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第2章.エスカレートしてません!?
8.積もるもの、溶けるもの(前編)【☆】
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社会人というのは、時に気合いを入れないといけない時がある。
俺は深夜のオフィスで1人キーボードを叩き続けた。周囲は薄暗く、主な光源は俺のディスプレイのみ。
その右下でチカチカとアラートが光った。タイムアップか。
「はぁ~~~~……」
ひたすら大きな溜息を吐いて俺は天を仰いで両目を手で覆った。
しんどい。でもまだ全然マシだ。終電じゃないし。家帰れるし。
俺はパソコンの電源を落とすと鞄を持って席を立った。今日も1日お疲れさんした。明日もまた定時にスタートです。
事の発端は部下の事故だった。
何でも歩道橋で足を滑らせて落ちたらしく両腕と両足を骨折して入院になったらしい。命に別状が無いのと「いやー死ぬかと思ったッス!」などと本人がけろっとしているのは安堵したが、問題は彼の抱えている仕事だった。
それなりに大きな会社複数に対してプレゼンを行わねばならない。他に手が空いている人がいないとのことで俺がフォローに入った。
だがそのプレゼンの為には過去の営業データが必要で、それを元にして各会社に対して別々のアプローチが必要で、その為には開発部とも相談しないといけなくて……と非常に面倒臭かったのである。
元々何とか人員をやり繰りしていたのに、メインとなるメンバーが抜けてしまうのが非常に痛かった。
斯くて俺は連日の残業をしていた。このヤシマテック、妙にホワイトなので夜10時から翌8時まで全てのパソコンが使用禁止になる。出張や外回り以外ではデータの持ち出し禁止だから家でやることもできない。
果たして期限に間に合うのか。このペースなら間に合いそうだが、どこかがトチったらヤバい。そんな危機感がずっと漂っていた。
「……っ……」
そしてもうひとつのとても個人的な問題が俺を苦しめていた。
帰宅した俺は腹を摩りながら買い物袋をテーブルに置いた。と言っても、いつものように腹を下しているわけではない。
寧ろ逆だ。
俺は一縷の望みを託してトイレに向かう。便器に座って力んでみたが出たのはガスだけだった。こんなにも腹が重いのに。
そう、俺は便秘をしていた。ここ暫く尻を酷使することが多かったからか、単なる生活習慣の乱れかはわからない。だが俺の腹は張り、内部には重く硬い物が詰まっている感があり、さっぱり出て来る気配が無かった。
俺はトイレから出ると手を洗って買い物袋からヨーグルトを取り出す。夜はこれと野菜ジュースという腸への効果だけを期待した食事を毎日しているのに効果が見当たらない。明らかに食う量は少ないはずだが食欲も湧かなければ腹の減りも乏しかった。
これがヤバい状況だというのは分かっている。何だかんだロクに出ないまま1週間は経っていた。詳細はもう憶えていない。
本当は下剤に手を出してもいいのだが、俺はこの前の会議室の一件で完全にビビっていた。万一あんな物が会社で効いたら大変なことになりそうだし、帰宅後を狙おうにも忙しさのあまり毎回気付いたらその時間を過ぎていた。
覚悟を決めるか、いやでもせめてプレゼン後にしないか。こっちもあともうちょっとだし。そんなこんなで先送りにしてきたのだ。
『営業部、何かヤバいって聞きましたけど、大丈夫ですか?』
翌日の朝、通勤電車の中で社長からのメッセージが届いた。
