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第1章 ヒルダとウォルター
第1話 崖の町
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周囲を断崖で囲まれた、『豊穣の海』の小湾の、奥まった町だった。砂浜はそれほど広くなく、海から見れば崖が迫ってくるようである。その自然の要塞のような岩肌に、へばりつくようにして町が作られていた。
古くから漁港、交易の拠点、そして複雑な地形を活かした軍港として栄えたが、それも今は昔だった。
百年前の戦争で、防衛拠点であった『崖の町』は三度にわたる大規模な海からの攻撃と、その後の大嵐によってすっかり落ちぶれてしまった。
そうはいっても、今でも領主エドマンドは崖の頂上に、『無垢なる山』を背にして、まるで稜線を作るように広がる城を構えていたし、町人は相変わらず漁業と段々畑の果樹栽培で忙しなく働いていた。
町は海岸沿いに南北に伸びていて、東側が海だった。ヒルダが寝起きしているのは、その北端の崖の下。長い歴史の中でどういうわけか、そこは貧民窟になっていた。
テントを出ると、朝露に濡れた草木や爽やかな潮風が彼女を迎える……ということはなく、光の差し込むことのないガレキの坂道に、同じようなテントとあばら屋がひしめきあい、四六時中、蒸れた悪臭が漂っていた。
ぐるりと周囲を見上げれば、西側は下層の暮らしからは想像もできない賑々しい家が崖に沿って積み上がり、頂上にはその最たるものとして、翼を広げたようなエドマンド城が空を覆っている。
東には豊かな小湾が優しい波を立てているが、それは船を持つ者の海であり、貧民に近づく術はない。
そして北には、この場所を昼でも暗闇に陥れる元凶があった。
天高くそびえる、異様なほどに堅牢な、黒い壁である。
それはエドマンド城と肩を並べる高さで、珍しい硬い鉱石を混ぜ込んだ石でできており、『無垢なる山』とぴったり身を寄せ、町と外界を断絶していた。
町の人はただ単純に「壁」と呼ぶが、故事を知るものに呼ばせれば『古代の壁』なのだそうだ。ヒルダにはどっちでもいいことだが。
町に陸路で出入りするためには、唯一、南北を貫く『王の小道』を使うことになるが、当然壁とぶつかる。そこには頑丈な門があって、日の出から入りまで開いているが、通行には許可が必要だった。
この辺りの町は、すべて同様に壁で覆われているのだという話も聞いたことがあるが、それを知ったところで何になるのだろうかと、ヒルダは冷めていた。
生まれてから一度も町を出たことがない。これからも出る理由がない。だから、東の海、西の城、南北の壁と、四方を囲まれたこの小さな世界の外側のことなど、知っても何の得にもならない。そう考えていた。
町の人々は、ほとんどがそう思っているだろう。特に、こんな底辺で生きているような連中は。
道に寝転ぶ人は息をしているのかどうかも怪しく、狭い路地から飛び出してくる子はまともな服を着ていない。動ける男は肉体労働で日銭を稼ぐこともできたが、女の仕事は一番上等で洗濯女くらいだ。
ヒルダの容貌は、まるで老婆だった。
腕は痩せ細り、爪は汚れ、割れている。ほったらかしの淡い金色の髪は、長い間すいてもおらず、埃と一緒に固まってこんがらがっていた。
だが目深に被ったローブの奥には、炎のように赤く燃える瞳と、透き通るように白い、ハリのある肌が隠されていた。
実際の彼女の年齢を、彼女自身も知らない。
ヒルダは樫の枝で作った杖をついて、だらだらと長い坂を登っていった。遅い朝の日課だ。
漁師と果樹農民の家が軒を連ねる。貧民窟と似たり寄ったりのあばら屋だが、あのむせかえるような悪臭はない。
井戸のある広場を越えると、商家が並ぶ。鍛冶屋、陶器屋、仕立て屋、靴屋、もちろん魚屋、それから公益で仕入れた肉屋、パン屋、野菜等の市場。市場の先に教会が見える。
