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第1章.俺が社長の相談役に!?
2.事の始まり
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「神河創貴さん。弊社代表取締役の特別相談顧問に就任して頂きたいと考えているのですが、如何ですか?」
生まれて初めて足を踏み入れた社長室は、ドラマとかで見るよりも簡素であり、それでも充分豪華だった。
木で出来た大きなデスクの上にはディスプレイモニターが2枚。キーボードとマウスの周りにはタンブラーぐらいしか無く、ほとんどの業務をオンラインでこなすペーパーレスな弊社らしいスマートさだ。他には向かい合わせになった4人掛けソファとその間のローテーブル、戸棚が幾つかとプロジェクターぐらいしか物品は無い。
だからこそだろうか、俺の向かいの席に座る青年がどうしたって眼を引く。
柔らかで弱目のウェーブの掛かった焦茶色の短髪にスラっと通った目鼻、薄い唇。日本人離れした整った顔立ちは、真顔になればクールな印象を与えるが実際は優しげな微笑みを湛えていてどことなく人懐っこさもある。高身長で相応にガタイが良く、ピッチリと皺ひとつ無い高級そうなグレーのスーツを着こなし、これまた高級そうな腕時計が手首に見え隠れしているが嫌味な印象はまるで無い。
これがウチの会社「ヤシマテック」の若きトップ、八嶋瑛鷹。日本中に名を轟かす大企業「八嶋商事」設立者の御曹司にして、俺と同じ30歳でひとつの会社を切り盛りする遣り手の社長だ。
ちなみに彼の隣には秘書長と名乗った老齢の男性が座って話を進行しているが、その風格は寧ろ役員に匹敵するんじゃなかろうか。もしかしたら権限や社内の立場は同等かもしれない。手にしている黒いファイルの中にはきっと俺の書類が入っているんだろう。
そこには中肉中背、黒髪短髪、日本のどこにでも居そうな塩顔の男の写真も添えられているかもしれない。多少仕事はできるし体力にも自信はあるが取り柄はそれぐらいしかない、色々な意味で目立たないモブのような存在。
そんな俺が何だって偉い人の相談役だか顧問だかに選ばれたのか。そもそも社長室への呼び出しという時点で心臓がバックバクの俺はソファに座った膝の上で握った拳を解けずにいる。
「あの……申し出は大変ありがたいのですが、どういうことなのか説明頂けないでしょうか……?」
「ええ勿論。急な話で申し訳ありません。もしお断りされても何の影響もありませんので、リラックスしてお聞き下さい」
社長がそう語ったタイミングで部屋のドアがノックされ、別の女性秘書がお茶を持って来る。美しいティーカップとソーサーで提供される芳しい紅茶。やはりこういう所も社長室は違うらしい、いつも我々下々の会議では紙コップだ。
「ありがとうございます」と秘書に小さく感謝を述べた社長はまず自分からと言わんばかりに座り方を少しばかり崩してまず紅茶を一口飲む。面と向かって話をするのは初めてだが、嫌な噂は全く聞かないどころか好評しか耳に入って来ないのはこういうところが理由のひとつかもしれない。
俺も緊張を完全に解かないまでも、意識的に伸ばしていた背筋から少し力を抜いた。カップを手に取り口へ運ぶ。美味いは美味いのだが貧乏舌にはどう美味いのかよくわからなかった。
「さて、神河さんから見て、僕はどのような人間に見えますか?」
「……へ?」