そういや出張から帰って来た頃かと改めて思う。出張に行くので暫く会えないぐらいしかこのトークルームでは仕事の話をしないのだが、俺のスケジュールに関する連絡ぐらいはして然るべきだろう。
『人員足らないので俺が手伝ってます』
『お疲れ様です』
『でもあと3日で終わるんで』
『じゃあ次の相談会はその次の日辺りでどうですか?』
俺は少し迷った。社長と会うんだったら腹の具合を整えたい。今の状態では美味い食事も食べれないし、その後の、アレも、できない。
『ちょっとその日になってからでいいですか? 状況次第で延長戦に入るかもしれないんで』
『了解です』
これは嘘ではない。プレゼン結果によってはやり直しや追加情報の提供を要求される可能性がある。社長もそれはわかっているはずだ。
本当はそんなもの気にせずに社長の手料理でも食ってゴロゴロしてイチャイチャしたい。だがそれだけじゃ食ってはいけないのだ。いや、相談役だけやってれば可能なのかもしれないが、自分の属してる部署がてんやわんやの状態で呑気に過ごせる程図太くはない。
こういうところがあるから、かつて本当にヤバいところまで突き進んでしまったんだろうか。
決まった駅で降りて、決まった方向に歩いて、決まった会社に行く。毎日毎日繰り返しの中、灰色の記憶に引き摺り込まれる前に深呼吸する。
大丈夫。俺はもう、あの時の俺ではない。俺は厄介な仕事を片付けて社長と飲みに行くんだ。
俺はそう気合を入れ直して今日の業務に向けて歩いた。
でももう無理かもしれない。
俺はやはり深夜のオフィスで机に額を置いていた。冷たくて気持ちいい。
手伝いますかと言ってくれた後輩や上司に、あと少しだから大丈夫、先帰ってできるだけ休んどいてくださいなんて言うんじゃなかった。まとめるデータをひとつ見落としていて今からそれをやらないといけないのが辛すぎる。
しかも俺の腹が張っていて鈍い痛みを発していて集中を妨げてくる。今日はもう帰っちまうか、いやでもやっとかないと後が辛いと葛藤するが顔を上げるのも億劫だ。
そんな折だった。
「……神河さん!?」
ヤバ、面倒な人に見付かった。俺がそう思って無理矢理顔を上げる。
驚愕と不安を露わにして社長がこちらに駆け寄って来た。
「神河さん、大丈夫ですか!?」
「ええ、平気ですよ、ちょっと仮眠取ってただけです」
「本当ですか……?」
俺のことをやたら不安げな眼で見てパタパタと肩やら何やらに触れる。そりゃさっきの図だけ見たら倒れているのかとビビるだろうが、それにしてもオーバーだろ。
そう思ったが、俺には前科があるのを思い出した。前職で過労でぶっ壊れ掛けてこの会社に来ているし、社長もそれを知っていた。俺としては終電前に帰れているし腹の具合さえ良ければこの程度の残業は全然余裕なのだが、どうにも難儀なものだ。
そして恐らく、この人に俺の腹模様を知られてはいけない。絶対何かしてくる。
「忙しいとは聞きましたが、こんな時間まで残ってるなんて思いませんでしたよ」
「社長は何故ここに?」
「帰ろうとしたら明かりが漏れてたんで、誰か電気を消し忘れたのかなって思って覗いたんですよ」
こんな時間に帰る社長も社長だが、社長という立場を考えればおかしくはない。それでいて役員には残業代が出ないんだから大変だ。基本給が全然違うんだろうけど。
「神河さんはまだ帰らないんですか?」
「ええ、まだもう少しやることがあるので……」
「あっそうだ、ご飯買って来ましょうか。そうでなくても欲しい物とかあります?」
「社長をパシリになんてできませんよ。いいから早く帰ってください。邪魔です」
