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12話
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「この辺の本は、全て向こうの倉庫に戻す」
「はい」
「机の上の書類は、まとめてダリルに渡してくれ」
「分かりました」
オリバーはキビキビと返事をしながら、書類の山に手を伸ばした。
アーノルドの提案通り、二人での引きこもり生活を始めてから、五日が経とうとしている。
自身の安全のためとはいえ、大魔導師の日常を乱してしまったことに不安を感じていたのだけれど、十五年ぶりの二人暮らしは、想像以上にしっくりときていた。
アーノルドも、オリバーとの生活は苦ではない様子で、笑顔を見せてくれることも多くなった。
兄弟そろって、ほとんど部屋から出ないでいるが、窮屈だとは感じない。
どんな形であれ、アーノルドの傍にいられるのは、喜びでしかなかった。
食事は従魔が用意してくれるので、シチュー係の仕事はなくなってしまったが、今は書類や本の整理を手伝っている。
少しでも研究に携われるようになったのは大進歩だ。
――倉庫で襲われた時に、俺の助手って言ってくれたし……。シチュー係から助手になれたって思っていいのかな?
書きものをするアーノルドに、ちらりと目を向ける。
久しぶりの兄弟での生活は、とても楽しく心地いいものだったが、コリンズ家を取り巻く問題が一つも解決していないのを忘れてはいけない。
あの騒動後、逃げた男たちを追っていたダリルは魔法でまかれてしまい、気落ちして帰ってきた。
倉庫を破壊されたこともあり、官憲と魔法省による捜査も行われているが、難航しているという。
――僕たちは、これからどうすればいいんだろう――……
林の中で、しつこく追ってきた男たちを思い出す。
彼らの目的は謎のままだが、アーノルドの推測通り、大魔導師の命を狙っているのだとしたら。
その命で、コリンズ家の魔力共鳴を解こうとしているのだとしたら。
我が家に、そこまでの行動を起こすほどの、何があるというのだろうか。
十五年前の騒動とのつながりも気になるし、アーノルドとはしっかりと話し合いたいところだけれど……。
オリバーの口は、未だに魔法で固く封じられている。
気軽に外出できなくなったので、あれからレイたちには会えていないのだ。
――何だか、全部が行き詰まってるような気がしてくるな……。
「どうした? 難しい顔をして」
「いえ……。何でもないですよ」
「……こんな狭い場所で俺と生活して、嫌気がさしてきたか?」
「とんでもないです。先生となら、どんな場所だって楽しく暮らしていけますから」
「…………」
アーノルドが、化け物を見るような目を向けてくる。
やってしまった。
つい、兄の気持ちで答えてしまった。
これは、助手としては気持ちの悪い発言だったかもしれない。
「お前……。そんなことを周りに言いながら、これまで生きてきたのか……?」
「ち、違いますよっ。尊敬する先生だからです」
「気に入った奴とは、距離が近いんだな」
「先生だけですよ」
アーノルドは荒々しくため息をつくと、机に向き直った。
「俺の助手は、人心掌握術にたけているようだな」
「そういうのじゃないですって。私、人付き合いは苦手なんですから」
「俺よりは得意だろ」
「……先生は得手不得手の問題じゃないと思いますけど」
「どういう意味だ」
「それは、その……色んな意味で超越した存在というか」
「何だよ、それは。嫌味か?」
「賛辞です」
「嘘をつくなよ」
アーノルドが、おかしそうに笑った。
オリバーもつられて笑うと、本と紙と埃が積もった部屋が、明るくなった気がしてくる。
