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第3章
出会いは運命か、それとも破滅のはじまりにすぎないのか 1
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鏡面に指先が触れた次の瞬間、鏡面が逃げるようにへこみ、まるで真上から石を投げ落とした水面のように鏡面から闇が吹き出した。思わず上げた小さな悲鳴ごとマテアを包みこみ、闇は向かい風となって背後に吹き抜ける。強烈な寒気が一瞬全身をなぶり、ぐらりと大きく体が揺れて、天地の感覚が崩れたと思ったときにはもう、うす暗い闇の中で生温かな風に吹かれていた。周囲では今まで見たことのない、白い湯気のようなものがまばらに浮かんで、途切れない強風に流されている。一応見てみたが、足の下には踏みしめられるような固形物はなさそうだ。
たぶん、ここが地上界の空なのだろう。推測をして、マテアはゆっくりと下に向かって降りて行く。やがて、一際濃い白い湯気が草原のようにどこまでも広がっているのが見えた。所々で渦を巻き、風に吹き流される表面が夢の中の光景のように美しい。ほんの少し足をとめ、見惚れた後、そこを突き抜ける。途端、風はさらに鋭さを増して横殴りに吹きつけてきたが、風よりも、その中に含まれた邪気がマテアの喉をつまらせた。
手で鼻と口をおおい、目を細める。
なんて濃い負の気だろう。いたる所で穢れ同士がぶつかりあい、飲みこみ、ひしめきあっている。どこに目を向けても穢れのない所を見つけられない。これが、地上界。
あらためて足下に広がった地表を見下ろし、嘆息をついた。十重二十重とからみあい、黒霧のような穢れに包まれたそこは、まるで幾つも頭を持つ巨大な毒蛇がとぐろを巻いて地表を抱いているようだ。つい先程目にした美しい白湯気の草原と同じ世界の光景とは容易に認められず、マテアは嫌悪に顔をしかめる。
とても人の生きられる場ではないように見えた。こんな所でも生きていられるとしたら、それはサナンの言う通り、相当鈍い神経の持ち主だろう。
正直言って、あんな所には近寄りたくない。だがなぜここにきたのかを思うといつまでもこうしてここから見下ろしているわけにもいかず、マテアは、白い筋のようになって大気にからみついている月光の波動に勇気づけられ、背を押される思いで再び降下をはじめた。
サナンから聞いた、月光を浴びるのに適した場所を探しつつ、なるべく黒霧の層の薄い、まばらな場所を選んで降下する。地表がぐんぐん近付く中、平地でちかちかとまたたく赤い光が密集したのがいくつか見えてきた頃、緑におおわれた森の中に川が流れる場所があり、崖の先端が一部露出しているのが見えた。そこを着地場と決め、降りた。
ここは月光界じゃない。どこに何がひそんでいるとも知れない濃緑の闇へのおそろしさに、全身がわなないた。濃い負の気は今もまとわりつくように彼女の周囲にある。怖くて、心細くて。ベールの端を握りしめ、逃げ戻りたくなる気持ちを必死におさえこんだ。
月光神の姿が見える所を探さなくてはいけないのに、一歩が、踏み出せない。いつまでもここにいてもしかたないのに、とためらっていた彼女の耳に、さわさわと葉擦れの音にまぎれて声が聞こえた。
――月光の乙女、こちらへどうぞ。
――どうぞこちらへ。
さわさわ、さわさわ。葉擦れの音の一部が、声となって聞こえてくるのだ。
「あなたは……?」
――鳥があなたを案内をしてくれます。
――ほら、聞こえるでしょう?
