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第13章
近くに在りて、されど心は遠く 4
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「にしても、三億八千か! すごいな。よくそんな大金あったもんだ。おまえの腕がたつのは知ってたが、一体どれだけ大将首取りゃそんな額になるんだ?」
思わず身をこわばらせたレンジュの肩を別の仲間がつかんで揺する。
「まったくだ。そんなに持ってると知ってたら、この前の飲み代は全部おまえのオゴリにさせときゃ良かったぜ」
「昨夜はりきりすぎて疲れてるのはわかるが、一応見張りなんだからそれらしく見えるように格好だけは整えとけよ」
無反応なレンジュの肩や背中をばしばし叩き、ひやかしたいだけひやかして満足したか、彼らは再び仕事に戻っていった。
一人になれたことにほっとする。
彼らにどう返せばいいか、本当にレンジュはわからなかった。
あの乙女をこの腕に抱くことができたなんて、今も信じられないでいるのだ。
もう二度と会えないと思っていた。一目見ることさえできれば、その瞬間命を失ってもいいとまで思いつめた。その乙女を腕に抱き、あまつさえ自らの天幕へ保護した昨日の出来事は現実味が薄くて、反笏するたびに夢の出来事のように思えてしかたない。
幻のように思える、あの美しい容姿そのままの、人の重みというものを感じさせない小さな体からわずかに感じとれたのは、真綿のような柔らかさと氷のような冷たさ、頭の奥がジンと痺れそうな甘い体臭。
これが夢などでなく、現実であることを確認しようと、幾度想起しただろうか。
もちろん再会は現実にあった事だ。保護したのも現実。その証拠に、いつも腰に下げていた、あの戒めがなくなっている。
それは、何が起きようとも決して手放すまいと決めた金だった。父が亡くなり、『アルトリーク』の姓を捨てたとき。事情を知ったバリは激怒し、
「こんなモン、しょーもないことに使って、パッと使いきっちまえ!」
と言ったが、なんとなく手放す気になれなくて。墓の中まで持っていけるわけはないけど、でも、生きている限り身につけておこうと、彼は決意していた。
それを手放した。
迷いも、痛みも、なかったわけではない。かけらも未練がなかったといえば、それはやはり嘘だろう。その重みを意識するたびに、苦い思いが胸をついたけれど、あれは自分と過去とをつなぐ、唯一の物だった。それを手放したことは、きっと死ぬまで自分の中でくすぶり続けるだろう。
それでもかまわないと思った。
ここで出会えたのさえ奇跡なのに、この手を放したなら本当に二度と会えなくなる。そして彼女は他の地で、彼女の意志と関係なく売買される。
彼女が自分に買われることを望んでいるとも思えなかったが、彼女を他の男が手に入れるのは我慢ならなかった。他の男に渡すくらいなら、自分の胸など何度焼かれようとかまうものか――そう思った。
そもそも、彼女が奴隷商人などといたこと自体、自分のせいなのだから。
おそらく自分を捜していて、捕らわれるか売られるかしてしまったのだろう。
なぜなら、白分は彼女の物を持ってきてしまっているから。
この世界に属する物ではない物――あの後、忘れたことに気付いてとりに戻った彼女は、自分がそれを持って行ったことを知って、とり返しにきたのだ。
まっすぐ自分目がけてかけよって、何事かを口走った。あいにくその言葉は理解できず、鳥のさえずりにしか聞こえなかったが、胸元を握りこんだ手にこめられた力の強さや震え、真剣な眼差しが、自分の犯した罪を見抜いていること、そしてその行為を糾弾しているのだと十二分に悟らせてくれた。
彼女は知っている。
気を失った彼女を天幕囚に運び入れ、その横顔を見つめながら、レンジュは幸福と絶望の二つを同時に感じていた。
やつれた横顔。長い髪はくしゃくしゃだし、服も鉤裂きだらけで、泥まみれの素足があわれだった。
慣れない世界でどれほど苦労したか、手にとるようにわかる。今の彼女を見れば、彼女が属していた世界がこの殺伐とした世界と違ってどれほど幸せな地であるか、察するにあまりあった。
そんな場所を、自分なんかの執心で離れさせてしまった。言葉が通じないことで、さぞ怖い思いをしただろう。女性に厳しいこの異郷の地にたった一人で、心細い思いもしたに違いない。
それでも追ってきたのだ。
