23 / 74
第6章
異なる世界、異なる理(ことわり) 4
しおりを挟む
あの男に会って<魂>を返してもらえればいいだけだ、なんて。今さらながら、自分のした考えの甘さに涙がにじんだ。
異なる神によって創造された広大な世界で、誰一人知る者も頼る者もなく、見知らぬ地を目指し、顔もろくに覚えていない一人の男を捜し出す――そんなことがわたしにできるだろうか?
もう五日過ぎた。その間ずっと歩き続けたのに、周囲の景色は変わらない。月光界での四日がこちらでの四ヵ月と少しにあたるのなら『月誕祭』まではまだ十一ヵ月近くある計算になるのであせることはないとはいえ、どこまでいっても雪景色で、生き物の姿一つなくて……。はたしてこの景色が途切れることがあるのだろうか? 明日も明後日も明々後日も、ずうっとこのまま雪原をただ一人歩き続けるだけなのだとしたら…?
(――だめ。今は考えちゃいけない)
熱くなった瞼にマテアは直感的にそう思い、それまでの考えを断ち切るように寝返りを打つ。心の防御が弱まるこのときを狙っていたかのように胸中へすべりこもうとする、不安と孤独を追い払うべく強く首を横に振って、固く固く瞼をとじあわせたとき。
まさにその一刹那に運命は彼女を襲った。
風に負けて開くことのないよう、床との間に布を押しこみ、閉じていた扉が突然押し開けられ、途端どっと強い雪風が吹きこむ。内側の壁に扉が打ちつけられた、バンッという音に重なって、強張った女の声が飛びこんだ。
『た、助けて、誰か……!』
声に遅れて、黒髪の女性がよろよろと小屋へ入ってくる。
戸口によりかかるように両手をついたのは、ぼろぼろの衣服をまとった少女だった。
マテアほど薄着ではなかったが、重ね着したどの布も質が粗悪なのが一目でわかり、安っぽい。なにより、どこもかしこも色褪せて毛羽だち、くたびれきっている。そしてそれをまとった少女の方も、すっかりくたびれてしまっているようだった。
面からも指先からも病的なまでに血の気が失せて、体に積もった雪を払い落とそうとしない。唯一、充血した目だけがぎらぎらしている。
少女は、肩で息をしながら小屋の中を見回し、中にいるのがマテア一人であることを知って、小さく呻いた。風の音が強く、何を口にしたかまではわからなかったけれど、その表情から、絶望に通じるものだとの察しはつく。少女は瞳から急速に光を失い、よろよろとその場に両膝をついた。絶望の後、襲ってきたのは恐怖であったのか。蒼白した面で何事かを呟きながら、倒れこむように伏せってしまう。
はたしてどう対応すればいいのかわからず、すっかりまごついてしまったマテアの前で、風雪の白いカーテンの向こう側から今度はこん棒のような腕がぬうっと現れた。
『こんのアマぁ! こんな所にいやがったな!』
『ひッ……!』
腕は跳ね起きた女の髪を鷲掴みにし、ぐいと引き上げて、真上に迫った顔と顔をつきあわさせる。ごつごつとした頬骨と額を走った鉤裂き傷、三角にとがった顎髭を持つ、壮年の男だ。炭をこすりつけたような色をした肌の中、危険な光を浮かべた目とむきだされた不ぞろいの黄色い歯が、岩のような面をさらにおそろしく醜悪なものにしていた。
『吹雪にまぎれてなら逃げられるとでも思ってやがったのか? ぇえ? うまく逃げきれると思ってやがったのかって訊いてんだよ! 答えねぇか、おらあッ』
『あ…お、ねが――』
鼻先が触れるほど近距離から男の形相を見た少女は見るも哀れなほど震えあがり、涙ながらに口をぱくぱくさせていたが、肝心の声が出ないようだった。男自身、口ではああ言いながらも釈明を聞く気は一切ないらしく、何か言いたげだった少女をさらに恫喝する。
『うるせぇ! このおれさまから逃げようとしやがるたぁ、メスブタのくせにいい度胸だぜ。んなことすりゃどんな目にあうか、わかっててやったんだろうなぁ』
低い、獣が唸るような声だった。口端に浮かんだ歪んだ笑い――そこには、制裁という名目で暴力を与えられることへの喜びがあるのは間違いなかった――が否応なく男の不気味さを増長し、直視できないと少女はぎゅっと瞼を閉じて縮こまる。と、男はいきなり少女を横殴りにした。凍傷を避けるため、毛皮で作られた厚手の手袋をしているとはいえ、少女の頭ほどもある太い腕からくり出された一発で、少女は口と鼻孔から血を流して床にこめかみをぶつける。
『ひっ…、ひいぃっ……!』
『この<とがり髭のゼクロス>さまはな、今だかつてたったの一人も逃亡者を出したことがないってんで有名なんだよ。それが商売ってもんだ。期日までに期待通りの質と数を届けてこそ、はじめて信用ができて次の注文もくる。それはなぁ、てめぇのようなクソ奴隷が邪魔していいもんじゃねぇんだよっ!』
憎々しげに見下ろしていた男は、匍匐して、少しでも自分から逃れようとしている少女の横腹にどかりと蹴りを入れる。少女はあまりの痛みに叫ぶこともできず、腹に手をあてて床を転がった。
『あぅ……あぅうっ……』
激痛に身をよじり、少女は血と涙と唾液まみれの顔を床にすりつけた。顔は赤黒く染まり、手足をひきつらせ、失心寸前だというのに、男は容赦がなかった。顔面を踏みつけようというのか、歩み寄り、少女の頭の上で右足を上げる。それを間一髪で制したのは、新たに小屋へ飛びこんできた男だった。
異なる神によって創造された広大な世界で、誰一人知る者も頼る者もなく、見知らぬ地を目指し、顔もろくに覚えていない一人の男を捜し出す――そんなことがわたしにできるだろうか?