「うっ……」
次の言葉は何か手伝えることがないかだろうから先に言った。社長にもできない仕事でないし何なら俺より上手かもしれないが、事前情報諸々を把握していないと的確な物ができない。それを一々説明したりドキュメントを読むだけで今日が終わってしまう。
「そうですか…… じゃあ僕は帰りますね」
「ええ、そうしてください」
しゅんと見るからに肩を落とす様子はどことなく叱られた大型犬のようで、少しばかり可愛いとか可哀想だったかとか慈悲が湧いてしまう。
が、ここでそれを表に出したら駄目だ。俺は名残惜しそうに何度も振り返る社長に手を振った。
これでよし。社長は基本的に優しいし上司としても友人としても非常に良い人物なのだが、あの性癖だけは如何ともしがたい。
俺は再びディスプレイに意識を集中させながら腹を摩った。ガスだけでも出てくれれば大分楽なのに、コーヒーを飲んでいて逆に小さなゲップが度々込み上げるのは下から出ないから上から出て来ているのだろうか。いや、単にコーヒーの飲み過ぎと思いたい。少し胃がムカつく気がするのもきっとそのせいだ。
「くそ……」
俺は再度机に突っ伏すと腹を手で強く押したが、すぐさまガチガチの腸に阻まれる。出る時はもう嫌という程出るのに、こんな時ばかり苦しいなんて余りに難儀すぎないか、俺の身体。
それでも作業はしないといけない。どうせこうしていても何の改善もしないのだ。俺は身を起こすと腹を摩りながらマウスに手を置いた、のだが。
「あ……」
「神河さん……」
オフィスの入り口からずんずん社長が近付いて来る。手には缶コーヒーが2種類握られていた。
これバレた。俺は直感して全てを諦めた。
案の定社長は真剣な顔をして俺の隣に跪いた。ここだけ見れば女子が喜ぶ白馬の王子様か騎士様ってところなんだがなぁ。
「お腹、痛いんですか?」
「痛いっていうかその……ね?」
社長が俺の腹に手を置くと形の良い眉がピクッと反応した。
下は散々見られた仲だが恥ずかしいものは恥ずかしい。問いに対し、俺は暗黙の了解を求めた。
「……いつからですか?」
「1週間……ぐらい?」
「何でもっと早く言ってくれなかったんですか」
「だって言ったらロクなことならないじゃないですか」
ああやっぱり、便秘って気付かれた。
俺はいつから溜め込んでいるのか単にうろ覚えなだけだが、彼にはそれがはぐらかしているように見えたらしい。
心配が主なのはわかっているが、何となく苛立ちめいたものを社長の表情や言葉から感じてしまい、俺もまた想定以上に尖った口調を向けてしまった。
違う、社長は早く気付けなかったことが悔しくて、少し不貞腐れてもいたんだよな。わかるのに仕事が中断されていて俺も焦っていた。
「……それは……そうですけど」
「もう少しなんです。この仕事が……プレゼンが終わったら幾らでも付き合いますから、暫く放っておいてください」
俺は切実に訴えた。ビジネス的な嗅覚も高い社長が際での判断をミスることはないと思っていたがそれでも少し緊張した。
社長はそんな俺を見て少し考えた後、口を開いた。
「わかりました。でも少しだけ。今、滅茶苦茶苦しいでしょう?」
「ええ…………うっ、ああっ……!?」
社長の指がグッと俺の腹に沈み込む。ゴギュッと妙な音を立てて腸が動いた感覚がした。
その反応を見て社長は周辺のデスクの椅子を持って来て並べ、俺に横たわるように言う。俺は渋々仰向けで寝ると、社長はどんどん腹を押していった。
「あっ……ああっ、あっ!」
「出そうですか?」
「いや、その……うっ!」
ゴボゴボッ……ブッ、ブーーーッ!
