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第4章 オルダニアの春

第3話 夫婦

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 居城へ戻った彼らを、ご馳走が待っていた。派手な宴とまではいかないが、城のものはみな集まって、飲んで歌って、束の間の宴会を楽しんでいた。イーディスもタイレルも、こうなったらとことん付き合おうと大いに飲み食いしている。

 主席に座らされたリチャードはまだ夢心地で、隣にちょこんと腰掛けた新妻に顔を向けることもできない。視線の端で小さな唇や白い指先を盗み見ては、また皿に目を落とすような情けない始末だった。

 リチャードはついに自分をかえりみて、「失礼」と断って中座することにした。
 浮かれてばかりはいられない。この婚礼話は、瞬く間にオルダニア中に広がるだろう。父とギャランに手紙を、すぐに届けなければならない。

 息苦しい正装を崩しながら客間へ戻ると、用意しておいてもらった紙とつけペンを前に、文机に腰掛けた。

「父へ」

 さっそく筆が止まる。

 そこへ、遠慮がちに扉が叩かれた。

「どうぞ」
 酔っ払ったイーディスがからかいに来たのかと思ったが、違った。

「リチャード様」

 その声は、聖なる巨木の前で聞いたもの。

 振り返ると、ドアに半分身を隠すようにして、イレーネが立っていた。
 互いの遠慮が沈黙を作る。
 リチャードは椅子ごと向きを変えて微笑んで見せた。

「どうされました? 宴は飽きましたか?」

 手招きすると、彼女はおずおずと進み入った。
 部屋をぐるりと見回して、ベッドの縁に浅く腰を下ろす。

「いいえ……、そういうわけでは」
と、俯きがちに答えた。
 リチャードは手紙が書きたかったが、彼女が次に何か言うのを待った。

「リチャード様は、これから城に戻られるのですか?」

 質問に、彼は戸惑った。

「遅かれ早かれ、そうなるでしょう」
「そのとき、私はどうなりますか?」
「どう、というのは?」
「ご一緒できますか?」

 考えもしていなかった。父の元に一度帰ることになったとき、彼女を連れて?

「難しい道のりになる。あなたはここに残ったほうがいいでしょう」
「そうですか……」

 了承した表情には翳りがある。
 何が心配なのか聞こうとして、リチャードはハッと思い至った。
「イレーネ、わかっていると思うが、私は」

「あなたは私の夫です」と、彼女は何かを察してリチャードの言葉を遮った。「私がわかっているのはそれだけで、他には何も必要ありません」

 今までの頼りなげな雰囲気からは一点、毅然と言い放った彼女の目の光に、リチャードは射抜かれた。

 彼女の覚悟は自分のそれよりも強く、深い。

 自分は女で生まれ、イレーネとの間には当然子を授かることはできない。それを注意しようとしたのだが、彼女はとっくにそんなことを了解した上で、さらにリチャードを夫として認めているのだ。

 リチャードは吸い寄せられるように妻の前へ寄った。
 イレーネはリチャードから目を逸らさない。

 彼も同じだった。美しい新妻を正面から捉えて、そっと指を伸ばし、瑞々しいその頬に触れた。はたから見れば彼女も自分も同じ若い女性に違いない。だが、今この部屋には二人きり。いったい誰がリチャードの心に入り込んで邪魔をしようか。

 他に誰もいない。

 誰も、彼をジャッジするものなどいないのだ。いや、本来、人の心を、誰が決めつけることなどできようか。

 リチャードはとっさに、『湖畔の町』で奪われた、イーディスとのキスを思い出した。生まれて初めてのそれは、追っ手を誤魔化すための、突然の、気持ちの伴わないものだった。あまりに瞬間的で、今の今まで記憶の水底に封印されていた。

 しかしこのときのリチャードは、確かな意思を持ってイレーネの頬を両手で包んだ。

 彼女の瞳にも、その予兆がある。リチャードは確信を持って彼女に触れた。彼女もそれを受け入れた。

「リチャード様、私のことはお聞きになったでしょう。私の運命は、生まれる前から決まっておりました。生まれることさえ許されない。あるいは生涯を一人で過ごすか。母は、お腹の中で育まれていく私という命を、天運に任せたのです。『私がこの場で死を望めば、この子は孤独に苦しむことはないでしょう。しかし、この子が孤独を乗り越える術を知っていたとしたら? 私では計り知ることのできないさだめを持って胎内に宿りきたのなら?』母はそう言ったのです。ああ、リチャード様。私は、なんと幸運な女でしょう」

 そう言って、イレーネはリチャードにしがみつき、素肌の背中に爪を立てた。
 翌朝、柔らかいベッドで目を覚ましたリチャードは、はたと何かを思いつくや、まだスヤスヤと寝息を立てる新妻を置いて、素早く服を身につけて部屋を飛び出した。
 そして廊下に出るなり行きあったイーディスに「話したいことがある」と言って腕を取る。

 ところがそれを聞いてイーディスも目を丸くした。
「私もだ。今お前の部屋に行こうと」
と、二の腕を掴み返して部屋に引き戻そうとするのを、リチャードはイレーネを思って押し留めた。

「いや、こっちへ」
と、中庭へ続く廊下の影へ身を潜める。

 リチャードが周囲を窺っている間に、イーディスの方が早く話し始めた。

「昨日から色々と急展開すぎて頭が追いついていなかった。酒を飲んだのも良くなかったかもしれない。とにかく、今朝目が覚めて、窓辺に歌う二羽の小鳥を見ているうちに、妙な考えがよぎったんだ」

 やたらに前置きして、イーディスは疑問を口にした。

「どうして王は、イレーネが身籠るのを禁じたんだ?」

 その疑問は、リチャードを安堵させた。

「イーディス、私も同じことを考えていた。血筋を断つにしては回りくどすぎる」
「リチャード、これは何かがおかしいぞ」

 首筋にゾワゾワと冷たいものが走った。真剣そのものの二人の視線が交差する。こんな時だというのに、リチャードはその瞬間、あのキスを思い出してしまいそうになった。それから、昨晩のことも。

 場違いな気恥ずかしさに目を逸らしたとき、廊下の向こうからタイレルが現れた。

「そこにいたのか。伝言を頼まれてきた。湖の精霊に結婚の報告をする儀式だとさ。支度ができたら向かうと言ってたぞ」

 ただならぬ二人の空気を読まない男は、手にしたリンゴを頬張った。

「朝メシまだだろ? こんな山ん中でって思ったけど、案外豊富だぞ」
と、着いてこいよと言わんばかりに身を翻す。

 後に続こうとしたイーディスの前腕を、リチャードが掴んだ。「もうひとつ」と、声を落として。
「私には、話さねばならないことがある。今すぐに」

 魔法使いは察してタイレルの背中に言葉を投げた。

「先に行っててくれ。着替えてから向かう」

 振り返らずに手を振るタイレルを見送って、イーディスはニヤリと笑った。

「あなたの部屋で話しますか? イレーネ様を起こさないといけませんね」

 気づかれていたのか。
 リチャードは途端に真っ赤になった。
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