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第13章
近くに在りて、されど心は遠く 1
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どんっと音をたてて目の前に置かれた素焼きの碗を、マテアはまじまじと見つめた。
碗の中には緑や赤や黄色をした根菜と、黒っぽい肉数切れが汁に浸っており、ほかほかと湯気が上がっている。薄まっているとはいえ、死臭のするそれが、外を歩いたときに見かけた、火にかけられていた鍋の中身と同一の物であると気付いたマテアが顔をしかめるのを見て、アネサは口をへの字に曲げた。
『なんだい、その不服そうな顔は! 貧血起こして倒れたって聞いたから、精のつきそうな物を持ってきてやったんだろうがね!
言っとくけど、この粥にはあんたが今まで食ってきた物より、ずっといい物が入ってるんだよ。
あんたがどんな物を口にしてたかなんて、そりゃ知らないけどね。でも今のあんたを見りゃそれがロクでもない物だっていうのはわかるさ。
自分の姿を鏡で見たことがあるかい? 肌は真っ白だし、手足なんて棒っきれだ。そんなんで大の男の世話がこなせるわけないだろう』
じきに出発だ、さあさっさと食いな! レンジュが戻る前に出発の準備をするよ!
マテアの方へさらに碗を突き出して、上から圧をかけてくる。だが人の体熱すら炎のように感じるマテアに、こんな熱い物が口に含めるはずがなかった。
たとえ冷めていたとしても食べることはできなかっただろう。碗の中身は奴隷商人の元にいたとき出された食事と同じで、生き物の苦悶と断末魔に満ちている。いくら空腹でも、マテアに口にできる代物ではない。
漂ってくる瘴気を受け入れられず、喉を詰まらせ、思わず口元をおおって顔をそむける。胃液ぐらいしか出るものはなかったが、これ以上近づけられたら本当に吐いてしまいそうだ。
しかしアネサはそんなマテアの態度を、わがままと受け止めた。
アネサのかんしゃくが落ちようとした、そのときだ。
『かあさん! 一体どういうつもり!?』
仕切り布をがばりとめくり上げて、またもやユイナが飛び込んできた。
ただし今度のユイナは肩をいからせ、指先にまで怒気が満ちている。
『レテルたちがあたしの方へやってきたわ。あたしの言うことをききなさいって、かあさんに指示されたって言ってね!
端女に指図するのは世話女頭であるかあさんの役目でしょう!』
怒り心頭といった娘の姿に、しかしアネサは鷹揚とした態度を崩さず、軽く肩を揺すっただけだった。
『なにをそんなに怒ってるんだい。おまえにもそろそろ手伝ってもらおうと思ったからこそじゃないか。
おまえ、あたしを一体いくつだと思ってるんだい? もう楽させてもらってもいいころだと思うけどね』
『だからってどうして――』
『おまえはあたしのあとを継いで、次の世話女頭になるんだ。あたしのそばで見てて、そろそろ端女の扱い方も覚えてきただろ。やってみせてもらおうじゃないか』
アネサは肥大した腹をゆすってユイナのほうへ正面を向けると腰に手をあてる。
あくまでしらを切り、話をそらそうとする母の姿にユイナははあっと溜息をついて首を振った。
『そしてかあさんはルキシュの而倒を見るって?
もう忘れたの? 彼女の面倒はあたしがレンジュに任されたの。かあさんじゃないわ』
『誰がやったって同じさ。新しく入ってきた下女や端女には、この隊の規律と心構えってもんを最初に教えこむ。
大体、ずっとあたしがやってきたことに、なんだって今さらおまえが口を出すんだい』
『決まってるわ、この子に限ってはかあさんのやり方じゃまずいからよ!
相手によっては教えるほうも少し変えなきゃいけないって考え方が、かあさんにはないでしょ!』
『なんでこっちが合わせないといけないんだ! 娘のほうがこっちのやり方に合わせるのが筋だろう!』
まただわ。
マテアは手で耳をふさぎ、這うように隅へ行って、そこに置いてある、羊毛でできた円座を重ねた荷物の間に身を押し込んだ。
二人の口論には耳を傾けるだけ無駄だ。何を言っているか見当もつかないし、知ったところで多分、自分に選択権はないのだろう。馬車に乗っていたときと同じ。
せめて、あの碗の中身を口にせずにすんだことを幸いと思おう。
忘れられ、冷めていくだけとなった碗を見つめながら、マテアは陰欝な気分で羊毛に頭を預ける。そうして引き攣る胃をなだめるように手でさすっていた。
二人の女の言い争いは、ほどなく決着がついた。どうやらユイナの方に軍配が上がったらしく、アネサが歯噛みしながら仕切り布を持ち上げて天幕から出て行く。ドスドスと蹴飛ばすような雑な歩き方が、今の感情を語っていた。
遠ざかる気配にほっとする。
大柄で威圧的、マテアに対する不満を隠そうともしないあの女より、まだ親しみの感じられる笑顔で話しかけてくれるユイナの方に好感を持っていたので、この結果はマテアとしても嬉しかった。
仕切り布を持ち上げ、アネサが完全に去ったのを見届けたユイナが中へ戻ってくる。そして壁際にまとめられた荷物にぐったりと身を預け、無言でユイナを見上げているマテアの疲れ切った姿を見て、申し訳なさそうな顔つきで彼女の前に両膝をついた。
『なんだかあなたの前では口論ばかりしてるわね。ごめんなさい、ルキシュ。でもかあさんもかあさんなりに、あなたのことを心配しているのよ。やり方に問題はあるけど』
碗の中には緑や赤や黄色をした根菜と、黒っぽい肉数切れが汁に浸っており、ほかほかと湯気が上がっている。薄まっているとはいえ、死臭のするそれが、外を歩いたときに見かけた、火にかけられていた鍋の中身と同一の物であると気付いたマテアが顔をしかめるのを見て、アネサは口をへの字に曲げた。
『なんだい、その不服そうな顔は! 貧血起こして倒れたって聞いたから、精のつきそうな物を持ってきてやったんだろうがね!
