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第10章
アーシェンカ-幻の交易都市- 3
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「ユイナに頼まれた、か…」
ハリの消えた雑踏へ目を向けたまま独りごち、ふうと息をつく。
女ができると男は変わる、というのはしばしば耳にしていたし、隊の中にも数人そういった者がいることはいるが、まさかハリがそうなるとは思ってもいなかったレンジュには、こんなふうにときおり見せる甲斐甲斐しさが不思議な印象を与える。ハリは幼なじみで、お互い物心つくかつかないかの頃からの知りあいだからというのが一番強い理由だと思う。どうしても子供の頃の延長線で見てしまうからだ。
彼は昔から奔放で屈託がなく、自分と違って一つ事に対して長い間深刻に悩むようなことはしない。面倒くさがりで、気がむかないとテコでも動かず、そのくせ好奇心は人一倍旺盛でひとたび興味が引かれると誰に何を言われようが全力で追求する。それで望む結果が得られずに傷つこうが、周りから口をそろえて「だから言っただろう。少しは言うことを聞け」と言われても、ハリはあらためようとしない。まるでちょっと転んだだけだとばかりに、服についた砂を払うように立ち上がって、また繰り返すのだ。
何よりも自分が自分のままで生きるということを十全に楽しんでいる――その生き方を変えられる者はいないと思っていた。
アネサなどは『飽きれるくらい、いくつになっても子供気分が抜けない子だね』と首をふりふりよく言っていたが、それはなかなか的を射た表現で、女の子よりも男友達との遊びに熱中する子供のように、ハリの興味は常に男女の睦言よりも屈託のない冗談を言っては肩をたたいて笑い合う方にこそ向いているとばかり思っていたのに。
『おれ、ユイナと暮らすことにした』
まるで昨夜食べた夕飯の事でも話すような口調でいきなり爆弾発言をして、その場にいた全員が「まさかな」「よく言ってる冗談の一つだろ」と驚いている間にさっさとアネサに見受金を払い、専属の世話女にして、二人で暮らし始めた。
ハリは子供だ。女と暮らすにはまだまだ我慢が足りない。未亡人ならまだしもユイナは若すぎる。きっと長くもたないだろう、と年長の男の大多数が予想した。何日もつか、こっそり賭けをする者たちもいた。
そのころレンジュは――生まれが影響しているのは間違いないが――女性というものを特に尊敬も軽蔑もしておらず、関心も持てていなかったので、同意も否定も口にしなかった。
ユイナは配属されてきたときからレンジュも親しくつきあってきていて、どんな女性かは知っている。相手によらずはきはきと物を言う、なかなか負けん気の強い、芯のしっかりした女性だ。アネサの後を継いで世話女頭になるのは確実で、もう何年も前から数十人いる端女たちのリーダー的存在として動いている。
そんな彼女と幼なじみの幸せを祈る気持ちはあるし、祝福もしたが、しかし実のところ、五ヵ月前まではレンジュもハリの気持ちを理解できかねていたのだった。
他人の人生に自分の人生を重ねるということは、いつ死ぬかしれない兵士として生きる以上、罪悪であるような気がするのだ。
自分はいい。男として生まれ、望んで兵士となった以上、駒として扱われて死ぬことになるだろうと納得しているから。
けれどついにそのときがきて、自分はこの世界から消えてしまったというのに誰かの胸に自分という影を残し、その者のそれからの人生に影響を与えてしまうというのはいいこととは思えない。それが愛する者であればなおさらなのではないか――そう思うと、軽々に特定の女性との関係を深める気になれなかった。
恐れていたと言ってもいい。気持ちは理性でどうにかできるものじゃないと心のどこかでわかっていたから、不容易に距離を縮め、親しくなり、心を動かしてしまうのが怖かったのだ。
傷ついても構わない、その覚悟が自分にはない。
ハリは怖くなかったのだろうか? ユイナに惹かれることが。惹かれたからこそ、そのユイナを苦しめることになるかもしれない事を決意することは。今もまた、怖くないのか?