もう五日過ぎた。その間ずっと歩き続けたのに、周囲の景色は変わらない。月光界での四日がこちらでの四ヵ月と少しにあたるのなら『月誕祭』まではまだ十一ヵ月近くある計算になるのであせることはないとはいえ、どこまでいっても雪景色で、生き物の姿一つなくて……。はたしてこの景色が途切れることがあるのだろうか? 明日も明後日も明々後日も、ずうっとこのまま雪原をただ一人歩き続けるだけなのだとしたら…?
(――だめ。今は考えちゃいけない)
熱くなった瞼にマテアは直感的にそう思い、それまでの考えを断ち切るように寝返りを打つ。心の防御が弱まるこのときを狙っていたかのように胸中へすべりこもうとする、不安と孤独を追い払うべく強く首を横に振って、固く固く瞼をとじあわせたとき。
まさにその一刹那に運命は彼女を襲った。
風に負けて開くことのないよう、床との間に布を押しこみ、閉じていた扉が突然押し開けられ、途端どっと強い雪風が吹きこむ。内側の壁に扉が打ちつけられた、バンッという音に重なって、強張った女の声が飛びこんだ。
『た、助けて、誰か……!』
声に遅れて、黒髪の女性がよろよろと小屋へ入ってくる。
戸口によりかかるように両手をついたのは、ぼろぼろの衣服をまとった少女だった。
マテアほど薄着ではなかったが、重ね着したどの布も質が粗悪なのが一目でわかり、安っぽい。なにより、どこもかしこも色褪せて毛羽だち、くたびれきっている。そしてそれをまとった少女の方も、すっかりくたびれてしまっているようだった。
面からも指先からも病的なまでに血の気が失せて、体に積もった雪を払い落とそうとしない。唯一、充血した目だけがぎらぎらしている。
少女は、肩で息をしながら小屋の中を見回し、中にいるのがマテア一人であることを知って、小さく呻いた。風の音が強く、何を口にしたかまではわからなかったけれど、その表情から、絶望に通じるものだとの察しはつく。少女は瞳から急速に光を失い、よろよろとその場に両膝をついた。絶望の後、襲ってきたのは恐怖であったのか。蒼白した面で何事かを呟きながら、倒れこむように伏せってしまう。
はたしてどう対応すればいいのかわからず、すっかりまごついてしまったマテアの前で、風雪の白いカーテンの向こう側から今度はこん棒のような腕がぬうっと現れた。
『こんのアマぁ! こんな所にいやがったな!』
『ひッ……!』
腕は跳ね起きた女の髪を鷲掴みにし、ぐいと引き上げて、真上に迫った顔と顔をつきあわさせる。ごつごつとした頬骨と額を走った鉤裂き傷、三角にとがった顎髭を持つ、壮年の男だ。炭をこすりつけたような色をした肌の中、危険な光を浮かべた目とむきだされた不ぞろいの黄色い歯が、岩のような面をさらにおそろしく醜悪なものにしていた。
『吹雪にまぎれてなら逃げられるとでも思ってやがったのか? ぇえ? うまく逃げきれると思ってやがったのかって訊いてんだよ! 答えねぇか、おらあッ』
『あ…お、ねが――』
鼻先が触れるほど近距離から男の形相を見た少女は見るも哀れなほど震えあがり、涙ながらに口をぱくぱくさせていたが、肝心の声が出ないようだった。男自身、口ではああ言いながらも釈明を聞く気は一切ないらしく、何か言いたげだった少女をさらに恫喝する。
『うるせぇ! このおれさまから逃げようとしやがるたぁ、メスブタのくせにいい度胸だぜ。んなことすりゃどんな目にあうか、わかっててやったんだろうなぁ』
低い、獣が唸るような声だった。口端に浮かんだ歪んだ笑い――そこには、制裁という名目で暴力を与えられることへの喜びがあるのは間違いなかった――が否応なく男の不気味さを増長し、直視できないと少女はぎゅっと瞼を閉じて縮こまる。と、男はいきなり少女を横殴りにした。凍傷を避けるため、毛皮で作られた厚手の手袋をしているとはいえ、少女の頭ほどもある太い腕からくり出された一発で、少女は口と鼻孔から血を流して床にこめかみをぶつける。