そんなにも大切な物なら、返してやらなくてはと思う。
だがそう思った次の瞬間に、返してしまったなら二度と彼女と会うことはできなくなるとの考えが浮かんだ。
目的を遂げた彼女は即座にこの地を離れ、元いた世界に戻るのだろう。どれほど願おうとも自分などには到底行きつくことのできない、遠い世界へ。
返さなければ、彼女はずっとここにいる。
自分は彼女を正当な手段で手に入れた。その権利を放棄しない限り、彼女は自分の物だ。いくら別の世界の者であろうとも、この世界に来た以上はこの世界の法に従わなくてはならない。ずっとそばにおいて、自分だけの物にしておけば、いつか彼女も自分のことを好きになってくれるのではないか――。
ありがたいことに、そんな妄執にとりつかれて分別を失うほど、恋に狂ってはいなかった。
自分は、盗っ人なのだ。それを忘れてはいけない。どんなに時間をかけようとも、こんな目にあわせた自分などに彼女が好意を持ってくれるわけはない。
どうせ嫌われているのなら、とことん恥知らずになってしまえばいい――それは抗いがたい誘惑だった。彼女の要求に気付かないふりをして、一切とりあわない。そんな自分を彼女はこれまで以上に憎むようになるだろう。殺したいと、殺意を抱くかもしれない。だが少なくとも、誰の物にもならない。この地に留まり、手の届く場所にいてくれる。自分のことを嫌悪し、憎悪しながらも、自分の姿が見える範囲にいてくれるだろう。隙をうかがい、とり戻すために。
そっと横腹に手をあてがい、鎖帷子の上から指でなぞってみる。昨夜、砕けた部位を修理しながらふと思いついて、革ベルトの内側へ縫いこんだのだ。腹部を覆って保護する幅広の物で、もともと入っている薄い鉄板をくるむようにすれば、楽に縫いこめた。
自分が戦場で斃れることとなったとき、鎖帷子を盗む輩はいるかもしれないが、こんな古いベルトまで持ち去る者はいないだろう。ここにあることをユイナにだけは言ってあるから、きっと彼女の手に渡る。
言葉が不自由な彼女が隊で暮らしていく以上、女性の助けは絶対に欠かせない。そのため、ユイナにだけは何もかも、すべて話した。
彼女がこちらの世界の者ではないなどととても信じられることではないのに、ユイナは一笑に伏したりせず、聞き終えた後、留意点の復唱をして、「任せて」と笑ってくれた。
ユイナは頼りになる賢い女性だから、きっといろいろな面で彼女を補ってくれるだろう。
思わず身をこわばらせたレンジュの肩を別の仲間がつかんで揺する。
「まったくだ。そんなに持ってると知ってたら、この前の飲み代は全部おまえのオゴリにさせときゃ良かったぜ」
「昨夜はりきりすぎて疲れてるのはわかるが、一応見張りなんだからそれらしく見えるように格好だけは整えとけよ」
無反応なレンジュの肩や背中をばしばし叩き、ひやかしたいだけひやかして満足したか、彼らは再び仕事に戻っていった。
一人になれたことにほっとする。
彼らにどう返せばいいか、本当にレンジュはわからなかった。
あの乙女をこの腕に抱くことができたなんて、今も信じられないでいるのだ。
もう二度と会えないと思っていた。一目見ることさえできれば、その瞬間命を失ってもいいとまで思いつめた。その乙女を腕に抱き、あまつさえ自らの天幕へ保護した昨日の出来事は現実味が薄くて、反笏するたびに夢の出来事のように思えてしかたない。
幻のように思える、あの美しい容姿そのままの、人の重みというものを感じさせない小さな体からわずかに感じとれたのは、真綿のような柔らかさと氷のような冷たさ、頭の奥がジンと痺れそうな甘い体臭。
これが夢などでなく、現実であることを確認しようと、幾度想起しただろうか。
もちろん再会は現実にあった事だ。保護したのも現実。その証拠に、いつも腰に下げていた、あの戒めがなくなっている。
それは、何が起きようとも決して手放すまいと決めた金だった。父が亡くなり、『アルトリーク』の姓を捨てたとき。事情を知ったバリは激怒し、
「こんなモン、しょーもないことに使って、パッと使いきっちまえ!」
と言ったが、なんとなく手放す気になれなくて。墓の中まで持っていけるわけはないけど、でも、生きている限り身につけておこうと、彼は決意していた。
それを手放した。
迷いも、痛みも、なかったわけではない。かけらも未練がなかったといえば、それはやはり嘘だろう。その重みを意識するたびに、苦い思いが胸をついたけれど、あれは自分と過去とをつなぐ、唯一の物だった。それを手放したことは、きっと死ぬまで自分の中でくすぶり続けるだろう。
