サラリーマンの宮下くん(25)が妖怪大冒険に出席いたします!

梅村香子

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其の七

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「あき……」
「ん?」

よく知りもしないくせに、二人の関係に思考を巡らせていた明人は、魃鬼の声に慌てて現実に戻った。

だめだめ。

今は何より水虎。

神降ろしだ。

「あのな……」
「何?」

珍しく魃鬼が言い淀む。

「……提案が、一つある」
「提案?」

何だろうか。
硬い表情の魃鬼がゆっくりと言葉を続けた。

「あきにとっては、すげぇ辛い話になるが……雨師に差し出す供物に辻の魔も足せば、あきの身辺も一度ですっきりする。おびき寄せなきゃなんねぇから、苦しい思いをする事になんだけどな……」

明人はわずかに瞠目して、琥珀の瞳を見た。

「……水虎達と一緒に、供物として雨師様へ?」
「そうだ」

もし、辻の魔も共に雨師に差し出せば、非時香果だの七日の命だのと怯えなくてよくなる。

「そ、そんな事、できるの……?」
「……さっき不安に取り憑かれてただろ? あれと同じように身の内で不安の闇を育てて、あきを喰いたがってる辻の魔を、逆におびき寄せんだよ。負担になんだろうが……雨師に引き取らせるには、それしかねぇ」

あの思い出したくもない不安と恐怖。
あれをもう一度乗り越えないといけないのか。
胸の内に蘇る冷たい恐怖。

「できねぇなら、無理にとは――」
「いや、やるよ」

明人は即答した。

怖ろしい。

けれど、この機を逃せば、水虎と櫛の件は解決したとしても、辻の魔には狙われ続ける事になる。

それは嫌だ。

怖い事は全部一緒に終わらせた方が、いいに決まっている。

「明人くんは、辻の魔にも狙われてるの?」

滝霊王から、そこまでは聞いていなかったのだろう。清が問う。

「ああ。水虎に精気を吸われて弱った辻の魔に、喰われそうになってんだ」

明人の代わりに魃鬼が説明していく。
千徳が非時香果を差し出す約束した所で、清が呆れた顔をした。

「そんな無茶な」

やっぱり、皆同じリアクションだ。

「あ~。それは、この際だから一緒に雨師様に差し上げた方がいいね」
「全部終わらせた方が後が楽だ。けど……本当にいいのか?」

ためらいがちに魃鬼が再度確認してくる。
魃鬼は、恐怖に取り憑かれて苦しんでいる明人を見ているのだ。
どれだけ辛いか知ってくれている。

「大丈夫。辻の魔をおびき寄せてからの神降ろし。僕、頑張るよ」

全て一緒に終わらせた方が、皆にも迷惑がかからない。
何度も捕らわれて味わったあの不安と恐怖を、今度はこちらが利用して、辻の魔をおびき寄せるのだ。

「皆が僕の命の為に協力してくれている。全てを終わらせる最善の方法があるのなら、選択肢なんて存在しない。怖がってないで、僕ができる事は何だってしないと」

それが、今の自分にできる唯一の役割だ。

「……辛いだろうが、オレ達は絶対にあきを一人にはしねぇからな」
「うん……ありがとう」

魃鬼の言葉からにじむ優しさと力強さに、胸の奥が温かくなった。
しかし、それで体まで温める事はできなくて、明人は肌寒さに体をぶるりと震わせた。
霧雨がどんどん雨足を強くしていたのだ。
服はほとんど濡れていないのだが、雨粒一つ一つが見る見るうちに大きくなっていくのが分かる。

「おい、降らせ過ぎだ」

雨降り小僧の力かと、魃鬼が清を鋭く見下ろす。

「いや、ぼくは何も――」

激しい雷鳴が轟き、清の言葉を消す。
峻生のものだろう。ぐっと距離が近くなっただろうか。
様子をうかがっていると、続く雷鳴と稲光の隙間から、それに負けないように張り上げる声がした。
この親しみのある性別を感じない声。
次第に音量が大きくなり、雨闇の中に茶色い体がうっすらと現れる。

「どこじゃ!? どこにおる!? もう幽冥界に行ってしもうたか」

明人達の姿を捜して、千徳が周囲を見回している。
すぐ側にいるのに、明人達の姿が見えないのか。

「ぼくの結界のせいだ。見えるようにするね」

清が軽く目を閉じる。
その瞬間。
周りの雨の濃度が薄くなった。

「あぁっ! 良かった、良かった。まだこっちにおったか」

千徳が駆けてくる。

「千徳さんこそ無事で良かった!」

目の前でふわりと浮いた貉を、明人は濡れる事を厭わず胸に抱いた。

「すまん。油断して捕まってしもうての」
「油断しなくても、捕まってたんじゃねぇの?」

魃鬼が、自分も捕まりそうになっていた事を忘れたかのように、千徳をからかう。

「うるさいぞ、魃鬼っ!」

千徳が濡れそぼった毛を逆立てて言う。

「今、鵺と滝霊王が水虎の相手をしてるよね」

清の確認に、千徳は大きく頷いた。

「相当な数の妖怪を、喰い散らかしたようじゃ。とんでもなく強くなっておって、二人がかりでも苦戦しておる」
「せめて、ある程度弱らせてくんねぇと、話になんねぇけどな……」
「弱らせる? 二人は倒そうとしておるのじゃぞ?」
「オレらの中で作戦変更になったんだ。こいつから色々聞いてな」

魃鬼が親指で清を指し示す。
千徳は、今、気付いたばかりのように声を上げた。

「そういえば、おぬしは雨降り小僧の清ではないか! この雨が気になって来たのか?」
「久しぶり、千さん。まぁそんな所かな」
「こいつ、オレ達より先に色々調べて、滝霊王とも話してんだ」

魃鬼が、かい摘んで三人で話した内容を説明する。
明人が辻の魔をおびき寄せ、神降ろしまで行うと聞くと、千徳がビビビと濡れた尾を立たせた。

「な、何じゃとっ!? そんな、下手をすればあきが喰われてしまう」

千徳は明人の胸から飛び出すと、宙に浮いたまま声を強くした。

「それは分かってんだよ。その上での作戦だ。あきはオレ達で守ればいい。いっきに終わらせられんだ。この機会を逃す手はねぇ」
「確かにそうじゃ……しかし……」
「僕も全て雨師様に受け取っていただけたらと思う……非時香果を探さなくてよくなるしね」

明人の言葉に、千徳は言いたい事を飲み込んだようだった。

「……くれぐれも慎重にな」
「うん」

一際、強い雷鳴が辺りに響く。
どんどん近くなっている。

「そうじゃ。水虎が痺れを切らして、直接櫛を奪いに動き始めたようでな。自ら気配を探って、あきを追おうとしておる。峻生と滝霊王が必死で阻止しておるが、勢いが凄まじすぎる。このままじゃと、神降ろしをする前に、あきが襲われてしまう。一度、幽冥界に行くか」
「……少しずつ戻ろうと思ってたが無理そうだな。すぐに幽冥界へ動くぞ。もたもたしてっと追いつかれる」

魃鬼が明人の背をポンと叩くと、先を歩き始める。
清の結界に守られながら、明人も再び幽冥界に向けて足を踏み出した。

「……千徳さん。峻生さん達、怪我……してた?」

濃い雨気の中で、明人は側を歩く千徳に問いかける。
熾烈な戦いに身を投じている峻生と滝霊王。
大妖二人がかりでも弱らせる事すら難しいとは。
肥大した水虎の妖力とは、どれほどのものなのか。
明人には想像すらできないが。
もし二人が深く傷ついていたらと思うと、明人は心がぎゅっと引き絞られるような心地がした。

「今のところ、大きな怪我はしておらん……」

大きなという事は、小さな怪我はしているのだ。

「ねぇ清。今からすぐに神降ろしはできない? 弱るのを待っていて、二人に何かあったら……」

明人は堪らず清の肩に触れた。

「……さすがに水虎が暴れ回ってる中に、雨師様をお呼びしても上手くいかないと思う。ぼく達まで危険な目に遭っちゃうしね。戦ってくれている二人はそんな事を望んでないよ。それでなくとも、こっちで神降ろしをする計画は知らせてないんだ。ぼく達が水虎が弱るのを待ってる事だって、二人からすれば想定外で、勝手な行動だ。少し様子を見よう。大丈夫。聡明な鵺と滝霊王が、己の命を脅かすような立ち回りはしないよ」

清は肩に触れている明人の手を取った。冷たいその手を温めるように強く握る。

「峻生達を信じるんじゃ」

千徳が明人の足に優しく擦り寄った。

「……うん」

戦っている二人を思えば胸が潰れそうだ。
でも、神降ろしを成功させる為にも、時機を待たねば。

「信じる。信じるよ」
「うむ。よろしい!」

千徳が明人に笑みを向けた。

「無事に幽冥界に入れそうだな」

幽冥界を出入りする時のお馴染みの闇が迫るが、背後からの凄まじい稲光が周囲を明るくする。
雷撃は峻生が戦っている証。

「……ん? あの明るいの、何?」

激しい稲妻の明滅を振り返りながら明人が言う。
よく見ると、雷とは別の光がある。
それは、ふわふわと浮きながら、こちらに近づいて来ていた。

「あれは……雨が光っておるのか?」

千徳が呟いて、光るふわふわが雨だと認識できた瞬間。
清に背を押された。

「走ってっ!! 早くっ!!」
「き、清っ……!?」

押し出されるように走り出すと、すぐに周りが闇一色へ変化した。

「あの光る雨は水虎かっ!?」

走りながらの魃鬼の問いに、清が頷いた。

「雨で明人くんを探してるんだっ。あの光る雨が体に触れてしまったら終わり。全力で逃げるよ!」

再び後ろを向けば、光る雨は幽冥界にも侵入して、暗闇を明るく濡らしていた。

「とりあえず境界から出るぞ」

魃鬼が皆の先を走る。
闇が切れると、閑雅な竹林が周囲に現れた。
足元に広がる竹落葉をガサガサと蹴りながら、夜の竹林を走り続ける。
先程までいた森と違って、雲一つない空には綺麗な月が見える。
月明かりに竹林がうっすらと浮かび上がっている光景は、非常に幻想的だった。

「まずいぞ! 雨の量が増えて速くなってきておるっ」

千徳が焦りをにじませて言う。
確認するまでもなく、雨の気配が背後に迫っているのが分かった。
ザァと竹を濡らす雨音が鼓膜を切迫する。

「どこか隠れる所はないかのっ」
「あの雨は、全てをすり抜けて気配を察知するだけの力を持ってる。ちょっと隠れたぐらいだと見つかっちゃうよ」
「そんな力まで使えるようになってんのかよっ。クソ水虎はっ」
「ぼくも、ここまで器用に力を使えるなんて思わなかったよ」

息を切らしながら魃鬼が悪態をつく。
もはや、背後から強い照明を浴びているような状態だ。
雨はすぐ後ろ。急激に速さを増している。
明人は荒い呼吸の隙間に、ぎゅっと唇を噛んだ。
全力疾走の限界が訪れようとしている。
一番見つかってはいけないのは、櫛を持っている明人なのに。

苦しい。

肺が引き攣りそうだ。

「もう限界じゃぁ! 追いつかれるぞ」

竹林は昼間のように明るい。
もう数メートル後ろまで雨が迫ってきている。
走り続けられたとしても、すぐに濡れてしまうだろう。

水虎に見つかってしまう――。

「あきっ!!」

光る雨に追いつかれる寸前。
魃鬼に体を引っ張られた。
走っていた勢いのまま、落葉の上に倒される。
両手と両ひざをついてどうにか受け身を取ると同時に、魃鬼が体の上に覆いかぶさってきた。

「魃鬼……っ!?」
「完全に防げねぇだろうが、時間稼ぎだ」

魃鬼が、しゃがみ込んでいる明人の体を守るように、ぎゅっと腕に抱く。
二人の体の上に、追いついてきた光る雨が降り注いだ。
しかし、雨は体に触れる寸前の所で弾かれて蒸発していく。
魃鬼が妖力で、光る雨を退けてくれたのだ。

「そうか! おぬしの力で雨が消えるのか!」
「いや、完全に子供騙しだ。これは普通の雨じゃねぇ。ちょっと蒸発させただけじゃ意味がねぇし、妖力を派手に使うと水虎にバレる」
「……何にしろ、水虎にバレるのは時間の問題って事だね」

千徳と清が、光る雨に濡れながら動きを止めて、周囲の様子をうかがう。

「ど、どうしよう……。動いたらすぐにバレちゃうよね」

明人は、すぐ側で毛を立てて緊張している千徳に顔を向けた。

「そうじゃな。この辺り一帯は、雨が行き渡ってしもうた……」
「動けば水虎はすぐこっちに向かってくるよ」
「どうにか鵺と滝霊王が止めてくれるのを期待するしかねぇな」

美しい竹林に雨の音が響く。
次の一手に考えを巡らせるが、時間は無情に過ぎていき焦りだけが募っていく。
察知されるのを待っているより、追われるのを覚悟で動いた方がいいのか。
逡巡していると、全てを震わせるような獣の咆哮が、光る雨の向こうから空間を引き裂いた。
幽冥界の中だ。
距離感なんてないのかもしれないが、今までの雷よりも近くから聞こえたように感じる。

「あ……あれは峻生じゃ! 何であんなに吠えて……」

考え込もうとした千徳が、ピンと尾を立てた。

「皆、動くぞ!」
「え……?」
「今のは知らせじゃ。明確な場所はバレておらずとも、水虎はわし達にどんどん近づいておる。峻生はそれを知らせる為に吠えたのじゃ」

そう思えば、周囲に知らしめるような咆哮ではあったが。

「で、でも、動いた瞬間に、正確な場所が把握されてしまうよね?」
「せめてもの目くらましに、人の世と幽冥界をうろうろしてみるか」

魃鬼の提案に千徳が頷く。

「少し先に、人の世と出入りしやすい場所がある。そこまで全力疾走じゃ」
「分かったっ」

清の返事と共に、魃鬼に腕を引かれて立ち上ると、再び幽冥界の奥へと走り始めた。

峻生の激しい咆哮。

どう聞いても獣のものだった。
中学生の時に読んだ本では、鵺はどういう妖怪だったか――。
脳内を掘り返すが、やっぱり思い出せない。
とにかく、あんな野太い咆哮は、人の形をしていては出せないと思う。
峻生は獣の姿で戦っているのだ。

「水虎の奴、どう出るか……」

光る雨粒が明人の体を濡らす。
これで完全に水虎に居所が把握されてしまった。

これからどうなるか。
一秒先でさえ全く分からない。

とりあえず、逃げる。逃げる。逃げないと。

どこまでも続く竹林を走り続ける。
水虎の光る雨で、見通しは素晴らしくいい。

「早く倒すか弱らせるかしてくれねぇと、オレ達がぶっ倒れるな……」

魃鬼が顔をしかめながら言う。
さすがの妖怪でも、逃げ続けるのは限界があるようだ。

「この先にある、み――」

走りながら説明をしようとしていた千徳の声が、急に途切れた。
声だけではない。

千徳が消えた。

「千徳さんっ!? どこ!?」

どうしたというのか。

周囲を見回すが、何の痕跡もなく茶色い体がいなくなった。

「下だっ!!」

魃鬼が声を上げる。
何の事かと下を見ると、落葉で覆われていた地が一瞬でぬかるみに変化した。

これは河童だ。

魃鬼と逃れた河童の泥沼を思い出す。

そうだ。
居場所がバレているのだ。
水虎が来なくても、手下が来るのは当然だ。

「足を取られないでっ!」

清の忠告に応えるように、無数の手がぬかるみから伸びてきた。

「オレと小僧で蹴散らすっ。あきはとにかく突っ走れ!」

どうにか返事をしながら、明人は姿勢を整えて走り始めた。
左右後方で魃鬼と清が、足に絡みつこうとしてくる河童の手を妖力で弾いてくれている。

千徳は河童の手に捕まって、このぬかるみに沈んでしまったのだ。
体が小さい分、瞬く間に絡み取られたに違いない。
大丈夫だろうか。
明人ならば命はない所だが。
大貉の千徳ならば――。

「あきっ! 足元よく見てろっ」
「ご、ごめっ」

千徳の事に気を取られて、自分の足さばきが疎かになっていた。
新たに伸びてきた手が、魃鬼に消される直前に足首を掠めて、明人はゾッと肝を冷やした。
竹林に続いて、このぬかるみも終わりが見えない。
河童を退けてもらいながら無心で進んでいると、少しずつ背後が騒がしくなってきた。
後ろを向く余裕はない。
だが、何かが大勢いる。

「……う、うしろっ何かいない……っ?」
「ちょっと追手に水妖が加わってるだけだよっ。明人くんは気にしちゃだめ!」 
「……!?」

ちょっとだって?

気にしちゃだめ、なんて可愛らしく清は言うけど。
この背後の大きな気配。

絶対、ちょっと程度ではない。

滝霊王の屋敷から、峻生と一緒に追われた時よりも騒がしい。
あの時以上の水妖に、足元には数多の河童。
地面のぬかるみは増し、走るのが困難になってきていた。

苦しい。

でもそれ以上に、すぐ後ろの魃鬼と清が辛くなってきているのが肌で分かる。

「オレが水妖に回る」

短く声がすると、魃鬼の気配が遠ざかっていった。

「ぼくだけで河童達は抑えられるから」

清がしっかりとした声音で言う。
きっと、明人を少しでも安心させようとしてくれているのだ。
足元の河童達も、数を増やし続けている。
少しも余裕などないだろうに。

「急に河童が多くなってきた。走りが遅くなってもいいから、足さばきに気を付けて」
「す、水妖に追いつかれたら……っ」
「それは魃鬼が食い止める。後ろの水妖もだけど、それ以上に、河童に捕まったら助けるのは難しい。水虎も明人くんに神降ろしをさせようと、櫛ごと狙ってるはずだよ。逃げきれる状況じゃないけど、ぎりぎりまで、どうにか頑張ろうっ」

息を切らしながら、清が言う。
走り続けて、明人も全身が悲鳴を上げていた。

辛い。

返事はしたものの、今にも河童に身を投じてしまいそうだ。
そして何より、とてつもない恐怖に心が弱っていく。

「明人くんっ、もう少し、もう少し耐えて……っ」

気持ちが折れそうになっている明人を、清が何度も励ます。
魃鬼も清も、瀬戸際で歯を食いしばっている状態なのに、狙われている自分が戦意を喪失してどうする。
峻生達が、水虎を今よりも少しでも弱らせてくれれば、状況は一転する。

頑張らないと。

何が何でも――。

「あきっ!! 前っ!!」
「え――?」

水妖を相手している魃鬼が、少し遠くから叫ぶ。
足元ばかり注視していた明人は、前を見て驚きに息を詰めた。
ぶつかる直前の距離に、腰ぐらいまである岩が地に刺さっていた。
上手く避ける事ができずに、短い悲鳴を飲み込みながら、体勢を大きく崩して岩の横に転倒する。

「明人くんっ!」

清が河童を退けながら、転倒した明人に駆け寄り、体を支えた。

「ごめっ……僕、前をよく見てなくて……っ」

最低だ。
泣く資格なんかないのに、目尻に涙が溜まってくる。

「いいんだ。気にしないで。皆、限界だったから。ぼくも前方不注意だった」

清の労わりに一層、己が情けなくなる。

「おいっ! 大丈夫か!?」

魃鬼がこちらに顔を向ける。
それに返事をしようとして、明人は息をのんだ。

水妖の大群が。
明人の予想など遥かにしのぐ数の、おぞましい異形が明人達の後ろに迫っていた。

「こ、こんな……」

――逃げきれないなんて分かってたけど、こんな数ってないよ……。

見ぬふりをしていた絶望が、明確に明人の胸を覆っていく。

――僕はもうだめだ……二人だけなら、きっと逃げられる――。

「清……この櫛を持って行って。僕の事はいいから……お願い」

明人はポケットの奥にある櫛を取り出そうとした。

「何言ってるの!? 置いて行く訳ないよっ!」
「でも……」
「でもも何もないっ! 追い詰められてるけど、まだぼく達の妖力は尽きてない。大丈夫だ!」

己を捨てて行けと言った明人に、清は菫色の丸い目をつり上げた。
きれいな瞳には怒りが浮かんでいる。

「皆で頑張ってるからっ。見えないけど、鵺と滝霊王も全力で戦ってくれてる。明人くんの命を守る為に……だから諦めないでっ」

清が明人の手を握って、懇願する。

「清……。ごめん……僕は……」

皆、明人の為に死力を尽くしてくれている。
身に沁みて分かっているはずだったのに。

――ああ。僕は、なんて事を――。

己の心のなんと弱い事か。
皆が明人の命を守ろうとしてくれているのに、その気持ちを踏みにじる所だった。

「僕も……諦めないよ……」
「うん……!」

ぎゅっと清の手を握り返すと、菫色の瞳が優しく微笑んだ。

「小僧っ! この岩の中心に結界張るぞっ!」

岩の周囲のぬかるみが消え、空気がわずかに熱を持った。
魃鬼の結界内に入ったのだ。

「お前の力も足せ」
「やってるよ!」

二人の妖力で結界が強化されたが、周りは完全に水妖と河童に包囲された。
どうにか結界内に入ろうと、異形達が体や妖力をぶつけている。
異様な叫び声や呻き声に囲まれ、結界の外は地獄絵図そのものになった。

「すごい勢いだね……」

清が眉根を寄せながら呟く。
明人の住んでいる古いアパートなんか一突きで吹き飛びそうな攻撃が、絶え間なく結界を襲っている。

「これ以上増えねぇように、神降ろしの前に神頼みだな」

吐き捨てるように言うと、魃鬼は片膝をついて結界維持に集中し始めた。
清も眉間の皺を一層深くして、懸命に結界と向き合っていた。

相当辛そうだ。

明人は周囲のおぞましい光景を見ていられなくなって、静かに顔を伏せた。
峻生と滝霊王は無事だろうか。
そして、ぬかるみの中に引きずり込まれてしまった千徳は――。

――こんなに追い詰められているのに、僕は……何もできない……っ。

清の頬に、一筋の汗が流れた。
急激な妖力の消耗が、どれだけ体に負担なのか。
明人には想像すらつかない。
ビリビリと結界の揺れを感じていると、妖怪二人の顔色が変わった。

「来るよ……」

清の乾いた声が聞こえた直後。
結界から少し離れたぬかるみが大きく膨れ上がり、数多の水妖と河童が吹っ飛び、宙を舞った。
大量の泥と異形達で視界が閉ざされ、魃鬼と清は守るように明人に身を寄せた。

「な、何……?」
「水虎だ……大妖二人を振り切って来やがった」
「え……」

泥をまき散らしながら、ぬかるみは膨らみ続けている。
明人はその泥の小山を恐怖と共に見上げた。
とうとう恐れていた水虎が来てしまった。

櫛を奪いに。

更なる力を手に入れる為に。

「小僧っ。あきを連れて逃げろ」

魃鬼が泥の小山を睨みながら言う。

「だめだよっ」

水虎と相対する気だろう魃鬼に、清が強く言い返した。

「ぼく達が敵う相手じゃない」
「勝とうなんて思っちゃいねぇ。少しだが時間を稼ぐ。その間に逃げろ」
「そんな……っ。無謀だよ」
「無謀でも何でもやるしかねぇ。出て来るぞっ!!」

泥の小山が成長を止めた。
ぼとり、ぼとりと大量の泥の落としながら、水虎がこちらに近づいてくる。

黒い。
真っ黒だ。

水虎は巨大な黒い塊だった。
ワカメのような太い毛に全身を覆われ、体の形が分からない。
泥まみれの姿は、目を背けくなるぐらい汚らしい。

これが。
この毛の塊のような化け物が水虎――。

大妖の峻生と滝霊王が二人がかりになっても勝てない妖怪には、まるで見えなかった。

「よしっ。行くぞ!」

魃鬼が叫ぶ。

「魃鬼、待って!」

清の制止空しく、結界が消えた。
押し寄せる異形達を前に魃鬼の振り絞った妖気が弾け、束の間の道が作られる。

「走れっ!」

魃鬼が水虎の巨大な体に飛び込んで行く。

「……ぼく達も行くよ!」

見守っている暇はない。
水虎に戦いを挑んだ魃鬼に背を向けて。
魃鬼が作ってくれた道を二人で走り始めた。
足どりは迷いないが、清が何度も振り返る。
悲しげに寄せられた眉の下。
菫色の瞳には多くの思いが交差して切なく潤んでいた。

そう。無謀だ。

峻生と滝霊王が止められなかったのに、妖気の消耗が激しい魃鬼がどれだけ対抗できるというのか。
そして、先程より水妖や河童は桁違いに増えているのだ。
水虎が追ってこなくとも、すぐに清と二人で捕まってしまうだろう。
もう手詰まりだ。

峻生さん――。

明人は走りながら、ぎゅっと拳を握った。
考えたくないけれど。
明人の元に水虎が来たという事は、戦っていた峻生と滝霊王は、もしかするとすでに――。
最悪な結末が頭をよぎる。

違う、絶対に違う――!

懸命に嫌な想像を追い払っていると、背後で大きな爆発音がした。
振り返る清の瞳から涙が散った。

「……っ! 黒主こくしゅ様っ」

痛ましい声で清が叫ぶ。

――黒主様――?

知らない呼称に思考を巡らせる余裕もなく、水妖と河童が止めどなく襲ってくる。
涙を流しながら、清がそれらを弾き飛ばした。
黒主様とは魃鬼の事か。

では、今の爆発音で魃鬼も――?

そんな、そんな――。

「明人くん、早くっ!」

千々に心を乱す明人の手を引き、清が歯を食いしばりながら異形の間隙を縫う。

体が、心が、重い。

「あ、清っ!」

清の足取りが乱れて、大きくバランスを崩した。
手を引かれている明人も、一緒にたたらを踏んだ。
一歩進むのにも苦しそうなのに、清は諦めずに明人の手を引く。

「清……っ」

――ああ、また僕は――。

勝手に絶望して、気持ちを終わらせようとしていた。
自分なんかより清の方が辛いのに、苦しくて堪らないだろうに、諦めずにいてくれる。

明人を守ってくれている。

それなのに、当の自分が終わらせてどうする。
どんな事になろうとも、最後まで諦めてはだめだ。
清の手を改めて強く握り返す。

しかし、その次の瞬間。
清が河童に足を取られて転倒した。

「清っ!!」

慌てて支えようとした明人の手を、清は拒絶した。

「逃げてっ! ぼくの最後の力で、結界を作るからっ!」
「そんな……清を置いて行けないよっ」
「いいから、行って!!」
「な……っ!」

肩を押され、瞬時に体の周りに結界が張られた。

「清っ!! だめだよっ! きよっ!!!」

声もなく。
小さく微笑んで。
無事に結界を張れた事を見届けると、清は異形の波に飲まれていった。



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主人公のグレン・クランストンは天才魔術師だ。ある日、失われた魔術の復活に成功し、悪魔を召喚する。その悪魔は愛と性の悪魔「ドーヴィ」と名乗り、グレンに契約の代償としてまさかの「口づけ」を提示してきた。 領民を守るため、王家に囚われた姉を救うため、グレンは致し方なく自分の唇(もちろん未使用)を差し出すことになる。 *** 王家に虐げられて不遇な立場のトラウマ持ち不幸属性主人公がスパダリ系悪魔に溺愛されて幸せになるコメディの皮を被ったそこそこシリアスなお話です。 ・ハピエン ・CP左右固定(リバありません) ・三角関係及び当て馬キャラなし(相手違いありません) です。 べろちゅーすらないキスだけの健全ピュアピュアなお付き合いをお楽しみください。 *** 2024.10.18 第二章開幕にあたり、第一章の2話~3話の間に加筆を行いました。小数点付きの話が追加分ですが、別に読まなくても問題はありません。

完結・オメガバース・虐げられオメガ側妃が敵国に売られたら激甘ボイスのイケメン王から溺愛されました

美咲アリス
BL
虐げられオメガ側妃のシャルルは敵国への貢ぎ物にされた。敵国のアルベルト王は『人間を食べる』という恐ろしい噂があるアルファだ。けれども実際に会ったアルベルト王はものすごいイケメン。しかも「今日からそなたは国宝だ」とシャルルに激甘ボイスで囁いてくる。「もしかして僕は国宝級の『食材』ということ?」シャルルは恐怖に怯えるが、もちろんそれは大きな勘違いで⋯⋯? 虐げられオメガと敵国のイケメン王、ふたりのキュン&ハッピーな異世界恋愛オメガバースです!

美貌の騎士候補生は、愛する人を快楽漬けにして飼い慣らす〜僕から逃げないで愛させて〜

飛鷹
BL
騎士養成学校に在席しているパスティには秘密がある。 でも、それを誰かに言うつもりはなく、目的を達成したら静かに自国に戻るつもりだった。 しかし美貌の騎士候補生に捕まり、快楽漬けにされ、甘く喘がされてしまう。 秘密を抱えたまま、パスティは幸せになれるのか。 美貌の騎士候補生のカーディアスは何を考えてパスティに付きまとうのか……。 秘密を抱えた二人が幸せになるまでのお話。

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