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第12章
月の乙女と地上の兵士 2
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目を開いた直後、涙が目尻を伝っていった。
ゆっくりまたたくと、にじんでいた視界がだんだんはっきりしてくる。
これまで目にしてきた馬車の幌とは違う、白布の天井が外の風にうねっていた。ぐるりと視線を巡らせるだけで、自分が仰向けに寝ているのが天幕だとわかる。下も馬車の床板ではなく地面で、そこに布が敷かれ、さらにその上に何か動物の毛皮のような毛足のある敷物が敷かれていて、そこに自分は寝ているらしい。毛皮といっても厚みはあまりなく、地面のごつごつとした感触と土臭さが嗅ぎとれる。
ろうそく芯と皿だけの簡素な灯台が枕元の少し先にあったが、火はついてはいなかった。布の壁を透過してくる光で十分天幕内の様子はうかがえるので、今は昼間なのだろう。
天幕内にいるのは自分一人だ。
それはわかったが、ではなぜ、いつからここにこうしているかがわからなかった。
ずっと体調が優れなくてほとんど寝てばかりいたせいか、記憶がぼんやりしている。
あの男たちにとらわれて、馬車に乗せられて。何日たった?
休憩のときも、夜も、あの馬車から一人で降りることは許されなかった。でもここは馬車でなく、あの姦しい女たちもいない。
ただの夢か、それとも現実にあったことか。
とりとめなく意識の表層に浮かんでは沈んでいく記憶の断片の中から、意識が途切れる直前の光景を選び出そうと努める。そうして、それがあの男の胸を捕らえた自分の両手であるとさとった瞬間、マテアはがばりと身を起こした。
そうだ。わたし、あの男を見つけて……!
そこでぷつりと記憶が途絶えているのは、気を失ってしまったからだろう。
なんというていたらく。ようやく見つけたのに、肝心のところで気を失ってしまうだなんて。
きっと男はこれ幸いにと逃げてしまったに違いない。
ふりだしに戻ってしまったとの失望感が、じんわりと胸に広がる。また捜さねばならないと思うとさらに気力が萎えた。
そんなマテアに追い打ちをかけるのが気温だ。どうやら外はこれまでで一番の上天気らしい。布越しに温められた天幕内の空気が熱気となって押し寄せ、ちりちりと肌を焼く。ただ仰向けになっているだけだというのに息をするのも苦しくて、肌がじっとりと汗ばむ。軽い鈍痛もある。
額の汗をぬぐおうとしたけれど、直後走った痛みにそれはかなわなかった。
ずくずくと引き攣れる左腕が、夢の出来事を思い出させる。
みんなと草原にいた、あれは夢。どんなに生々しくても現実じゃない。
ここは月光界ではないのだから……。
夢の残滓が胸をしめつけ、またも伝った涙にマテアは右手で顔を覆った。
地上界はおそろしい所。だからこそ、心を弱くする涙は流すまいと思っていたのに。
ぽろぽろ、ぽろぽろ、頬を伝う。
みんなに会いたい。帰りたい。
本当は、いつもそう思っていた。
強烈な郷愁の念が胸をえぐり、自尊心も何もかも掻き出して、がらんどうにする。
何が起きても後悔しないと、月光母さまの前であれほど決意したのに、もうわたしは後悔している。
半身を得られないこと以上に恐ろしいことはないと思ったはずなのに、この世界が、人が、恐ろしくて。
もう何もかもどうでもいいと、逃げ帰ってしまいたい……!