そんな矢先に向けられた問いに思わず間抜けな声が出る。
にこやかに真っ直ぐこちらを見る表情も眼差しもとても優しい。どう答えるべきかと数秒まごつく間も彼は黙って待っていてくれた。
「えっと……とても優秀な方と聞いています。この会社を設立後、大きなトラブルも無く業績は安定、社員としてもとても働きやすくて……俺と同い年なのにそういうことできるの、凄いなと思います」
「……他には?」
「他に……? えっと……」
しまった。俺は必死に言葉を探すも何も出て来ない。
そもそもサラリーマンとして働いている間、末端である俺の立場では社長の存在を意識することなどほとんど無い。入社前に会社のデータとして簡単な人となりはチェックしたがその情報は概ね今言った通りだ。
一応一緒に働いている女性社員達からは格好良いだのアタックしてみようかなだの浮ついた話が漏れ聞こえて来るが本人に話すべきことではないだろう。
つまり俺は、八嶋瑛鷹についてほとんど何も知らない。
「……神河創貴さん。営業部所属。1年半前に株式会社アンブローズから転職。前社ではSEだったがそれ以上の成長は見込めないと弊社へ来て頂き、主にお客様への技術的説明を担当。仕事は真面目で丁寧、周囲の調和を重んじる一方で自分のことはあまり表に出さないタイプ。コミュニケーションは問題無く取れるもののどちらかというと孤独が好き。趣味はゲームと漫画……合っていますか?」
「え……は、はい……」
社長という立場上、配属や業務情報は当然持っているだろうがそんなパーソナルな部分まで見られていたことに視線が泳ぐ。性格等々も滞り無く仕事を進める上では把握しておくべきことだと頭で理解はできるのだが、言葉にされると少し胸が痛い。
俺は所謂オタクだが、そこまでディープでもない。どちらかと言えばゲームをしたり漫画を読んだりするのが好きというだけで特別詳しいわけでもないしスーパープレイもできない。
だから他人と会話する時は相手のペースに併せて終始当たり障りの無い応対でこれまで切り抜けて来たのだが、この男の眼はあまりに真っ直ぐすぎて事実の指摘でも気恥ずかしくなってくる。仕事モードならばもう少しはまともに話せるのだが完全に場の空気に呑まれていた。
「神河さんについては少々調べさせて頂きましたが、逆に言えばわかったことはこのぐらいです。それも人伝ですから完全に正確でもないでしょう。でも僕は、社員の皆さんのことをもっとよく知りたいし、皆さんに僕のことを知ってもらいたいんです」
「……もしかして、相談役ってそういう……?」
「はい! あ、でも難しく考えないでくださいね。要は時々会って飲みましょう、そうやって情報交換しましょうってことなんで」
重役とのランチミーティングみたいなことか。スタートアップの会社でたまに聞くやつ。
それ自体はありがちだが疑問も残る。
「あの、それでなんで俺なんですか? 社員のことを知るなら特別な1人を決めるんじゃなくローテーションとかにすると思いますし、固定するにしてももっと適任な人が居るんじゃ……?」
「僕の趣味です」
「……は?」
「何人か候補を探す中で、神河さんが一番有能で的確かつ僕と趣味が合うと思いました。それに僕に付き合ってもらう分仕事量の調整が入るので、特別な肩書きを付けてもらう方が都合が良いんですよ。……それに」
そんな理由で……というか仕事にまで影響が出るって、実は飲み会や情報交換どころじゃなく、何かもっと大事に関わらせる気だったりしないか?