だがそんな心配をよそに、ハリはユイナを自分の生活の一部として受け入れ、彼女のために自分を一部修正し、自分の中に彼女の居場所を作り、そしてそれを居心地の良いものにすることに成功し、二人の生活はもうじき一年を迎えようとしている。1週間ごとに更新されていた賭けの紙はいつの間にか破かれて、誰も、どうせ長く続かないとは口にしなくなった。
互いに同性の友達といるときとは少し違う表情をして、楽しげに一緒にいる――そんな彼等の気持ちを、今なら理解できる気がした。
不安がないわけじゃなく。むしろますます膨らむのを感じながら、それでもそばにいたいのだという気持ち。この気持ちがこの先相手を苦しめることになるかもしれないとおののきながらも、押さえることができない。そして彼女のために一日でも長く生きていたいと強くねがう。一日でも多く彼女といたいとの気持ちが、明日を渇望する力になるのだ。
あの夜を経た今の自分ならわかる。二度と会うことはないと知りながら、それでもいつか、生きてさえいればもしかしたら、あの乙女をもう一度目にすることができるかもしれないとの期待――一筋の糸にすがって自分もまた、こうして生き延びてきたのだから……。
我がことながら、嘆息が出た。
もの悲しいという気持ちがなくもない。ハリと違い、自分のそれは、天空に浮かぶ月に、星に、恋心を抱いているも同然だから。
不甲斐ない、とひとは言うかもしれない。そんなわびしい夢ばかり追わず、もっと身近にいる、温かな血と肉を持つ者を受け入れろと。だがレンジュはその忠告に対する答えを、幾度となく思い切ろうとした日々の末に見つけていた。たとえ二度と会えなくとも、彼女以上に誰かを深く愛することはできないと。
「意外と女々しかったんだな、おれってやつは……」
立ち止まって空を仰ぎ、東の空にうっすらと浮かんだ白月を見ながらこぼれた呟きを、すれ違いざま小耳にはさんだ若者がふり返って小首を傾げる。レンジュは再び足を動かしはじめ、目的の武具店へと続く道に入りながらも、店先に目を配ることなく歩いて行く。
それは、もしかするとマテアの<魂>から少なからず干渉を受けている証かもしれない。レンジュ自身、そうと気付かないくらい、小さな小さな誘導。
レンジュは様々な鎖帷子が並び、騒然としている店先までも素通りし、最短の道で歩を進めていた。
ハリの消えた雑踏へ目を向けたまま独りごち、ふうと息をつく。
女ができると男は変わる、というのはしばしば耳にしていたし、隊の中にも数人そういった者がいることはいるが、まさかハリがそうなるとは思ってもいなかったレンジュには、こんなふうにときおり見せる甲斐甲斐しさが不思議な印象を与える。ハリは幼なじみで、お互い物心つくかつかないかの頃からの知りあいだからというのが一番強い理由だと思う。どうしても子供の頃の延長線で見てしまうからだ。
彼は昔から奔放で屈託がなく、自分と違って一つ事に対して長い間深刻に悩むようなことはしない。面倒くさがりで、気がむかないとテコでも動かず、そのくせ好奇心は人一倍旺盛でひとたび興味が引かれると誰に何を言われようが全力で追求する。それで望む結果が得られずに傷つこうが、周りから口をそろえて「だから言っただろう。少しは言うことを聞け」と言われても、ハリはあらためようとしない。まるでちょっと転んだだけだとばかりに、服についた砂を払うように立ち上がって、また繰り返すのだ。
何よりも自分が自分のままで生きるということを十全に楽しんでいる――その生き方を変えられる者はいないと思っていた。
アネサなどは『飽きれるくらい、いくつになっても子供気分が抜けない子だね』と首をふりふりよく言っていたが、それはなかなか的を射た表現で、女の子よりも男友達との遊びに熱中する子供のように、ハリの興味は常に男女の睦言よりも屈託のない冗談を言っては肩をたたいて笑い合う方にこそ向いているとばかり思っていたのに。
『おれ、ユイナと暮らすことにした』
まるで昨夜食べた夕飯の事でも話すような口調でいきなり爆弾発言をして、その場にいた全員が「まさかな」「よく言ってる冗談の一つだろ」と驚いている間にさっさとアネサに見受金を払い、専属の世話女にして、二人で暮らし始めた。
ハリは子供だ。女と暮らすにはまだまだ我慢が足りない。未亡人ならまだしもユイナは若すぎる。きっと長くもたないだろう、と年長の男の大多数が予想した。何日もつか、こっそり賭けをする者たちもいた。