毛皮の端をぎゅっと握り込んで声を殺して泣いていると、突然仕切り布がばさりとめくり上げられた。
めくれた布の形で差しこんできた外界の強い光がすぐ目の前まで迫って、マテアは身を固くする。
天幕の中をのぞき込むように身をかがめた女のシルエットは、あの太った中年女のものだった。
きっとあの中年女が自分を鞭打ちにきたのだと、凍った背筋で身を固くした直後。
『あれまあ。なんてこったい』
あきれ返った女の太い声がした。
聞き覚えのない声だ。影の形があの中年女に似ていたからてっきりそうだとばかり思ったのだが、どうやら早合点だったらしい。面を上げ、まぶしい光に目をすがめながらも凝視して確認する。年恰好は似ているがそれだけで、やはり見知らぬ女だ。
女は中腰になって天幕の中をうかがっていた。その表情は、およそマテアに好意的なものとは思えない。渋い物でも口に含んだように顔をしかめている。
向こうからすれば天幕内は暗いだろう。目を凝らすのはわからないでもないが、しかしそのせいばかりでもなさそうな気配を感じる。
警戒して、手足をついたまま後ろへじりじりと下がるマテアの前、女は我が物顔で天幕の中へ入ってきて距離を詰めてくる。
マテアは目を瞠り、急いで後ろへ下がった。しかしそこは布壁で、これ以上下がることはできない。
外に飛び出すこともできずに布壁へ張りついているマテアの姿に女は足を止め、大きな溜息をついた。
上半身を起こしたマテアのすぐ横まで歩をつめる。触れられることを警戒し、大急ぎ毛布で身をくるんだマテアを見下ろして、女は大きな溜息をついた。
『なんてこった……』
と、先の語句をくり返す。
『あのレンジュが全財産投げうったと聞いたからどんな娘かと思ったら。
よりによって、こんなのを選んでくるとはね』
そしてまた溜息。
眉をひそめ、口元を歪め……不満たらたらという顔だ。
何を言っているか、どうしてこんな態度をとるのか見当もつかないが、自分のことを侮蔑しているのだということははっきりと伝わってきて、マテアは負けじとにらみ上げた。
初対面の者に、こんな無礼を受ける筋合いなどない。
目は口ほどにものを言うという。目というより、表情そのものだろうが。
そうして布にぴったり張り付いて、おびえているくせに、怒りの視線で見返してくるマテアに女はチッと舌打ち肩をすくめた。
『なんてえ目だい。やれやれ、気だけは強そうだ』
その態度が、あの何かと鞭を振りかざしていた中年女とだぶった。
こちらの世界ではこの年頃の女はみんなこうなのだろうか。
高圧的で、頭ごなしに押さえ込もうとする。あの女も、この女も。
そう思うとなんだか無性に腹が立ってきて。ぐうっと腹からこみ上げてきた熱の重さに胸をふさがれた。
ぎゅっと膝の上で手を握り締める。
言葉が通じずともかまわない。鞭で打たれようとかまうものか。こうなったら言うだけ言ってやろうと捨て鉢な気分で膝にぐっと力を込め、立ち上がろうとしたときだ。
『ああいたいた。かあさん、やっぱりここにきてたのね!』
またも仕切り布がめくられて、今度は年若な女が現れた。
ゆっくりまたたくと、にじんでいた視界がだんだんはっきりしてくる。
これまで目にしてきた馬車の幌とは違う、白布の天井が外の風にうねっていた。ぐるりと視線を巡らせるだけで、自分が仰向けに寝ているのが天幕だとわかる。下も馬車の床板ではなく地面で、そこに布が敷かれ、さらにその上に何か動物の毛皮のような毛足のある敷物が敷かれていて、そこに自分は寝ているらしい。毛皮といっても厚みはあまりなく、地面のごつごつとした感触と土臭さが嗅ぎとれる。
ろうそく芯と皿だけの簡素な灯台が枕元の少し先にあったが、火はついてはいなかった。布の壁を透過してくる光で十分天幕内の様子はうかがえるので、今は昼間なのだろう。
天幕内にいるのは自分一人だ。
それはわかったが、ではなぜ、いつからここにこうしているかがわからなかった。
ずっと体調が優れなくてほとんど寝てばかりいたせいか、記憶がぼんやりしている。
あの男たちにとらわれて、馬車に乗せられて。何日たった?
休憩のときも、夜も、あの馬車から一人で降りることは許されなかった。でもここは馬車でなく、あの姦しい女たちもいない。
ただの夢か、それとも現実にあったことか。
とりとめなく意識の表層に浮かんでは沈んでいく記憶の断片の中から、意識が途切れる直前の光景を選び出そうと努める。そうして、それがあの男の胸を捕らえた自分の両手であるとさとった瞬間、マテアはがばりと身を起こした。
そうだ。わたし、あの男を見つけて……!