オタク的発想をするなら、そういう特殊な部署は汚れ仕事を任されると相場が決まっている。今は聞こえの良いことを言っておいて引くに引けなくなったところで何かさせる気かもしれない。会社も社長も黒い噂は聞かないが俺が知らないだけって可能性は充分にある。
——でも、駄目だった。
「それに神河さん、今の仕事がつまらなくて仕方無いでしょう?」
にこやかに、本当に人が良さそうに八嶋が眼を細める。その笑顔は天使のように慈愛を湛えたものですぐ縋り付きたくなってしまうのに、同時に俺はほんの少しだけ恐怖も感じた。多分本能的な警戒ってやつだ。
彼の言葉は図星だった。
嫌味になるかもしれないが正直俺は仕事ができる。顧客は接しやすい人ばかりだし社内の開発チームも優秀だからその間を取り持つ営業としての苦労は少ない。勿論ちょっとしたトラブルの種みたいなものは散発するがそれを解消するから儲けや成長が生まれる。
良く言えば順風満帆、だがそれは悪く言えば歯応えが無い。
毎朝会社に来て上司に言われたことをやって顧客の話を聞いて毎晩自宅に帰る、その繰り返し。いつかはひとつ上のキャリアに進むのだろうが、進んだところで今度は顧客との折衝が他の営業マンの管理に変わるだけ。
結婚もいつかするのだろうと思っているが恋愛の方法もよくわからないしそもそもあまり女性に興味が無い。性欲はあれどそこに至るまでの交流を考えると途端に面倒になって結局1人でいいやと思ってしまう。
本気でのめり込むことがあるわけでもなく、ただ暇な時間を埋めたり薄い快楽を得る為だけにサブカルコンテンツを消費するだけの冴えない男。
それを見抜いて尚、何故俺を指名するのか理解に苦しむ。
「……具体的に、仕事内容はどう変わります?」
「普段の残業は完全にゼロ。そうなるよう仕事量を減らします。基本給アップ、その上で僕とお付き合いしてくれればその分の残業代をお支払いします。勿論僕に関わる上で掛かる費用や食費は全部僕が持ちます。それ以外に欲しい物があれば言ってくれればそちらも検討します。頻度は多少上下すると思いますが、最初は週1ぐらいでしょうか」
「つまり社長とタダで飲み食いしたり遊んだりするだけで給料が増えると?」
「ざっくり言えばそんな感じです。やってみて嫌になったら元の部署に戻ってもらうこともできます。どうです、悪い話じゃないでしょう?」
「ええ、良い話すぎて少し怖いですね。俺を選んだ理由も結局ピンときませんし……何か変なことをさせるつもりだったりしません?」
「…………さぁ、どうでしょう?」
否定しないのか……笑って小首を傾げる様子は女なら可愛いと惚れるポイントだろうが、今の俺にとっては食えない奴めという感想しかない。これ以上追及してもまともな答えは期待できなさそうだ。
一旦ソファに完全に背中を預けて紅茶を啜りながら考える。
どうせ灰色の人生だ、この男の酔狂に身を預けてみてもいいのかもしれない。自分で変わる勇気も気力も無い俺にとって、これは願ってもない大チャンスだということはわかる。
いや、そんな夢や希望すらも希薄で、今の俺にあるのは、そう。
どうにでもなっちまえ。そんな自嘲めいた感覚だった。
最悪ボロ雑巾みたいになって捨てられても、それはそれでその程度の運や巡り合わせしか持っていなかったと思おう。それでもきっと今よりはマシだ。
「……わかりました。いいですよ、俺でよければその任、お受けさせて頂きます」
「良かった! ありがとうございます! 神河さんが楽しめるように僕、頑張りますからね!」
手を打って無邪気にはしゃぐ社長は子供のようだった。声も弾んでいて随分と浮かれているが、そこまで喜ぶ理由をその時の俺はまだわかっていなかった。
ただ嬉しそうに契約書を差し出す様子を見ながら、悪い人ではないだろうと、そんな楽観的な考えを抱いていた。
実際のところ、相談役は俺が思う以上に楽しかった。
趣味が合うという社長の読みは確かに当たっていた。同い年ということもあるだろうが、そうでなくとも子供の頃にやった遊びや玩具が被っていたり、彼もまた実はオタク寄りの人間だった。
最初の飲み会こそ探り探りだったが思い出のアニメ辺りから警戒心は解け、その晩の内にカラオケに行き往年の名曲(勿論アニソンだ)をデュエットした。
食事をする店選びは全て先方だったがどれもセンスが良いし美味かった。俺の給料では到底行けそうにない店では個室に通され周囲の目や作法を気にしなくてよかったし、逆に八嶋の方が綺麗すぎて若干浮きかねない大衆酒場へも行った。
