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第13章
近くに在りて、されど心は遠く 6
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夢を見た。
夢の中で、あの男が髪に触れている。
許しを請うように、唇をよせていた。
ああ夢だと、夢の中のわたしは思う。
あの男がここにいるはずがない。だから、これは夢なのだ。
思うように体が動かない。指一つ動かそうとするだけで疲労感におぼれそうになる。
やはりこれは夢。瞬けば瞬時に消え去るうたかたの幻影。
ゆっくりと瞬いたわたしの視線が、面を上げた男のそれと交わる。
不思議と、こわいとは思わなかった。
じっと男の瞳を覗きこんでいると、なぜか胸がつまった。
今まで見てきた者たちと同じで、黒い髪と黒い瞳。でもなぜだろう。この男だけは、違うものでできている気がする。
男は何も語らず、それでいて、何もかもわかっているのだと言いたげな、やわらかな笑みを浮かべる。
このときわたしは、この世界にきてはじめて笑んでいる自分に気付いた――。
バタバタと、夜が明ける前から忙しく働く端女たちのたてる音で目を覚ましたマテアは、大きな伸びをひとつして、最後の眠気を自分の中から追い出した。
仕切り布の隙間からとはいえ、強い月光を浴びたせいか、昨日までに比べて体の調子が大分よくなっていた。本調子とまではいかないけれど、これなら少し歩いたくらいで気を失いかけるような失態は犯すまい。
そう思って、ほっと胸をなでおろした。なにしろここに着いたときの体調は最悪で、この天幕を張らされている間中、もうこのまま散ってしまうのではないかと思ったほどだ。
はたして今日は何をさせられるのか……だが隙を見て逃げるしかない。優しくしてくれたユイナには悪いけれど、自分はなんとしてもあの男を見つけ出し、今度こそ<魂>をとり返さなくてはならないのだから。
(せめて何をさせられるのか前もってわかっていれば、逃げ出す機会が読めるのに)
勝手がつかめないのは目が見えないのと同じだ。手で触れることはできるが、何をしているか、これが何の役に立つのか、見当もつかない。
自分の自由にできるのは、ユイナがやってくるまでのこの一時だけだ。
一日のはじまりだというのに、沈んだ気分で視線を天幕内に泳がせたとき、はじめてこの天幕の中にいるのが自分だけでないことに気付いてマテアは身を硬直させた。
ちょうど反対側で、誰かが荷をあさっている。背を向けられているので顔は見えないが、体格は男のものだ。はたしていつからそうしていたのか、問いつめる声が出ないでいる彼女の気配に気付き、ふり返った顔は、まさしく彼女の<魂>を奪った男のものだった。
「……っ!」
驚きに口を開いたが、想像もしていなかった出来事に、とっさに言葉が出てこない。
『おはよう』
男は短く何事かを口にし、手にしていた物を革袋の中へ入れて口を引きしぼる。
『目が覚めたのはおれのせいかな。音をたてないよう、気をつけてたつもりだったんだが。でも、すぐ出て行くから、眠れるなら眠った方がいい。出発まではもう少し時間があるし、まだまだ顔色がさえないようだから』
しゃべる間も男の手はとまらない。脇に置いてあった鉄製の物を身につけ、小さめの革袋がいくつも下がったベルトを締め、その上に鉄の留め金がついているだけの紐をかける。そうして具合の確認をとるようにいったん動きをとめ、再び動き出した男の手が床に寝かせてあった長剣を持ち上げたとき、マテアはむせ返るような血臭が漂ったのを感じて口元をおおった。
今まで感じたことのない、生々しい死臭が男の持つ物からしている。神殿警備の若者たちが佩いている物と違って、あれは生き物を殺すための道具だった。そのためだけに存在し、そして数えきれないほどの殺戮に用いられた――。
背筋に冷たいものが走り、がくがく膝が震えた。座っていなければきっと倒れていただろう。今も逃げ出してしまいたいくらいだ。
マテアが声も出ないほどおびえているのを見て、男は一度視線を床に落とすと、右手の方に置いてある物の中の、小さな箱を指さした。
『保存用の食物が入ってあるから、口にあう物があったら食べるといい。水以外何も口にしてないと、ユイナから聞いた。きみが向こうで何を食していたかわからないし、こっちの食べ物があうかどうか疑わしいけど、でも、何も食べないではいられないだろう?』
怖々とではあったけれど、マテアの視線が箱へと流れたのを見とどけて、男は立ち上がった。
瞬間、何かされるのではと恐怖したマテアは急いで視線を男へ戻すと共に横へ這って距離をとる。入り口と反対の方に逃げてしまったことに、遅れて気付いた。入り口からこんなに距離があっては、いざというとき逃げられない。
(どうしよう……もしこの男がこれまでの男たちのように、わたしに触れてこようとしたら……!)
左腕を掴まれたときの、あの焼けつくような痛みは今も思いだせる。また同じことを繰り返すなんて、耐えられない。
男の様子をうかがいながら、どうやったら彼に捕まらずに逃げられるだろうと、そればかり考えていたマテアだったが、しかし男はそんなマテアに見向きもせず、紐についた留め金に手にしていた武具を止めると、まっすぐ仕切り布を抜けて天幕から出て行ってしまった。
何がどうなったのか……。
混乱した頭を抱え、マテアは狼狽する。
ここはあの男の天幕だったのだ。自分用に用意されたわけでなく。
では自分は、気を失った後、あの男によってここへ連れてこられたということ?
なぜ?