そのころレンジュは――生まれが影響しているのは間違いないが――女性というものを特に尊敬も軽蔑もしておらず、関心も持てていなかったので、同意も否定も口にしなかった。
ユイナは配属されてきたときからレンジュも親しくつきあってきていて、どんな女性かは知っている。相手によらずはきはきと物を言う、なかなか負けん気の強い、芯のしっかりした女性だ。アネサの後を継いで世話女頭になるのは確実で、もう何年も前から数十人いる端女たちのリーダー的存在として動いている。
そんな彼女と幼なじみの幸せを祈る気持ちはあるし、祝福もしたが、しかし実のところ、五ヵ月前まではレンジュもハリの気持ちを理解できかねていたのだった。
他人の人生に自分の人生を重ねるということは、いつ死ぬかしれない兵士として生きる以上、罪悪であるような気がするのだ。
自分はいい。男として生まれ、望んで兵士となった以上、駒として扱われて死ぬことになるだろうと納得しているから。
けれどついにそのときがきて、自分はこの世界から消えてしまったというのに誰かの胸に自分という影を残し、その者のそれからの人生に影響を与えてしまうというのはいいこととは思えない。それが愛する者であればなおさらなのではないか――そう思うと、軽々に特定の女性との関係を深める気になれなかった。
恐れていたと言ってもいい。気持ちは理性でどうにかできるものじゃないと心のどこかでわかっていたから、不容易に距離を縮め、親しくなり、心を動かしてしまうのが怖かったのだ。
傷ついても構わない、その覚悟が自分にはない。
ハリは怖くなかったのだろうか? ユイナに惹かれることが。惹かれたからこそ、そのユイナを苦しめることになるかもしれない事を決意することは。今もまた、怖くないのか?
だがそんな心配をよそに、ハリはユイナを自分の生活の一部として受け入れ、彼女のために自分を一部修正し、自分の中に彼女の居場所を作り、そしてそれを居心地の良いものにすることに成功し、二人の生活はもうじき一年を迎えようとしている。1週間ごとに更新されていた賭けの紙はいつの間にか破かれて、誰も、どうせ長く続かないとは口にしなくなった。
互いに同性の友達といるときとは少し違う表情をして、楽しげに一緒にいる――そんな彼等の気持ちを、今なら理解できる気がした。
不安がないわけじゃなく。むしろますます膨らむのを感じながら、それでもそばにいたいのだという気持ち。この気持ちがこの先相手を苦しめることになるかもしれないとおののきながらも、押さえることができない。そして彼女のために一日でも長く生きていたいと強くねがう。一日でも多く彼女といたいとの気持ちが、明日を渇望する力になるのだ。
あの夜を経た今の自分ならわかる。二度と会うことはないと知りながら、それでもいつか、生きてさえいればもしかしたら、あの乙女をもう一度目にすることができるかもしれないとの期待――一筋の糸にすがって自分もまた、こうして生き延びてきたのだから……。
我がことながら、嘆息が出た。
もの悲しいという気持ちがなくもない。ハリと違い、自分のそれは、天空に浮かぶ月に、星に、恋心を抱いているも同然だから。
不甲斐ない、とひとは言うかもしれない。そんなわびしい夢ばかり追わず、もっと身近にいる、温かな血と肉を持つ者を受け入れろと。だがレンジュはその忠告に対する答えを、幾度となく思い切ろうとした日々の末に見つけていた。たとえ二度と会えなくとも、彼女以上に誰かを深く愛することはできないと。
「意外と女々しかったんだな、おれってやつは……」
立ち止まって空を仰ぎ、東の空にうっすらと浮かんだ白月を見ながらこぼれた呟きを、すれ違いざま小耳にはさんだ若者がふり返って小首を傾げる。レンジュは再び足を動かしはじめ、目的の武具店へと続く道に入りながらも、店先に目を配ることなく歩いて行く。
それは、もしかするとマテアの<魂>から少なからず干渉を受けている証かもしれない。レンジュ自身、そうと気付かないくらい、小さな小さな誘導。
レンジュは様々な鎖帷子が並び、騒然としている店先までも素通りし、最短の道で歩を進めていた。
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