俺は元々酒には結構強いが社長はその上を行く酒豪だった。決して大きく崩れることはなく、ほろ酔いだと陽気な性格が更に強調されるという、営業の上位互換のような社長という任に向いた体質をしていた。店員にも気さくに話すし自然とこちらから話してしまうような質問を向けて来る。代表取締役としては若い部類だが、逆にこの人懐っこさで色々教えてくださいと擦り寄られたら百戦錬磨の他企業の社長でも籠絡されるかもしれない。
好きなもののこと、仕事のこと、家族のこと、小さい頃の思い出。
約1ヶ月の間、会う度に俺は色々なことを八嶋に話した。
他の同僚には言えないことも彼ならばと伝えたし、ふざけて冗談も言い合った。こんなソフトはどうかとひたすら夢の機能を付け足し続けることもあった。翌日冷静になったら即刻ボツにするような内容でも、バカを言い合っている間は本当に楽しかった。
「神河さん、最近良いことありました?」と職場で言われることも何度かあった。相談役就任は上長しか知らないので適当に誤魔化していたら恋人でもできたのかという信じられない予想がされていた。
でも。
八嶋から早く次の誘いが来ないかと、そうでなくても下らない会話ができないかと1日の内に何度もスマホを見てしまう。実際に誘いが来たらどんな話をしようかとウキウキで考えてその日を心待ちにする。会っている間は楽しくて、別れ際は心残りがある。
そうか、これは確かに恋人ができた時と同じ所作だ。
勿論彼に恋愛感情は無い。ただ彼を人間として気に入っていて、彼についてもっと知りたいと思っていただけで、下世話なことは考えもしなかった。
あちらは元々社長という立場もあって下ネタはやんわり避けるようにしていたし、俺も自分の汚さを隠したかったから好都合だった。男同士にしては異質だったかもしれないが、それで上手く回っていたのだ。
契約時に説明されていた目的が達成されているかなんて気にしなかった。必要なら彼から訊いてくるだろうと思っていた。金を気にせず食って飲んで健全に遊ぶ、それだけで俺は満足していた。
だから油断していた、のかもしれない。
生々しい欲望が無かったのではない。露わにすると問題があるから伏せていたのは向こうも同じだった。性的だからとか立場を気にするレベルではない、もっと貪欲な闇がお互いにあった。
それに気付いたのは、その時が来てからだった。
生まれて初めて足を踏み入れた社長室は、ドラマとかで見るよりも簡素であり、それでも充分豪華だった。
木で出来た大きなデスクの上にはディスプレイモニターが2枚。キーボードとマウスの周りにはタンブラーぐらいしか無く、ほとんどの業務をオンラインでこなすペーパーレスな弊社らしいスマートさだ。他には向かい合わせになった4人掛けソファとその間のローテーブル、戸棚が幾つかとプロジェクターぐらいしか物品は無い。
だからこそだろうか、俺の向かいの席に座る青年がどうしたって眼を引く。
柔らかで弱目のウェーブの掛かった焦茶色の短髪にスラっと通った目鼻、薄い唇。日本人離れした整った顔立ちは、真顔になればクールな印象を与えるが実際は優しげな微笑みを湛えていてどことなく人懐っこさもある。高身長で相応にガタイが良く、ピッチリと皺ひとつ無い高級そうなグレーのスーツを着こなし、これまた高級そうな腕時計が手首に見え隠れしているが嫌味な印象はまるで無い。
これがウチの会社「ヤシマテック」の若きトップ、八嶋瑛鷹。日本中に名を轟かす大企業「八嶋商事」設立者の御曹司にして、俺と同じ30歳でひとつの会社を切り盛りする遣り手の社長だ。
ちなみに彼の隣には秘書長と名乗った老齢の男性が座って話を進行しているが、その風格は寧ろ役員に匹敵するんじゃなかろうか。もしかしたら権限や社内の立場は同等かもしれない。手にしている黒いファイルの中にはきっと俺の書類が入っているんだろう。
そこには中肉中背、黒髪短髪、日本のどこにでも居そうな塩顔の男の写真も添えられているかもしれない。多少仕事はできるし体力にも自信はあるが取り柄はそれぐらいしかない、色々な意味で目立たないモブのような存在。
そんな俺が何だって偉い人の相談役だか顧問だかに選ばれたのか。そもそも社長室への呼び出しという時点で心臓がバックバクの俺はソファに座った膝の上で握った拳を解けずにいる。
「あの……申し出は大変ありがたいのですが、どういうことなのか説明頂けないでしょうか……?」
