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第3章 イーディスとモーラ
第2話 歌が聞こえる
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気がつけば、イーディスは冷たい石に囲まれていた。
あたふたと周囲を確認しようとして、両手が後ろで拘束されていること、口には布がかまされていることを知って、絶望した。
くそ、くそ、くそ!
荒い息遣いに、布の隙間から「ふー、ふー」と声が漏れる。
その気配で、牢屋番がペタペタと足音をさせて近づいてきた。長年の地下暮らしで手足も目も退化したと見られる、醜悪そのものの小男だった。まるでハーラの悪心を具現化させたようである。
「無駄だよ。無駄。魔法使いは言葉で精霊を操るんだろ? お前の口は塞がれてるよ、お嬢さん」
気持ちで負けたらおしまいだ。イーディスは小男を真正面から見据えて睨みつけた。
男は嬉しそうに笑っている。
「ぐふ。ぐふふ。いいねぇ。そんなふうに見つめられたら、俺は気分がよくなるんだ。ああ、でもいけない。いけないよ。ハーラ様に厳命されているんだ。あんたに手を出しちゃいけないって。ちくしょう。わかってる。わかってるよ」
男は頭がどうかしているのか、床に向かって悪態をついて、それからまた鉄格子越しにイーディスを眺め回した。
「ああ、いいなぁ。本当はね、俺はあんたみたいな若い女で遊ぶのが一番好きなんだ。女はいいよ。頑張って、頑張って、最後に諦める、あの瞬間がいいんだ。ガラス玉みたいな綺麗な瞳から希望が消えて、絶望に変わるとき……。うるさいな!」
と、男はいきなり床に怒鳴った。
「わかってるよ。手出ししないさ。でも、見てみろよ」
小男は引き寄せられるように二歩前に出て、イーディスを視線で舐めまわした。
「綺麗だなぁ……。あんたみたいな美人を見るのは久しぶりだよ。だいたい男ばっかり運ばれてくるから、嫌になる。まぁいいんだ。男は頑丈だから、長く遊べる。だけど、あんたは……」
イーディスは体を這い回る視線に耐えた。
男は今にも手を伸ばしてきそうだったが、主人の命令には絶対服従とみえ、すんでのところで自制心を取り戻した。
「見ない。俺はあんたを見ないぞ。見ているうちに、おかしくなりそうだ。まったく。だから魔女だとか魔法使いって連中は嫌なんだ。俺はもう寝る」
小男が去っていくと同時に松明も消され、辺りは真っ暗になった。
それと同時に、あっちからもこっちからも、低い呻き声が聞こえてくる。
いったいどれほど囚われた者がいるのだろうか。闇に目を凝らそうとして、イーディスはやめた。恐ろしくなったのだ。
呻き声は暗闇の中で岩に反響し、わずかに自由になる感覚である耳からイーディスを苛んだ。それからにおいだ。血と汚物の混ざった、胃がひっくり返るようなにおいが染みついている。
いるだけでおかしくなりそうな地下牢だった。
イーディスは体からなるべく力を抜くように試みた。
これでも自分は「賓客」らしい。食事くらいは与えられるだろうが、それを無駄に消耗できない。こんな状況下でも落ち着くのだ。
そう言い聞かせる。
眠れるときには眠ろう。
イーディスは体を横にして硬く冷たい石の上に寝そべり、無理やり目を閉じた。
ああ、なぜ。なぜこんなことになった。
父はなぜこんな仕打ちをする。
いいや。
彼だって悪魔ではない。願い出たのは「娘を捕まえておいてくれ」程度だろう。それを、あのサディストの化け物が曲解したのだ。
しかしイーディスは自分を憐れまなかった。憐れなのはここに閉じ込められ、痛めつけられている捕虜や罪人とされている人々。それから、こんなことに取り憑かれているハーラやその臣従たちと、あの牢屋番の小男だ。
いつの間にか、イーディスはウトウトしてきた。熟睡は不可能だろう。いっとき体が休まるだけでいい。
やがて意識と無意識の間をたゆたう、そのときだった。