ヒルダはフンと鼻を鳴らした。
なにがクルセナ教だ。
その神は、『豊穣の海』よりも南の遠い海から、アルバ人と共に渡ってきた。『崖の町』だけでなく、あちこちの町に教会を建てたのだが、戦争に負けてほとんどのアルバ人は追い出され、神様だけが残ったのだそうだ。
ここらあたりの連中もすっかり感化されて、唯一絶対のクルセナ様におすがりすれば、飢えも病もすべて癒されるのだという。
最下層で喘いでいる奴らでさえ、「いつかは祈りが通じる」とか、「現世の苦しみは来世の喜びに変わる」とか言っている。本当は、信仰だの教義だの、どうだっていいくせに。
彼らが教会に首を垂れるのは、慈善事業で炊き出しが出るからだ。晩に椀を持って並べば、薄いスープが飲める。それに固いパンがついてくるときもある。
ヒルダは、八角形の塔を持つ荘厳な作りを横目に、また鼻を鳴らして通り過ぎた。
さらに坂をのぼると、酒場の扉が大きく開いて、外に飛び出して朝から呑んでいる連中がいた。中でも顔なじみの男が三人、鼻の頭を赤くしているのを見つけて、ヒルダはひょこひょこと近づいていった。
三人とも、髪も瞳もダークブラウンだった。上背があって、肌は青白い。この町の、たいていの人間が同じだった。
ヒルダの姿を確認するなり、そのうち一人が手をあげて合図してきた。
「ヒルダばあさん、こっちだ」
と、顔中をシワだらけにして歯を見せる。
他の二人も振り返った。
ヒルダは、この辺りでは「ばあさん」で通っていた。
「あんたら、今日も朝っぱらから飲んでんのかい」
と、わざとしゃがれた声で憎まれ口を叩くが、男たちは一向に構わず、
「労働後の一杯さ」
と、彼女のために場所をあけた。
ヒルダも遠慮なく腰をおろす。
生鮮品を扱う商人たちだ。朝市後の一休みだった。もちろん、ヒルダはその時間を狙ってやってきていた。
「ばあさん、どうだ? 今後の俺の商売は。さあ、占ってくれよ」
さっそく一人が手のひらを突き出してきた。
ヒルダの生きる術。それがこの力だった。
特別な能力。
予知だ。
古くから漁港、交易の拠点、そして複雑な地形を活かした軍港として栄えたが、それも今は昔だった。
百年前の戦争で、防衛拠点であった『崖の町』は三度にわたる大規模な海からの攻撃と、その後の大嵐によってすっかり落ちぶれてしまった。
そうはいっても、今でも領主エドマンドは崖の頂上に、『無垢なる山』を背にして、まるで稜線を作るように広がる城を構えていたし、町人は相変わらず漁業と段々畑の果樹栽培で忙しなく働いていた。
町は海岸沿いに南北に伸びていて、東側が海だった。ヒルダが寝起きしているのは、その北端の崖の下。長い歴史の中でどういうわけか、そこは貧民窟になっていた。
テントを出ると、朝露に濡れた草木や爽やかな潮風が彼女を迎える……ということはなく、光の差し込むことのないガレキの坂道に、同じようなテントとあばら屋がひしめきあい、四六時中、蒸れた悪臭が漂っていた。
ぐるりと周囲を見上げれば、西側は下層の暮らしからは想像もできない賑々しい家が崖に沿って積み上がり、頂上にはその最たるものとして、翼を広げたようなエドマンド城が空を覆っている。
東には豊かな小湾が優しい波を立てているが、それは船を持つ者の海であり、貧民に近づく術はない。
そして北には、この場所を昼でも暗闇に陥れる元凶があった。
天高くそびえる、異様なほどに堅牢な、黒い壁である。
それはエドマンド城と肩を並べる高さで、珍しい硬い鉱石を混ぜ込んだ石でできており、『無垢なる山』とぴったり身を寄せ、町と外界を断絶していた。
町の人はただ単純に「壁」と呼ぶが、故事を知るものに呼ばせれば『古代の壁』なのだそうだ。ヒルダにはどっちでもいいことだが。
町に陸路で出入りするためには、唯一、南北を貫く『王の小道』を使うことになるが、当然壁とぶつかる。そこには頑丈な門があって、日の出から入りまで開いているが、通行には許可が必要だった。
この辺りの町は、すべて同様に壁で覆われているのだという話も聞いたことがあるが、それを知ったところで何になるのだろうかと、ヒルダは冷めていた。
生まれてから一度も町を出たことがない。これからも出る理由がない。だから、東の海、西の城、南北の壁と、四方を囲まれたこの小さな世界の外側のことなど、知っても何の得にもならない。そう考えていた。
町の人々は、ほとんどがそう思っているだろう。特に、こんな底辺で生きているような連中は。
道に寝転ぶ人は息をしているのかどうかも怪しく、狭い路地から飛び出してくる子はまともな服を着ていない。動ける男は肉体労働で日銭を稼ぐこともできたが、女の仕事は一番上等で洗濯女くらいだ。
ヒルダの容貌は、まるで老婆だった。
腕は痩せ細り、爪は汚れ、割れている。ほったらかしの淡い金色の髪は、長い間すいてもおらず、埃と一緒に固まってこんがらがっていた。
だが目深に被ったローブの奥には、炎のように赤く燃える瞳と、透き通るように白い、ハリのある肌が隠されていた。
実際の彼女の年齢を、彼女自身も知らない。
ヒルダは樫の枝で作った杖をついて、だらだらと長い坂を登っていった。遅い朝の日課だ。
漁師と果樹農民の家が軒を連ねる。貧民窟と似たり寄ったりのあばら屋だが、あのむせかえるような悪臭はない。
井戸のある広場を越えると、商家が並ぶ。鍛冶屋、陶器屋、仕立て屋、靴屋、もちろん魚屋、それから公益で仕入れた肉屋、パン屋、野菜等の市場。市場の先に教会が見える。
ヒルダはフンと鼻を鳴らした。
なにがクルセナ教だ。
その神は、『豊穣の海』よりも南の遠い海から、アルバ人と共に渡ってきた。『崖の町』だけでなく、あちこちの町に教会を建てたのだが、戦争に負けてほとんどのアルバ人は追い出され、神様だけが残ったのだそうだ。
ここらあたりの連中もすっかり感化されて、唯一絶対のクルセナ様におすがりすれば、飢えも病もすべて癒されるのだという。
最下層で喘いでいる奴らでさえ、「いつかは祈りが通じる」とか、「現世の苦しみは来世の喜びに変わる」とか言っている。本当は、信仰だの教義だの、どうだっていいくせに。
彼らが教会に首を垂れるのは、慈善事業で炊き出しが出るからだ。晩に椀を持って並べば、薄いスープが飲める。それに固いパンがついてくるときもある。
ヒルダは、八角形の塔を持つ荘厳な作りを横目に、また鼻を鳴らして通り過ぎた。
さらに坂をのぼると、酒場の扉が大きく開いて、外に飛び出して朝から呑んでいる連中がいた。中でも顔なじみの男が三人、鼻の頭を赤くしているのを見つけて、ヒルダはひょこひょこと近づいていった。
三人とも、髪も瞳もダークブラウンだった。上背があって、肌は青白い。この町の、たいていの人間が同じだった。
ヒルダの姿を確認するなり、そのうち一人が手をあげて合図してきた。
「ヒルダばあさん、こっちだ」
と、顔中をシワだらけにして歯を見せる。
他の二人も振り返った。
ヒルダは、この辺りでは「ばあさん」で通っていた。
「あんたら、今日も朝っぱらから飲んでんのかい」
と、わざとしゃがれた声で憎まれ口を叩くが、男たちは一向に構わず、
「労働後の一杯さ」
と、彼女のために場所をあけた。
ヒルダも遠慮なく腰をおろす。
生鮮品を扱う商人たちだ。朝市後の一休みだった。もちろん、ヒルダはその時間を狙ってやってきていた。
「ばあさん、どうだ? 今後の俺の商売は。さあ、占ってくれよ」
さっそく一人が手のひらを突き出してきた。
ヒルダの生きる術。それがこの力だった。
特別な能力。
予知だ。
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