「ええ勿論。急な話で申し訳ありません。もしお断りされても何の影響もありませんので、リラックスしてお聞き下さい」
社長がそう語ったタイミングで部屋のドアがノックされ、別の女性秘書がお茶を持って来る。美しいティーカップとソーサーで提供される芳しい紅茶。やはりこういう所も社長室は違うらしい、いつも我々下々の会議では紙コップだ。
「ありがとうございます」と秘書に小さく感謝を述べた社長はまず自分からと言わんばかりに座り方を少しばかり崩してまず紅茶を一口飲む。面と向かって話をするのは初めてだが、嫌な噂は全く聞かないどころか好評しか耳に入って来ないのはこういうところが理由のひとつかもしれない。
俺も緊張を完全に解かないまでも、意識的に伸ばしていた背筋から少し力を抜いた。カップを手に取り口へ運ぶ。美味いは美味いのだが貧乏舌にはどう美味いのかよくわからなかった。
「さて、神河さんから見て、僕はどのような人間に見えますか?」
「……へ?」
そんな矢先に向けられた問いに思わず間抜けな声が出る。
にこやかに真っ直ぐこちらを見る表情も眼差しもとても優しい。どう答えるべきかと数秒まごつく間も彼は黙って待っていてくれた。
「えっと……とても優秀な方と聞いています。この会社を設立後、大きなトラブルも無く業績は安定、社員としてもとても働きやすくて……俺と同い年なのにそういうことできるの、凄いなと思います」
「……他には?」
「他に……? えっと……」
しまった。俺は必死に言葉を探すも何も出て来ない。
そもそもサラリーマンとして働いている間、末端である俺の立場では社長の存在を意識することなどほとんど無い。入社前に会社のデータとして簡単な人となりはチェックしたがその情報は概ね今言った通りだ。
一応一緒に働いている女性社員達からは格好良いだのアタックしてみようかなだの浮ついた話が漏れ聞こえて来るが本人に話すべきことではないだろう。
つまり俺は、八嶋瑛鷹についてほとんど何も知らない。
「……神河創貴さん。営業部所属。1年半前に株式会社アンブローズから転職。前社ではSEだったがそれ以上の成長は見込めないと弊社へ来て頂き、主にお客様への技術的説明を担当。仕事は真面目で丁寧、周囲の調和を重んじる一方で自分のことはあまり表に出さないタイプ。コミュニケーションは問題無く取れるもののどちらかというと孤独が好き。趣味はゲームと漫画……合っていますか?」
「え……は、はい……」
社長という立場上、配属や業務情報は当然持っているだろうがそんなパーソナルな部分まで見られていたことに視線が泳ぐ。性格等々も滞り無く仕事を進める上では把握しておくべきことだと頭で理解はできるのだが、言葉にされると少し胸が痛い。
俺は所謂オタクだが、そこまでディープでもない。どちらかと言えばゲームをしたり漫画を読んだりするのが好きというだけで特別詳しいわけでもないしスーパープレイもできない。
だから他人と会話する時は相手のペースに併せて終始当たり障りの無い応対でこれまで切り抜けて来たのだが、この男の眼はあまりに真っ直ぐすぎて事実の指摘でも気恥ずかしくなってくる。仕事モードならばもう少しはまともに話せるのだが完全に場の空気に呑まれていた。
「神河さんについては少々調べさせて頂きましたが、逆に言えばわかったことはこのぐらいです。それも人伝ですから完全に正確でもないでしょう。でも僕は、社員の皆さんのことをもっとよく知りたいし、皆さんに僕のことを知ってもらいたいんです」
「……もしかして、相談役ってそういう……?」
「はい! あ、でも難しく考えないでくださいね。要は時々会って飲みましょう、そうやって情報交換しましょうってことなんで」
重役とのランチミーティングみたいなことか。スタートアップの会社でたまに聞くやつ。
それ自体はありがちだが疑問も残る。
「あの、それでなんで俺なんですか? 社員のことを知るなら特別な1人を決めるんじゃなくローテーションとかにすると思いますし、固定するにしてももっと適任な人が居るんじゃ……?」
「僕の趣味です」
「……は?」
「何人か候補を探す中で、神河さんが一番有能で的確かつ僕と趣味が合うと思いました。それに僕に付き合ってもらう分仕事量の調整が入るので、特別な肩書きを付けてもらう方が都合が良いんですよ。……それに」
そんな理由で……というか仕事にまで影響が出るって、実は飲み会や情報交換どころじゃなく、何かもっと大事に関わらせる気だったりしないか?
