24 / 60
第2章 ガスとリチャード
第9話 生きるためには
しおりを挟む
「これからどうするのだ?」
不安や寂寥感を振り落とすように、リチャードはガスに尋ねた。
彼に連れられ急ぎ足に町を歩きながら、ここで暮らすのもよさそうだと思った。
戦禍を逃れた自由貿易都市なのだと聞いたことがある。どの通りにも精気に満ちた人々の顔があって、空気が暖かなオレンジ色に包まれている。南風が心地よい。
ここにはまだ、冬は到達していないようだ。『東の鉄壁城』にも、かつてはこんな季節があった。リチャードが、まだ何も恐れることなく、やがて自分も父や兄のようになるのだと信じていた頃のことだ。
ここで暮らすことになるのなら、どんな仕事をしよう。船着場で何か商売をするのもいいかもしれない。船が好きになった。
だが、ガスは前を見たまま言い切った。
「小舟を雇って川に出ます」
「なんだと?」
「町の境に『竜の大河』があります。そこから『神吹の湖』を目指します」
それを聞いたリチャードの顔が、あまりにも悲壮なものだったのだろう。ガスは立ち止まって頭を下げた。
「申し訳ありません。まだ辛抱していただかなければなりません」
「どのくらいだ?」
「『神吹の湖』からは陸路を取ります。夜通し西に向かい、『跳ね馬山』に拠点を置く『獣人討伐隊』に身を寄せ『滅びの山脈』に入り、隊を離れてさらに西へ。あとは隊の日程次第ですが、七日以内には山に入れるでしょう。そこには我々とはまったく異なる暮らしをしている民族がいます。『グウ族』といいます。彼らは『寺院』と呼ばれる教会を山の中に建て、山の神々を敬いながら、山羊や羊を飼って暮らしています。いくつかの族があり、ある一つの族長に手紙を送っています。彼らが我々を迎え、新しい暮らしを用意してくれます」
リチャードは言葉を失った。
おそらく真っ青になっていたことだろう。指先が冷たくなるのを感じる。
「西の……、果てに行くのか……? オルダニアを、出るということか?」
「そのとおりです」
ガスは足元へ視線を外した。
「なぜ黙っていた!」と、リチャードは思わず従者をなじった。「西の果てだと? オルダニアを出るだと?」
先に言えば反対したことは間違いない。リチャード自身も、自分の反応は想像できた。
「リチャード様。今やエドワード王の力はオルダニア全土に渡っています」と、ガスは声の調子を落として続けた。行き交う人々は彼らの用事にしか目がいっていないが、このまま騒いで注目を浴びたくない。「どこへ逃げても見つかります。ならば、オルダニアを離れるしかない。それが、新しい生き方をするということなのです」
「私が男として生きるためには、そこまでしなければならないのか」
「ご身分です。リチャード様。どうかご理解を」
ぐらりと世界が脆く崩れた。
ガスはリチャードを抱き止めたが、優しい言葉はかけなかった。
「日暮までに『神吹の湖』へ辿り着かなければなりません。舟に乗れば少し休めます。急ぎましょう」
「ここで休むわけにはいかないか? せめて夜まで」
ガスは毅然として首を振った。
「夜になると舟は出ません」
「本当に、これでよかったのか?」
リチャードは根底的な問いかけをした。
ガスの眉が曇る。
「何をおっしゃいますか?」と、彼はリチャードの肩を抱え、引きずるようにして前へ進み始めた。
「後悔されているのですか? もう? たかが丸一日、快適な城を離れて船旅をしたくらいで? それではごっこ遊びと同じこと。あなた様のお覚悟は、その程度だったのですか? リシェル」
「その名で呼ぶな」
強がってみせても、リチャードの足はもつれている。
「なにがごっこ遊びだ。ふざけるな。私は、私はただ……」
疲れただけだ。少しだけ、休みたいと思っただけだ。一気にそんな長旅になるとは思わなかったのだ。最初に言ってくれれば、馬に乗ったとき、あんなにはしゃがないでいただろう。それともガスを止めただろうか。部屋にかんぬきをかけ、窓から彼を呼ぶことも、しなかっただろうか。エドワード王家へ、嫁入りしただろうか。
一歩進むごとに頭は割れんばかりに痛み、胃がひっくり返りそうだった。
ガスは口調を改めた。彼も必死だったのだ。
「リチャード様、どうかご無礼をお許しください。しかし進まねばならないのです。夜が更けてはならないのです。今朝あなた様がおっしゃったとおり、『竜の大河』には夜になると大蛇が出ます」
「伝説上の……生き物……だろう?」
「わかりません。どのみち河川域の連中は、それを信じています。だから夜間に舟で移動する者はいません。乗ってお休みください。私がお守りします」
町はもちろん『古代の壁』に覆われていた。最近修理が入ったと見えて、ところどころに大掛かりな補修跡が見えたが、リチャードはそれを視認する気力もない。