それでもかまわないと思った。
ここで出会えたのさえ奇跡なのに、この手を放したなら本当に二度と会えなくなる。そして彼女は他の地で、彼女の意志と関係なく売買される。
彼女が自分に買われることを望んでいるとも思えなかったが、彼女を他の男が手に入れるのは我慢ならなかった。他の男に渡すくらいなら、自分の胸など何度焼かれようとかまうものか――そう思った。
そもそも、彼女が奴隷商人などといたこと自体、自分のせいなのだから。
おそらく自分を捜していて、捕らわれるか売られるかしてしまったのだろう。
なぜなら、白分は彼女の物を持ってきてしまっているから。
この世界に属する物ではない物――あの後、忘れたことに気付いてとりに戻った彼女は、自分がそれを持って行ったことを知って、とり返しにきたのだ。
まっすぐ自分目がけてかけよって、何事かを口走った。あいにくその言葉は理解できず、鳥のさえずりにしか聞こえなかったが、胸元を握りこんだ手にこめられた力の強さや震え、真剣な眼差しが、自分の犯した罪を見抜いていること、そしてその行為を糾弾しているのだと十二分に悟らせてくれた。
彼女は知っている。
気を失った彼女を天幕囚に運び入れ、その横顔を見つめながら、レンジュは幸福と絶望の二つを同時に感じていた。
やつれた横顔。長い髪はくしゃくしゃだし、服も鉤裂きだらけで、泥まみれの素足があわれだった。
慣れない世界でどれほど苦労したか、手にとるようにわかる。今の彼女を見れば、彼女が属していた世界がこの殺伐とした世界と違ってどれほど幸せな地であるか、察するにあまりあった。
そんな場所を、自分なんかの執心で離れさせてしまった。言葉が通じないことで、さぞ怖い思いをしただろう。女性に厳しいこの異郷の地にたった一人で、心細い思いもしたに違いない。
それでも追ってきたのだ。
そんなにも大切な物なら、返してやらなくてはと思う。
だがそう思った次の瞬間に、返してしまったなら二度と彼女と会うことはできなくなるとの考えが浮かんだ。
目的を遂げた彼女は即座にこの地を離れ、元いた世界に戻るのだろう。どれほど願おうとも自分などには到底行きつくことのできない、遠い世界へ。
返さなければ、彼女はずっとここにいる。
自分は彼女を正当な手段で手に入れた。その権利を放棄しない限り、彼女は自分の物だ。いくら別の世界の者であろうとも、この世界に来た以上はこの世界の法に従わなくてはならない。ずっとそばにおいて、自分だけの物にしておけば、いつか彼女も自分のことを好きになってくれるのではないか――。
ありがたいことに、そんな妄執にとりつかれて分別を失うほど、恋に狂ってはいなかった。
自分は、盗っ人なのだ。それを忘れてはいけない。どんなに時間をかけようとも、こんな目にあわせた自分などに彼女が好意を持ってくれるわけはない。
どうせ嫌われているのなら、とことん恥知らずになってしまえばいい――それは抗いがたい誘惑だった。彼女の要求に気付かないふりをして、一切とりあわない。そんな自分を彼女はこれまで以上に憎むようになるだろう。殺したいと、殺意を抱くかもしれない。だが少なくとも、誰の物にもならない。この地に留まり、手の届く場所にいてくれる。自分のことを嫌悪し、憎悪しながらも、自分の姿が見える範囲にいてくれるだろう。隙をうかがい、とり戻すために。
そっと横腹に手をあてがい、鎖帷子の上から指でなぞってみる。昨夜、砕けた部位を修理しながらふと思いついて、革ベルトの内側へ縫いこんだのだ。腹部を覆って保護する幅広の物で、もともと入っている薄い鉄板をくるむようにすれば、楽に縫いこめた。
自分が戦場で斃れることとなったとき、鎖帷子を盗む輩はいるかもしれないが、こんな古いベルトまで持ち去る者はいないだろう。ここにあることをユイナにだけは言ってあるから、きっと彼女の手に渡る。
言葉が不自由な彼女が隊で暮らしていく以上、女性の助けは絶対に欠かせない。そのため、ユイナにだけは何もかも、すべて話した。
彼女がこちらの世界の者ではないなどととても信じられることではないのに、ユイナは一笑に伏したりせず、聞き終えた後、留意点の復唱をして、「任せて」と笑ってくれた。
ユイナは頼りになる賢い女性だから、きっといろいろな面で彼女を補ってくれるだろう。
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