「あ、そうだ。先生! 今日こそは、ちゃんとベッドで寝てくださいね。椅子に座ったまま仮眠するのはだめですよ!」
アーノルドは、何も変わらぬ生活を送っていると見せかけつつ、実は非常に気を遣ってくれている。
弟の優しさは嬉しく思うのだが、その一方で気になる問題も出てきていた。
ベッドを全く使おうとしないのが、その最たるものだ。
「充分だろ」
「いいえ。せっかく薄くなっていた隈が、ひどくなってるじゃないですか。分かってますよ。私にベッドを譲っているでしょう?」
「気のせいだ」
「じゃあ、私はその辺で丸まって寝ますので、先生はベッドを使ってください」
「俺は、前から椅子で寝ることの方が多いんだ」
「そんなの、健康に悪すぎます!」
アーノルドの荒んだ生活習慣に、オリバーはつい声を荒くした。
「睡眠は生活の基本なんですよ。先生が研究第一なのは重々承知していますが、椅子で仮眠を続けていたら、体を壊してしまいます」
「別に、それで不具合なくやってきたんだからいいだろ」
「よくないです。今日から、ちゃんとベッドで寝ましょう」
「お前の寝る場所がなくなる」
「なら、お互いの寝る時間をずらして使いましょう」
「そんな面倒なことはしなくていい」
頑なにベッドを使おうとしないアーノルドに、オリバーはついに机をバンと叩いた。
一緒に暮らしている弟が不健康まっしぐらなんて、兄として許すわけにはいかない。
「先生っ!!!」
「な、何だよ……」
助手の勢いに驚いている大魔導師を、飴色の目で強く見据える。
「今晩から一緒に寝ます。それが、お互いにとっての一番の妥協案です」
「はぁ?」
「先生のベッドは大きいので、二人で寝られると思います」
「思いますって……正気か?」
思いきり怪訝そうな顔をしているアーノルドに、オリバーは大きく頷いた。
「無理なら、また別の策を考えます。とりあえず、今日は一緒に寝ますから。異論は認めませんっ」
びしっと宣言すると、アーノルドは渋々といった様子だったが、頷いてくれた。
よし。これでいい。
弟には、少しでも健康的な生活を送ってもらわねば。
兄のために体調を崩すアーノルドは見たくない。
「お前は、他人が隣にいて眠れるのか?」
「大丈夫。先生とは家族ですから」
「……お前はとんでもない助手だな」
しまった。気を抜いて話すと、距離感がハチャメチャになる。
再び、化け物を見るような目を向けられてしまった。
「俺とお前は、いつから家族になったんだ」
「えっと、その……家族と同じぐらい信頼しているというか」
「まぁ……ちょろちょろされないと物足りないぐらいにはなったか」
「だから、ネズミみたいに言わないでくださいよ」
「ネズミは書類整理なんかできないだろ」
アーノルドは楽しそうに口元を緩ませて、オリバーの頭を荒っぽい手つきで撫でてくる。
温かい手の感触は、たいそう心地よくて。
オリバーは、ネズミではなくネコのように、ゴロゴロと喉を鳴らしたい気持ちになった。
その夜。
心臓をこれでもかと激しく鼓動させながら、オリバーはベッドで横になっていた。
――ああ……勢いで一緒に寝ようって言ってしまったけど……っ。
頑なにベッドで寝ようとしないアーノルドに対して、つい感情が高ぶってしまった。
今思えば、ものすごく大胆な提案だった。
あれだけ強引に弟を頷かせておきながら、いざ並んで寝ようとすると、猛烈な羞恥が心を圧迫してくる。
床で寝てしまおうかと本気で考えたが、そんなことをすれば、アーノルドもベッドで寝るのを拒否するだろう。
自分の発言には、きちんと責任をとらなければいけない。
オリバーは壁際へ寝返りを打つと、うるさい心臓を寝間着の上からぎゅっと押さえた。
平気。平気。
緊張なんか幻だ。
弟と並んで寝るだけなのだから。
今更、恥ずかしがることなんか――
――この間のことは、なしなしっ……!
手淫されたのを思い出して、オリバーは奇声を発してしまいそうな衝動にかられた。
大丈夫。大丈夫。
アーノルドは、弟。弟。弟。
そう脳内で繰り返していると、扉がゆっくりと開いた。
オリバーを起こさないようにしているのだろう。
物音をたてないように、アーノルドが静かに近づいてくる。
緊張で体を硬くしていると、ベッドがわずかにきしんだ。
「……せ、先生……」
オリバーは、アーノルドの方へ振り返りながら声をかけた。
起きているのに、黙っているのはおかしいだろう。
「まだ、起きていたのか」
ささやくような声が、耳にしっとりと響く。
それが、とても心地よく感じた。
「俺がベッドで寝るか、確認したかったのか?」
アーノルドが、すぐ隣で横になる。
体は触れないが、温もりはしっかりと感じる距離。
心臓が爆発しそうなほど恥ずかしがっているくせに、この距離が少しだけもどかしく感じた。
「私は、そんなに厳しい助手じゃないですよ」
暗闇の中、アーノルドが小さく笑う気配がする。
精悍な顔が無邪気な表情を見せるたびに、気を許してもらえているのだと嬉しくなる。
そして……抑えきれない胸の高鳴りも感じてしまっていた。
「……こうして誰かと並んで寝るのは、十五年ぶりだ」
「それは……お兄様ですか?」
「ああ」
アーノルドの声に、懐かしさがにじむ。
「毎晩、兄にしがみついて寝ていた」
「とても仲が良かったんですね」
「今思えば、一方的に甘えていただけだが……。仲は良かったな」
「一方的だなんて……」
――そんな寂しいこと言わないで……。
オリバーは、そう続けたかった。
甘えてくるアーノルドは、本当に可愛くて。
利発で優しい弟の存在は、いつだって心を温かくしてくれた。
――そういえば……アーニーからすると、僕はどんな兄だったのかな……?
確かに、仲は良かったけれど、エリオットは立派な兄とは言い難かった。
日に日に貧しくなっているのを、九歳の弟も肌で感じていただろう。
その後も、大人になるにつれて、兄の不甲斐なさには嫌でも気づかされたはずだ。
「……お兄様は、どんな方なのですか?」
精神衛生上、あまり良い質問ではないと分かっている。
しかし、好奇心に負けたオリバーは、おそるおそる聞いてみた。
気が弱い。優柔不断。無能当主。
そんな言葉が脳裏をよぎる。
「……全てが美しい人だ」
「え……?」
美しい……???
思いもよらない言葉に、オリバーは目を丸くした。
「身も心も……あんなにきれいな人は、世界に二人といない」
エリオットを思い出しているのだろう。
アーノルドが、夜の闇の中で優しい表情を浮かべる。
「俺は、兄から新しい人生をもらったんだ」
「新しい……人生?」
「……俺の生い立ちは有名だ。お前も知ってるだろ?」
「そ、そうですね……」
「俺は、コリンズ家に来る前の記憶がほとんどない。たぶん、己の精神を守るために消したんだろう。はっきりしている一番幼い時の記憶は、兄が俺を引き取りに来た時のものだ」
アーノルドをコリンズ家に迎えてから、それ以前のことは話さないようにしていたので、記憶がほとんどないのは知らなかった。
「兄を目にした時、こんなに美しい人間がこの世に存在するのかと心底驚いた。しばらく見惚れていると、強く抱きしめられて……。あの時の夢心地な気持ちは、今でも鮮明に覚えている」
見つめられていたのは覚えているが、まさか、見惚れていたなんて。
――それに、美しいって……。
頬が熱い。
美しいと言われたのは、生まれて初めてだ。
二人といないとまで表現されて、オリバーの心に、気恥ずかしさと喜びが広がった。
「それからの二年間は、俺の人生で最高の日々だった。兄の深い愛情と優しさに包まれて……」
アーノルドの声が、静かな部屋の中に切なく響いた。
一緒に過ごした二年間を、宝物のように大切にしてくれているのが、ひしひしと伝わってくる。
「兄が凍りついたあの日から、ずっと悪夢の中にいる。早く目を覚まして、今度は俺が守ってやるんだ。兄を苦しませる、全てのものから……」
「先生……」
エリオットを想う深い愛情に、心が鷲掴みにされる。
――情けないばかりの兄で……アーニーを悪夢の中に置き去りにしたのだって、僕なのに――……
目頭が熱くなり、抑えられない涙が頬を伝った。
「……何でお前が泣くんだ」
「すみ、ませんっ……」
急いで拭おうとしたら、大きな手が頬に触れた。
「……お前は不思議な奴だ」
頬をなぞる指の優しい感触に、新たな涙が目尻からこぼれる。
「今まで、同情の涙は不愉快なだけだったが……この涙は、いじらしく感じるな」
「……先生の想いを聞くと、どうしても涙が出てしまって……」
温かい手に、そっと自分のそれを重ねてみる。
一途に兄を思う、弟の手――
「……先生の悪夢が早く終わりますように」
「ああ。必ず終わらせる。必ずだ……」
アーノルドの自信に満ちた声に、その日は近いだろうと思えた。
「……もう泣かないか?」
「はい」
大魔導師と助手は、穏やかに微笑み合った。
「今晩は、ぐっすり眠ってくださいね」
「助手は睡眠の管理までするんだな」
「先生には長生きしてほしいですから」
「……俺は老人か?」
「年齢は関係ないですよ。ほら、毛布を肩までかぶってください」
幼い弟にしていたように、毛布を肩まで引き上げてやる。
アーノルドはくすぐったそうに笑うと、ゆっくりと目を閉じた。
「お休みなさい、先生」
「ああ。お休み……」
静かな夜の中。
眠りに落ちていくアーノルドを見つめていると、全てを溶かすような熱い慕情が、胸の奥からせり上がってくる。
強烈なそれは、瞬く間に身体を支配して、オリバーの全部がアーノルドで満たされていった。
――アーニー、アーニー……っ。
オリバーは心の中で弟を何度も呼びながら、広い肩にそっと額を寄せた。
見た目の印象よりも随分と柔らかい、洗いざらしの黒髪。
ゾクゾクするほどの男の色香が宿る、きれいな漆黒の瞳。
嫌味なく通った鼻筋は、精悍な顔をぐっと引き締めていて。
その下にある形良い唇には、どうしても視線が吸い寄せられてしまう。
二十四歳のアーノルドと初めて会った時は、隙のない美貌と容赦のない拒絶に、身がすくんでしまったけれど。
硬い表情が少しずつ柔らかくなり、交わす言葉が増えていくと、彼の純粋な心にどんどん惹かれていった。
エリオットに向けられた愛情を知る度に、高鳴る胸の鼓動を抑えられなかった。
――もう、見て見ぬふりなんてできない――……
オリバーは、直視しないようにしていた、アーノルドへの気持ちと向き合った。
心に根差した愛情は、純粋な兄弟愛ではなく……。
まぎれもない恋情だった。
人生をかけてエリオットを取り戻そうとしている弟に、こんな気持ちを抱くなんて兄失格だ。
この想いを知ったら、アーノルドは幻滅してしまうかもしれない。
けれど、深い家族愛と激しい恋心は強く結びつき、すでに一つの大きな愛情へと成長していた。
弟として、一人の男として、アーノルドが愛しくてたまらない。
暗闇に慣れた目で、穏やかなアーノルドの寝顔を一心に見つめる。
どこかあどけない寝顔は、十五年前と変わっていないように感じた。
一緒に暮らした時間の何倍もの年月……アーノルドは、エリオットを想い続けてくれている。
それが、どれだけ幸せなことか。
オリバーは、胸に広がる幸福を噛みしめた。
ベッドで寝る間も惜しむほど、研究に身を投じているアーノルド。
自分にできることはあまりにも少ないが、せめて、こうして二人で眠る夜だけは――
――どうか、どうか……少しでも穏やかでありますように。
土人形のエリオットの祈りは、隣で眠る最愛の弟を柔らかく包み込んで……。
二人だけの温かい夜は、静かに更けていった。
就寝前に落ち着かない様子のオリバー
忘れえぬ美しき兄
更新頻度が落ちてしまってすみませんっ!
夏が暑すぎて辛いですね。
推敲作業頑張ります。
「はい」
「机の上の書類は、まとめてダリルに渡してくれ」
「分かりました」
オリバーはキビキビと返事をしながら、書類の山に手を伸ばした。
アーノルドの提案通り、二人での引きこもり生活を始めてから、五日が経とうとしている。
自身の安全のためとはいえ、大魔導師の日常を乱してしまったことに不安を感じていたのだけれど、十五年ぶりの二人暮らしは、想像以上にしっくりときていた。
アーノルドも、オリバーとの生活は苦ではない様子で、笑顔を見せてくれることも多くなった。
兄弟そろって、ほとんど部屋から出ないでいるが、窮屈だとは感じない。
どんな形であれ、アーノルドの傍にいられるのは、喜びでしかなかった。
食事は従魔が用意してくれるので、シチュー係の仕事はなくなってしまったが、今は書類や本の整理を手伝っている。
少しでも研究に携われるようになったのは大進歩だ。
――倉庫で襲われた時に、俺の助手って言ってくれたし……。シチュー係から助手になれたって思っていいのかな?
書きものをするアーノルドに、ちらりと目を向ける。
久しぶりの兄弟での生活は、とても楽しく心地いいものだったが、コリンズ家を取り巻く問題が一つも解決していないのを忘れてはいけない。
あの騒動後、逃げた男たちを追っていたダリルは魔法でまかれてしまい、気落ちして帰ってきた。
倉庫を破壊されたこともあり、官憲と魔法省による捜査も行われているが、難航しているという。
――僕たちは、これからどうすればいいんだろう――……
林の中で、しつこく追ってきた男たちを思い出す。
彼らの目的は謎のままだが、アーノルドの推測通り、大魔導師の命を狙っているのだとしたら。
その命で、コリンズ家の魔力共鳴を解こうとしているのだとしたら。
我が家に、そこまでの行動を起こすほどの、何があるというのだろうか。
十五年前の騒動とのつながりも気になるし、アーノルドとはしっかりと話し合いたいところだけれど……。
オリバーの口は、未だに魔法で固く封じられている。
気軽に外出できなくなったので、あれからレイたちには会えていないのだ。
――何だか、全部が行き詰まってるような気がしてくるな……。
「どうした? 難しい顔をして」
「いえ……。何でもないですよ」
「……こんな狭い場所で俺と生活して、嫌気がさしてきたか?」
「とんでもないです。先生となら、どんな場所だって楽しく暮らしていけますから」
「…………」
アーノルドが、化け物を見るような目を向けてくる。
やってしまった。
つい、兄の気持ちで答えてしまった。
これは、助手としては気持ちの悪い発言だったかもしれない。
「お前……。そんなことを周りに言いながら、これまで生きてきたのか……?」
「ち、違いますよっ。尊敬する先生だからです」
「気に入った奴とは、距離が近いんだな」
「先生だけですよ」
アーノルドは荒々しくため息をつくと、机に向き直った。
「俺の助手は、人心掌握術にたけているようだな」
「そういうのじゃないですって。私、人付き合いは苦手なんですから」
「俺よりは得意だろ」
「……先生は得手不得手の問題じゃないと思いますけど」
「どういう意味だ」
「それは、その……色んな意味で超越した存在というか」
「何だよ、それは。嫌味か?」
「賛辞です」
「嘘をつくなよ」
アーノルドが、おかしそうに笑った。
オリバーもつられて笑うと、本と紙と埃が積もった部屋が、明るくなった気がしてくる。
「あ、そうだ。先生! 今日こそは、ちゃんとベッドで寝てくださいね。椅子に座ったまま仮眠するのはだめですよ!」
アーノルドは、何も変わらぬ生活を送っていると見せかけつつ、実は非常に気を遣ってくれている。
弟の優しさは嬉しく思うのだが、その一方で気になる問題も出てきていた。
ベッドを全く使おうとしないのが、その最たるものだ。
「充分だろ」
「いいえ。せっかく薄くなっていた隈が、ひどくなってるじゃないですか。分かってますよ。私にベッドを譲っているでしょう?」
「気のせいだ」
「じゃあ、私はその辺で丸まって寝ますので、先生はベッドを使ってください」
「俺は、前から椅子で寝ることの方が多いんだ」
「そんなの、健康に悪すぎます!」
アーノルドの荒んだ生活習慣に、オリバーはつい声を荒くした。
「睡眠は生活の基本なんですよ。先生が研究第一なのは重々承知していますが、椅子で仮眠を続けていたら、体を壊してしまいます」
「別に、それで不具合なくやってきたんだからいいだろ」
「よくないです。今日から、ちゃんとベッドで寝ましょう」
「お前の寝る場所がなくなる」
「なら、お互いの寝る時間をずらして使いましょう」
「そんな面倒なことはしなくていい」
頑なにベッドを使おうとしないアーノルドに、オリバーはついに机をバンと叩いた。
一緒に暮らしている弟が不健康まっしぐらなんて、兄として許すわけにはいかない。
「先生っ!!!」
「な、何だよ……」
助手の勢いに驚いている大魔導師を、飴色の目で強く見据える。
「今晩から一緒に寝ます。それが、お互いにとっての一番の妥協案です」
「はぁ?」
「先生のベッドは大きいので、二人で寝られると思います」
「思いますって……正気か?」
思いきり怪訝そうな顔をしているアーノルドに、オリバーは大きく頷いた。
「無理なら、また別の策を考えます。とりあえず、今日は一緒に寝ますから。異論は認めませんっ」
びしっと宣言すると、アーノルドは渋々といった様子だったが、頷いてくれた。
よし。これでいい。
弟には、少しでも健康的な生活を送ってもらわねば。
兄のために体調を崩すアーノルドは見たくない。
「お前は、他人が隣にいて眠れるのか?」
「大丈夫。先生とは家族ですから」
「……お前はとんでもない助手だな」
しまった。気を抜いて話すと、距離感がハチャメチャになる。
再び、化け物を見るような目を向けられてしまった。
「俺とお前は、いつから家族になったんだ」
「えっと、その……家族と同じぐらい信頼しているというか」
「まぁ……ちょろちょろされないと物足りないぐらいにはなったか」
「だから、ネズミみたいに言わないでくださいよ」
「ネズミは書類整理なんかできないだろ」
アーノルドは楽しそうに口元を緩ませて、オリバーの頭を荒っぽい手つきで撫でてくる。
温かい手の感触は、たいそう心地よくて。
オリバーは、ネズミではなくネコのように、ゴロゴロと喉を鳴らしたい気持ちになった。
その夜。
心臓をこれでもかと激しく鼓動させながら、オリバーはベッドで横になっていた。
――ああ……勢いで一緒に寝ようって言ってしまったけど……っ。
頑なにベッドで寝ようとしないアーノルドに対して、つい感情が高ぶってしまった。
今思えば、ものすごく大胆な提案だった。
あれだけ強引に弟を頷かせておきながら、いざ並んで寝ようとすると、猛烈な羞恥が心を圧迫してくる。
床で寝てしまおうかと本気で考えたが、そんなことをすれば、アーノルドもベッドで寝るのを拒否するだろう。
自分の発言には、きちんと責任をとらなければいけない。
オリバーは壁際へ寝返りを打つと、うるさい心臓を寝間着の上からぎゅっと押さえた。
平気。平気。
緊張なんか幻だ。
弟と並んで寝るだけなのだから。
今更、恥ずかしがることなんか――
――この間のことは、なしなしっ……!