そこでぷつりと記憶が途絶えているのは、気を失ってしまったからだろう。
なんというていたらく。ようやく見つけたのに、肝心のところで気を失ってしまうだなんて。
きっと男はこれ幸いにと逃げてしまったに違いない。
ふりだしに戻ってしまったとの失望感が、じんわりと胸に広がる。また捜さねばならないと思うとさらに気力が萎えた。
そんなマテアに追い打ちをかけるのが気温だ。どうやら外はこれまでで一番の上天気らしい。布越しに温められた天幕内の空気が熱気となって押し寄せ、ちりちりと肌を焼く。ただ仰向けになっているだけだというのに息をするのも苦しくて、肌がじっとりと汗ばむ。軽い鈍痛もある。
額の汗をぬぐおうとしたけれど、直後走った痛みにそれはかなわなかった。
ずくずくと引き攣れる左腕が、夢の出来事を思い出させる。
みんなと草原にいた、あれは夢。どんなに生々しくても現実じゃない。
ここは月光界ではないのだから……。
夢の残滓が胸をしめつけ、またも伝った涙にマテアは右手で顔を覆った。
地上界はおそろしい所。だからこそ、心を弱くする涙は流すまいと思っていたのに。
ぽろぽろ、ぽろぽろ、頬を伝う。
みんなに会いたい。帰りたい。
本当は、いつもそう思っていた。
強烈な郷愁の念が胸をえぐり、自尊心も何もかも掻き出して、がらんどうにする。
何が起きても後悔しないと、月光母さまの前であれほど決意したのに、もうわたしは後悔している。
半身を得られないこと以上に恐ろしいことはないと思ったはずなのに、この世界が、人が、恐ろしくて。
もう何もかもどうでもいいと、逃げ帰ってしまいたい……!
毛皮の端をぎゅっと握り込んで声を殺して泣いていると、突然仕切り布がばさりとめくり上げられた。
めくれた布の形で差しこんできた外界の強い光がすぐ目の前まで迫って、マテアは身を固くする。
天幕の中をのぞき込むように身をかがめた女のシルエットは、あの太った中年女のものだった。
きっとあの中年女が自分を鞭打ちにきたのだと、凍った背筋で身を固くした直後。
『あれまあ。なんてこったい』
あきれ返った女の太い声がした。
聞き覚えのない声だ。影の形があの中年女に似ていたからてっきりそうだとばかり思ったのだが、どうやら早合点だったらしい。面を上げ、まぶしい光に目をすがめながらも凝視して確認する。年恰好は似ているがそれだけで、やはり見知らぬ女だ。
女は中腰になって天幕の中をうかがっていた。その表情は、およそマテアに好意的なものとは思えない。渋い物でも口に含んだように顔をしかめている。
向こうからすれば天幕内は暗いだろう。目を凝らすのはわからないでもないが、しかしそのせいばかりでもなさそうな気配を感じる。
警戒して、手足をついたまま後ろへじりじりと下がるマテアの前、女は我が物顔で天幕の中へ入ってきて距離を詰めてくる。
マテアは目を瞠り、急いで後ろへ下がった。しかしそこは布壁で、これ以上下がることはできない。
外に飛び出すこともできずに布壁へ張りついているマテアの姿に女は足を止め、大きな溜息をついた。
上半身を起こしたマテアのすぐ横まで歩をつめる。触れられることを警戒し、大急ぎ毛布で身をくるんだマテアを見下ろして、女は大きな溜息をついた。
『なんてこった……』
と、先の語句をくり返す。
『あのレンジュが全財産投げうったと聞いたからどんな娘かと思ったら。
よりによって、こんなのを選んでくるとはね』
そしてまた溜息。
眉をひそめ、口元を歪め……不満たらたらという顔だ。
何を言っているか、どうしてこんな態度をとるのか見当もつかないが、自分のことを侮蔑しているのだということははっきりと伝わってきて、マテアは負けじとにらみ上げた。
初対面の者に、こんな無礼を受ける筋合いなどない。
目は口ほどにものを言うという。目というより、表情そのものだろうが。
そうして布にぴったり張り付いて、おびえているくせに、怒りの視線で見返してくるマテアに女はチッと舌打ち肩をすくめた。
『なんてえ目だい。やれやれ、気だけは強そうだ』
その態度が、あの何かと鞭を振りかざしていた中年女とだぶった。
こちらの世界ではこの年頃の女はみんなこうなのだろうか。
高圧的で、頭ごなしに押さえ込もうとする。あの女も、この女も。
そう思うとなんだか無性に腹が立ってきて。ぐうっと腹からこみ上げてきた熱の重さに胸をふさがれた。
ぎゅっと膝の上で手を握り締める。
言葉が通じずともかまわない。鞭で打たれようとかまうものか。こうなったら言うだけ言ってやろうと捨て鉢な気分で膝にぐっと力を込め、立ち上がろうとしたときだ。
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