オタク的発想をするなら、そういう特殊な部署は汚れ仕事を任されると相場が決まっている。今は聞こえの良いことを言っておいて引くに引けなくなったところで何かさせる気かもしれない。会社も社長も黒い噂は聞かないが俺が知らないだけって可能性は充分にある。
——でも、駄目だった。
「それに神河さん、今の仕事がつまらなくて仕方無いでしょう?」
にこやかに、本当に人が良さそうに八嶋が眼を細める。その笑顔は天使のように慈愛を湛えたものですぐ縋り付きたくなってしまうのに、同時に俺はほんの少しだけ恐怖も感じた。多分本能的な警戒ってやつだ。
彼の言葉は図星だった。
嫌味になるかもしれないが正直俺は仕事ができる。顧客は接しやすい人ばかりだし社内の開発チームも優秀だからその間を取り持つ営業としての苦労は少ない。勿論ちょっとしたトラブルの種みたいなものは散発するがそれを解消するから儲けや成長が生まれる。
良く言えば順風満帆、だがそれは悪く言えば歯応えが無い。
毎朝会社に来て上司に言われたことをやって顧客の話を聞いて毎晩自宅に帰る、その繰り返し。いつかはひとつ上のキャリアに進むのだろうが、進んだところで今度は顧客との折衝が他の営業マンの管理に変わるだけ。
結婚もいつかするのだろうと思っているが恋愛の方法もよくわからないしそもそもあまり女性に興味が無い。性欲はあれどそこに至るまでの交流を考えると途端に面倒になって結局1人でいいやと思ってしまう。
本気でのめり込むことがあるわけでもなく、ただ暇な時間を埋めたり薄い快楽を得る為だけにサブカルコンテンツを消費するだけの冴えない男。
それを見抜いて尚、何故俺を指名するのか理解に苦しむ。
「……具体的に、仕事内容はどう変わります?」
「普段の残業は完全にゼロ。そうなるよう仕事量を減らします。基本給アップ、その上で僕とお付き合いしてくれればその分の残業代をお支払いします。勿論僕に関わる上で掛かる費用や食費は全部僕が持ちます。それ以外に欲しい物があれば言ってくれればそちらも検討します。頻度は多少上下すると思いますが、最初は週1ぐらいでしょうか」
「つまり社長とタダで飲み食いしたり遊んだりするだけで給料が増えると?」
「ざっくり言えばそんな感じです。やってみて嫌になったら元の部署に戻ってもらうこともできます。どうです、悪い話じゃないでしょう?」
「ええ、良い話すぎて少し怖いですね。俺を選んだ理由も結局ピンときませんし……何か変なことをさせるつもりだったりしません?」
「…………さぁ、どうでしょう?」
否定しないのか……笑って小首を傾げる様子は女なら可愛いと惚れるポイントだろうが、今の俺にとっては食えない奴めという感想しかない。これ以上追及してもまともな答えは期待できなさそうだ。
一旦ソファに完全に背中を預けて紅茶を啜りながら考える。
どうせ灰色の人生だ、この男の酔狂に身を預けてみてもいいのかもしれない。自分で変わる勇気も気力も無い俺にとって、これは願ってもない大チャンスだということはわかる。
いや、そんな夢や希望すらも希薄で、今の俺にあるのは、そう。
どうにでもなっちまえ。そんな自嘲めいた感覚だった。
最悪ボロ雑巾みたいになって捨てられても、それはそれでその程度の運や巡り合わせしか持っていなかったと思おう。それでもきっと今よりはマシだ。
「……わかりました。いいですよ、俺でよければその任、お受けさせて頂きます」
「良かった! ありがとうございます! 神河さんが楽しめるように僕、頑張りますからね!」