ガスの目指す船着場は町の外だったが、城門は大きく開いていて、貿易の町は出入りも自由だった。彼が海路を選んだのは、このためかと冴えない頭で思った。いったん船に乗ってしまえば長距離を移動できるし、『黄金の港町』は出入りに苦労しない。これが陸路であれば、町を通るたびに身分を改められる可能性がある。
不案内な西の山脈へ分け入っていくのなら、討伐隊とやらに加入するのが最良の方法なのだろう。人手が足りなくて募集しているとか、身分を偽って加わることができるのだろう。そのためには『跳ね馬山』へ行かねばならず、『黄金の港町』から一番早く到達するためには川舟を使って『竜の大河』から『神吹の湖』へ。
「一直線に『東の鉄壁城』から『神吹の湖』へ向かったとしても、同程度の時間がかかったと思います。ミランダ商会の船を利用したのは、意外性です。お父上も、ここまで大掛かりな逃亡をしているとは思いますまい」
耳元で語るガスの声には、めずらしく、誇らしげな調子が混ざっていた。
川に着いた。
海と見紛うほど広い。
川岸に小舟を並べて、数人の男が煙草をふかしながら話していた。
ガスが近づくと、一人を除いて全員が目を背けて、そっと去って行った。その一人も、いかにも面倒くさそうな顔で、手元の縄を結いながら答えている。
リチャードは川縁に座って、ぼんやりとそれを眺めていた。
夕焼けが眩しい。気がつけば、周りにも同じように荷物を持って、途方に暮れた連中がいる。交渉に失敗したのだろうか。
船頭がリチャードを見やった。何かが気に食わないのか、もう働きたくないと言うのか、徹底的に難癖をつけてやろうという構えだった。
不安や寂寥感を振り落とすように、リチャードはガスに尋ねた。
彼に連れられ急ぎ足に町を歩きながら、ここで暮らすのもよさそうだと思った。
戦禍を逃れた自由貿易都市なのだと聞いたことがある。どの通りにも精気に満ちた人々の顔があって、空気が暖かなオレンジ色に包まれている。南風が心地よい。
ここにはまだ、冬は到達していないようだ。『東の鉄壁城』にも、かつてはこんな季節があった。リチャードが、まだ何も恐れることなく、やがて自分も父や兄のようになるのだと信じていた頃のことだ。
ここで暮らすことになるのなら、どんな仕事をしよう。船着場で何か商売をするのもいいかもしれない。船が好きになった。
だが、ガスは前を見たまま言い切った。
「小舟を雇って川に出ます」
「なんだと?」
「町の境に『竜の大河』があります。そこから『神吹の湖』を目指します」
それを聞いたリチャードの顔が、あまりにも悲壮なものだったのだろう。ガスは立ち止まって頭を下げた。
「申し訳ありません。まだ辛抱していただかなければなりません」
「どのくらいだ?」
「『神吹の湖』からは陸路を取ります。夜通し西に向かい、『跳ね馬山』に拠点を置く『獣人討伐隊』に身を寄せ『滅びの山脈』に入り、隊を離れてさらに西へ。あとは隊の日程次第ですが、七日以内には山に入れるでしょう。そこには我々とはまったく異なる暮らしをしている民族がいます。『グウ族』といいます。彼らは『寺院』と呼ばれる教会を山の中に建て、山の神々を敬いながら、山羊や羊を飼って暮らしています。いくつかの族があり、ある一つの族長に手紙を送っています。彼らが我々を迎え、新しい暮らしを用意してくれます」
リチャードは言葉を失った。
おそらく真っ青になっていたことだろう。指先が冷たくなるのを感じる。
「西の……、果てに行くのか……? オルダニアを、出るということか?」
「そのとおりです」
ガスは足元へ視線を外した。
「なぜ黙っていた!」と、リチャードは思わず従者をなじった。「西の果てだと? オルダニアを出るだと?」
先に言えば反対したことは間違いない。リチャード自身も、自分の反応は想像できた。
「リチャード様。今やエドワード王の力はオルダニア全土に渡っています」と、ガスは声の調子を落として続けた。行き交う人々は彼らの用事にしか目がいっていないが、このまま騒いで注目を浴びたくない。「どこへ逃げても見つかります。ならば、オルダニアを離れるしかない。それが、新しい生き方をするということなのです」
「私が男として生きるためには、そこまでしなければならないのか」
「ご身分です。リチャード様。どうかご理解を」
ぐらりと世界が脆く崩れた。
ガスはリチャードを抱き止めたが、優しい言葉はかけなかった。
「日暮までに『神吹の湖』へ辿り着かなければなりません。舟に乗れば少し休めます。急ぎましょう」
「ここで休むわけにはいかないか? せめて夜まで」
ガスは毅然として首を振った。
