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第2章 ガスとリチャード

第9話 生きるためには

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「これからどうするのだ?」

 不安や寂寥感を振り落とすように、リチャードはガスに尋ねた。

 彼に連れられ急ぎ足に町を歩きながら、ここで暮らすのもよさそうだと思った。

 戦禍を逃れた自由貿易都市なのだと聞いたことがある。どの通りにも精気に満ちた人々の顔があって、空気が暖かなオレンジ色に包まれている。南風が心地よい。

 ここにはまだ、冬は到達していないようだ。『東の鉄壁城』にも、かつてはこんな季節があった。リチャードが、まだ何も恐れることなく、やがて自分も父や兄のようになるのだと信じていた頃のことだ。

 ここで暮らすことになるのなら、どんな仕事をしよう。船着場で何か商売をするのもいいかもしれない。船が好きになった。

 だが、ガスは前を見たまま言い切った。

「小舟を雇って川に出ます」
「なんだと?」
「町の境に『竜の大河』があります。そこから『神吹の湖』を目指します」

 それを聞いたリチャードの顔が、あまりにも悲壮なものだったのだろう。ガスは立ち止まって頭を下げた。

「申し訳ありません。まだ辛抱していただかなければなりません」
「どのくらいだ?」
「『神吹の湖』からは陸路を取ります。夜通し西に向かい、『跳ね馬山』に拠点を置く『獣人討伐隊』に身を寄せ『滅びの山脈』に入り、隊を離れてさらに西へ。あとは隊の日程次第ですが、七日以内には山に入れるでしょう。そこには我々とはまったく異なる暮らしをしている民族がいます。『グウ族』といいます。彼らは『寺院』と呼ばれる教会を山の中に建て、山の神々を敬いながら、山羊や羊を飼って暮らしています。いくつかの族があり、ある一つの族長に手紙を送っています。彼らが我々を迎え、新しい暮らしを用意してくれます」

 リチャードは言葉を失った。
 おそらく真っ青になっていたことだろう。指先が冷たくなるのを感じる。

「西の……、果てに行くのか……? オルダニアを、出るということか?」
「そのとおりです」

 ガスは足元へ視線を外した。

「なぜ黙っていた!」と、リチャードは思わず従者をなじった。「西の果てだと? オルダニアを出るだと?」

 先に言えば反対したことは間違いない。リチャード自身も、自分の反応は想像できた。

「リチャード様。今やエドワード王の力はオルダニア全土に渡っています」と、ガスは声の調子を落として続けた。行き交う人々は彼らの用事にしか目がいっていないが、このまま騒いで注目を浴びたくない。「どこへ逃げても見つかります。ならば、オルダニアを離れるしかない。それが、新しい生き方をするということなのです」
「私が男として生きるためには、そこまでしなければならないのか」
「ご身分です。リチャード様。どうかご理解を」

 ぐらりと世界が脆く崩れた。
 ガスはリチャードを抱き止めたが、優しい言葉はかけなかった。

「日暮までに『神吹の湖』へ辿り着かなければなりません。舟に乗れば少し休めます。急ぎましょう」
「ここで休むわけにはいかないか? せめて夜まで」

 ガスは毅然として首を振った。

「夜になると舟は出ません」
「本当に、これでよかったのか?」

 リチャードは根底的な問いかけをした。
 ガスの眉が曇る。

「何をおっしゃいますか?」と、彼はリチャードの肩を抱え、引きずるようにして前へ進み始めた。

「後悔されているのですか? もう? たかが丸一日、快適な城を離れて船旅をしたくらいで? それではごっこ遊びと同じこと。あなた様のお覚悟は、その程度だったのですか? リシェル」
「その名で呼ぶな」

 強がってみせても、リチャードの足はもつれている。

「なにがごっこ遊びだ。ふざけるな。私は、私はただ……」

 疲れただけだ。少しだけ、休みたいと思っただけだ。一気にそんな長旅になるとは思わなかったのだ。最初に言ってくれれば、馬に乗ったとき、あんなにはしゃがないでいただろう。それともガスを止めただろうか。部屋にかんぬきをかけ、窓から彼を呼ぶことも、しなかっただろうか。エドワード王家へ、嫁入りしただろうか。

 一歩進むごとに頭は割れんばかりに痛み、胃がひっくり返りそうだった。

 ガスは口調を改めた。彼も必死だったのだ。

「リチャード様、どうかご無礼をお許しください。しかし進まねばならないのです。夜が更けてはならないのです。今朝あなた様がおっしゃったとおり、『竜の大河』には夜になると大蛇が出ます」
「伝説上の……生き物……だろう?」
「わかりません。どのみち河川域の連中は、それを信じています。だから夜間に舟で移動する者はいません。乗ってお休みください。私がお守りします」

 町はもちろん『古代の壁』に覆われていた。最近修理が入ったと見えて、ところどころに大掛かりな補修跡が見えたが、リチャードはそれを視認する気力もない。

 ガスの目指す船着場は町の外だったが、城門は大きく開いていて、貿易の町は出入りも自由だった。彼が海路を選んだのは、このためかと冴えない頭で思った。いったん船に乗ってしまえば長距離を移動できるし、『黄金の港町』は出入りに苦労しない。これが陸路であれば、町を通るたびに身分を改められる可能性がある。

 不案内な西の山脈へ分け入っていくのなら、討伐隊とやらに加入するのが最良の方法なのだろう。人手が足りなくて募集しているとか、身分を偽って加わることができるのだろう。そのためには『跳ね馬山』へ行かねばならず、『黄金の港町』から一番早く到達するためには川舟を使って『竜の大河』から『神吹の湖』へ。

「一直線に『東の鉄壁城』から『神吹の湖』へ向かったとしても、同程度の時間がかかったと思います。ミランダ商会の船を利用したのは、意外性です。お父上も、ここまで大掛かりな逃亡をしているとは思いますまい」

 耳元で語るガスの声には、めずらしく、誇らしげな調子が混ざっていた。

 川に着いた。
 海と見紛うほど広い。

 川岸に小舟を並べて、数人の男が煙草をふかしながら話していた。

 ガスが近づくと、一人を除いて全員が目を背けて、そっと去って行った。その一人も、いかにも面倒くさそうな顔で、手元の縄を結いながら答えている。

 リチャードは川縁に座って、ぼんやりとそれを眺めていた。

 夕焼けが眩しい。気がつけば、周りにも同じように荷物を持って、途方に暮れた連中がいる。交渉に失敗したのだろうか。

 船頭がリチャードを見やった。何かが気に食わないのか、もう働きたくないと言うのか、徹底的に難癖をつけてやろうという構えだった。
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