手を打って無邪気にはしゃぐ社長は子供のようだった。声も弾んでいて随分と浮かれているが、そこまで喜ぶ理由をその時の俺はまだわかっていなかった。
ただ嬉しそうに契約書を差し出す様子を見ながら、悪い人ではないだろうと、そんな楽観的な考えを抱いていた。
実際のところ、相談役は俺が思う以上に楽しかった。
趣味が合うという社長の読みは確かに当たっていた。同い年ということもあるだろうが、そうでなくとも子供の頃にやった遊びや玩具が被っていたり、彼もまた実はオタク寄りの人間だった。
最初の飲み会こそ探り探りだったが思い出のアニメ辺りから警戒心は解け、その晩の内にカラオケに行き往年の名曲(勿論アニソンだ)をデュエットした。
食事をする店選びは全て先方だったがどれもセンスが良いし美味かった。俺の給料では到底行けそうにない店では個室に通され周囲の目や作法を気にしなくてよかったし、逆に八嶋の方が綺麗すぎて若干浮きかねない大衆酒場へも行った。
俺は元々酒には結構強いが社長はその上を行く酒豪だった。決して大きく崩れることはなく、ほろ酔いだと陽気な性格が更に強調されるという、営業の上位互換のような社長という任に向いた体質をしていた。店員にも気さくに話すし自然とこちらから話してしまうような質問を向けて来る。代表取締役としては若い部類だが、逆にこの人懐っこさで色々教えてくださいと擦り寄られたら百戦錬磨の他企業の社長でも籠絡されるかもしれない。
好きなもののこと、仕事のこと、家族のこと、小さい頃の思い出。
約1ヶ月の間、会う度に俺は色々なことを八嶋に話した。
他の同僚には言えないことも彼ならばと伝えたし、ふざけて冗談も言い合った。こんなソフトはどうかとひたすら夢の機能を付け足し続けることもあった。翌日冷静になったら即刻ボツにするような内容でも、バカを言い合っている間は本当に楽しかった。
「神河さん、最近良いことありました?」と職場で言われることも何度かあった。相談役就任は上長しか知らないので適当に誤魔化していたら恋人でもできたのかという信じられない予想がされていた。
でも。
八嶋から早く次の誘いが来ないかと、そうでなくても下らない会話ができないかと1日の内に何度もスマホを見てしまう。実際に誘いが来たらどんな話をしようかとウキウキで考えてその日を心待ちにする。会っている間は楽しくて、別れ際は心残りがある。
そうか、これは確かに恋人ができた時と同じ所作だ。
勿論彼に恋愛感情は無い。ただ彼を人間として気に入っていて、彼についてもっと知りたいと思っていただけで、下世話なことは考えもしなかった。
あちらは元々社長という立場もあって下ネタはやんわり避けるようにしていたし、俺も自分の汚さを隠したかったから好都合だった。男同士にしては異質だったかもしれないが、それで上手く回っていたのだ。
契約時に説明されていた目的が達成されているかなんて気にしなかった。必要なら彼から訊いてくるだろうと思っていた。金を気にせず食って飲んで健全に遊ぶ、それだけで俺は満足していた。
だから油断していた、のかもしれない。
生々しい欲望が無かったのではない。露わにすると問題があるから伏せていたのは向こうも同じだった。性的だからとか立場を気にするレベルではない、もっと貪欲な闇がお互いにあった。
それに気付いたのは、その時が来てからだった。
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