「夜になると舟は出ません」
「本当に、これでよかったのか?」
リチャードは根底的な問いかけをした。
ガスの眉が曇る。
「何をおっしゃいますか?」と、彼はリチャードの肩を抱え、引きずるようにして前へ進み始めた。
「後悔されているのですか? もう? たかが丸一日、快適な城を離れて船旅をしたくらいで? それではごっこ遊びと同じこと。あなた様のお覚悟は、その程度だったのですか? リシェル」
「その名で呼ぶな」
強がってみせても、リチャードの足はもつれている。
「なにがごっこ遊びだ。ふざけるな。私は、私はただ……」
疲れただけだ。少しだけ、休みたいと思っただけだ。一気にそんな長旅になるとは思わなかったのだ。最初に言ってくれれば、馬に乗ったとき、あんなにはしゃがないでいただろう。それともガスを止めただろうか。部屋にかんぬきをかけ、窓から彼を呼ぶことも、しなかっただろうか。エドワード王家へ、嫁入りしただろうか。
一歩進むごとに頭は割れんばかりに痛み、胃がひっくり返りそうだった。
ガスは口調を改めた。彼も必死だったのだ。
「リチャード様、どうかご無礼をお許しください。しかし進まねばならないのです。夜が更けてはならないのです。今朝あなた様がおっしゃったとおり、『竜の大河』には夜になると大蛇が出ます」
「伝説上の……生き物……だろう?」
「わかりません。どのみち河川域の連中は、それを信じています。だから夜間に舟で移動する者はいません。乗ってお休みください。私がお守りします」
町はもちろん『古代の壁』に覆われていた。最近修理が入ったと見えて、ところどころに大掛かりな補修跡が見えたが、リチャードはそれを視認する気力もない。
ガスの目指す船着場は町の外だったが、城門は大きく開いていて、貿易の町は出入りも自由だった。彼が海路を選んだのは、このためかと冴えない頭で思った。いったん船に乗ってしまえば長距離を移動できるし、『黄金の港町』は出入りに苦労しない。これが陸路であれば、町を通るたびに身分を改められる可能性がある。
不案内な西の山脈へ分け入っていくのなら、討伐隊とやらに加入するのが最良の方法なのだろう。人手が足りなくて募集しているとか、身分を偽って加わることができるのだろう。そのためには『跳ね馬山』へ行かねばならず、『黄金の港町』から一番早く到達するためには川舟を使って『竜の大河』から『神吹の湖』へ。
「一直線に『東の鉄壁城』から『神吹の湖』へ向かったとしても、同程度の時間がかかったと思います。ミランダ商会の船を利用したのは、意外性です。お父上も、ここまで大掛かりな逃亡をしているとは思いますまい」
耳元で語るガスの声には、めずらしく、誇らしげな調子が混ざっていた。
川に着いた。
海と見紛うほど広い。
川岸に小舟を並べて、数人の男が煙草をふかしながら話していた。
ガスが近づくと、一人を除いて全員が目を背けて、そっと去って行った。その一人も、いかにも面倒くさそうな顔で、手元の縄を結いながら答えている。
リチャードは川縁に座って、ぼんやりとそれを眺めていた。
夕焼けが眩しい。気がつけば、周りにも同じように荷物を持って、途方に暮れた連中がいる。交渉に失敗したのだろうか。
船頭がリチャードを見やった。何かが気に食わないのか、もう働きたくないと言うのか、徹底的に難癖をつけてやろうという構えだった。
0
お気に入りに追加
6
あなたにおすすめの小説
何を間違った?【完結済】
maruko
恋愛
私は長年の婚約者に婚約破棄を言い渡す。
彼女とは1年前から連絡が途絶えてしまっていた。
今真実を聞いて⋯⋯。
愚かな私の後悔の話
※作者の妄想の産物です
他サイトでも投稿しております
愚かな父にサヨナラと《完結》
アーエル
ファンタジー
「フラン。お前の方が年上なのだから、妹のために我慢しなさい」
父の言葉は最後の一線を越えてしまった。
その言葉が、続く悲劇を招く結果となったけど・・・
悲劇の本当の始まりはもっと昔から。
言えることはただひとつ
私の幸せに貴方はいりません
✈他社にも同時公開
【完結】亡き冷遇妃がのこしたもの〜王の後悔〜
なか
恋愛
「セレリナ妃が、自死されました」
静寂をかき消す、衛兵の報告。
瞬間、周囲の視線がたった一人に注がれる。
コリウス王国の国王––レオン・コリウス。
彼は正妃セレリナの死を告げる報告に、ただ一言呟く。
「構わん」……と。
周囲から突き刺さるような睨みを受けても、彼は気にしない。
これは……彼が望んだ結末であるからだ。
しかし彼は知らない。
この日を境にセレリナが残したものを知り、後悔に苛まれていくことを。
王妃セレリナ。
彼女に消えて欲しかったのは……
いったい誰か?