円を描くように順番に押されると腸の中身が徐々に動いていき、肛門が急速に押し寄せて来た圧に負けてすぐさま開いた。大きな音と酷い匂いのガスが出て俺は顔を真っ赤にしながら歪ませる。
だが社長は手を止めなかった。その度に俺は屁を連発する。恥ずかしい、恥ずかしいのに腹の張りが少しずつ治まっていく感覚があった。
「っ……はぁっ、ぁ……」
「どうですか、少しは楽になりました?」
周囲の臭いに顔色ひとつ変えず、ただ心配そうに視線を向ける社長に俺はぎこちなく頷いた。
気体ではない大きな塊が出口付近まで来ている感じはするがそれは一旦置いておこう。起き上がると先程より随分落ち着いたとわかる。
「……それでは僕は帰りますけど、もしもこれ以上酷くなるようなら病院に行ってくださいね。貴方まで倒れたら皆泣いちゃいますよ?」
「ああ、わかってるよ」
悲しいって意味じゃなく、更に忙しくなるって意味だろうけど。
意外にもすんなり身を引いた社長が帰った後には、デスクの上に缶コーヒーが2本残っていた。元々俺に渡すつもりだっただろうしありがたく受け取ろう。
口の中に広がる甘苦い味と共に、俺は画面の中の資料に集中した。
◆
『何とか成功しました』
俺はプレゼン帰りのタクシーの中で社長に向かってメッセージを送った。
隣では一緒に同行した上司が「もう一時はどうなることかと……」と涙ぐんでいる。そこまで感極まらなくてもと思うが歳を取ると涙腺が緩むものらしい。
俺達はやり遂げた。手応えは好調で、とりあえず大きな障壁は乗り越えたのだ。
『今日ウチに来れますか? 今からでも構いません』
社長からの返信に俺は一瞬目を瞠った。今日って。今からって。流石に気が早すぎる。
だが俺の何か言いたげな様子を察知したか、鼻をかんでから上司は笑った。
「会社への報告は私がやっておくから、神河君は今日直帰でいいよ。明日も休みでいい」
「え、いいんですか……?」
「ああ、他の子も順番に休んでもらうから。明後日からまた頼むよ」
うん、この人も大分優しい人だ。何にせよそれはありがたい話なので素直に受け取る。近くの駅で下ろしてもらうと、笑顔で手を振る上司を乗せてタクシーは会社の方へ走って行った。
さてどうするか。あれからも腹具合は変わらず、いやそれ以上に中身は固く詰まっている。遊びに行くなら解消してからが本来の筋だろう。
だが社長の家という部分が気になっていた。
社長が社長なら、きっと俺も俺だった。
『これから行きます』
社長なら、もしかしたらどうにかしてくれるかもしれない。そんなことを考えてしまった。
社長から喜ぶ猫のスタンプが送られて来る。何か買って行きますか、好きなお酒とおつまみでも、なんてメッセージを送り合いながら彼の家へ向かう電車に乗る。
夕方の街はどうしてこんなにワクワクするんだろう。何だかんだで大きな仕事を終え、俺は解放感に包まれていた。
〈後編へ続く〉
俺は深夜のオフィスで1人キーボードを叩き続けた。周囲は薄暗く、主な光源は俺のディスプレイのみ。
その右下でチカチカとアラートが光った。タイムアップか。
「はぁ~~~~……」
ひたすら大きな溜息を吐いて俺は天を仰いで両目を手で覆った。
しんどい。でもまだ全然マシだ。終電じゃないし。家帰れるし。
俺はパソコンの電源を落とすと鞄を持って席を立った。今日も1日お疲れさんした。明日もまた定時にスタートです。
事の発端は部下の事故だった。
何でも歩道橋で足を滑らせて落ちたらしく両腕と両足を骨折して入院になったらしい。命に別状が無いのと「いやー死ぬかと思ったッス!」などと本人がけろっとしているのは安堵したが、問題は彼の抱えている仕事だった。
それなりに大きな会社複数に対してプレゼンを行わねばならない。他に手が空いている人がいないとのことで俺がフォローに入った。
だがそのプレゼンの為には過去の営業データが必要で、それを元にして各会社に対して別々のアプローチが必要で、その為には開発部とも相談しないといけなくて……と非常に面倒臭かったのである。
元々何とか人員をやり繰りしていたのに、メインとなるメンバーが抜けてしまうのが非常に痛かった。
斯くて俺は連日の残業をしていた。このヤシマテック、妙にホワイトなので夜10時から翌8時まで全てのパソコンが使用禁止になる。出張や外回り以外ではデータの持ち出し禁止だから家でやることもできない。