――あれは、あなたを呼んでいるのです。
葉擦れの音は、たしかにそう聞こえる。だがこの見知らぬ地で、はたして信じていいものか。決めかねているマテアを、声はさらに促した。
――月光の乙女よ。さあどうぞ。
――わたしたちは安全です。
――誓ってあなたを傷つけたりはしません。
――さあどうぞ。
風もないのに草葉が揺れる。笑むように枝先を震えて。
優し気な波動を放つ不思議な声の主がこの森の木々であることに気付いたマテアは、思いがけず出会えた味方に少しだけ安堵し、孤独感を薄れさせると、ためらいをふり切るように頭を振って、鳥の声のする方に向かって歩き出した。
岩や枝などで傷を負ったりしないよう、注意を呼びかける木々の指示に従い、鳥のさえずりに導かれてなだらかな斜面を降りた。さらさらと砂がこぼれるような音が下の方からかすかに聞こえてくる。そちらを見てもしげみに隠れてよく見えないが、いきいきとした水の気配は感じとれた。気配の勢いはとどまらず、常に流れていることからおそらく川だと推測した。背高い木々がその腕を存分に伸ばし、からませあってできた隋円形の天井からこぼれて届く月光のおかげで暗いとは思わない。足を踏みはずすのではないかという心配は不要だと、彼女は気にもかけなかった。
はじめに木々の言った通り、森は彼女に好意的で、枝々はこぞってよじるように前を開け、しげみは左右に身をひいて道を作り、落ち葉の下に隠れた小石すら彼女を気遣ってくれているように思えた。そのことにマテアは、この異世界においては自分以外のものはすべておそろしいもので、きっと自分を害するに違いないとばかり思いこんでいたことを恥じる思いでだんだんと周囲に対する警戒心をゆるませていく。さらさらという音はやがてさあさあとなり、ざあざあという強い音となった。
大量の水が高い所から低い所へ落下している音。その出所を探すように進んで行ったマテアがほどなくたどりついたそこは、川の始点である滝壷だった。
たぶん、ここが地上界の空なのだろう。推測をして、マテアはゆっくりと下に向かって降りて行く。やがて、一際濃い白い湯気が草原のようにどこまでも広がっているのが見えた。所々で渦を巻き、風に吹き流される表面が夢の中の光景のように美しい。ほんの少し足をとめ、見惚れた後、そこを突き抜ける。途端、風はさらに鋭さを増して横殴りに吹きつけてきたが、風よりも、その中に含まれた邪気がマテアの喉をつまらせた。
手で鼻と口をおおい、目を細める。
なんて濃い負の気だろう。いたる所で穢れ同士がぶつかりあい、飲みこみ、ひしめきあっている。どこに目を向けても穢れのない所を見つけられない。これが、地上界。
あらためて足下に広がった地表を見下ろし、嘆息をついた。十重二十重とからみあい、黒霧のような穢れに包まれたそこは、まるで幾つも頭を持つ巨大な毒蛇がとぐろを巻いて地表を抱いているようだ。つい先程目にした美しい白湯気の草原と同じ世界の光景とは容易に認められず、マテアは嫌悪に顔をしかめる。
とても人の生きられる場ではないように見えた。こんな所でも生きていられるとしたら、それはサナンの言う通り、相当鈍い神経の持ち主だろう。
正直言って、あんな所には近寄りたくない。だがなぜここにきたのかを思うといつまでもこうしてここから見下ろしているわけにもいかず、マテアは、白い筋のようになって大気にからみついている月光の波動に勇気づけられ、背を押される思いで再び降下をはじめた。
サナンから聞いた、月光を浴びるのに適した場所を探しつつ、なるべく黒霧の層の薄い、まばらな場所を選んで降下する。地表がぐんぐん近付く中、平地でちかちかとまたたく赤い光が密集したのがいくつか見えてきた頃、緑におおわれた森の中に川が流れる場所があり、崖の先端が一部露出しているのが見えた。そこを着地場と決め、降りた。
ここは月光界じゃない。どこに何がひそんでいるとも知れない濃緑の闇へのおそろしさに、全身がわなないた。濃い負の気は今もまとわりつくように彼女の周囲にある。怖くて、心細くて。ベールの端を握りしめ、逃げ戻りたくなる気持ちを必死におさえこんだ。
月光神の姿が見える所を探さなくてはいけないのに、一歩が、踏み出せない。いつまでもここにいてもしかたないのに、とためらっていた彼女の耳に、さわさわと葉擦れの音にまぎれて声が聞こえた。
――月光の乙女、こちらへどうぞ。
――どうぞこちらへ。
さわさわ、さわさわ。葉擦れの音の一部が、声となって聞こえてくるのだ。
「あなたは……?」
――鳥があなたを案内をしてくれます。
――ほら、聞こえるでしょう?
――あれは、あなたを呼んでいるのです。
葉擦れの音は、たしかにそう聞こえる。だがこの見知らぬ地で、はたして信じていいものか。決めかねているマテアを、声はさらに促した。
――月光の乙女よ。さあどうぞ。
――わたしたちは安全です。
――誓ってあなたを傷つけたりはしません。
――さあどうぞ。
風もないのに草葉が揺れる。笑むように枝先を震えて。
優し気な波動を放つ不思議な声の主がこの森の木々であることに気付いたマテアは、思いがけず出会えた味方に少しだけ安堵し、孤独感を薄れさせると、ためらいをふり切るように頭を振って、鳥の声のする方に向かって歩き出した。
岩や枝などで傷を負ったりしないよう、注意を呼びかける木々の指示に従い、鳥のさえずりに導かれてなだらかな斜面を降りた。さらさらと砂がこぼれるような音が下の方からかすかに聞こえてくる。そちらを見てもしげみに隠れてよく見えないが、いきいきとした水の気配は感じとれた。気配の勢いはとどまらず、常に流れていることからおそらく川だと推測した。背高い木々がその腕を存分に伸ばし、からませあってできた隋円形の天井からこぼれて届く月光のおかげで暗いとは思わない。足を踏みはずすのではないかという心配は不要だと、彼女は気にもかけなかった。
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