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第9章

わが身は地を往き、心は月を想う 2

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 到底言葉として形容しがたい、永遠とも刹那とも思える時間・不可思議な感覚にすべてを飲みこまれ、価値観も生き様も、この世に誕生した瞬間から自分を盲縛してきたしがらみごとこの世の何もかも一切が消失し、世界が彼女と自分だけのように感じられたそのとき。たしかに自分は見たのだ。

 あれは目の錯覚でも、はたまた見間違いでもなかったと、今も信じている。

 彼女の身を包んでいた金の輝きが徐々に彼女の体から離れていき、宙で球体になったと思った瞬間にはもう、それは自分めがけて飛来してきていた。

 たとえ気の半ばを奪われていなくとも、躱わす暇などなかった。矢よりも早くまっすぐ飛んできたそれが目の前で弾け散った刹那、その、世界を覆わんばかりのまばゆい光に身構え、反射的、顔面を庇って出していた腕の下で目を強く閉じあわせる。だがいくら待っても何の衝撃も襲ってこず、周囲に異変も生じなかった。思うに、逃げるために咄嗟に放った幻だったのだろう。光に気を奪われていたわずかな間に、彼女の姿は跡形もなくその場から消え失せていた。よほどあわてていたのだろう、飾り帯を岩の上にとり残して。

 見たこともない織り方をされた、薄絹。表にほどこされた刺繍飾り一つとっても、人の手が加わったことを感じさせない。

 人為らぬものが存在することを受け入れるのは、容易だった。

 彼女がいることを認めることは、すなわちその存在を認めることだ。あれは戦いに継ぐ戦いを送る日々に疲労しきった頭が見せた夢だと単純に思いこみ、彼女との出会いを否定する気にはとてもなれなかった。

 あの数瞬の出会いで、彼女はいとも簡単に、自分の心を奪っていったのだから。
 彼女は、もしかすると伝え語りに出てくる妖精や精霊などといった存在なのかもしれない。幼かった昔、寝物語に聞いた話の中に出てきた、流血をきらい、命が消えるおそろしさにおびえて神のもとへ還ったとされる天の御使いや、人間の男を愛して地に降り立ったものの受け入れてもらえず、光となって還って行った月神の娘。どちらもこの世のものと思えないほど美しかったそうだが、金の髪に銀の瞳ということから、どちらかといえば彼女は月神の娘のイメージに近い。

 月神の乙女。

 あの夜から、その面影を胸に浮かべなかった日は一日たりとなかった。夜がきて、月が天空を行くのを見るたびに、心があの夜へと引きつけられた。

 もう一度。一目でいい、彼女と会いたい。彼女を見つめたい。

 その願いだけが熱く燃えて、明日という日への執着となったのは真実である。彼女との出会いがあったからこそ、三ヵ月前森をはさんで起きた、あの峻烈さを極めた死闘すらどうにか生き抜け、こうして生き残れているのかもしれない。

 感謝すると同時に、しかしそれはひどい仕打ちだと、恨む気持ちも少なからずあった。

 おそらく彼女と会うことは二度とない。

 彼女は自分におびえて逃げたのだ。
 忌みきらい、うとんじて、あれはもう彼女の中では思い出したくもない出来事になってしまっているだろう。人間などに見られてしまったと、恥じているかもしれない。なのにどうして会える?

 もしや忘れた飾り帯を探しに来はしないかと、駐屯中、毎夜滝へ足を運んだりもしたが、やはり彼女は現れなかった。雪から逃げるようにあの地を離れ、そして今日、自分はこの国からも去ろうとしている。この国に戻ってこられるのは早くて来年の夏。春の軍会議でたてられる作戦如何では、再来年ということも十分ありうる。それでたとえ再びこの地を隊が訪れたとしても、それまで自分が生き延びているという保証も、どこにもないのだ……。

 胸によみがえったせつない想いを慰めるように、レンジュはことさら強く荷袋の口紐をしぼった。

 しかたない。戦うことでしかこの世界では生きられないのだから。命じられるままに敵と戦い、生き残ってはじめてその日の糧とわずかの金を得ることができる。
 まさか隊を抜け、独りになることはできない。それは死にしかつながらない。

 埋めなくてはいけないのだ、この想いは。
 そうしなければ生きられない。

 剣を腰にき、荷袋を担ぎ上げる。そうしてレンジュは他の者たちにならい、先で待つ下隊長の元へ向かって歩き出した。
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