果たして期限に間に合うのか。このペースなら間に合いそうだが、どこかがトチったらヤバい。そんな危機感がずっと漂っていた。
「……っ……」
そしてもうひとつのとても個人的な問題が俺を苦しめていた。
帰宅した俺は腹を摩りながら買い物袋をテーブルに置いた。と言っても、いつものように腹を下しているわけではない。
寧ろ逆だ。
俺は一縷の望みを託してトイレに向かう。便器に座って力んでみたが出たのはガスだけだった。こんなにも腹が重いのに。
そう、俺は便秘をしていた。ここ暫く尻を酷使することが多かったからか、単なる生活習慣の乱れかはわからない。だが俺の腹は張り、内部には重く硬い物が詰まっている感があり、さっぱり出て来る気配が無かった。
俺はトイレから出ると手を洗って買い物袋からヨーグルトを取り出す。夜はこれと野菜ジュースという腸への効果だけを期待した食事を毎日しているのに効果が見当たらない。明らかに食う量は少ないはずだが食欲も湧かなければ腹の減りも乏しかった。
これがヤバい状況だというのは分かっている。何だかんだロクに出ないまま1週間は経っていた。詳細はもう憶えていない。
本当は下剤に手を出してもいいのだが、俺はこの前の会議室の一件で完全にビビっていた。万一あんな物が会社で効いたら大変なことになりそうだし、帰宅後を狙おうにも忙しさのあまり毎回気付いたらその時間を過ぎていた。
覚悟を決めるか、いやでもせめてプレゼン後にしないか。こっちもあともうちょっとだし。そんなこんなで先送りにしてきたのだ。
『営業部、何かヤバいって聞きましたけど、大丈夫ですか?』
翌日の朝、通勤電車の中で社長からのメッセージが届いた。
そういや出張から帰って来た頃かと改めて思う。出張に行くので暫く会えないぐらいしかこのトークルームでは仕事の話をしないのだが、俺のスケジュールに関する連絡ぐらいはして然るべきだろう。
『人員足らないので俺が手伝ってます』
『お疲れ様です』
『でもあと3日で終わるんで』
『じゃあ次の相談会はその次の日辺りでどうですか?』
俺は少し迷った。社長と会うんだったら腹の具合を整えたい。今の状態では美味い食事も食べれないし、その後の、アレも、できない。
『ちょっとその日になってからでいいですか? 状況次第で延長戦に入るかもしれないんで』
『了解です』
これは嘘ではない。プレゼン結果によってはやり直しや追加情報の提供を要求される可能性がある。社長もそれはわかっているはずだ。
本当はそんなもの気にせずに社長の手料理でも食ってゴロゴロしてイチャイチャしたい。だがそれだけじゃ食ってはいけないのだ。いや、相談役だけやってれば可能なのかもしれないが、自分の属してる部署がてんやわんやの状態で呑気に過ごせる程図太くはない。
こういうところがあるから、かつて本当にヤバいところまで突き進んでしまったんだろうか。
決まった駅で降りて、決まった方向に歩いて、決まった会社に行く。毎日毎日繰り返しの中、灰色の記憶に引き摺り込まれる前に深呼吸する。
大丈夫。俺はもう、あの時の俺ではない。俺は厄介な仕事を片付けて社長と飲みに行くんだ。
俺はそう気合を入れ直して今日の業務に向けて歩いた。
でももう無理かもしれない。
俺はやはり深夜のオフィスで机に額を置いていた。冷たくて気持ちいい。
手伝いますかと言ってくれた後輩や上司に、あと少しだから大丈夫、先帰ってできるだけ休んどいてくださいなんて言うんじゃなかった。まとめるデータをひとつ見落としていて今からそれをやらないといけないのが辛すぎる。
しかも俺の腹が張っていて鈍い痛みを発していて集中を妨げてくる。今日はもう帰っちまうか、いやでもやっとかないと後が辛いと葛藤するが顔を上げるのも億劫だ。
そんな折だった。
「……神河さん!?」
ヤバ、面倒な人に見付かった。俺がそう思って無理矢理顔を上げる。
驚愕と不安を露わにして社長がこちらに駆け寄って来た。
「神河さん、大丈夫ですか!?」
「ええ、平気ですよ、ちょっと仮眠取ってただけです」
「本当ですか……?」
俺のことをやたら不安げな眼で見てパタパタと肩やら何やらに触れる。そりゃさっきの図だけ見たら倒れているのかとビビるだろうが、それにしてもオーバーだろ。
そう思ったが、俺には前科があるのを思い出した。前職で過労でぶっ壊れ掛けてこの会社に来ているし、社長もそれを知っていた。俺としては終電前に帰れているし腹の具合さえ良ければこの程度の残業は全然余裕なのだが、どうにも難儀なものだ。