言っとくけど、この粥にはあんたが今まで食ってきた物より、ずっといい物が入ってるんだよ。
あんたがどんな物を口にしてたかなんて、そりゃ知らないけどね。でも今のあんたを見りゃそれがロクでもない物だっていうのはわかるさ。
自分の姿を鏡で見たことがあるかい? 肌は真っ白だし、手足なんて棒っきれだ。そんなんで大の男の世話がこなせるわけないだろう』
じきに出発だ、さあさっさと食いな! レンジュが戻る前に出発の準備をするよ!
マテアの方へさらに碗を突き出して、上から圧をかけてくる。だが人の体熱すら炎のように感じるマテアに、こんな熱い物が口に含めるはずがなかった。
たとえ冷めていたとしても食べることはできなかっただろう。碗の中身は奴隷商人の元にいたとき出された食事と同じで、生き物の苦悶と断末魔に満ちている。いくら空腹でも、マテアに口にできる代物ではない。
漂ってくる瘴気を受け入れられず、喉を詰まらせ、思わず口元をおおって顔をそむける。胃液ぐらいしか出るものはなかったが、これ以上近づけられたら本当に吐いてしまいそうだ。
しかしアネサはそんなマテアの態度を、わがままと受け止めた。
アネサのかんしゃくが落ちようとした、そのときだ。
『かあさん! 一体どういうつもり!?』
仕切り布をがばりとめくり上げて、またもやユイナが飛び込んできた。
ただし今度のユイナは肩をいからせ、指先にまで怒気が満ちている。
『レテルたちがあたしの方へやってきたわ。あたしの言うことをききなさいって、かあさんに指示されたって言ってね!
端女に指図するのは世話女頭であるかあさんの役目でしょう!』
怒り心頭といった娘の姿に、しかしアネサは鷹揚とした態度を崩さず、軽く肩を揺すっただけだった。
『なにをそんなに怒ってるんだい。おまえにもそろそろ手伝ってもらおうと思ったからこそじゃないか。
おまえ、あたしを一体いくつだと思ってるんだい? もう楽させてもらってもいいころだと思うけどね』
『だからってどうして――』
『おまえはあたしのあとを継いで、次の世話女頭になるんだ。あたしのそばで見てて、そろそろ端女の扱い方も覚えてきただろ。やってみせてもらおうじゃないか』
アネサは肥大した腹をゆすってユイナのほうへ正面を向けると腰に手をあてる。
あくまでしらを切り、話をそらそうとする母の姿にユイナははあっと溜息をついて首を振った。
『そしてかあさんはルキシュの而倒を見るって?
もう忘れたの? 彼女の面倒はあたしがレンジュに任されたの。かあさんじゃないわ』
『誰がやったって同じさ。新しく入ってきた下女や端女には、この隊の規律と心構えってもんを最初に教えこむ。
大体、ずっとあたしがやってきたことに、なんだって今さらおまえが口を出すんだい』
『決まってるわ、この子に限ってはかあさんのやり方じゃまずいからよ!
相手によっては教えるほうも少し変えなきゃいけないって考え方が、かあさんにはないでしょ!』
『なんでこっちが合わせないといけないんだ! 娘のほうがこっちのやり方に合わせるのが筋だろう!』
まただわ。
マテアは手で耳をふさぎ、這うように隅へ行って、そこに置いてある、羊毛でできた円座を重ねた荷物の間に身を押し込んだ。
二人の口論には耳を傾けるだけ無駄だ。何を言っているか見当もつかないし、知ったところで多分、自分に選択権はないのだろう。馬車に乗っていたときと同じ。
せめて、あの碗の中身を口にせずにすんだことを幸いと思おう。
忘れられ、冷めていくだけとなった碗を見つめながら、マテアは陰欝な気分で羊毛に頭を預ける。そうして引き攣る胃をなだめるように手でさすっていた。
二人の女の言い争いは、ほどなく決着がついた。どうやらユイナの方に軍配が上がったらしく、アネサが歯噛みしながら仕切り布を持ち上げて天幕から出て行く。ドスドスと蹴飛ばすような雑な歩き方が、今の感情を語っていた。
遠ざかる気配にほっとする。
大柄で威圧的、マテアに対する不満を隠そうともしないあの女より、まだ親しみの感じられる笑顔で話しかけてくれるユイナの方に好感を持っていたので、この結果はマテアとしても嬉しかった。
仕切り布を持ち上げ、アネサが完全に去ったのを見届けたユイナが中へ戻ってくる。そして壁際にまとめられた荷物にぐったりと身を預け、無言でユイナを見上げているマテアの疲れ切った姿を見て、申し訳なさそうな顔つきで彼女の前に両膝をついた。
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