イーディスの耳に、不思議な歌が届いたのだ。
静かで、優しい、ゆったりとしたそれは、まるで母が腕に抱いた子をあやす鼻歌のようで、真綿のようにイーディスを包み込んだ。
暖かい。
苦しみがスッと引いていき、イーディスは深い眠りの中に落とされた。
ハッと目が覚めると、自分の置かれた状況は変わっておらず、窓もない地下牢では一体どのくらい時間が経ったのかも分からなかったが、全身の痛みが軽減されているのを感じた。
イーディスは魔法使いだからわかった。それが魔術の類の効能だということを。
本当の彼女の苦しみは、それからだった。
きっとひと晩経って、朝になったということなのだろう。例の小男と他にも番人らしい男たちがやってきて、いくつかの牢を開閉させ、咎人を引き摺り出すと、壁に縛り直して、鞭を打ち始めたのだ。
彼らは手遊びに興じているようだったが、打たれる男の悲鳴、呻き声、懇願、それらが狭い廊の中に響き渡る。
そんな中で、次々と残飯が放り込まれるのだ。食わなければ死ぬが、飢えて死んだほうがマシかもしれない。
イーディスの独房にはかろうじて温かい食事が届けられた。食べる時だけ口と手の枷が外されたが、屈強な男二人がかりで見張られ、到底抜け出せそうになかった。
罠ではないかと勘繰ったが、少し口に入れてみて、杞憂だと分かった。
それからまた、鞭が人を打つ音、悲鳴、鎖が引きずられる音、呻き声、断末魔、番人の怒号。それらが一日中繰り返され、加虐者たちは楽しみを終えて去っていった。
ひとときも気の休まらない一日が終わり、また牢全体が暗黒に沈む。
やっと息ができる。
イーディスがそう思ったときだった。
また、あの歌が聞こえたのだ。
我に返って耳を澄ますと、岩間にあるのは低い呻き声だけ。
(誰だ——……?)
と、イーディスは心の中で聞いた。
すると、歌が止まった。その途端、気配も遠くなっていく。
(待って! 私は敵じゃない! イーディスだ——……)
思わず名乗ると、遠ざかろうとした影が振り向いた——気がした。
(私は——……)
と、ついに返事があった。なんと、鈴を転がしたような、女性の美しい声だった。
あたふたと周囲を確認しようとして、両手が後ろで拘束されていること、口には布がかまされていることを知って、絶望した。
くそ、くそ、くそ!
荒い息遣いに、布の隙間から「ふー、ふー」と声が漏れる。
その気配で、牢屋番がペタペタと足音をさせて近づいてきた。長年の地下暮らしで手足も目も退化したと見られる、醜悪そのものの小男だった。まるでハーラの悪心を具現化させたようである。
「無駄だよ。無駄。魔法使いは言葉で精霊を操るんだろ? お前の口は塞がれてるよ、お嬢さん」
気持ちで負けたらおしまいだ。イーディスは小男を真正面から見据えて睨みつけた。
男は嬉しそうに笑っている。
「ぐふ。ぐふふ。いいねぇ。そんなふうに見つめられたら、俺は気分がよくなるんだ。ああ、でもいけない。いけないよ。ハーラ様に厳命されているんだ。あんたに手を出しちゃいけないって。ちくしょう。わかってる。わかってるよ」
男は頭がどうかしているのか、床に向かって悪態をついて、それからまた鉄格子越しにイーディスを眺め回した。
「ああ、いいなぁ。本当はね、俺はあんたみたいな若い女で遊ぶのが一番好きなんだ。女はいいよ。頑張って、頑張って、最後に諦める、あの瞬間がいいんだ。ガラス玉みたいな綺麗な瞳から希望が消えて、絶望に変わるとき……。うるさいな!」
と、男はいきなり床に怒鳴った。
「わかってるよ。手出ししないさ。でも、見てみろよ」
小男は引き寄せられるように二歩前に出て、イーディスを視線で舐めまわした。
「綺麗だなぁ……。あんたみたいな美人を見るのは久しぶりだよ。だいたい男ばっかり運ばれてくるから、嫌になる。まぁいいんだ。男は頑丈だから、長く遊べる。だけど、あんたは……」
イーディスは体を這い回る視線に耐えた。
男は今にも手を伸ばしてきそうだったが、主人の命令には絶対服従とみえ、すんでのところで自制心を取り戻した。