◇◇◇
序盤はシリアスです。
楽しんでいただけるとうれしいです。
最愛の側妃だけを愛する旦那様、あなたの愛は要りません
abang
恋愛
私の旦那様は七人の側妃を持つ、巷でも噂の好色王。
後宮はいつでも女の戦いが絶えない。
安心して眠ることもできない後宮に、他の妃の所にばかり通う皇帝である夫。
「どうして、この人を愛していたのかしら?」
ずっと静観していた皇后の心は冷めてしまいう。
それなのに皇帝は急に皇后に興味を向けて……!?
「あの人に興味はありません。勝手になさい!」
婚約者の浮気相手が子を授かったので
澤谷弥(さわたに わたる)
恋愛
ファンヌはリヴァス王国王太子クラウスの婚約者である。
ある日、クラウスが想いを寄せている女性――アデラが子を授かったと言う。
アデラと一緒になりたいクラウスは、ファンヌに婚約解消を迫る。
ファンヌはそれを受け入れ、さっさと手続きを済ませてしまった。
自由になった彼女は学校へと戻り、大好きな薬草や茶葉の『研究』に没頭する予定だった。
しかし、師であるエルランドが学校を辞めて自国へ戻ると言い出す。
彼は自然豊かな国ベロテニア王国の出身であった。
ベロテニア王国は、薬草や茶葉の生育に力を入れているし、何よりも獣人の血を引く者も数多くいるという魅力的な国である。
まだまだエルランドと共に茶葉や薬草の『研究』を続けたいファンヌは、エルランドと共にベロテニア王国へと向かうのだが――。
※表紙イラストはタイトルから「お絵描きばりぐっどくん」に作成してもらいました。
※完結しました
王が気づいたのはあれから十年後
基本二度寝
恋愛
王太子は妃の肩を抱き、反対の手には息子の手を握る。
妃はまだ小さい娘を抱えて、夫に寄り添っていた。
仲睦まじいその王族家族の姿は、国民にも評判がよかった。
側室を取ることもなく、子に恵まれた王家。
王太子は妃を優しく見つめ、妃も王太子を愛しく見つめ返す。
王太子は今日、父から王の座を譲り受けた。
新たな国王の誕生だった。
【完結】私だけが知らない
綾雅(りょうが)祝!コミカライズ
ファンタジー
目が覚めたら何も覚えていなかった。父と兄を名乗る二人は泣きながら謝る。痩せ細った体、痣が残る肌、誰もが過保護に私を気遣う。けれど、誰もが何が起きたのかを語らなかった。
優しい家族、ぬるま湯のような生活、穏やかに過ぎていく日常……その陰で、人々は己の犯した罪を隠しつつ微笑む。私を守るため、そう言いながら真実から遠ざけた。
やがて、すべてを知った私は――ひとつの決断をする。
記憶喪失から始まる物語。冤罪で殺されかけた私は蘇り、陥れようとした者は断罪される。優しい嘘に隠された真実が徐々に明らかになっていく。
【同時掲載】 小説家になろう、アルファポリス、カクヨム、エブリスタ
2023/12/20……小説家になろう 日間、ファンタジー 27位
2023/12/19……番外編完結
2023/12/11……本編完結(番外編、12/12)
2023/08/27……エブリスタ ファンタジートレンド 1位
2023/08/26……カテゴリー変更「恋愛」⇒「ファンタジー」
2023/08/25……アルファポリス HOT女性向け 13位
2023/08/22……小説家になろう 異世界恋愛、日間 22位
2023/08/21……カクヨム 恋愛週間 17位
2023/08/16……カクヨム 恋愛日間 12位
2023/08/14……連載開始
【完結】え、別れましょう?
須木 水夏
恋愛
「実は他に好きな人が出来て」
「は?え?別れましょう?」
何言ってんだこいつ、とアリエットは目を瞬かせながらも。まあこちらも好きな訳では無いし都合がいいわ、と長年の婚約者(腐れ縁)だったディオルにお別れを申し出た。
ところがその出来事の裏側にはある双子が絡んでいて…?
だる絡みをしてくる美しい双子の兄妹(?)と、のんびりかつ冷静なアリエットのお話。
※毎度ですが空想であり、架空のお話です。史実に全く関係ありません。
ヨーロッパの雰囲気出してますが、別物です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる