上 下
6 / 47
本編 第2章

パン屋の看板娘

しおりを挟む
「ありがとうございました~!」

 ヴェルディアナとリベラトーレの婚約が実質の破棄になってから、早くも十年の歳月が流れた。

 ヴェルディアナは二十五歳を迎え、現在は王都にある下町のパン屋『ライ』にて看板娘として働いている。この『ライ』というパン屋はこの辺りでは美味しいと評判であり、ひっきりなしに客がやってくる。そのため、比較的忙しい職場だった。

「ディアちゃん。そろそろいったん休憩に入ってもいいよ~」
「あ、は~い」

 このパン屋の店主である夫妻は、ヴェルディアナが没落貴族の娘だと知っても態度を変えずに雇ってくれる貴重な人物だった。それに合わせ、とてもお人好しであり困っている人を放っておけないタイプ。そんなこともあり、ヴェルディアナはここに勤めてもうすでに五年が経過していた。ちなみに、『ディア』というのはここでのヴェルディアナのあだ名のようなものだ。

 店舗の奥にある休憩室に入れば、そこにはヴェルディアナの友人の一人であるアナベル・ライがいた。彼女はこのパン屋の店主夫妻の娘であり、将来はこのパン屋を継ぐために普段から厨房でパン作りに励んでいる真面目な女性だ。

 そして、ヴェルディアナが来るまでこのパン屋の看板娘だった女性でもある。これは比較的有名な話だ。

「ディア、今日も忙しいねぇ~」

 アナベルはきれいな金色の目を細めながら、ヴェルディアナにお茶の入ったカップを差し出しながらそう言ってくれる。

 だからこそ、ヴェルディアナは「……忙しいのは、別にいいのだけれど」と言いながらカップを受け取った。その後、そのお茶でのどを潤す。接客業はやはりのどが渇いてしまう。そう思っていた。

「あはは、まーたイザーク様がちょっかいを出しに来られたんだっけ」

 そう言ってアナベルはけらけらと声を上げて笑った。そういうこともあり、ヴェルディアナは「あのお方、私が落ちぶれたのを見て楽しんでいらっしゃるのよ」と苦虫をかみつぶしたような表情で零す。

 ヴェルディアナの幼馴染であるイザーク・レールは何故か週に一度のペースでヴェルディアナの様子を見るためと言って、『ライ』を訪れていた。その際に一言二言三言も嫌味を告げ帰っていくため、ヴェルディアナは本気でイザークに迷惑していたのだ。もちろん、パンを買って行ってくれるのは素直にありがたい。が、そもそもイザークは貴族である。そのため、こんな下町のパン屋に来る必要はない。

「きっと、ディアのことが好きなのよ。未練があるんじゃない?」
「ないない! イザーク様って、昔から私に意地悪ばっかりしてきたのだもの」
「でも、未だに独身じゃない、彼」

 アナベルのその言葉は真実だ。イザークは二十五歳を迎えた今でも独り身だった。

 以前ヴェルディアナは彼に結婚しないのかと遠回しに尋ねたことがあった。しかし、その際にイザークは「ヴェルディアナには関係ねぇだろ」と突っぱねてきて。それ以来、ヴェルディアナは尋ねることをしていない。むしろ、できれば会話もしたくないのだ。

「愛情の裏返しかもね~」

 そんなことをアナベルはのんきに言うが、そんなものヴェルディアナからすれば迷惑でしかない。愛情の裏返しで意地悪をされるなど、絶対にごめんだ。

「そういえば、ディアってさ。ずっと昔に婚約者がいたんだよね?」

 他愛もない会話をしていると、不意にアナベルがそう問いかけてきた。ヴェルディアナの婚約者。とはいっても、それは本当に短い間のものである。

(あれは、夢よ)

 だからこそ、ヴェルディアナはずっとそう思ってきた。あんなにもきれいな屋敷に招待され、美味しい紅茶とお茶菓子を出される。そんなもの……自分に縁があるわけがない。

「……まぁ、ね。けど、私が没落令嬢になったから、婚約は実質解消よ。あちらも、もうすでに新しい人がいるはずだわ」

 あれから十年も経った。だからこそ、リベラトーレも十八歳を迎えている。ということはきっと、可愛らしい同い年くらいの令嬢と結婚、または婚約しているはず。そんな想像をヴェルディアナはしてしまった。

「……あはは。って、そうそう。お話は変わるんだけれど、ディアに一つだけ報告があります~!」

 ヴェルディアナがリベラトーレのことを考えていると、アナベルは手をパンっとたたいてそんなことを言う。その表情はとても嬉しそうであり、何かいいことがあったのは間違いないだろう。

「私ね、彼にプロポーズされちゃったの!」
「そうなの⁉ おめでとう!」

 アナベルの言葉にヴェルディアナは驚きながらも祝福の言葉を告げる。

 彼女には幼馴染の恋人がおり、その恋人とはかれこれ三年ほど付き合っているというのは、ヴェルディアナも聞いていた。相思相愛ということもあり、そろそろ結婚するかも……とヴェルディアナも思っていたのだ。しかし、本当にいざその時が来ると嬉しいものだ。大切な友人には、やはり幸せになってほしい。ヴェルディアナは心の底からそう思っていた。