『ひっ…、ひいぃっ……!』
『この<とがり髭のゼクロス>さまはな、今だかつてたったの一人も逃亡者を出したことがないってんで有名なんだよ。それが商売ってもんだ。期日までに期待通りの質と数を届けてこそ、はじめて信用ができて次の注文もくる。それはなぁ、てめぇのようなクソ奴隷が邪魔していいもんじゃねぇんだよっ!』
憎々しげに見下ろしていた男は、匍匐して、少しでも自分から逃れようとしている少女の横腹にどかりと蹴りを入れる。少女はあまりの痛みに叫ぶこともできず、腹に手をあてて床を転がった。
『あぅ……あぅうっ……』
激痛に身をよじり、少女は血と涙と唾液まみれの顔を床にすりつけた。顔は赤黒く染まり、手足をひきつらせ、失心寸前だというのに、男は容赦がなかった。顔面を踏みつけようというのか、歩み寄り、少女の頭の上で右足を上げる。それを間一髪で制したのは、新たに小屋へ飛びこんできた男だった。
1
お気に入りに追加
3
あなたにおすすめの小説
小さなことから〜露出〜えみ〜
サイコロ
恋愛
私の露出…
毎日更新していこうと思います
よろしくおねがいします
感想等お待ちしております
取り入れて欲しい内容なども
書いてくださいね
よりみなさんにお近く
考えやすく
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
絶対に間違えないから
mahiro
恋愛
あれは事故だった。
けれど、その場には彼女と仲の悪かった私がおり、日頃の行いの悪さのせいで彼女を階段から突き落とした犯人は私だと誰もが思ったーーー私の初恋であった貴方さえも。
だから、貴方は彼女を失うことになった私を許さず、私を死へ追いやった………はずだった。
何故か私はあのときの記憶を持ったまま6歳の頃の私に戻ってきたのだ。
どうして戻ってこれたのか分からないが、このチャンスを逃すわけにはいかない。
私はもう彼らとは出会わず、日頃の行いの悪さを見直し、平穏な生活を目指す!そう決めたはずなのに...……。
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。
病気になって芸能界から消えたアイドル。退院し、復学先の高校には昔の仕事仲間が居たけれど、彼女は俺だと気付かない
月島日向
ライト文芸
俺、日生遼、本名、竹中祐は2年前に病に倒れた。
人気絶頂だった『Cherry’s』のリーダーをやめた。
2年間の闘病生活に一区切りし、久しぶりに高校に通うことになった。けど、誰も俺の事を元アイドルだとは思わない。薬で細くなった手足。そんな細身の体にアンバランスなムーンフェイス(薬の副作用で顔だけが大きくなる事)
。
誰も俺に気付いてはくれない。そう。
2年間、連絡をくれ続け、俺が無視してきた彼女さえも。
もう、全部どうでもよく感じた。
好きな人に『その気持ちが迷惑だ』と言われたので、姿を消します【完結済み】
皇 翼
恋愛
「正直、貴女のその気持ちは迷惑なのですよ……この場だから言いますが、既に想い人が居るんです。諦めて頂けませんか?」
「っ――――!!」
「賢い貴女の事だ。地位も身分も財力も何もかもが貴女にとっては高嶺の花だと元々分かっていたのでしょう?そんな感情を持っているだけ時間が無駄だと思いませんか?」
クロエの気持ちなどお構いなしに、言葉は続けられる。既に想い人がいる。気持ちが迷惑。諦めろ。時間の無駄。彼は止まらず話し続ける。彼が口を開く度に、まるで弾丸のように心を抉っていった。
******
・執筆時間空けてしまった間に途中過程が気に食わなくなったので、設定などを少し変えて改稿しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる