熱砂の魔人に恋をして千と一夜では全く足りなくなりました!

梅村香子

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第3章

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一体、何だったのか。
太陽は西の砂漠に消えている最中で、ルトは窓から入る橙色の光を見つめた。
あれから、飯屋で口数少なく食事を終えて、家までシディと共に帰ってきた。
家財道具が何もない部屋を見て、本当に旅に出る直前だと知ったシディは、不愉快そうな顔をしていた。
まるで、アレムの都を探されるのが嫌だとでも言うように。
シディはアレムの都がハドラントの砂漠にある事を知っている様子だった。
何故、シディが知っているのか。

(気になるけど、今はシディより紅宝玉の行方だ)

何もない家の中で、ルトは床に座った。
市場に買い物にでも行くような気軽さで、アーキルはスリ師の元へと向かったが、無事に取り戻してくれるだろうか。
心配するなとは言われたが、もしアーキルが無理だったら、自力で紅宝玉に辿り着かねばならない。
それが己に出来るのか。
もしかしたら、今この瞬間にも紅宝玉がどこか知らない所に行ってしまっているかもしれないのに。

(一人で待っていると、よくない事ばかり考えちゃうな……アーキルさんもシディも大丈夫って言ってたんだから信じないと) 

何も無い部屋の中で、沈んでいく夕日が焦燥感を募らせる。

「ルトという者の家はここか?」

東の空が夜色になった頃、家の戸が叩かれた。
固い男の声だ。アーキルでも、もちろんシディでもない。
けれど、この家に訪ねて来るのは紅宝玉に関する人間しかいない。

「どちら様ですか?」 

ルトがいぶかしみながら戸を開けると、見知らぬ男が立っていた。
背丈はアーキルより少し低いぐらいか。
ラクダの毛で織り上げた外套ビシュトゥで身を包み、顔を布で覆っているが、隙間から金色の髪と紺碧の瞳が見える。
異国の人間だ。
本格的な夜闇が迫る冷たい空気の中で、紺碧の瞳は美しく澄んでいた。

「アーキルの連れだ。紅宝玉を渡す前に聞きたい事がある。ここでは都合が悪いから場所を変えたい。急ぐぞ」

男は早口に言い切ると、ルトに背を向けて進んで行く。

「ち、ちょっと待って下さいっ」

異国の男を、ルトは慌てて追った。

「あの、紅宝玉はシディが持ってきてくれるって聞いていましたけど」
「事情が変わった。今はシディから身を隠す必要がある」
「シディから? どういう事ですか?」
「気付いてなかったが、シディは――」

突然の強風に背中を押され、異国の男の言葉が巻き上がった砂の中に消えた。

「ずるいよ。勝手に紅宝玉を持って行くなんてさ。僕が行くって言ったのに」

背後の砂煙の中から、のんびりとしたシディの声が聞こえる。

「ルト、下がっていろ!」

異国の男の背にかばわれ、ルトはシディの声がした方を見た。

「何で、カリムがルトと紅宝玉を守るの?」
「ジンに襲われそうになっている人間を助けるのに、理由を聞かれても困るな」

(ジン? どういう事?)

カリムと呼ばれた異国の男の言葉に疑問を深めていると、舞い落ちる砂の向こうからシディが現れた。

(そ、そんな……シディがっ……!?)

その姿を見て、ルトは絶句した。
尖った耳に唇の隙間から見える鋭い犬歯。昼間見た愛らしい容姿は、薄闇の中で鋭利な恐ろしさをまとっていた。

「ルト、そんな間抜けな顔をしないでよ。格好良いでしょ? これが僕の本当の姿さ」

シディは自慢気に微笑んだ。

「ルトの紅宝玉、ただの石じゃないよね。見た時にびっくりしたよ。強い力を感じる。ルトは余計な事を知ってるみたいだし、とっても気になるんだ。だから、僕のご主人様の所へ一緒に行ってくれない? もちろん紅宝玉もね」
「シディ。ルトと紅宝玉から手を引け。この石は確かに力のあるものだが、お前の主人とやらが手に入れても無意味だ」

カリムが低い声で、シディの誘いを退ける。

「それはご主人様が決める事だよ……。カリムは識者だと思っていたけど、想像以上だ。さっきは僕が少し力を出しただけで、ジンだって見抜いたみたいだし。一体何者なの?」
「よく知っているだろう? ただのならず者だ」

カリムは手に隠し持っていた真鍮の小瓶を開けて、中の薔薇水を素早く振りまくと、小さく呪文を唱えた。

「な、何……!? ぎゃあっ!」

霧散した薔薇水がシディを包み込んだかと思うと、呻き声が上がった。
薔薇水はシディを苦しめているようで、全身を掻きむしっている。

「今のうちだ」

カリムはルトの腕を引くと、細い路地へと駆ける。

「シディがジンだったなんて……」

自分の目でシディの真の姿を見たというのに、信じられない。

「私も気付いたのは、つい先刻だ。紅宝玉にシディが触れるまでは人間だと思っていた」
「カリムさんは呪術師なんですか?」

薔薇水で魔人に対抗できるなんて、相当な能力だ。

「さっきも言ったが、ただのならず者だ。少し魔法が使えるだけのな」

ただのならず者は、魔法なんか使えないと思うが。
アーキルといい、こんな小さな町にいる男には感じられなかった。

「あの魔法はすぐに消える。シディに見つかる前に、アーキルと会わねばならない。この先で落ち合う事になっているが」

カリムは話を切って足を止めると、路沿いの廃屋にルトを引っ張り込んだ。

「カリムさん……!?」
「予想以上に早い。シディが来たようだ。絶対に音を立てるな」

そう言われて、すぐに崩れた棚の横にうずくまる。
息を殺していると、風が鳴り、砂を巻き上げる音がした。
カリムの神経が尖るのを感じる。
ルトには風と砂の音しか聞こえないが、シディが近くにいるのだろう。
瞬きさえ悟られてしまいそうな恐怖に、固く目を閉じる。
家々を通り抜ける隙間風が強くなったと感じた瞬間、凄まじい爆音が空気を揺らした。

「この辺りにいるのは分かってるよ。まさか、カリムが魔法まで使えるなんて思わなかったから、油断しちゃった。もう逃がさないよ。殺すつもりはないし、出てきてくれない?」

軽やかなシディの声と共に、大量の日干しレンガが弾け散る。
シディが、周辺の家を破壊しているのだ。
恐怖で肌が粟立った。

(殺さないって言ってるけど、あんなものに巻き込まれたら、怪我なんかじゃ済まないよ)

破壊された家はすぐ側。この家が標的にされるのも時間の問題だ。

「よく聞いてくれ」

再びの爆音に紛れて、カリムがルトの耳に囁いた。

「ここを出て左の道の奥にある井戸で、アーキルが私達を待っている。私が囮になってシディの気を引くから、合図をしたら窓を破って井戸まで走れ」

シディが向かいの家を壊した。

「まだ? いい加減出てきてよ」

次は、この家かもしれない。

「そして、辿り着いたら、アーキルと一緒に井戸に飛び込め」
「え?」

とんでもない指示に、ルトはカリムの顔を見上げた。
月明かりを吸い込む紺碧の瞳は、どこまでも真剣だ。

「心配するな。井戸の中は別世界にしてある」

どういう意味なのか聞く間もなく、隣の家が弾け飛んだ。

「ルト、行け!」

カリムに背を押され、何の心の準備も出来ないまま、窓を蹴破って外に出た。
砂塵で視界がきかない中を夢中で走り出す。
後ろで、カリムがシディの名を呼んだ。

(上手く逃げないとっ! 捕まったらカリムさんの策が無になっちゃう!)

シディの気配を背中で感じながら、砂煙を抜けて井戸のある路地へと疾走する。
狭い路は月明かりも届かず、何度も転びそうになった。
自分の足が異常に遅く感じる。
一刻も早く井戸へ。
どうなるのか全く分からないが、待っているアーキルと井戸に飛び込まないと。

「ルト!」

ようやく井戸が見えると、近くの家の軒先にアーキルが立っていた。

「ア、アーキルさんっ、シディが追って来ているので、早く、早く井戸にっ!」

ルトは駆け寄った勢いのまま、アーキルの腕をつかんで井戸に引っ張った。
気が急いて、言葉が上手く出てこない。
荒い呼吸を整える事もせずに、アーキルの腕を引いて井戸の縁に足をかけた。

「待て、落ち着けよ。カリムはどうした?」
「カリムさんはシディの足止めをしてくれてっ。今のうちに、二人で井戸に飛びこまないと」
「は? 井戸にか?」

アーキルは怪訝そうな顔をした。

「井戸の中は、別世界になってるって聞きました」
「魔法か……。悪いな。急な事で俺とカリムは、ほとんど話せてないんだ」

そう言うと、アーキルはルトの足を井戸の縁から下ろさせた。

「先に下りる。井戸の中に俺の気配がなくなったら飛び込め。いいな」

ルトの返事を待つ事なく、アーキルは井戸へと身を投じた。
落ちていく体を追って井戸の中を覗き込んだが、底の見えない細長い闇は、水音一つしない。
アーキルが消えた。
カリムの言った通り、井戸の中は別世界なのだ。

(驚いている暇はない、僕も早く行かないと)

ルトは怯えを拭い捨てて、暗い井戸の中へ飛んだ。
一瞬にして、少しばかりの月明かりが消えて、内臓が浮き上がる気持ちの悪い浮遊感が身を襲う。

「そのまま落ちてこい!」

どこからともなく、アーキルの声がした。
落下する速度が上がっていく。
身を縮こませていると、周囲が暗闇から白に変化した。

「ルト!」

名を呼ばれた瞬間、背中に衝撃が走る。

「大丈夫かっ?」

白い空間に落ちた体は、アーキルに抱き止められていた。

「あ……ありがとうございます。僕は平気です……。アーキルさんは、大丈夫でしたか?」
「無傷だ。立てるか?」

ゆっくりとアーキルが体を下ろしてくれたが、急激な落下に体が動揺して、上手く立てない。
足を震わせていると、力強い腕が腰に回った。

「落ち着くまで支えてやるよ。腰を下ろした方がいいか?」

ルトは首を横に振った。
座ると、もう立てなくなりそうだ。

「ここは、カリムさんが魔法で作った世界でしょうか?」
「いや。さすがのカリムも、そんな力はない。多分、ここは水脈の中だ」
「水脈?」
「カリムは、自然の中に溶け込んでいる精霊と通じる事ができる。今回は、水の精霊に頼んで、地下深くにある水脈の中に入れるようにしていたんだろう。随分前だが、一度だけ水脈の道を使った事がある。地上で何日もかかる距離を瞬く間に進むから、普通に陸路を旅するのが馬鹿らしくなるぐらいだ。まぁ、頼んでも頻繁には使えないみたいだがな」

魔人や食人鬼の存在だって驚きなのに。
精霊まで存在していて、水脈の中にまで入れるとは。
もう想像を絶し過ぎていて、少しの事では驚かないような気がしてきた。

(ここが水脈の中か……)

ルトは周囲を見回した。
まるで真昼の太陽の中に入ってしまったかのような、輝く真っ白な世界。
しかし、熱くも眩しくもない。

「そういえば、シディがジンってのは本当なのか? 事情がさっぱり分かってなくてな」
「本当です。あの紅宝玉を欲しがっていて、僕も狙われていた所をカリムさんが助けてくれたんです」
「あのシディが……」

アーキルは視線を落とした。
カリムもだが、アーキルもシディが魔人だなんて想像すらしていなかったのだろう。

「紅宝玉。シディから聞いたが、親父さんの形見なんだろ? 俺には質は良いが、ただの宝石にしか見えなかった。特別なもんなのか?」

ルトは一瞬迷ったが、口を開いた。

「……実は紅宝玉の中に、ジンと沢山のグールが封印されているんです」
「この中に、そんな物騒なもんがいるのかよ……」

アーキルが驚きながら、紅宝玉を己の懐から取り出した。

「え!? アーキルさんが持ってたんですかっ?」

カリムが持っていると思っていた。

「俺から、お前に渡せってな」

きっと、カリムはシディを欺く為に自分が持っているふりをしたのだろう。

「ジンとグールねぇ……。カリム達は一目見たら特別だって分かったようだな。お前も、力を感じ取れるのか?」
「いえ。僕は中のジンと直接、話をしたので。その時に頼まれて、今から封印を解く旅に出る所だったんです」
「へぇ。つまり……」

アーキルは憐れむような表情をした。

「お前は、旅に出る直前で一番重要な紅宝玉を盗まれた上に、それに目をつけたジンに追いかけられてるって事だよな。何と言うか……ついてないな」
「そ、そうですね……」

己の間抜けさが、改めて心に刺さった。 

「……僕が馬鹿なだけです……」
「まぁ、変に運が悪い時もあるさ。それより、紅宝玉の中のジンは信用していいのか?」
「え?」

言われている事の意味が分からなかった。

「封印されてんだろ? 凶悪なジンなんじゃないのか? お前を利用して、外に出ようとしているように思えるが」

思わぬ疑いに、ルトは思いきり首を横に振った。

「それは違いますっ! 中にいるジンは、四百年も前からずっと大量のグールを封印するのに犠牲になっているんです」
「犠牲かぁ……」

アーキルは片眉を上げた。 

「いかにも騙されている奴が言いそうな話だな」
「ほ、本当に騙されてなんて……っ」

ルトは言葉に詰まった。
どう言葉を重ねても、アーキルにはルトが利用されているように聞こえるだろう。
確かに、ファリスと言葉を交わしたのは短い時間で、凶悪な魔人ではない確証なんてどこにもない。
アーキルが疑うのは、当然だと思う。

(だけど、ファリスは、昔話にあるような残忍なジンなんかじゃ絶対ないんだっ)

四百年もの長い間、あの闇色の宮殿で孤独に生きている魔人。
彼の黒緑の瞳には、優しくも寂しい光が宿っていて、心からの温かさを全身で感じたのだ。

「彼は……あのジンだけは違うんです……」
「分かった。ルトが言うなら、本当なんだろうな。悪かったよ。ほら、今度は盗られないように、しっかり持っておけ」
「ありがとうございます……」

アーキルがルトの掌に紅宝玉を置いた。

「カリムはシディを足止めしてんだよな? ジンの相手までしてくれるなんて、恐れ入るな」
「……カリムさんは、僕のせいで――っ?」

カリムへの申し訳なさを口に乗せた瞬間。
固い地面が柔らかく波打ち、ルトの足が地に食い込んだ。

「え!? あ、足がっ……!」

急にどうしたというのか。
動かせば、その分だけ地に足が沈んでいく。

「足が、のみ込まれてっ。アーキルさんっ」
「いきなり、何だっ!?」

アーキルに支えられて足を抜こうとしたが、地はルトを放さない。

「くそっ。抜けないな」
「ぜ、全然、上がらないです……っ」

体を抱え上げられたが、足の沈む速度は増していく。
もがけばもがく程、体が地に引っ張られて、まるで流砂だ。

「何で、どうして、こんなっ……!!」

のまれた足が、石のように重く固く感じる。

「ルト。落ち着け、いいか」

恐怖に涙をにじませるルトを、アーキルは腕に包んだ。

「精霊は人間を殺さないから、のみ込まれても死にはしない」
「本当ですか……?」

ルトは、すがるようにアーキルの紅榴石の瞳を見つめた。
その男らしい目は、力強くルトを見返す。

「本当だ。この状況は、何か事情があるんだ」

アーキルが話している間にも、ルトの体は沈んでいく。

「カリムなら精霊の話を聞いて、俺達の元に必ず来る。怖いが、今は抵抗せずにカリムを待とう」

そう言うと、アーキルはルトを強く抱き締めて、己の体を固定した。
一緒に沈む気なのか。

「だ、だめですよっ。どうなるか分からないのに!」
「分からない方が楽しいだろ?」

こんな時に似合わない微笑みをアーキルは浮かべた。

「そんな事言ってる場合じゃ、あっ……足がっ!」

ルトを支えていたアーキルの足が、床に沈む。

「アーキルさん……」

琥珀の瞳を涙で潤ませながら、ルトはアーキルと見つめ合った。

「心配するな。カリムは来る」

瞬く間に胸から首、唇までが床の中に取り込まれて、声を出せずに視線だけを懸命に交わす。

「一緒にのまれれば怖くない。大丈夫だ」

アーキルの低い声が力強く耳に響いたのを最後に、全てが暗闇に沈んだ。
凄まじい速さで、体が地に潜っていく。
全く苦しくはないが、側にいたアーキルの気配が消え、不安が増していく。

(どこに向かっているんだろう……このまま、地の底に閉じ込められるのかな……) 

何故、水の精霊はこんな事をするのか。
死にはしないとアーキルは言っていたが、心が恐怖に支配される。

(ああ……どうなるのか……アーキルさん……ファリス……)

ルトは手にしている紅宝玉を強く強く握りしめた。
それから、どれぐらい潜り続けたか。
体の自由を奪われたまま闇の中を落ちていると、下方が明るくなったのを感じた。
もはや、自分の体がどうなっているのか、前後左右の感覚はないのだが。 

(わっ……体が……っ!)

下方の明かりに向かって体が放り出される。
己の体が放物線を描いているのが分かり、とっさに歯を食いしばると、砂地に背中が打ちつけられた。

(紅宝玉の世界に入った時といい、こんな事ばかりだな……)

既視感を覚えながら目を開くと、砂に埋もれかかった家畜小屋が目に入る。
身を起こして視界を広げると、小屋の奥に古い家が並んでいるのが見えた。
もちろん、知らない場所だ。

「怪我はないか……?」
「アーキルさん!」

ルトの後ろで、同じように砂の上に放り出されたアーキルが起き上がろうとしていた。

「一緒に出られて良かった……! 僕は怪我はしていません。アーキルさんは?」
「俺もだ。どうやら水脈から追い出されたらしいな」

アーキルは、すぐ側にある小さな泉を見た。この泉から放り投げられたのだ。

「いきなり捨てるとは、酷い奴らだ」

アーキルと共に周囲を眺める。 
月明かりに照らされているのは、小さな村だった。
日干しレンガの簡素な家が並んでいるが、砂に埋もれているものが多い。

「廃村か……長い間、誰も住んでないようだな」
「これだと、場所を聞けないですね」
「精霊もふざけた真似をする。カリムが来ないと話にならないな」
「ごめんなさい。僕の紅宝玉を取り戻して下さったのに、大事になってしまって……」

アーキルのおかげで紅宝玉を再び手にできたのだ。
そんな恩人を、とんでもない騒動に巻き込んでしまった。

「謝んなよ。シディは俺の連れだしな。事を大きくしたのはこっちだ」

アーキルは優しい眼差しをルトに向けた。

「気にしても仕方ない。せっかくの冒険だ。楽しもう」

ルトを安心させるように、アーキルは泰然と笑んだ。

「しっかし、静かだな。廃村なのが、また不気味だ」

静まり返っている村の中。
無音が体に重くのしかかるようだ。

(誰もいないって、こんなに静かで怖いんだ……)

ずっと人が集う大都で育ち、一年間暮らしていた町も、それなりに賑わっていた。
こんな無人の場所は初めてだ。
誰もいないのに、何かがいるのではないかという恐怖がわいてくる。

「おかしいな」
「何がですか?」

月明かりを頼りに、あてもなく歩き、村の中央にある広場に出ていた。

「見てみろ」

アーキルの指差す方を見ると、広場の中央に敷石が詰めてあった。

「ここで火を焚いた跡がある。ここ最近のものだ」

確かに、敷石が砂に埋もれていないし、よく見てみると表面が焦げていた。
ここで火を使用したのは、一度や二度ではないようだ。

「隊商の宿泊地になっているのでしょうか?」
「泉があるしな。その可能性もあるが、他に人の痕跡がないのが不思議だ。目に入ってないだけかもしれないが」
「そういえば……」

隊商や旅人が不定期にでも野営しているのならば、もっと人が出入りしている痕跡が残っていそうだ。
しかし、この村は、もう何年も人が足を踏み入れた様子がない。

「何だか、気味が悪いですね」
「いきなり床に沈むよりか?」

アーキルはいたずらっぽく笑った。

「冷えてきたな。家に入るか……火を焚きたいが、何にも残ってなさそうだな」

崩れかけた家の中を何件が探したが、燃料になりそうなものはない。
諦めて、原型を留めている家の一つに入った。

「ボロい布だが、あるだけましだろ。これを使え」

どこかの家から持って来た大きな布が、ルトの肩にかけられた。

「アーキルさんは?」
「俺はいい。こんな寒さぐらい、慣れてる」
「でも、寒いのは変わりないですよ」
「ガキが気なんか遣うな。座ってろ」

ルトはアーキルに肩を押されるようにして、砂まみれの部屋の隅に腰を下ろした。

「ここでカリムを待つ。上手くシディをまいていれば、今夜中には来るだろう。それまで寝てろ」
「僕、起きてます。頭が変に冴えてて」
「気が立ってんのか?」
「そんな事はないですけど……」

大きなアーキルの手が、優しくルトの頭を撫でた。

「なら、眠くなるまで話でもするか」
「話?」
「少し付き合ってくれよ」

アーキルは、ゆっくりと壁に背中を預けた。
朽ちた窓から入る月明かりで、紅榴石ガーネットの瞳が穏やかな輝きを見せる。
見ていると、心が落ち着く。強く、厚情あふれる美しい瞳だ。
大都にいた頃。
職業柄、沢山の人が父の周りを出入りしていた。
ルトも、父の隣で商いを見させてもらう事が何度もあったのだが。
その商売相手の瞳の色は様々だった。
単純な色の話だけではない。
目の奥に、その人の素性が現れているのだ。
欲に走ってギラギラしていたり、生気なく濁っていたり。
傲慢であったり、冷徹であったり、情熱家だったり。
父も、目にはその人の本性が映ると言っていた。
本当にそうだと思う。
アーキルの瞳は、大都で見たどんな人のそれより魅力的だった。
もし父がいれば、アーキルの事を気に入ったに違いない。

「旅に出るって言ってただろ。どこに行こうとしてんだ?」
「……ん?」

アーキルの瞳に魅入っていて、言葉が頭に入ってくるのが遅れてしまった。

「えっと、南方のハドラントの砂漠です」
「また遠い所だな……旅の経験はないんだろ?」
「はい。ずっと大都で暮らしていて、都外に出た事がなかったぐらいですから」

大都という言葉に、アーキルは驚いた。

「それなら、何であんな小さな町にいたんだ? 上物の紅宝玉を遺してくれる父親がいたんなら、金持ちの息子だったんじゃないのか?」
「……父は宝石商をしていました。けど、一年前に事故で亡くなって。僕はすぐに大都を離れたんです」
「お前一人でか?」

ルトは頷いた。

「宝石商なら、紅宝玉以外に色々と継いだろ?」
「家や商いの権利は、全て義母はは異母弟おとうとが継ぎました」

ルトは大都で暮らしていた頃を思い出して、眉宇を曇らせた。



あれは母を亡くして三年ぐらい経った日だったか。
父が一人の女を家に連れてきた。
見目麗しいその女を、父は再婚相手としてルトに紹介した。
家族になるからよろしく頼むと微笑んだ父は、大層幸せそうだった。
新しい母が家に来る。
亡くなった実母の事を思うと、最初は複雑な気持ちだった。
だが、父は人生に張りが出来たようで、いつになく元気になり、女も懸命に母になろうとしてくれた。
そんな姿を見ているうちに弟妹も生まれ、新しい家族に対する抵抗感も徐々に消えていった。
幸せそうな両親に、可愛い弟妹。
絵に描いたような豊かな暮らし。
その全てが、ずっと続くと思っていた。

しかし、それはルトの勘違いだった。

思い知ったのは、突然この世を去った父の葬儀が終わった時だ。

――お前は無駄に教養を身に付けているから、なかなかの高値になるだろうね――。

そう言ってルトを値踏みした義母の顔は、それまでとはまるで別人だった。
義母は父の死の混乱が冷めやらぬ内に、使用人を全て解雇して新しい者を雇い入れた上、ルトを奴隷市に売ろうとしたのだ。
抵抗感を持っていたのは初めの内だけで、笑顔の絶えない家族はルトにとって誇らしくて大切な存在だった。

だが、それは嘘だったのだ。

信じていたのに、幸せだったのに。
絆なんてなかったのか。
そう思うと、悲しいというより恐ろしくなり、奴隷として売られる直前に紅宝玉だけを持って家を飛び出した。
先の事など考える余裕もなく、ただ大都から、自分の家から逃げたかった。

「父親の遺したものを取り返そうとは思わなかったのか?」
「そんな事は全く思いませんでした。僕にとって、父が遺したものはどうでもよかったんです。ただ、大切だと思っていた家族が偽りのものだと分かって、逃げました……怖かったんです」
「それで、あの町で一人暮らしだったのか……。悪かったな、辛い話をさせて」
「いえ。もう一年も経ってますし。気持ちを引きずっていても、落ち込むだけですから」

本当は、全く気持ちを切り替えられていない弱い自分がいるのだけれど。
ルトは大仰なぐらいの笑みを浮かべて、しんみりとしてしまった空気を変えようとした。

「アーキルさんは、ずっとあの町に住んでいるんですか?」
「いや。俺はカリムと旅をしている途中だ。シディと会ったのは、あの町に来てからなんだ」
「そうだったんですね。旅は、どこか目的地が?」
「目的地はないが、知りたい事がある……。お前にだけ話させて、俺が黙っているのも悪いな」

そう言って、アーキルは月を見上げながら、ゆっくりと話を始めた。



一度手にすると必ず虜になるといわれる程の美しい真珠を産出し、数多の宝石商や王侯貴族から半ば伝説のように語られている国があった。

美しい海に囲まれた、七つの島の国。

富めるその国には、二人の王子がいた。
兄のアムジャットと、弟のアスアド。
共に武術、学術に優れ、王子達の聡明さは国の安泰を暗示させていた。
民は王子達の成長を喜び、続く国の繁栄と海の恵みに感謝をしていた。
そんな幸福に満ちた国を悲劇が襲ったのは、今から八年前の事だ。
何の前触れもなく、広い海が砂に、七つの島は岩山に変化し、民は一人残らず石になってしまった。
あまりにも衝撃的な光景に、周囲の人々は嘆き悲しんだ。
大きな魔法が働いたのか、何かの呪いか。
多くの人や国が原因を探ったが、何一つ手がかりはなく。
悲しみや怒りは無情に降り積もるばかりで。
かつて、どんな国よりも美しいと言われた島国は、今や絶望の色をした不毛の地となっているのだった。



「その国の真珠が、今ではありえないぐらいの高値で取引されてる。お前の親父さんも、売買した事があったかもな」
「…………」

淡々と話すアーキルに、ルトは胸が締め付けられるような思いがした。
豊かな国が岩と砂になり、人々が一瞬にして石になる絶望感は、どれだけのものか。
もし、自分の暮らしている美しい国が砂になってしまったら。
愛する人が石になってしまったら。
想像を超える悲劇に、ルトは言葉を失くした。

「……アーキルさんは、その国を元に戻す方法を探しているんですね」
「ああ。この八年、カリムと多くの国を旅して尋ね回っているが……何も分からないままだ。ジンに魔法をかけられているとカリムが言っていたが、何の目的で、誰が魔法をかけ、どうやったら解けるのか……全て謎だ」
「そうですか……」

ならず者に見せかけて、実は国を救う為に諸国を駆けていたのか。
だから、あんな小さな町には、まるで似合わない雰囲気だったのだ。

「……この中のジンに聞いたら、何か分かるかもしれません。とても強い力を持っているようだったので……」

ルトは懐に入れた紅宝玉に、服の上から触れた。
封印を解いたら、何でも願いを叶えてくれるとファリスは言っていた。
七つの島の国の魔法をといて欲しいと言えば、叶えてくれるだろうか。

「ありがとな。じゃあ、早く封印を解いてやらないとな」

微笑んだアーキルの表情には、今まで沢山の悲哀を飲み込んできた度量の大きさが表れていた。

「アーキルさんとカリムさんは、七つの島の国の方なんですか?」

二人共、大切な人達が石になっているに違いない。
この八年間、旅の中で幾度となく挫折と絶望を味わった事だろう。
ルトには考えられもしない境地だ。

「……俺は第二王子のアスアドだ。本当なら俺も石の仲間入りだったが、側近のカリムが魔法で助けてくれた。一瞬にして周りが不毛の地になった時には、夢じゃないかと思ったもんだ」

(は? え……!? お、王子様!?!?)

さりげないアーキルの告白に、ルトは思わず背筋を伸ばした。
七つの島の国民かな? どころではなかった。
国の未来を背負う、王子様だったのだ。
言われてみれば、粗野な態度の中に紛れた気遣いや仕草が、どこか上品な育ちを思わせていた。
と思った所で、今更だけれど。

「申し訳ございません。殿下、僕はっ」

アーキル、いやアスアド王子は、自分なんかが気軽に話していいような身分ではない。
非礼を詫びるルトの声が、アスアドの笑い声でかき消された。

「やめろよ、改まって。今はただの浮浪者だ。身分も何もない」
「そんな……」
「急に丁寧になられても、こっちが困る。今の敬語だって、必要ない」
「それは、さすがに――」

かしこまって身を縮こまらせるルトの肩に、アスアドは手を置いた。

「本当に、気にしないでくれよ。俺自身、自分が王子だったって自覚がないからな。それで、カリムによく怒られる」

アスアドは柔らかな笑顔を見せるが、王子だったと過去形になっている事を、ルトは切なく思った。

「……まぁ、カリムはどう思ってるか知らないが、俺は今の自分を気に入ってんだ。もちろん、国の惨事は悲しいし悔しい。だが、あのまま王子として何不自由なく暮らしたままだったら、知らなかった事、分からなかった事だらけだった。この八年は、国を思うと辛い日々だったが、旅を通じて色々成長できたのは有難かった」
「成長……」

ルトは自分の一年間を思った。
一人で暮らしていく為に懸命に働いた日々。
辛い事、悲しい事を数えたらキリがないが、喜びや達成感も少なからずあったのだ。
そして、それらは大都の満たされた裕福な暮らしの中では、決して手に入らなかったものだ。

「この一年……僕は家族を失くして一人になった悲しみばかりに心をさいていて、上手くできない自分を責めてばかりいました。こんな僕でも、成長……してるでしょうか」
「当たり前だろ。どんな形であれ、一人で生きていくのには知恵と努力がいる。ずっとカリムが側にいる俺よりも、ルトの方が独立した立派な男だ」

アスアドの大きな手が、ルトの頭を力強く掻き乱した。
その少し乱暴な手つきにアスアドの優しさを感じて、ルトの胸に嬉しさが込み上げる。
八年間も失った国の為に旅を続けている二人には遠く及ばないけれど、自分も少しは成長している。
そう思うと、寂しかったこの一年間の暮らしも、悪いものではなかったのだと感じられて、心が少し軽くなった気がした。
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