わからなかった。いくら考えても、男がそうした理由が思い浮かばない。
夢の中で、あの男が髪に触れている。
許しを請うように、唇をよせていた。
ああ夢だと、夢の中のわたしは思う。
あの男がここにいるはずがない。だから、これは夢なのだ。
思うように体が動かない。指一つ動かそうとするだけで疲労感におぼれそうになる。
やはりこれは夢。瞬けば瞬時に消え去るうたかたの幻影。
ゆっくりと瞬いたわたしの視線が、面を上げた男のそれと交わる。
不思議と、こわいとは思わなかった。
じっと男の瞳を覗きこんでいると、なぜか胸がつまった。
今まで見てきた者たちと同じで、黒い髪と黒い瞳。でもなぜだろう。この男だけは、違うものでできている気がする。
男は何も語らず、それでいて、何もかもわかっているのだと言いたげな、やわらかな笑みを浮かべる。
このときわたしは、この世界にきてはじめて笑んでいる自分に気付いた――。
バタバタと、夜が明ける前から忙しく働く端女たちのたてる音で目を覚ましたマテアは、大きな伸びをひとつして、最後の眠気を自分の中から追い出した。
仕切り布の隙間からとはいえ、強い月光を浴びたせいか、昨日までに比べて体の調子が大分よくなっていた。本調子とまではいかないけれど、これなら少し歩いたくらいで気を失いかけるような失態は犯すまい。
そう思って、ほっと胸をなでおろした。なにしろここに着いたときの体調は最悪で、この天幕を張らされている間中、もうこのまま散ってしまうのではないかと思ったほどだ。
はたして今日は何をさせられるのか……だが隙を見て逃げるしかない。優しくしてくれたユイナには悪いけれど、自分はなんとしてもあの男を見つけ出し、今度こそ<魂>をとり返さなくてはならないのだから。
(せめて何をさせられるのか前もってわかっていれば、逃げ出す機会が読めるのに)
勝手がつかめないのは目が見えないのと同じだ。手で触れることはできるが、何をしているか、これが何の役に立つのか、見当もつかない。
自分の自由にできるのは、ユイナがやってくるまでのこの一時だけだ。
一日のはじまりだというのに、沈んだ気分で視線を天幕内に泳がせたとき、はじめてこの天幕の中にいるのが自分だけでないことに気付いてマテアは身を硬直させた。
ちょうど反対側で、誰かが荷をあさっている。背を向けられているので顔は見えないが、体格は男のものだ。はたしていつからそうしていたのか、問いつめる声が出ないでいる彼女の気配に気付き、ふり返った顔は、まさしく彼女の<魂>を奪った男のものだった。
「……っ!」
驚きに口を開いたが、想像もしていなかった出来事に、とっさに言葉が出てこない。
『おはよう』
男は短く何事かを口にし、手にしていた物を革袋の中へ入れて口を引きしぼる。
『目が覚めたのはおれのせいかな。音をたてないよう、気をつけてたつもりだったんだが。でも、すぐ出て行くから、眠れるなら眠った方がいい。出発まではもう少し時間があるし、まだまだ顔色がさえないようだから』
しゃべる間も男の手はとまらない。脇に置いてあった鉄製の物を身につけ、小さめの革袋がいくつも下がったベルトを締め、その上に鉄の留め金がついているだけの紐をかける。そうして具合の確認をとるようにいったん動きをとめ、再び動き出した男の手が床に寝かせてあった長剣を持ち上げたとき、マテアはむせ返るような血臭が漂ったのを感じて口元をおおった。
今まで感じたことのない、生々しい死臭が男の持つ物からしている。神殿警備の若者たちが佩いている物と違って、あれは生き物を殺すための道具だった。そのためだけに存在し、そして数えきれないほどの殺戮に用いられた――。
背筋に冷たいものが走り、がくがく膝が震えた。座っていなければきっと倒れていただろう。今も逃げ出してしまいたいくらいだ。
マテアが声も出ないほどおびえているのを見て、男は一度視線を床に落とすと、右手の方に置いてある物の中の、小さな箱を指さした。
『保存用の食物が入ってあるから、口にあう物があったら食べるといい。水以外何も口にしてないと、ユイナから聞いた。きみが向こうで何を食していたかわからないし、こっちの食べ物があうかどうか疑わしいけど、でも、何も食べないではいられないだろう?』
怖々とではあったけれど、マテアの視線が箱へと流れたのを見とどけて、男は立ち上がった。
瞬間、何かされるのではと恐怖したマテアは急いで視線を男へ戻すと共に横へ這って距離をとる。入り口と反対の方に逃げてしまったことに、遅れて気付いた。入り口からこんなに距離があっては、いざというとき逃げられない。
(どうしよう……もしこの男がこれまでの男たちのように、わたしに触れてこようとしたら……!)
左腕を掴まれたときの、あの焼けつくような痛みは今も思いだせる。また同じことを繰り返すなんて、耐えられない。
男の様子をうかがいながら、どうやったら彼に捕まらずに逃げられるだろうと、そればかり考えていたマテアだったが、しかし男はそんなマテアに見向きもせず、紐についた留め金に手にしていた武具を止めると、まっすぐ仕切り布を抜けて天幕から出て行ってしまった。
何がどうなったのか……。
混乱した頭を抱え、マテアは狼狽する。
ここはあの男の天幕だったのだ。自分用に用意されたわけでなく。
では自分は、気を失った後、あの男によってここへ連れてこられたということ?
なぜ?
わからなかった。いくら考えても、男がそうした理由が思い浮かばない。
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