「小規模だけれど、挙式もする予定なんだ。だから、ディアにも日程が決まったら教えるね。ぜひ、来てほしいのよ」

 にっこりと笑ってそう告げてくるアナベルに、ヴェルディアナは「絶対に行くわ!」と笑顔で言葉を返す。きっと、ウェディングドレスを身に纏ったアナベルは、とてもきれいだ。それは、容易に想像が出来る。

(私も、そろそろ恋人とかほしい……かも)

 幸せそうなアナベルを見ていると、ふとヴェルディアナはそんなことを思ってしまう。恋人にするのならば、やはり年上で頼りがいがあり、たくましく筋肉ムキムキの男性が良いなぁ。年下は多分無理。

「ディアにもいい人が出来たら教えてね! お祝いするから!」
「……ありがとう」

 アナベルのその言葉が純粋に嬉しかったこともあり、ヴェルディアナは笑顔のままお礼を言う。

 いつかは自分にも素敵な恋人が出来て、結婚出来たらいいなぁ。そんな淡い夢を、この時のヴェルディアナは見ていた。だが、その夢はあっけなく木っ端みじんとなる。

 ――たった一つの、『呪い』によって。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

転生令嬢は婚約者を聖女に奪われた結果、ヤンデレに捕まりました

高瀬ゆみ
恋愛
侯爵令嬢のフィーネは、八歳の年に父から義弟を紹介された。その瞬間、前世の記憶を思い出す。 どうやら自分が転生したのは、大好きだった『救国の聖女』というマンガの世界。 このままでは救国の聖女として召喚されたマンガのヒロインに、婚約者を奪われてしまう。 その事実に気付いたフィーネが、婚約破棄されないために奮闘する話。 タイトルがネタバレになっている疑惑ですが、深く考えずにお読みください。 ※本編完結済み。番外編も完結済みです。 ※小説家になろうでも掲載しています。

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

ラヴィニアは逃げられない

恋愛
大好きな婚約者メル=シルバースの心には別の女性がいる。 大好きな彼の恋心が叶うようにと、敢えて悪女の振りをして酷い言葉を浴びせて一方的に別れを突き付けた侯爵令嬢ラヴィニア=キングレイ。 父親からは疎まれ、後妻と異母妹から嫌われていたラヴィニアが家に戻っても居場所がない。どうせ婚約破棄になるのだからと前以て準備をしていた荷物を持ち、家を抜け出して誰でも受け入れると有名な修道院を目指すも……。 ラヴィニアを待っていたのは昏くわらうメルだった。 ※ムーンライトノベルズにも公開しています。

どなたか私の旦那様、貰って下さいませんか?

秘密 (秘翠ミツキ)
恋愛
私の旦那様は毎夜、私の部屋の前で見知らぬ女性と情事に勤しんでいる、だらしなく恥ずかしい人です。わざとしているのは分かってます。私への嫌がらせです……。 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆ 政略結婚で、離縁出来ないけど離縁したい。 無類の女好きの従兄の侯爵令息フェルナンドと伯爵令嬢のロゼッタは、結婚をした。毎晩の様に違う女性を屋敷に連れ込む彼。政略結婚故、愛妾を作るなとは思わないが、せめて本邸に連れ込むのはやめて欲しい……気分が悪い。 彼は所謂美青年で、若くして騎士団副長であり兎に角モテる。結婚してもそれは変わらず……。 ロゼッタが夜会に出れば見知らぬ女から「今直ぐフェルナンド様と別れて‼︎」とワインをかけられ、ただ立っているだけなのに女性達からは終始凄い形相で睨まれる。 居た堪れなくなり、広間の外へ逃げれば元凶の彼が見知らぬ女とお楽しみ中……。 こんな旦那様、いりません! 誰か、私の旦那様を貰って下さい……。

アルバートの屈辱

プラネットプラント
恋愛
妻の姉に恋をして妻を蔑ろにするアルバートとそんな夫を愛するのを諦めてしまった妻の話。 『詰んでる不憫系悪役令嬢はチャラ男騎士として生活しています』の10年ほど前の話ですが、ほぼ無関係なので単体で読めます。

【R18】純粋無垢なプリンセスは、婚礼した冷徹と噂される美麗国王に三日三晩の初夜で蕩かされるほど溺愛される

奏音 美都
恋愛
数々の困難を乗り越えて、ようやく誓約の儀を交わしたグレートブルタン国のプリンセスであるルチアとシュタート王国、国王のクロード。 けれど、それぞれの執務に追われ、誓約の儀から二ヶ月経っても夫婦の時間を過ごせずにいた。 そんなある日、ルチアの元にクロードから別邸への招待状が届けられる。そこで三日三晩の甘い蕩かされるような初夜を過ごしながら、クロードの過去を知ることになる。 2人の出会いを描いた作品はこちら 「純粋無垢なプリンセスを野盗から助け出したのは、冷徹と噂される美麗国王でした」https://www.alphapolis.co.jp/novel/702276663/443443630 2人の誓約の儀を描いた作品はこちら 「純粋無垢なプリンセスは、冷徹と噂される美麗国王と誓約の儀を結ぶ」 https://www.alphapolis.co.jp/novel/702276663/183445041

夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました

氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。 ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。 小説家になろう様にも掲載中です

皇太子夫妻の歪んだ結婚 

夕鈴
恋愛
皇太子妃リーンは夫の秘密に気付いてしまった。 その秘密はリーンにとって許せないものだった。結婚1日目にして離縁を決意したリーンの夫婦生活の始まりだった。 本編完結してます。 番外編を更新中です。

処理中です...