そして恐らく、この人に俺の腹模様を知られてはいけない。絶対何かしてくる。
「忙しいとは聞きましたが、こんな時間まで残ってるなんて思いませんでしたよ」
「社長は何故ここに?」
「帰ろうとしたら明かりが漏れてたんで、誰か電気を消し忘れたのかなって思って覗いたんですよ」
こんな時間に帰る社長も社長だが、社長という立場を考えればおかしくはない。それでいて役員には残業代が出ないんだから大変だ。基本給が全然違うんだろうけど。
「神河さんはまだ帰らないんですか?」
「ええ、まだもう少しやることがあるので……」
「あっそうだ、ご飯買って来ましょうか。そうでなくても欲しい物とかあります?」
「社長をパシリになんてできませんよ。いいから早く帰ってください。邪魔です」
「うっ……」
次の言葉は何か手伝えることがないかだろうから先に言った。社長にもできない仕事でないし何なら俺より上手かもしれないが、事前情報諸々を把握していないと的確な物ができない。それを一々説明したりドキュメントを読むだけで今日が終わってしまう。
「そうですか…… じゃあ僕は帰りますね」
「ええ、そうしてください」
しゅんと見るからに肩を落とす様子はどことなく叱られた大型犬のようで、少しばかり可愛いとか可哀想だったかとか慈悲が湧いてしまう。
が、ここでそれを表に出したら駄目だ。俺は名残惜しそうに何度も振り返る社長に手を振った。
これでよし。社長は基本的に優しいし上司としても友人としても非常に良い人物なのだが、あの性癖だけは如何ともしがたい。
俺は再びディスプレイに意識を集中させながら腹を摩った。ガスだけでも出てくれれば大分楽なのに、コーヒーを飲んでいて逆に小さなゲップが度々込み上げるのは下から出ないから上から出て来ているのだろうか。いや、単にコーヒーの飲み過ぎと思いたい。少し胃がムカつく気がするのもきっとそのせいだ。
「くそ……」
俺は再度机に突っ伏すと腹を手で強く押したが、すぐさまガチガチの腸に阻まれる。出る時はもう嫌という程出るのに、こんな時ばかり苦しいなんて余りに難儀すぎないか、俺の身体。
それでも作業はしないといけない。どうせこうしていても何の改善もしないのだ。俺は身を起こすと腹を摩りながらマウスに手を置いた、のだが。
「あ……」
「神河さん……」
オフィスの入り口からずんずん社長が近付いて来る。手には缶コーヒーが2種類握られていた。
これバレた。俺は直感して全てを諦めた。
案の定社長は真剣な顔をして俺の隣に跪いた。ここだけ見れば女子が喜ぶ白馬の王子様か騎士様ってところなんだがなぁ。
「お腹、痛いんですか?」
「痛いっていうかその……ね?」
社長が俺の腹に手を置くと形の良い眉がピクッと反応した。
下は散々見られた仲だが恥ずかしいものは恥ずかしい。問いに対し、俺は暗黙の了解を求めた。
「……いつからですか?」
「1週間……ぐらい?」
「何でもっと早く言ってくれなかったんですか」
「だって言ったらロクなことならないじゃないですか」
ああやっぱり、便秘って気付かれた。
俺はいつから溜め込んでいるのか単にうろ覚えなだけだが、彼にはそれがはぐらかしているように見えたらしい。
心配が主なのはわかっているが、何となく苛立ちめいたものを社長の表情や言葉から感じてしまい、俺もまた想定以上に尖った口調を向けてしまった。
違う、社長は早く気付けなかったことが悔しくて、少し不貞腐れてもいたんだよな。わかるのに仕事が中断されていて俺も焦っていた。
「……それは……そうですけど」
「もう少しなんです。この仕事が……プレゼンが終わったら幾らでも付き合いますから、暫く放っておいてください」
俺は切実に訴えた。ビジネス的な嗅覚も高い社長が際での判断をミスることはないと思っていたがそれでも少し緊張した。
社長はそんな俺を見て少し考えた後、口を開いた。
「わかりました。でも少しだけ。今、滅茶苦茶苦しいでしょう?」
「ええ…………うっ、ああっ……!?」
社長の指がグッと俺の腹に沈み込む。ゴギュッと妙な音を立てて腸が動いた感覚がした。
その反応を見て社長は周辺のデスクの椅子を持って来て並べ、俺に横たわるように言う。俺は渋々仰向けで寝ると、社長はどんどん腹を押していった。
「あっ……ああっ、あっ!」
「出そうですか?」
「いや、その……うっ!」
ゴボゴボッ……ブッ、ブーーーッ!
円を描くように順番に押されると腸の中身が徐々に動いていき、肛門が急速に押し寄せて来た圧に負けてすぐさま開いた。大きな音と酷い匂いのガスが出て俺は顔を真っ赤にしながら歪ませる。
だが社長は手を止めなかった。その度に俺は屁を連発する。恥ずかしい、恥ずかしいのに腹の張りが少しずつ治まっていく感覚があった。
「っ……はぁっ、ぁ……」
「どうですか、少しは楽になりました?」
周囲の臭いに顔色ひとつ変えず、ただ心配そうに視線を向ける社長に俺はぎこちなく頷いた。
気体ではない大きな塊が出口付近まで来ている感じはするがそれは一旦置いておこう。起き上がると先程より随分落ち着いたとわかる。
「……それでは僕は帰りますけど、もしもこれ以上酷くなるようなら病院に行ってくださいね。貴方まで倒れたら皆泣いちゃいますよ?」
「ああ、わかってるよ」
悲しいって意味じゃなく、更に忙しくなるって意味だろうけど。
意外にもすんなり身を引いた社長が帰った後には、デスクの上に缶コーヒーが2本残っていた。元々俺に渡すつもりだっただろうしありがたく受け取ろう。
口の中に広がる甘苦い味と共に、俺は画面の中の資料に集中した。
◆
『何とか成功しました』
俺はプレゼン帰りのタクシーの中で社長に向かってメッセージを送った。
隣では一緒に同行した上司が「もう一時はどうなることかと……」と涙ぐんでいる。そこまで感極まらなくてもと思うが歳を取ると涙腺が緩むものらしい。
俺達はやり遂げた。手応えは好調で、とりあえず大きな障壁は乗り越えたのだ。
『今日ウチに来れますか? 今からでも構いません』
社長からの返信に俺は一瞬目を瞠った。今日って。今からって。流石に気が早すぎる。
だが俺の何か言いたげな様子を察知したか、鼻をかんでから上司は笑った。
「会社への報告は私がやっておくから、神河君は今日直帰でいいよ。明日も休みでいい」
「え、いいんですか……?」
「ああ、他の子も順番に休んでもらうから。明後日からまた頼むよ」
うん、この人も大分優しい人だ。何にせよそれはありがたい話なので素直に受け取る。近くの駅で下ろしてもらうと、笑顔で手を振る上司を乗せてタクシーは会社の方へ走って行った。
さてどうするか。あれからも腹具合は変わらず、いやそれ以上に中身は固く詰まっている。遊びに行くなら解消してからが本来の筋だろう。
だが社長の家という部分が気になっていた。
社長が社長なら、きっと俺も俺だった。
『これから行きます』
社長なら、もしかしたらどうにかしてくれるかもしれない。そんなことを考えてしまった。
社長から喜ぶ猫のスタンプが送られて来る。何か買って行きますか、好きなお酒とおつまみでも、なんてメッセージを送り合いながら彼の家へ向かう電車に乗る。
夕方の街はどうしてこんなにワクワクするんだろう。何だかんだで大きな仕事を終え、俺は解放感に包まれていた。
〈後編へ続く〉
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