手淫されたのを思い出して、オリバーは奇声を発してしまいそうな衝動にかられた。
大丈夫。大丈夫。
アーノルドは、弟。弟。弟。
そう脳内で繰り返していると、扉がゆっくりと開いた。
オリバーを起こさないようにしているのだろう。
物音をたてないように、アーノルドが静かに近づいてくる。
緊張で体を硬くしていると、ベッドがわずかにきしんだ。
「……せ、先生……」
オリバーは、アーノルドの方へ振り返りながら声をかけた。
起きているのに、黙っているのはおかしいだろう。
「まだ、起きていたのか」
ささやくような声が、耳にしっとりと響く。
それが、とても心地よく感じた。
「俺がベッドで寝るか、確認したかったのか?」
アーノルドが、すぐ隣で横になる。
体は触れないが、温もりはしっかりと感じる距離。
心臓が爆発しそうなほど恥ずかしがっているくせに、この距離が少しだけもどかしく感じた。
「私は、そんなに厳しい助手じゃないですよ」
暗闇の中、アーノルドが小さく笑う気配がする。
精悍な顔が無邪気な表情を見せるたびに、気を許してもらえているのだと嬉しくなる。
そして……抑えきれない胸の高鳴りも感じてしまっていた。
「……こうして誰かと並んで寝るのは、十五年ぶりだ」
「それは……お兄様ですか?」
「ああ」
アーノルドの声に、懐かしさがにじむ。
「毎晩、兄にしがみついて寝ていた」
「とても仲が良かったんですね」
「今思えば、一方的に甘えていただけだが……。仲は良かったな」
「一方的だなんて……」
――そんな寂しいこと言わないで……。
オリバーは、そう続けたかった。
甘えてくるアーノルドは、本当に可愛くて。
利発で優しい弟の存在は、いつだって心を温かくしてくれた。
――そういえば……アーニーからすると、僕はどんな兄だったのかな……?
確かに、仲は良かったけれど、エリオットは立派な兄とは言い難かった。
日に日に貧しくなっているのを、九歳の弟も肌で感じていただろう。
その後も、大人になるにつれて、兄の不甲斐なさには嫌でも気づかされたはずだ。
「……お兄様は、どんな方なのですか?」
精神衛生上、あまり良い質問ではないと分かっている。
しかし、好奇心に負けたオリバーは、おそるおそる聞いてみた。
気が弱い。優柔不断。無能当主。
そんな言葉が脳裏をよぎる。
「……全てが美しい人だ」
「え……?」
美しい……???
思いもよらない言葉に、オリバーは目を丸くした。
「身も心も……あんなにきれいな人は、世界に二人といない」
エリオットを思い出しているのだろう。
アーノルドが、夜の闇の中で優しい表情を浮かべる。
「俺は、兄から新しい人生をもらったんだ」
「新しい……人生?」
「……俺の生い立ちは有名だ。お前も知ってるだろ?」
「そ、そうですね……」
「俺は、コリンズ家に来る前の記憶がほとんどない。たぶん、己の精神を守るために消したんだろう。はっきりしている一番幼い時の記憶は、兄が俺を引き取りに来た時のものだ」
アーノルドをコリンズ家に迎えてから、それ以前のことは話さないようにしていたので、記憶がほとんどないのは知らなかった。
「兄を目にした時、こんなに美しい人間がこの世に存在するのかと心底驚いた。しばらく見惚れていると、強く抱きしめられて……。あの時の夢心地な気持ちは、今でも鮮明に覚えている」
見つめられていたのは覚えているが、まさか、見惚れていたなんて。
――それに、美しいって……。
頬が熱い。
美しいと言われたのは、生まれて初めてだ。
二人といないとまで表現されて、オリバーの心に、気恥ずかしさと喜びが広がった。
「それからの二年間は、俺の人生で最高の日々だった。兄の深い愛情と優しさに包まれて……」
アーノルドの声が、静かな部屋の中に切なく響いた。
一緒に過ごした二年間を、宝物のように大切にしてくれているのが、ひしひしと伝わってくる。
「兄が凍りついたあの日から、ずっと悪夢の中にいる。早く目を覚まして、今度は俺が守ってやるんだ。兄を苦しませる、全てのものから……」
「先生……」
エリオットを想う深い愛情に、心が鷲掴みにされる。
――情けないばかりの兄で……アーニーを悪夢の中に置き去りにしたのだって、僕なのに――……
目頭が熱くなり、抑えられない涙が頬を伝った。
「……何でお前が泣くんだ」
「すみ、ませんっ……」
急いで拭おうとしたら、大きな手が頬に触れた。
「……お前は不思議な奴だ」
頬をなぞる指の優しい感触に、新たな涙が目尻からこぼれる。
「今まで、同情の涙は不愉快なだけだったが……この涙は、いじらしく感じるな」
「……先生の想いを聞くと、どうしても涙が出てしまって……」
温かい手に、そっと自分のそれを重ねてみる。
一途に兄を思う、弟の手――
「……先生の悪夢が早く終わりますように」
「ああ。必ず終わらせる。必ずだ……」
アーノルドの自信に満ちた声に、その日は近いだろうと思えた。
「……もう泣かないか?」
「はい」
大魔導師と助手は、穏やかに微笑み合った。
「今晩は、ぐっすり眠ってくださいね」
「助手は睡眠の管理までするんだな」
「先生には長生きしてほしいですから」
「……俺は老人か?」
「年齢は関係ないですよ。ほら、毛布を肩までかぶってください」
幼い弟にしていたように、毛布を肩まで引き上げてやる。
アーノルドはくすぐったそうに笑うと、ゆっくりと目を閉じた。
「お休みなさい、先生」
「ああ。お休み……」
静かな夜の中。
眠りに落ちていくアーノルドを見つめていると、全てを溶かすような熱い慕情が、胸の奥からせり上がってくる。
強烈なそれは、瞬く間に身体を支配して、オリバーの全部がアーノルドで満たされていった。
――アーニー、アーニー……っ。
オリバーは心の中で弟を何度も呼びながら、広い肩にそっと額を寄せた。
見た目の印象よりも随分と柔らかい、洗いざらしの黒髪。
ゾクゾクするほどの男の色香が宿る、きれいな漆黒の瞳。
嫌味なく通った鼻筋は、精悍な顔をぐっと引き締めていて。
その下にある形良い唇には、どうしても視線が吸い寄せられてしまう。
二十四歳のアーノルドと初めて会った時は、隙のない美貌と容赦のない拒絶に、身がすくんでしまったけれど。
硬い表情が少しずつ柔らかくなり、交わす言葉が増えていくと、彼の純粋な心にどんどん惹かれていった。
エリオットに向けられた愛情を知る度に、高鳴る胸の鼓動を抑えられなかった。
――もう、見て見ぬふりなんてできない――……
オリバーは、直視しないようにしていた、アーノルドへの気持ちと向き合った。
心に根差した愛情は、純粋な兄弟愛ではなく……。
まぎれもない恋情だった。
人生をかけてエリオットを取り戻そうとしている弟に、こんな気持ちを抱くなんて兄失格だ。
この想いを知ったら、アーノルドは幻滅してしまうかもしれない。
けれど、深い家族愛と激しい恋心は強く結びつき、すでに一つの大きな愛情へと成長していた。
弟として、一人の男として、アーノルドが愛しくてたまらない。
暗闇に慣れた目で、穏やかなアーノルドの寝顔を一心に見つめる。
どこかあどけない寝顔は、十五年前と変わっていないように感じた。
一緒に暮らした時間の何倍もの年月……アーノルドは、エリオットを想い続けてくれている。
それが、どれだけ幸せなことか。
オリバーは、胸に広がる幸福を噛みしめた。
ベッドで寝る間も惜しむほど、研究に身を投じているアーノルド。
自分にできることはあまりにも少ないが、せめて、こうして二人で眠る夜だけは――
――どうか、どうか……少しでも穏やかでありますように。
土人形のエリオットの祈りは、隣で眠る最愛の弟を柔らかく包み込んで……。
二人だけの温かい夜は、静かに更けていった。
就寝前に落ち着かない様子のオリバー
忘れえぬ美しき兄
更新頻度が落ちてしまってすみませんっ!
夏が暑すぎて辛いですね。
推敲作業頑張ります。
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それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
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