「見ない。俺はあんたを見ないぞ。見ているうちに、おかしくなりそうだ。まったく。だから魔女だとか魔法使いって連中は嫌なんだ。俺はもう寝る」
小男が去っていくと同時に松明も消され、辺りは真っ暗になった。
それと同時に、あっちからもこっちからも、低い呻き声が聞こえてくる。
いったいどれほど囚われた者がいるのだろうか。闇に目を凝らそうとして、イーディスはやめた。恐ろしくなったのだ。
呻き声は暗闇の中で岩に反響し、わずかに自由になる感覚である耳からイーディスを苛んだ。それからにおいだ。血と汚物の混ざった、胃がひっくり返るようなにおいが染みついている。
いるだけでおかしくなりそうな地下牢だった。
イーディスは体からなるべく力を抜くように試みた。
これでも自分は「賓客」らしい。食事くらいは与えられるだろうが、それを無駄に消耗できない。こんな状況下でも落ち着くのだ。
そう言い聞かせる。
眠れるときには眠ろう。
イーディスは体を横にして硬く冷たい石の上に寝そべり、無理やり目を閉じた。
ああ、なぜ。なぜこんなことになった。
父はなぜこんな仕打ちをする。
いいや。
彼だって悪魔ではない。願い出たのは「娘を捕まえておいてくれ」程度だろう。それを、あのサディストの化け物が曲解したのだ。
しかしイーディスは自分を憐れまなかった。憐れなのはここに閉じ込められ、痛めつけられている捕虜や罪人とされている人々。それから、こんなことに取り憑かれているハーラやその臣従たちと、あの牢屋番の小男だ。
いつの間にか、イーディスはウトウトしてきた。熟睡は不可能だろう。いっとき体が休まるだけでいい。
やがて意識と無意識の間をたゆたう、そのときだった。
イーディスの耳に、不思議な歌が届いたのだ。
静かで、優しい、ゆったりとしたそれは、まるで母が腕に抱いた子をあやす鼻歌のようで、真綿のようにイーディスを包み込んだ。
暖かい。
苦しみがスッと引いていき、イーディスは深い眠りの中に落とされた。
ハッと目が覚めると、自分の置かれた状況は変わっておらず、窓もない地下牢では一体どのくらい時間が経ったのかも分からなかったが、全身の痛みが軽減されているのを感じた。
イーディスは魔法使いだからわかった。それが魔術の類の効能だということを。
本当の彼女の苦しみは、それからだった。
きっとひと晩経って、朝になったということなのだろう。例の小男と他にも番人らしい男たちがやってきて、いくつかの牢を開閉させ、咎人を引き摺り出すと、壁に縛り直して、鞭を打ち始めたのだ。
彼らは手遊びに興じているようだったが、打たれる男の悲鳴、呻き声、懇願、それらが狭い廊の中に響き渡る。
そんな中で、次々と残飯が放り込まれるのだ。食わなければ死ぬが、飢えて死んだほうがマシかもしれない。
イーディスの独房にはかろうじて温かい食事が届けられた。食べる時だけ口と手の枷が外されたが、屈強な男二人がかりで見張られ、到底抜け出せそうになかった。
罠ではないかと勘繰ったが、少し口に入れてみて、杞憂だと分かった。
それからまた、鞭が人を打つ音、悲鳴、鎖が引きずられる音、呻き声、断末魔、番人の怒号。それらが一日中繰り返され、加虐者たちは楽しみを終えて去っていった。
ひとときも気の休まらない一日が終わり、また牢全体が暗黒に沈む。
やっと息ができる。
イーディスがそう思ったときだった。
また、あの歌が聞こえたのだ。
我に返って耳を澄ますと、岩間にあるのは低い呻き声だけ。
(誰だ——……?)
と、イーディスは心の中で聞いた。
すると、歌が止まった。その途端、気配も遠くなっていく。
(待って! 私は敵じゃない! イーディスだ——……)
思わず名乗ると、遠ざかろうとした影が振り向いた——気がした。
(私は——……)
と、ついに返事があった。なんと、鈴を転がしたような、女性の美しい声だった。
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