、ホラ、このクツの実。立った気を静めて、睡魔を誘うのさ。
いいかい? 眠気……寝る前に飲ますんだよ。寝る前に!』
と、アネサはめずらしく身振りをつけて教えてから、黒くて小さな粒を数個、マテアの掌の上にこぼす。
彼女がこれを飲ませれば眠るのだというのを伝えようとしているのだと知ったマテアは、軽く混乱した。
自分のことを嫌っているこの女が、なぜこんな物をくれるのかわからなかった。自分の目的に気付いているとは思えない。手助けなんて、考えられない。
だからきっとこれは、今夜あの男に必要な物なのだろう。
なぜかはわからない。
でも、これは役に立つ。
「これを飲ませれば眠るのね、わかったわ」
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